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 近い、というフェルサリの話だった。
 セシリアたちはちょうど、昼食を終えたところだった。といっても朝昼共にシルヴィーが食事をできない様子だったので、パンにハムとチーズを挟んで口にした程度だ。自分たちの休憩というより、馬を休ませたという意味合いが大きい。
「すぐに、出るわよ」
 焚き火をして腰を落ち着けているわけではないので、出発にかかる時間はまったくない。馬に馬具を取り付け、荷物を荷台に置く。
 フェルサリの話によると、御者台の上にいるのはジャクリーヌだが、何度かユストゥスの姿も見かけているらしい。今の所ミュラセであった二手に分かれての奇襲のようなことは、心配しなくてよさそうだ。
 だがこちらが二手に分かれれば、向こうも少し考えざるをえないだろうとセシリアは思っていた。セシリアがここで待ち受ける。ユストゥスに相手が務まるはずもないので、ジャクリーヌが受けて立つ。決着を付けるなら、双方望ましい形だ。
 そう、もうこの辺りで決着をつけようと、セシリアは思っていた。
 テレーゼをやられたことが、やはり大きい。今までのようにゆったりと構え、来た時にだけ打ち払うという余裕がなくなっていた。向こうも、今が好機と踏んでいるはずだ。セシリアを仕留めることができれば実質、残っているのはフェルサリだけなのだ。
「追いつかれる前に、私が止めるわ。あなたたちは、そのまま進んで頂戴」
 御者台のテレーゼが、振り返った。馬車の後ろにいたネリーとフェルサリも駆け寄ってくる。
「相手が二人掛かりで来るっていうなら上等。でも最低限ジャクリーヌだけは、私の方へやってくるはずよ。つまり問題は、ユストゥスがあなたたちを追ってきた場合だけど・・・」
「こっちで、何とかするよ。任せといて」
 ネリーがにんまりと笑って言った。フェルサリも、しっかりと頷いた。テレーゼは、巻き毛を揺らしながら肩をすくめる。
 ネリーの魔法があまり使えず、テレーゼが戦力にならない。相手がユストゥスのような魔法銃と魔法の絡繰りの使い手というところが厄介で、フェルサリの飛礫と短刀では、いささか相性が悪い。ネリーの残り少ない魔力が、フェルサリの支援として機能するかが鍵だった。あるいは逆で、フェルサリがネリーの魔法を活かす場面を作れるか。
「そうね。もしユストゥスがそちらを追いかけるようだったら、上手くお願い」
 ユストゥスの肉体自体は戦士のそれではなく、まったくの素人同然だ。近づくことが出来れば、フェルサリでも楽に組み伏せられる。
 セシリアは、フェルサリの肩をぽんと叩いた。フェルサリが、もう一度頷く。
「テレーゼ、また銃を借りるわね」
「あ、あの・・・私も、一緒に戦いますっ!」
 話は聞いていたのだろう。馬車の窓から身を乗り出し、アンナが言った。
「は? 唐突ね。あなたに何ができるの」
「私、銃に弾を込めることくらいはできますよ。旅の間テレーゼさんに教わったんです。結構得意ですから!」
 そういえば旅の間に何度か、テレーゼに教わっているのを見た気がする。ただの興味本位や遊びのようなものだと思っていたし、事実その通りだと思うのだが、ひょっとしたら、少しでも役に立つかもしれない。
「セシリアさんがあの銃を使うんですよね。じゃあ私、セシリアさんのお手伝いします」
 途中で、馬車を離れることになる。シルヴィーと一緒にいなくていいのかと聞きかけて、セシリアはそれを飲み込んだ。シルヴィーの命がもう保たないと、そう言うのと同じことになる。
 セシリアは、アンナの茶色い瞳を見つめた。冗談でもいつもの単なる思いつきでもなく、その眼差しはひどく大人びた、何かを悟ったような眼差しだった。ひょっとしたら、シルヴィーが望んだことなのかもしれない。
「そうね・・・じゃあアンナ、あなたは私と来て頂戴」
 アンナは頷くと、手を添え、シルヴィーの身体を起こした。銀髪の少女ははっとするような笑顔で、セシリアに声をかける。
「セシリアさん。今まで本当にありがとうございました。毎日が楽しくて、幸せな旅でした。今日まで生きてきて、良かったと思います・・・どうか、ご無事で」
「あの岬で、お母さんに会えるといいわね」
 シルヴィーの海を見たいという気持ちは、つまるところそれだった。
「はい。きっと」
 泣き出しそうな顔で、シルヴィーはにこりと笑った。

