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 馬車の中から、祈りの声が聞こえていた。
 ジャクリーヌの声だ。セイヴィア教の祈りの文句を、おそらく一字違わず唱えている。ユストゥスは熱心な信者というわけでもないので、よくは知らない。食事の前に祈ることがあるくらいで、それも他所の食卓に招かれた際に、一緒に唱えるといった程度だ。
 既に、日は暮れていた。
 祈りの声がやみ、ジャクリーヌが馬車から出てくる。大きく息を吐き、葉巻をくわえた。かなり疲れているようだった。あの強化薬を使い、さらに激しい戦闘をこなしたのだ。消耗は、見た目以上だろう。というより、今こうして立って歩いていることが、ユストゥスには信じられないくらいだった。
「食べて、少し休め」
「そうするよ。ったく、惜しかったなあ」
 テレーゼのことだろう。あと一歩というところで、逃げられた。しかし当面の間、戦闘に参加することはできないだろう。あの吸血鬼には、再生能力のようなものはなかった。血を吸うことで傷を癒すことはできるだろうが、傷が癒えるまでには時間がかかる。一応、セシリアたちの戦闘力を、大きく削いだことになる。
 軽く十字を切った後、焚き火の前に置かれた肉の串を取り、ジャクリーヌはそれにかじりついた。残りの肉もよく火が通っており、油のこぼれ落ちるじゅうじゅうという音が、夜の闇に心地よかった。ユストゥスも、その内の一本を取った。
「何なんだろうなあ」
「・・・何がだ?」
「奴らの目的だよ。ちくしょう」
 確かに、セシリアたちの目的はわからない。ひとつにはユストゥスたちから逃れることかもしれないが、本来ならあっさりと自分たちを殺すこともできたはずだ。セシリアとテレーゼが、ユストゥスたちに警告しに来たあの夜。思い出すと今でも鳥肌が立つ。その後も、向こうから殺しにこようと思えば、いつでも出来たことだろう。
 理由があって、どこかに向かっている。その理由も、場所もわからない。
「このままだと、海に出てしまうな」
「だな。船でも用意してあるのか? ていうか、そんなまだるっこしい真似してもしょうがねえからなあ・・・わからねえ。案外、海を見たいのかもしれねえなあ」
 ジャクリーヌの目は、どこか遠くを見ている。
「海を見る?」
「シルヴィーの屋敷の寝室に、岬の絵があったのを覚えているか?」
「そんなものがあったような気がする・・・ああ、なるほど」
「下水路の隠れ家にも、同じ物があったよな。ミュラセの宿にも、置いてあったよ。あの場所に行きてえってのはどうだ? それが、おそらくこの先にある」
「まさか。いや、その絵の場所がどこにあるかはともかく、そんなことをして何になるというのだ? その岬に宝でも埋まっているのか?」
「かもしれねえし、そうでもないかもしれねえ。それに宝が埋まってるってんなら、セシリアたちだけで来ればいい話さ。掘り出して、ヤツの元に持っていけばいい。それにシルヴィーの噂を思い出してみろよ。金とか富とか、そんなもん自分で捨てちまったじゃねえか」
 確かに、その通りだと思う。そこに巨万の富が眠っているという可能性もあるが、そもそもシルヴィーは、その富をいくらでも生み出せる商会の主になる権利を放棄したと聞く。一時的な金銀財宝ではなく、恒久的に巨万の富を生み出せる大きな遺産だ。財宝目当てというのも、やはり違うのか。
「本当に、海が見たいだけなのか。にわかには、信じられないが・・・」
「あいつらの中じゃ、でかいことなのかもしれねえぜ。人が何かに命を懸ける理由なんて、他人から見りゃ大抵バカげたことさ」