 

 セシリアと、もう一人。
 あのメイドか。二人が馬車から離れたことを、ジャクリーヌに伝えた。双眼鏡を、彼女にも手渡す。
「メイドは、銃を抱えてるな。火薬と弾丸も持ってやがる。弾込めの手伝いってとこか。あいつが銃を撃てるとも思えねえ。なんにせよ、あたしとやり合おうって腹はわかった」
 坂道の途中、森の切れ間。あえてこちらに見せるように、馬車を離れたのである。決着を着けたいという意志は、はっきりと見て取れる。こちらは、どうするのか。
「セシリアは、あたしが仕留める。お前は回り込んであの馬車を追え。森の中をまっすぐ西に突っ切りゃ、駆け足程度でもあの馬車に先回りできるだろ。この先に岬があるみてえだが、その手前で馬車を捕まえられる。ていうかよう」
 ジャクリーヌは話の途中で葉巻を取り出し、口にくわえた。
「やっぱ、あの岬が奴らの目的地なのかもな。近くに町の跡があるみたいだが、それならさっきの道を曲がらなくちゃならない。馬車で行くならな。あの絵の場所を、シルヴィーに見せる。シルヴィーにとっちゃ、思い入れのある場所なんだろうさ。ま、こっちのやることは変わりないがね。シルヴィーさん、念願の場所にたどり着けたのでどうかその命を下さい。言っても、周りがどうぞとは言わねえだろうからな」
 ジャクリーヌが葉巻の先をあぶり始める。深く、芳醇さを感じさせる紫煙の香りが、風に運ばれていく。
「今さらおかしな真似はしねえだろうが、念押しだ。もう一度探ってくれるか」
 言われるままに、ユストゥスは精神を集中させ、呪文を詠唱した。
 背後と、はるか前方。符合する二つの魔力点を、ユストゥスは知覚していた。
「こちらと、ほぼ同速度。あの馬車の中にシルヴィーがいると考えて、まず間違いないだろう」
「わかった。森に入ったら、すぐにお前はあいつらの馬車を追ってくれ。ポンコツは全部連れてけよ。あたしはセシリアを仕留めて、お前に追いつけるようにする。もっとも、お前がシルヴィーを捕まえてこっちに合流する方が先かもな。セシリアは簡単に倒せるような相手じゃねえ。こっちもフルスロットルで行かせてもらうぜ」
 聞いて、嫌な予感がした。ジャクリーヌの身体は、既に限界に近い。何気ない様子で葉巻を吹かしているが、本当は今すぐにでも寝台に横になって、安静にしなければいけない容態だ。
「強化薬は、あと三つ残ってたな。全部使わせてもらう」
「馬鹿な」
「馬鹿にでもならなきゃ、どうしようもねえ相手なんだよ。セシリアは、テレーゼより弱いかもしれねえ。が、テレーゼみたいな弱点がない。厄介だよ。実力差が、まともに出ちまう。本当は実力差なんて測るのがおかしいような相手なのさ。まず、上級の冒険者って言われる連中は、とてつもねえ実力者だ。そいつらが束になっても敵わねえ相手が、大陸五強なんて言われる。つまりは、掛け値なしの化けモンさ。今更ながら、そういうヤツを相手にしてるってことに、ブルっちまうよ。あのセシリアは、一人で竜をぶっ殺してるんだぜ。次元が違うんだよ。だからあたしも、人であることをやめる。あの強化薬三つ。それならあたしも、竜をぶっ殺せそうな気がするよ」
 ジャクリーヌは馬車の中に入り、強化薬の小瓶を手にして戻って来た。もうひとつ、起爆剤と呼んでいる小瓶。双方を飲むことで、ジャクリーヌは爆発的な身体能力を得ることになる。一つでも耐えられないものは命を落としてしまうし、生き残ってもしばらくは安静にしていないといけない劇薬だ。二つで、ジャクリーヌでも命を落とす危険がある。三つでどうなるか、ユストゥスには想像もできない。
 止める間もなく、ジャクリーヌは三つの小瓶を口に流し込む。
「うぇ・・・まずい。この味にも、最後まで慣れることができなかったなあ」
 口直しに、ジャクリーヌはウィスキーの瓶に口をつけた。残っていた琥珀色の液体を、全て胃に流し込む。
 ユストゥスは、激しい後悔の念にかられていた。この娘を、巻き込まなければ。
 今なら、まだ間に合う。ユストゥスが起爆剤の小瓶に手を伸ばすと、その手がしっかりと握られた。ジャクリーヌの、まだある方の手。
「ありがとよ。お前は無口だけど、そういう優しさは、いつも感じてたよ」
 優しさなんかじゃない。言おうとして、目を上げる。
 ジャクリーヌの顔は、ひどく穏やかなものだった。何年前の話だろう、妹のセブリーヌと話す時のジャクリーヌは、いつもこんな顔をしていた気がする。見るのは久しぶりだ。
 ジャクリーヌは物覚えがよく、しばらくするともう教えることがないとセブリーヌは言っていた。それを聞いた赤い髪の少女は、照れくさそうにはにかんでいた。
「一つだけ、頼みがある」
「珍しいな。なんだい?」
「必ず、生きて戻ってくれ」
「・・・約束するよ。お前と合流するまで、あたしは絶対に死なない」
 ジャクリーヌは、微笑んだ。
 こんな顔もよくしていたなと、ユストゥスは思った。