 ひょっとしたら、ジャクリーヌは自身のことを語っているのかもしれない。ユストゥスも当事者なので、感謝こそすれ馬鹿馬鹿しいとは思わない。が、やはり他人から見たら馬鹿げたことなのかもしれない。というより、無駄だと思う者は多いだろう。なんといっても、シルヴィーがあのような身体なのだ。今頃命を落としていても、不思議ではない。
「ま、あたしからすりゃ、万人が納得するような理由に命を懸ける方が、バカらしいと思うがね」
「どういうことだ?」
「そんな大層なお題目があるなら、別の誰かにやらせりゃいいのさ。他人に認められることに命を懸ける、そういった阿呆どもにな」
 言って、ジャクリーヌはウィスキーの瓶に口をつけた。
 本当は今すぐにでもセシリアたちに夜襲をかけ、シルヴィーを強奪したいところだろう。が、耐えている。薬を使った直後の上、傷も癒えていない。今は少しでも自らの体力を回復すべき時だと、心得ている。
 ジャクリーヌは獲物を追いかけるという点では、異様なほどの辛抱強さを見せる。この旅でもユストゥスが馬を酷使しそうになると、必ず止められた。馬が潰れては、移動そのものができない。あるいはユストゥスよりも大きな重圧を感じているだろうが、それでも耐えるところは耐えている。
「もう終わったか? ならさっさと飯食って寝ろ。後は、あたしがやっとく」
 ジャクリーヌが、ユストゥスの手にしている金属の筒に目をやる。連裝機銃の弾倉に当たる部品だ。これに、ユストゥスの魔力を溜め、魔力の塊として発射する。日が落ちてから五本、これに魔力を注入していた。
「いや、あと一本済ませておこう。弾は、少しでも多い方がいいだろう」
「・・・そうだな。任せるよ。悪いな」
 ジャクリーヌは立ち上がり、食器を片付け始めた。今は一秒でも休んでいてほしいところだが、じっとしていられないのだろう。鍋の中に、串やスプーンを無造作に放り込んでいく。川の方へ足を向けたジャクリーヌに、ユストゥスは言った。
「いつもすまないな。俺たちの為にここまでしてくれて、本当にすまないと思う」
 振り返り、何か言いかけたジャクリーヌだったが、結局何も言わず、再び川の方へ歩いていった。

 

 火花の爆ぜる音が、やけに耳に響いた。
「眠れない?」
 セシリアの声。フェルサリは、半身を起こした。
「はい。すみません・・・」
「なら、起きてるといいわ。明日には、一区切りつくわけだし」
 セシリアがキセルをくわえたまま、背嚢の中から、おそらくはマッチを探している。まだ白い具足姿のままで、今晩の見張り役をしているところでもある。
「ふふ、拝借しちゃおうかしらねえ」
 自分の荷物の中にないことがわかると、セシリアはテレーゼの重い旅行鞄を開け、中を物色しはじめる。
「戻ってくるわよ。心配しないで」
 テレーゼのことである。
 ジャクリーヌと二人、あの高さの崖から落ちるのを見ていた。下は川だったが、充分な深さがなければ即死だろうし、仮に死ななかったとしても、深刻な負傷をしているだろう。
 焚き火は就寝の時間になると火の勢いを落とし、熾き火にすることが多い。その方が暖かいのだ。しかしこの時間になってもなお火を焚き続けているのは、森の獣を警戒させる為もあるが、近くを通る者にこちらの所在を知らせようとしているからだ。
 つまりは、テレーゼに気づいてもらう為である。
「はい・・・その、テレーゼさんを、信じてます」
 落下するところを見ていたフェルサリとしては、やはり言葉通り信じ切っているわけではない。無事であってほしい。信じるかどうかではなく、切にそう願っていた。
 ただ、あれからひとつ、良いこともあった。シルヴィーが、目を覚ましたのである。
 まだ、食事は受け付けない。しかしあのまま目を覚まさないのではないかと思っていたので、胸を撫で下ろしたい気分だ。