 

 思っていたより、手際がいい。
 アンナが銃に弾を込める様子を見て、セシリアは思った。調理をする時にも思ったが、何かに集中する時に限っては、器用に物事をこなすのかもしれない。シルヴィーに関わることであれば、特にそうだ。
 調理のみならず、馬車の窓際に並べてあった、小さなぬいぐるみもそうだ。シルヴィーとアンナを模したそれが、アンナの手によるものだとは、にわかに信じがたかった。実に丁寧で、思いを込めた作品だった。
「これで、どうでしょうか」
「いいわね。三発の内一発は不発を覚悟してたんだけど、これなら十発に一発、あるかどうかね」
「うーん、まだまだですねえ。まあ、当たり前ですか」
「いや、元から銃に不発はつきものなのよ。人が為すべきことは、充分に為したわ。あとは神様次第ね」
「うわ、ひょっとして遠回しに褒めてくれてます?」
「いいわねって言ったじゃない。褒めてるんじゃなくて、とりあえず仕事はできてるって言ってるのよ」
 木の根元に腰を下ろし、セシリアはあらためて周囲を見回した。前回、山の斜面でジャクリーヌと銃撃戦を展開した時よりもずっと、木々の間隔は密である。ただ太さはまちまちで、遮蔽物として利用するには心許ないものが多い。しかし木々の密度が高いことは良いことだった。長く伸びた根が、ジャクリーヌの車輪走行の妨げになるだろう。すぐ近くの斜面に沿った道は走行の邪魔にならないだろうが、それとて整備された街道に比べれば充分悪路である。それにできれば、セシリアは森の奥で戦うつもりだった。おびき寄せるため、今は道のすぐ近くにいる。
 緑の天井を抜けて所々に差す、午後の光が美しかった。こんな場所でゆっくりと、昼飯でも食べたいところだ。
 少し、アンナの呼吸が荒くなり始めていた。ひとまず自分の仕事を終え、状況に恐怖し始めたのだろう。
「戦闘が始まったら、とにかく巻き込まれないようにしなさい。動けない時はしょうがないけど、とにかく距離を取って、流れ弾にも当たらないようにね。どこが安全かは、戦闘の経験がなくても何とかなるわ。そういうことは、恐怖心が教えてくれる」
 二度三度と、アンナが首を縦に振る。
「撃ち終わった銃は、その場に捨てる。あなたは可能だったら、その銃に弾を込め直して。私も可能だったらそれを回収して、使わせてもらう。で、あなたはまた隙を見てそれを拾って、弾を込め直す。あとはこの繰り返しね」
「は、はい・・・私たち、勝てますかねえ」
 張り倒してやろうかと思ったが、今は間が悪い。上がりかけた手を、セシリアは自分の額に当てた。舌打ちだけは、我慢が出来ない。
「さっき、ユストゥスが馬車を離れるのを見た。こちらの馬車を、先回りするつもりなのね。あちらはあちらに任せるとして、こちらはこちらのやるべきことをする」
「・・・そうですね、はい」
「来るのはジャクリーヌ一人。勝てるかって? 間違いなく勝てるわよ。だって、こっちは二対一ですもの」
 アンナはそれには応えず、引きつった笑いを浮かべただけだった。