 そのシルヴィーも、あれから眠れなかったのだろう。あるいは次に眠りに落ちたら今度こそ目を覚まさないのではないかという、フェルサリの危惧と気持ちを同じにしているのか、アンナに手を引かれながら、焚き火の傍にやってきた。
 火に照らしだされた銀髪の少女の顔を見て、珍しく、セシリアの目に動揺が走るのを見た気がする。一度夜空を見上げ、再び焚き火に目を落とす。
 フェルサリもまた、狼狽を隠せなかったかもしれない。シルヴィーの顔にはフェルサリにもわかるくらいはっきりと、死の影がちらついていた。
「テレーゼさんは、海に着いたら花火を打ち上げて下さるそうです。とても、楽しみにしています」
 笑顔としっかりとした口調で、シルヴィーは言った。だから、テレーゼは帰ってくる。そう言っているのだと思った。フェルサリは、その笑顔に少しだけ勇気づけられた。
「でも、大きな怪我をしていないか、とても心配です」
「仮にそうだとしても、血があればなんとかなるわ。それで、私も今晩は酒を断ってるのよ」
 セシリアが微笑む。テレーゼが血を欲していた場合、自分の血を吸わせるつもりなのだ。
「あの、私が・・・」
 フェルサリは言った。聞いたセシリアが、くすりと笑う。
「あら、じゃあお言葉に甘えて、一杯ひっかけちゃおうかしら」
 セシリアがいたずらっぽく言うと、シルヴィーとアンナの顔にも、微笑が広がる。
「・・・と、帰ってきたわね。血が足りてないとすると、結構びっくりすると思うから、二人は馬車に戻ってるといいわ」
「いえ、私もここで、テレーゼさんをお待ちしております」
 シルヴィーの言葉のすぐ後に、何かを引きずるような音とひどく苦しそうな息づかいが、フェルサリの耳にも聞こえ始めた。森の奥。そこから何が姿を現すか、見るのが怖いという気もした。
「テレーゼさん、おかえりなさい」
 シルヴィーが言う。苦しそうな、吸血鬼のいらえ。
「・・・ただいま、ですわ・・・シルヴィー、なかなか目を覚まさないから、心配していましたのよ・・・」
 シルヴィーは微笑んでいたが、アンナは口元を押さえ、目を大きく見開いている。
「遅かったわね、テレーゼ。またひどい顔になってるわよ。鏡で見てみる?」
「そのキツい冗談、今度ばかりは二度と聞けないかと、覚悟しましたわ・・・」
 荒い、獣のような息づかい。闇から姿を現した吸血鬼の姿を見て、思わずフェルサリも悲鳴を上げたくなる。
 全身、血まみれのぼろぼろだった。それ以上に、その形相の恐ろしさに震え上がる。生きていてくれてよかったという喜びを、恐怖がどす黒く塗りつぶしていく。
 瞳が、魔物のように赤く光を放っている。白目の部分がほとんど黒といっていいくらいに、暗く濁っていた。真冬でもないのに、長く伸びた牙の間から、白い息を吐き出していた。
 怪物だった。テレーゼの人ではない部分が、あらわになっている。
「血は、フェルサリがくれるそうよ。あまり、吸いすぎないようにね」
 フェルサリが上着を脱いでいる間、テレーゼの赤い瞳はこちらを見ず、じっと焚き火の炎を見つめていた。歯を食いしばり、苦しそうに何かに耐えている。フェルサリの手は震え、服を脱ぐのに手間取った。
「で、では、テレーゼさん・・・」
 フェルサリの肩に、かぎ爪のようなテレーゼの指が添えられた。ぐいと引き寄せられる。顎が外れそうなくらい、吸血鬼は口を大きく開けていた。ずらりと並んだ牙が、長く鋭く伸びている。
「っ・・・!」
 首筋に、牙が食い込んだ。皮膚を破り、肉を貫く感触に、全身が震えるのを、フェルサリは抑えることができなかった。血が、音を立てて吸い取られる。わかる。命が、身体から抜け出していく。
 目を開けると、シルヴィーがこちらを見ていた。その顔に変わらず微笑をたたえているが、不意に、その瞳から涙がこぼれ始めた。本当は、泣き叫びたいくらいだろう。自分が代わりになれればと、胸を痛めているだろう。