 

 木漏れ日。
 綺麗な森だと、ジャクリーヌは思った。
 今みたいな状況でなければ馬車を下り、少し歩きたいような場所だった。いや、腰が折れてなければ、こうして馬車に揺られているだけでも心地よかったかもしれない。
 道は、今は整備する者も踏み固めていく者もいず、半分くらいは草で埋まっていた。小石も多く転がっており、それが車輪の下に入る度に激痛が走る。普段だったら、気にも止めないようなことだ。
 車輪が回る音、馬のいななき。そして森の木々で翼を休める鳥のさえずり。朝にそう感じたように、今日はいい日だった。時折吹く微風が、葉の間をすり抜けていく日差しが、全て心地よいのだ。
 なんだろう。ずっと昔に、こういう旅に憧れていた気がする。修道院にいた頃か。いやもっと昔、家族と暮らしていたあの集落でも、こんなのんびりとした旅に憧れていなかったか。
 自分の夢など、考える余裕もない人生だった。それでも心のどこかに、こういった光景はいつもあった気がする。あの時憧れていたものが、それを夢と呼んでいいのなら、今この瞬間に、その夢は叶っている。
「お前らと会えてよかったよ。忘れてた夢も、叶っちまったなあ」
 ジャクリーヌのつぶやきは、森の光に吸い込まれていく。
 世界に自分一人しかいないような感覚。孤独に賞金首を追う時は人恋しいと思うことも多いが、同じくらい、こうした時間を大切にしてきた気がする。修道院で月の光を浴びながら散歩を楽しんでいた時、今こうして御者台の上で森の光を浴びている時。
 人といる時、いない時。どちらも好きな時間で、しかし一人の時間は懐かしい友が訪ねてきたようで、不意の来訪を、喜んでいる自分がいた。
 馬を止め、ジャクリーヌは葉巻をくわえた。この一本を吸い終わる間だけ、一人でいることにした。今すぐにやらなければならないことも、抱えている屈託も、これまでのことも全て忘れ、ただ、木漏れ日で照らされた森の景色を眺める。
 最後の煙を吐き出し、ジャクリーヌは御者台に戻った。手には、起爆剤となる薬の小瓶。蓋を開け、一気に飲み干す。この薬は、甘い。舌の上に重さすら感じる甘さが、喉の奥を通り過ぎていく。
 ジャクリーヌは御者台の小窓を開け、馬車の中の暗がりに、そっと声を掛けた。
「今までありがとうな。じゃ、行ってくるよ」
 連裝機銃を腕に着け、足の内燃機関を起動させる。連動するように、身体の中を何かが暴れ始める。今までにないほどに凶暴な、何か。
「・・・どうして撃たなかったのか、聞いてもいいかい?」
 ジャクリーヌは、森の奥に声を掛けた。木の影から、白い具足のセシリアが姿を現す。
「あんまり美味しそうに一服してたんでね。邪魔しちゃ悪いと思って」
 セシリアも、キセルを手にしている。あちらも吸い終わったところで、吸い口を軽く拭い、腰のポーチにしまった。
「ハハッ、親切にそりゃどうも。てめえのそういうとこ、嫌いじゃないぜ」
 セシリアは返答の代わりに、冷たく笑って肩をすくめた。
 その笑顔に向けて、連裝機銃を乱射する。

 

 何度か聞いた、虫の羽音に似た響き。
 それがだんだんと近づいてきていることに、フェルサリは気づいていた。横にいるネリーが、さりげなく魔法銃に手をやる。菓子の残りを口の中に放り込み、水筒の水で流し込んだ。
 テレーゼが馬に鞭をくれ、馬車の速度が上がった。しかし追ってくる気配を振り切れるほどではない。
「森の外れで、迎え撃つことにしましょうか」
 御者台のテレーゼが、こちらを振り返って言う。
「テレーゼさんはシルヴィーさんを連れて、先を急いで下さい」
 思わず、フェルサリは言っていた。ネリーがちょっと驚いた様子で、それでもフェルサリに同意した。
「あたしたちに任せておきなよ。フェルサリと二人なら、大丈夫」
「急がないと、シルヴィーさんが・・・」
 セシリアたちと別れてから、シルヴィーの容態はさらに悪化していた。また、目を覚まさなくなっている。フェルサリは焦っていた。このままだと、海まであと少しなのに、本当に、もうすぐそこなのに。
「わかりましたわ。ちゃんと生きて帰ってくるんですわよ」
 それだけ言うと、テレーゼは再び馬に鞭をくれた。森の外れ。緩やかに続くあの坂道を上り切ったら、あの岬はすぐ目の前のはずだ。
 ぶんぶんという羽の音は、もうすぐそこまで迫ってきている。いや、来た。
 男の、荒い息づかい。灰色の服を来た、あの魔術師。木の幹に腕をかけ、軽くもたれかかって呼吸を整えている。
「はあ、はあ・・・少し、普段から身体を動かしておくんだったかな。君たちに追いつくのに、時間がかかった・・・」
 ユストゥスが、肩で息をしながら、帽子を取って額の汗を拭っている。
 ネリーが、すぐさま発砲した。
 しかし森から現れた絡繰りの一機が、身体を張ってそれを防いだ。魔法弾の代わりに装填されていた、ネリーの魔法の起点となる緑色の液体が、その絡繰りの身体を覆う。ネリーが伸ばした手をくいと下に下げると、その一機は地面に叩き付けられ、潰れた。
 それを見て、ユストゥスは帽子の鍔に手をやった。
「なるほど、これは怖いな。重力の魔法には、こんな使い方もあるのか」
「ごめん、今のであと五発になっちゃったよ。あたしの魔力も、大体それくらい」
 フェルサリにだけ聞こえるよう、ネリーが囁く。
「わかりました。でも、これであの絡繰りは・・・」
 言いかけたフェルサリは、最後まで言葉を続けることができなかった。
 一機、また一機と、羽を持った機械仕掛けが森の中から姿を現す。五、十、全部で、二十か。血の気が引いた。
「ネリー、君の魔力もあと僅かなようだな。もう、大きな魔術も使えまい。それに君の傷もまだ、癒えてはいない」
 魔力が尽きた後も、魔法使いは魔法を使える。しかしその場合、魔力と引き換えに生命力を使うのだ。オルガやネリーからその話は聞いていた。つまり今のネリーの負傷では、それは難しいだろうとユストゥスは言っている。
「魔術師としての格が、あまりにも違う。おまけに俺の魔法は、元来戦闘には向いていない。ネリー、なのに君のような大魔法使いと戦うことになるなんて、夢にも思わなかったよ」
 言って、ユストゥスはもう一度帽子の鍔に手をやった。
「少し、喋り過ぎだな。ジャクリーヌが聞いたら、変なものでも食べたのかと心配されそうだ・・・怖いんだろうな。君たちを傷つけることが。自分も無傷ではいられないだろうことが」
 ユストゥスが、両の手に魔法銃を抜いた。
「この旅は、驚かされることばかりだった。それももう、終わりが近い。さて、おしゃべりはこの辺で終いとしよう」
 絡繰りのひとつ、その目が妖しく光る。フェルサリはとっさに身をかわした。熱。肩の辺りが鋭く痺れた。見ると、血が噴き出している。
 ごくりとつばを飲み込み、フェルサリは二刀を抜いた。