 私は、大丈夫。フェルサリは目で伝えた。顔を覆い、シルヴィーは声もなく嗚咽していた。
 テレーゼの口が、フェルサリの首筋から離れた。口の周りはフェルサリの血でまっ赤だ。テレーゼはそれを拭うと、指先についた血を猫のようにぺろぺろと舐めた。つらそうに顔をしかめてはいるが、、もう、いつものかわいらしい顔に戻っている。
「ふぅ・・・一息つけましたわ。フェルサリ、感謝いたしますわ。とても美味でしたの」
 くりくりとした青い瞳で、テレーゼは言った。セシリアの用意した布を、フェルサリの首筋に押し当てる。
「強く、押さえておきなさいな。傷は、すぐに塞がりますわ」
「傷痕も、残らないわよ。吸血鬼が血を吸う為に噛んだ傷は、どういうわけか傷痕が残りづらい。もっとも、頻繁に血を与えていれば別だけど」
 セシリアが付け足す。フェルサリは言われた通りにした。少しぴりぴりするが、牙で深く噛み付かれたという痛みではなかった。血は、やはりたくさん失った気がする。月経時の出血が多く、貧血には慣れているフェルサリだが、一度にたくさんの血を失うとはこういうことなのだろう。頭が、くらくらとする。
「飲み足りなかったら、私のも飲んでいいけど」
「とりあえず、今のところは大丈夫ですわ。吸い過ぎても、血の衝動に苦しむことになりますし」
 既にテレーゼの顔からは怪物らしさはすっかり消えているが、病を抱えているか何日も寝ていないかのような、憔悴し切った顔をしていた。呼吸は、もう落ち着いているようだ。
 シルヴィーが自分で立ち上がり、テレーゼの肩に手を触れる。テレーゼも応え、二人は軽く抱き締め合った。
「大丈夫ですわよ。それよりシルヴィーが目を覚ましてくれて、本当によかった」
「テレーゼさん・・・」
 シルヴィーが離れると、既にブランデーの瓶に口をつけ始めていたセシリアが聞いた。
「全治、どのくらいかかりそう?」
「二週間。腕力だけなら、明日の朝にでも砲くらいは担げそうですわ。でも狼の力は無理ですし、速い、細かい動きも無理ですわね。まだ、自分の身体という感覚が戻りませんもの。あ、そういえば、よくあの砲を持って来れましたわね。ネリーの魔法ですの?」
「私が、なんとか引きずってきたのよ。ネリーの魔力を、できるだけ温存したいんでね。あらためて、とんでもない重さだと思ったわ。いい鍛錬になった」
 馬車の脇の大砲は、泥で汚れ切っている。
「ネリーは?」
「寝てる。馬車を長い間浮かせたせいで、かなり消耗してるみたい」
 テレーゼは一つ、大きくため息をついた。
「ユストゥスはともかく、今のわたくしでは薬を使ったジャクリーヌの相手は厳しいですわね。セシリア、状態は?」
「悪くないわ。最も相性の良くない私が残ったのは、ちょっとまずい感じではあるけどね」
 飛び道具や魔法ではなく、主に剣で戦うセシリアにとっては、やはりやりづらい相手なのだろう。セシリアは銃の腕前も確かだが、ジャクリーヌのそれは達人の域だ。銃同士の戦いで分が悪いことは、以前の戦闘で証明されてしまっている。
 セシリアは荷物から医療道具を取り出し、テレーゼの傷を見て回った。アンナが無言でその手伝いをしている。
「あら、斬り傷が多いわねえ」
「言い忘れてましたわ。川に落ちた後、例のミュラセから追放されたという賊たちが待ち構えてましたの。ジャクリーヌが買収したか、脅して言うことを聞かせてたみたいですわね。ファミーユ号とユストゥスもいましたし、新しい連裝機銃に取り替えたジャクリーヌにも追い回されましたの。逃げ切るので精一杯でしたわ」
「あらやだ。災難だったわねえ」
 セシリアの鉗子が、テレーゼの傷口から弾丸を取り出す。前にテレーゼが自分で弾丸を取り出していた時は涼しい顔だったが、今はかなり痛そうだった。憔悴しきった様子のテレーゼだが、見た目以上に、さらなる消耗に喘いでいるのかもしれない。血で肩にこびりついた巻き髪を払うにも、なんとかやっているという感じだ。
「ともあれ」
 一度頭を振り、つとめて明るい声でテレーゼは言った。
「明日の今頃には、海辺で花火大会ですわよ。手当が終わったら、火薬の調合でもしておきますわ。ふふ、楽しみですわねえ」
「はい。みなさんで、一緒に見たいです」
 泣き出しそうな笑顔で、シルヴィーは言った。

 

 月が、もう見えなくなっていた。
 東の空が、微かに明るい。夜明けが近いと、ジャクリーヌは思った。
 今から眠ってもかえってつらいだけだと立ち上がり、六頭の馬を見て回った。よく、ここまでついてきてくれたな。これからも、あいつらを頼むよ。鼻面を抱き、一頭一頭に語りかける。
 身体をほぐす意味でも、少し散歩をしようと思ったが、また骨盤が痛みだし、仕方なく馬車のステップに腰を下ろす。ウィスキーの瓶に口をつけ、ジャクリーヌは森の闇に目をやった。
 さっきまで見ていた月が、ひょっとしたら最後の月だったかもしれない。
 昔もよく、夜空を見上げていたっけ。
 ジャクリーヌは、これまでの人生を振り返っていた。
 生まれたのはデルニエール北東部の端、アッシェンと騎士団領のすぐ近くだ。
 父がいつ死んだのか、よく覚えていない。ジャクリーヌが三歳か四歳くらいまでは生きていて、酒に酔ったその男によく殴られたのは覚えている。後から聞いた話では、アッシェンの町で商売に失敗し、借金取りから逃げる為にその辺鄙な土地で小作農をやっていたそうだ。
 母は、病がちだった。それでもジャクリーヌとその下に二人の子を産んだ。母はいつもジャクリーヌに優しかった。だから、ジャクリーヌを手放すのはつらかったのではないかと思う。
 ジャクリーヌが家を離れることにしたのは、金の為だった。ある日集落に僧服の男たちがやって来て、子供のうちの一人を、修道院に引き取ると言った。おまけに、子供を提供してくれた家族には、ゴルゴナ金貨で十枚も支払うと言ったのだ。集落の者は皆、裕福ではなかった。一方で明らかな人買いに、強く警戒もしていた。広場に集まった者たちは皆、どうしたものかと声を潜めて相談していた。邪険に扱って、教会に目を付けられるとまずい、大人の一人がそう言っているのが聞こえた。
 自分で進み出たのは、ジャクリーヌ一人だけだった。金貨十枚、先にくれるなら、自分が修道院に入ろうと言った。本当に修道院に入れるのなら、大変なことだ。貴族や名門の子女だけが入ることを許される、神聖な場所。
 何か裏があると、当時十歳だったジャクリーヌにもわかっていたが、とりあえず金貨十枚もあれば、母と二人の妹はしばらく食べていける。アッシェンや騎士団領まで旅をし、そこで暮らすこともできるかもしれない。
 家族とは、それが最後だった。
 ジャクリーヌは、本当に修道院に入れた。集落から西へ三日ほど行った辺境伯領の中、長城の東の端に、その修道院はあった。
 が、礼拝所の中には入れてもらえず、雑用を申し付けられた。一日中、身を粉にして働いた。
 修道院の中は壁に覆われていて、中で自給自足の生活が出来るように、畑、養蜂所、果樹園、水車小屋、とにかくあらゆる施設が詰め込んであった。祈祷や書見以外の時間に修道士たちはそれらの施設で働いているわけだが、ジャクリーヌの仕事は、その全ての施設の労働の補助だった。ほとんど一人で任されていたものもある。
 初めは誰もがこうした下働きから始めるのかと思っていたが、そうではなかった。時折新しい人間が入ってきたが、親族の身分により、待遇は著しく違っているようだった。最初からこの場所の王のように振る舞っていた者もいる。