 

 小首を傾げるようにして、ジャクリーヌは弾丸を避けた。
 セシリアは駆けながら、この銃に込められた三発目の銃弾を放った。ジャクリーヌが再び身をかわす。当然、着弾はしていない。
 テレーゼと同じくらいの身体能力を、あの赤い髪の賞金稼ぎは身につけている。あの強化薬の力だろうが、人の身体がそこまでの負荷に耐えられるのかと、セシリアは思った。まず、耐えられない。どちらが勝とうが、ジャクリーヌはこの戦いで死ぬつもりなのだろう。薬、機銃、いずれも脅威だが、覚悟こそがあらゆる武器と技術を凌ぐ力になることを、セシリアは知っていた。とんでもない強敵だと、あらためて認識せざるを得ない。
 駆け続けた。長銃を放り投げ、別の銃の置き場所へと急ぐ。ジャクリーヌが、左足の力だけで跳躍してきた。空中で乱射される機銃。かわしたつもりだが、二発、ふくらはぎに被弾した。足を取られ転がりながら、セシリアは目標としていた木の後ろに隠れた。
「あ、脚、大丈夫ですか?」
 アンナは、ここにいたようだ。震える手で、新しい銃をセシリアに差し出す。
「あら、こんなとこにいると危ないわよ。脚は、ミスリルのおかげでなんとかね」
「でも、痛そうにしています」
「痛いのよ。肉離れでも起こしたみたいにね。実際のとこ、そうじゃないかと思ってるんだけど」
 右足を、少し伸ばしてみる。鈍く重たい痛みはあるが、走れないということはない。
「じゃ、行くわね。長くいると、あなたも危ない」
 車輪の転がる音。セシリアはあえて、次の遮蔽物まで距離のある方に顔を出し、銃を撃った。いくらか意表をつかれたのだろう、ジャクリーヌはかわそうとしたが、弾丸は肩に命中した。いや、かすっただけか。シャツの裾が跳ね上がったのでそうと思ってしまっただけのようだった。すぐに、機銃の乱射が返ってくる。音壁をだし、それを防いだ。構わず、ジャクリーヌは撃ち続ける。
 物理的な力に対して絶対の防壁となる音壁でも、魔法弾となれば話は別だった。前回の戦いで悟ったのだろう、魔法弾だけが連射されてくる。機銃は主に魔法弾で、時折腰に下げた銃も使ってくる。先程セシリアの脚を撃ったのは、拳銃の実弾だ。
 盾が割れる前に、なんとか次の遮蔽物に辿り着いた。岩だ。土から露出した部分は身を屈めないと使えないくらいに低く、次の移動に困りそうだった。ジャクリーヌはいつもの悪態をつかず、移動も最小限に、確実にセシリアを仕留めにかかっている。
 あの連裝機銃の残弾数は? 強化薬はどれくらい保つ? 少し弱気になっている自分に、セシリアは舌打ちした。このままでは、徐々に追いつめられていくことが目に見えてきたからだ。
 意を決し、セシリアは道の方に駆けた。森の奥に引きつけるつもりだったが、予定を変更し、引き返す形になる。意図をぎりぎりまで悟られないよう、大きめの遮蔽物を辿るようにして走る。その間に撃ち尽くした銃を投げ捨て、大木の陰に身を寄せる。ジャクリーヌからある程度距離を稼ぎ、目的地までの距離は詰めた。
 足元で、アンナが震えながら空を見上げていた。
「充分やってくれたわ。もう逃げてもいい」
「あはは・・・こ、腰を抜かしてしまいました。あとちょっとこちらに、お邪魔させていただきます」
「そう。好きになさい」
 ジャクリーヌはこちらの意図に気づいたのだろう。セシリアの進路に立ち塞がるようにして森の奥に向かっていたが、ほとんど飛ぶようにして、六頭立ての馬車まで引き返した。こちらの出方を、じっと窺っている。ついでに拳銃のいくつかを、装填済みのものに替えていた。