 下層民出身のジャクリーヌは、永遠に下働きのままだった。つまりは、真面目に働く者の手が足りないので、人を買おうという話だったのだ。
 仕事がいくらつらくても、命令と叱責以外で誰も口を聞いてくれなくても、しかし当時のジャクリーヌは状況に納得していた。金で、身を売ったのだ。それも自ら進んで。報いがあるとすれば、今のこれがそうだろう。が、他の者が食べ残したものを口にしても咎められないだけ、前の生活よりもマシだと思っていた。味も、ジャクリーヌが調理に関わっていることが多かっただけに、悪くない。冷めてもあまりまずくならない料理を考えるのも、それなりに楽しかった。
 人として扱われなくても、地獄だとは思わなかった。面白半分に棒で追い回されたり、わずかな持ち物を壊されたりもした。相手の機嫌が悪く、殺されかかったことも何度かある。食べる物があるだけマシだと自分に言い聞かせた。食べる為に、自分は戦ってるんだ。
 ジャクリーヌの持ち物の中でひとつだけ、誰も手を触れようとしない物があった。ここへ入って来る時に与えられた、一着の修道服である。ジャクリーヌと同じような境遇でここに入った女のものであり、ジャクリーヌが来る一ヶ月前、首を吊って死んだのだという。死者の呪いがかかるということで、遺体から引きはがす時以外、誰も手を触れようとしなかったのだと聞いた。いずれ町から司祭が来て浄化、処分するはずだったが、ジャクリーヌの分としてちょうどいいという話にもなったらしい。それを聞いてジャクリーヌは、お前ら全員呪われろ、と心の中で呟いた。
 着ているところを見られると何をされるかわからないので、皆が寝静まった深夜になってから、ジャクリーヌはその修道服に袖を通していた。着たまま、女が首を吊ったという木の傍によく行った。うっかり目撃されたこともあったが、翌朝その修道士が幽霊を見たと騒いでいるのを聞いた時には、一日中笑いをこらえるのに必死だった。
 五年も働くと、修道院の中でのことは、大抵わかるようになっていた。作物の育て方、酒の作り方、その他生産に関わることの、ほとんどだ。文字の読み書きは、外部からワイン等を買いにくる商人との取引時に、簡単なものは覚えた。礼拝堂から聞こえる祈りの文句を盗み聞きし、深夜に礼拝堂に残された聖書や書き付けを見ることでも覚えた。どれも、殴られ、蹴られながら覚えた仕事と技術だ。身体に染み付いていた。
 いつか、ここから脱走しようと思っていた。難しいことではない。修道院を囲む壁は縄を使えば楽に乗り越えられるし、外の世界に出てからも、何らかの職につけるだけの自信もあった。しかしひとつだけ、乗り越えられない障壁もあった。
 外の人間が、自分を人として扱ってくれるのか。
 思い返せば母以外、ジャクリーヌを思ってくれた人間はいない。母がいなければ、今の自分が虐げられているということにすら、気がつかなかったかもしれない。
 怖かった。外の世界の人間が皆この修道院の人間のようだったら、むしろ外に出ない方がいいのではないか。慣れ切った生活を捨ててまで、外の世界に出る意味はあるのか。噂だけの外の世界に、おかしな夢を抱いていないか。町などというものは金持ちしか受け入れず、それ以外は生まれた集落のように、その日食べるものにも困る生活なのではないか。他所からやってきたジャクリーヌはどこに行っても受け入れられず、ここと同じか、もっとひどい扱いを受けるかもしれない。
 一年間、そういうことに悩み続けた。あのことがなければ死ぬまで悩み続け、そのまま修道院の中で生涯を終えていただろう。
 その日、ジャクリーヌの世界は急転した。