 セシリアは木に寄りかかり、呼吸を整えた。いつの間に被弾したのか、太ももから少し出血していた。ただ、かすり傷だ。
「今まで、よく頑張ってきたわね。その点に関しては、私はあなたを尊敬できる。本当にね」
「え、いや、戦っているのはセシリアさんじゃないですか」
「そのことじゃない。今まで、シルヴィーに尽くしてきたことよ」
 セシリアは顔だけ出し、ジャクリーヌを探した。視界には入らなかったが、足の内燃機関の唸る音で、それとなく居場所の見当はつく。まだ、あの馬車の近くにいる。
「ああ、そのことですか」
「良かったら、あなた自身のことを、詳しく聞かせて頂戴。できればかいつまんで」
「え、ど、どっちですか・・・わ、私は両親が傭兵だったんですけど、私が子供の頃に二人とも死んじゃって、身寄りがなくなっちゃって、孤児院に引き取られたんです・・・って、こんなことお話ししてて、いいんです?」
「いいのよ。どちらかが死ぬかもしれない。私が死ぬなら、あなたに伝えたいことがある。あなたが死ぬなら、その前にどんな人間だったのか知りたいのよ。時間は今しかないわ。続けて」
 唾を飲み込み、アンナが話を続ける。
「孤児院の方にメイドの仕事の依頼があって、そこで一番年上だった私が、ご主人様・・・シルヴィー様のお父様に、お仕えすることになったんです。下働きの中では私はシルヴィー様と歳が近くて、すぐに打ち解けました。シルヴィー様、すごく良くしてくれて、どうしてって聞いたら、友だちだし、家族だと思ってるって。私それ聞いて、この人に一生仕えようって決めました。絶対この人のことを守るって」
「なるほど。友人でもあり家族でもある。そういう出会いは、ありそうで中々ないわ」
 アンナが、こくりと頷く。後は、これまでに聞いた話に繋がるのだろう。
「私がさっき、あなたを尊敬できると言ったのは、あなたたちがそうだと思ったからよ。家族のように慈しみ、愛している人が病に苦しんでいる。長く看病していると、当人以上に心が疲弊する。私が見てきた限りでは人の心は思いのほか弱く、大体一年くらいで気が変になってくるわ。その人を大切に思っているだけ、看病する側の胸は痛い」
「私、シルヴィー様の為だったら、なんでもできます」
「それよ。そこまで思っていて、よく今まで耐えてこられたわね。出会ったばかりの私の胸が、潰れそうだったのに」
 口先だけだったら、誰にでも言える。しかし実際にやり続けていくことができる人間は、極僅かだ。
「私が倒れたら、誰がシルヴィー様の面倒をみるんです? 私はまだまだやれますよ!」
 強い娘だ、とセシリアはあらためて思う。とてつもなく重く、長い時間に耐えてきた。
「シルヴィー様は、私の光なんです」
「・・・光が、消えたら?」
 思わず口をついてしまった問いを、セシリアは後悔した。しかしアンナの答えは、セシリアの予想したものと違っていた。
「また・・・光を探しますよ。くよくよしてたら、天国のシルヴィー様も、ずっとそのことを気にされるでしょうから。大丈夫、新しい光が見つかるまで私はめげませんし、精一杯シルヴィー様の分まで生きていきます」
 セシリアはあらためて、アンナのことを見直していた。芯が強い。そして命の重さもわかっている。
 もうずっと前に、シルヴィーとの別れも済ませているのだろう。
「ジャクリーヌが、来るわ。少しだけ、あなたに勇気をもらったような気がする。じゃ、行ってくるわね」
「気をつけて。生きて帰ってきて下さい」
 セシリアは頷くと、アンナから装填済みの長銃を受け取った。