 辺境伯領の長城、それを乗り越えて、オークとゴブリンたちが修道院まで押し寄せてきたのだ。既に囲まれていて、脱出は不可能だった。大半の修道士たちは恐慌状態に陥り、その場にしゃがみ込んで祈り続けたり、意味もなく走り回ったりしていた。
 ジャクリーヌは棒を渡され、戦うことを命じられた。何人かの抵抗の意志を持つ修道士たちが、武器を手に駆け回っている。ジャクリーヌは渡された棒を、強く握った。あたしを、何度も殴りつけてきた棒だ。これで殴られたらどれだけ痛いか、よく知っている。
 方々で、火が上がっている。大事にしていた蜂の巣の箱を、豚のような怪物が踏みつぶし、大切に育てていた林檎の木に、火が放たれている。
 倉庫から小麦の袋を担ぎだしていた怪物を、ジャクリーヌは殴り倒した。自分の半分ほどの背丈しかない、小鬼のような怪物だ。一匹、二匹。棒から伝わる骨の折れる感触に、鳥肌が立つ。無我夢中だった。次々と殴り倒していると、大きな豚のような怪物も、ジャクリーヌの方に駆け寄ってきた。板斧をかわし、頭を殴る。一発では倒れなかった。別の一匹に蹴飛ばされ、倉庫の中に倒れ込んだ。どこかが燃えているのだろう。中は熱く、息も苦しかった。
 怪物が、にじり寄ってくる。袋を担いでいた小鬼たちも、ナイフを片手にこちらにやってくる。殺される。死にたくないと、ジャクリーヌは思った。
 どこかで、落雷のような音がした。その音がすぐ上まで達し、天井が、崩れてきた。
「・・・生存者なしか。まったくひどいものだ」
 すぐ近くで、声がした。
 馬のいななき。板金の打ち合う音。
 ジャクリーヌは、目を開けた。
 目の前を、鎧を着た男たちが去っていく。すぐに、状況が飲み込めなかった。
 立ち上がろうとする。右腕と右足が、地面に根を張ったように動かなかった。
 いきなりやって来た激痛と、どうしようもなく沸き上がってきた心細さに、思わずジャクリーヌは叫びを上げていた。
「誰か。誰か助けてくれ」
 人の駆けて来る音、息づかい。何かが、背中の上から取り除かれようとしている。少しだけ、身体が軽くなった感覚だ。同時に、全身に締め付けられるような痛みが走る。
「ここに、人がいます! 生存者です! 誰か! この瓦礫の下に、人が」
 女の叫ぶ声。鎧を着た何人かが、こちらに走ってくる。また、身体が少し楽になる。瓦礫に押しつぶされていたことを、ようやくジャクリーヌは理解した。
 助け出され、仰向けに寝かされる。白い髪と薄い瞳の若い女が、こちらを心配そうに覗き込んでいた。その向こうの、晴れ渡った空。女の瞳のように、薄い青。いい日和だなと、ジャクリーヌは思った。
「・・・せっかく掘り起こしたが、この傷じゃ助かるまい。かわいそうだが、放っておこう」
 鎧の男の一人が言う。女がその男をきっと睨みつけ、叫ぶように言った。
「この人は助かります! 私にはわかるんです。兄さん、そうですよね!?」
「・・・ああ、助けるよ。それが俺たちの仕事だからな」
 すぐ近くにいた、別の男が言っていた。女がまだ何か話していたが、はっきりとは聞き取れなかった。急に、眠たくなってくる。
 目を覚ますと、寝台の上だった。
 いや、その間の記憶は、おぼろげながら残っている。潰れてしまったジャクリーヌの右手と右足。役に立たなくなったそれを、男が切り落とす。夢のように、あるいは他人事のように、ジャクリーヌはそれを見ていた気がする。
 上手く、起き上がれなかった。右手と右足がないのだ。何とか起きようともがいていると、部屋の外から誰かが駆けてきた。
「まだ、起きちゃ駄目よ」
 小さいが、鋭い叱責だった。にもかかわらず、何故か嫌な気はしなかった。
「あたしは・・・生きてるんだな」
「そうよ。生きてる。兄さんが義手と義足を作ってくれるから、今にまた、歩いたりできるわ」