 

 五発目が、ようやく目に当たった。
 空を飛ぶ機械仕掛けの、目と思われる部分である。緑の水晶が砕け、それは地に落ちた。弱々しく羽を動かしているが、もう飛べないだろう。
 ネリーは、岩の陰に隠れている。あと一発しかない魔法銃の弾丸。ユストゥスに直接当てられる好機を、なんとか捉えようとしている。これまではことごとくあの飛び回る絡繰りに阻まれてきた。
 フェルサリは駆け続けた。動きを止めていると、あの絡繰りの目から発射される光の矢の餌食になるのだ。あれから脚に二度、その光線をもらっていた。左足の傷は深く、すぐに血止めをしたいところだが、その暇が取れない。
 絡繰りの動きは、決して速くはない。しかしユストゥスに向けて何かを放てば、驚くほどの敏捷さで彼を守る。一度に全ての機体を動かしているのではなく、基本は彼を守るという命令に、それぞれが反応しているのかもしれない。攻撃してくるのは一機ずつ、守るのは手近な機体がどれでも、といった感じだ。それぞれにに自分の意志があって、一度に何機もが襲いかかってくるようだったら、とっくにフェルサリとネリーは倒されていたことだろう。
 ここまで近づかれる前に、フェルサリが弓を用意できていたら。ネリーの魔力が充分に残っていたら。あるいは撃退するのにここまで苦労することはなかったと思うが、今は完璧にユストゥスの間合いで戦うことになってしまっていた。
 近づいてきた球体の絡繰りに気を取られている隙に、別の一機、蜂のような絡繰りに胸を突かれた。胸当て越しでも目の前に火花が散るような重い一撃だったが、フェルサリはなんとか蜂型の機体に手を伸ばし、目の部分に短刀の柄を叩き付けた。緑色の目の片方が砕け、蜂型はそれだけで動きを止めた。
 血を失っているからだろう。びっくりするくらい、息があがっていた。まだ半分も倒せていない。一瞬膝をつきかけたが、力を振り絞り、フェルサリは木の陰へと走り込んだ。ユストゥスが直接、魔法銃で撃ってきたのだ。
 岩陰に隠れているネリーも、相当つらそうだ。元々フェルサリより体力はなく、おまけに傷も癒え切っていない。それなのに走り回り、魔法も使ってきた。そのネリーから、何か伝えたいことがあるのかもしれない。目で、こちらに来いと言っている。
 スカーフを左足に巻き、強く縛った。まだ走れる。ネリーの方へ駆けた。絡繰りから、魔法の光線が飛んでくる。駆け続け、ネリーの元へ滑り込む。
「ネリーさん」
「あたしは、大丈夫。それより、フェルサリは?」
「平気です」
「この状態はまずいね。なんとかしなきゃ。見て」
 促されるまま、ユストゥスの方を覗き込む。
「彼の周り、手の届くような範囲には、あの機械仕掛けは近づかないんだよ。あの羽がぶつかって、自分が怪我しちゃうからかもしれないね。あと、身を挺して彼を守る時だけは機敏で、それ以外の動きは緩慢。あれだけの数を操ってるから、複雑な動きはできないんだよ」
 ネリーの見方も、フェルサリの見立てに近いようだ。そのことにフェルサリは勇気づけられる。ネリーは自分なんかよりも、多くの修羅場をくぐり抜けてきている。
「それでさ、フェルサリのこれ」
 ネリーは魔法銃の先で、フェルサリの胸当てをこつこつと叩いた。
「これを盾代わりに、あたしが突っ込んでこようと思う。あの光線に、鋼の胸当てを貫通する力はないみたいだし。とにかくあたしの魔法銃で一回彼をマーキングできればさ、すぐに彼を地面に叩き付けることができる」
 危険な賭けだった。ネリーに武術の心得はない。辿り着ける公算も低いように思える。
「でも仮にユストゥスさんをマーキングできたとしても、地面に叩き付けようとしている時に、周りから攻撃を受けるかもしれません」
 胸当て・・・フェルサリの頭の中で、何かが組み立てられていく。
「私が、行きます。彼に組み付くくらいだったら、何とかできると思います」
「え、どういうこと?」
 ユストゥスが、こちらに近づいてくる。
「私を、叩き付けて下さい」
 もう大分、日が落ちている。夢中で駆けていたので、風に潮の香りが混じっていることに、今頃気づいた。
 海が近いんだなと、フェルサリは思った。

 

 

 

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