 目の前にいるのは、自分を助けてくれたあの女だった。名はセブリーヌだという。あのジャクリーヌの傷の手当をしていた男が、兄のユストゥス。ジャクリーヌも、自分の名を告げた。
 腹が減ったと伝えると、すぐに暖かい麦粥が出てきた。はちみつがたっぷりとかけてある。セブリーヌが食べようとしていたものなのかもしれない。息を吹きかけて冷まし、動けないジャクリーヌの口へ、スプーンを運んでいく。人に世話をしてもらっていることに、ジャクリーヌは途中で気づいた。覚えている限りでは、初めてのことだったのだ。美味いと言うと、セブリーヌはうれしそうに微笑んだ。
「医者の世話になっちまったんだな・・・やばいな。あたしは文無しなんだ。仕事も、なくしちまった。もっとも、金なんてくれたこともなかったが」
「・・・いいのよ。私たちも医術を仕事にしているから、基本的にその代償としてお金をもらうけど、お金がない人から、もらったりはしないわ」
「へえ。けど、金は返すよ。すぐにってわけにはいかないけど」
「律儀なのね。じゃあ、あなたが良ければ、しばらくの間、私たちの仕事を手伝ってくれない? 仕事は、私が教えるわ。もちろん、その傷が癒えてからよ」
「そうか、助かるよ。起きられるようになったら、何でもする。覚えが悪いと思ったら、棒で叩くなりなんなりしてくれればいい。あんたに叩かれても、そんなに悪い気はしなさそうだ。あたしは、そうやって・・・」
「そんなことは、絶対にしない。誰にもさせない」
 いきなり、抱き締められた。苦しい。強く抱き締められているわけでもないのに、胸がひどく苦しい。涙が、溢れてくる。
 しばらく、ジャクリーヌは泣いていた。ようやく口が聞けるようになると、セブリーヌの胸の中で呟いた。
「傷は、そんなに痛まねえよ。なのに、涙が止まらない。なんなんだ。変な病気にでもなってるのか」
「うれしい時やほっとした時、ううん、色々な理由で、人は涙を流すものよ」
「へえ・・・痛い時とつらい時以外で泣くなんて、聞いたことなかった。そうか・・・でもなんなんだろう、あたしのこれは」
「・・・何?」
「ああ、うれしいのかもしれない。他人に優しくされたことなんて、なかったから・・・」
 声が上ずるのを、どうしようもできない。それでもジャクリーヌは言おうとした。口に出して、伝えるべきだと思ったのだ。
「ありがとう、セブリーヌ。あたしは、うれしい」
 目を、開けた。
 昔のことを思い出している内に、少しうとうとしていたのかもしれない。馬車の扉に背を預けていた身体に、毛布がかけられている。夜は、もうとっくに明けている。
 焚き火の方から、美味そうなにおいが漂ってきた。麦の粥だ。あれにはちみつをかけて食べるのが、ジャクリーヌは好きだった。好物かと言われると、少し違う。色々と美味いものを食べてきた。ビール、ウィスキー、それにチェリーやレモンのタルト。好物といえばそれらだが、麦の粥にはちみつをかけて食べると、なにかほっとするのだ。
 立ち上がり、焚き火の方へ向かう。ユストゥスが、鍋の火加減を見ている。
「眠りながら、泣いているようだった。腰以外にも、どこかひどく痛むところがあるか?」
「ったくてめえは、いつもそうだなあ。クソが。妹の方は、もうちょい気の効いたこと言ってたぜ」
 腰を下ろそうかと思ったが、もう少し朝の清澄な空気を楽しみたくて、しばし野営地の周りを散歩した。立ち止まり、大きく息をする。風がひんやりと心地よく、空の色は薄かった。
「いい朝じゃねえか」
 誰に言うでもなく、ジャクリーヌは呟いた。

 

 

 

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