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2,「この娘を幸せにできる男がいるのなら、きっと王にでもなれるだろう」

 店員に勧められるままに、派手な下着を買ってしまった。
 既にロンディウムの銀行で金を下ろしたので、路銀には余裕がある。が、やはり無駄な買い物だったかもしれないと、アナスタシアは思い始めていた。
 黒の、実に蠱惑的な下着なのだが、こんなものを着て誰を誘惑するつもりなのかと、軽く自虐的な気持ちに襲われる。胸も尻も人より張っていると自覚しているアナスタシアだが、それでも身体つきはどこか子供っぽく、こんなものを身につけているところを見られたら、物笑いの種にされてしまうだろう。
 アナスタシアは今、屋台で買ったパストラミを挟んだアッシェンパンをかじりながら、街路樹の下の長椅子に腰掛けていた。木々は色づき、五月を迎えたパリシの街並には心地よい風が吹いていたが、アナスタシアの心はこの下着のせいで、寒々としていた。
 パリシの経済は、聞いていたよりもひどい有様だった。暴動が頻発しているのも頷ける。こんな時勢で派手な下着を買う者など、今のパリシにはそうそういないだろう。誰もいない店内に一人迷い込んだアナスタシアは、絶対に逃したくはない客だったはずだ。アッシェン語もまともに話せない田舎娘が、大陸屈指の洒落者を相手にしてきた百戦錬磨の下着屋の、餌食になったという格好だ。
 立ち合いや物資の交渉時に、アナスタシアが相手に引けを取ることはそうそうない。が、こういう個人の買い物をする時には、ついついやり込められてしまう。女店員の、下手に出ながらの気迫に圧倒され、やむなく高い買い物をするはめになった。
 溜息をつきながら、アナスタシアはパンをかじり続けた。昼食はどこかの食堂か酒場でとるつもりだったが、今は人の集まる場所を避けたい気分だったのだ。
 ふと、こんな気分の時に食べられるものがあるというのは、良いことではないかということに気がついた。顔を上げると他にも三人、長椅子で食事を取っている者たちがいた。二人組の男女は、楽しそうに何かを話している。もう一人は壮年の男で、こんな時にも発行されている新聞を読みながら、アナスタシアと同じようにパンをかじっていた。
 気分はそれぞれ違うだろうが、店の外で食べたい気分というものは確実にあり、そんな時に食べられるものが、ここにはあるのだった。
 それにしても、とアナスタシアはかじりかけのパンを見つめながら思う。これで、ゴルゴナ銀貨二枚か。物価は、相当上がってしまっている。アッシェン貨は価値が乱高下しており、この街での信用を失いつつある。
 戦時において、こうした街ではどんな食事がどれほどの値段で売っているのか、それが気になったというのも、ここに来た理由のひとつだった。
 先日パリシを外から見た時には、軍の関係者に自分の存在を知られることを避けていたが、アッシェンのゲクラン、アングルランドのライナスの誘いを断ったことで、この街を避ける理由もなくなっていた。
 もうひとつ、パリシの料理は元の食材が何だったのかわからなくなるほど手をかけるものが多いので、戦時で新鮮な食材が手に入らない今でも、それなりのものが出るだろうという期待があった。アナスタシアは料理が好きなのだが、勉強の為に食べるのも好きなのである。
 だが昨晩、一軒目に立ち寄ったレストランは、予約のない客は金貨二枚と言われ、入るのをやめた。一度の夕食にその値段はない。二軒目は銀貨十枚でコース料理を食べることができたが、味はいまひとつだった。献立にあるものが出ていないので給仕に聞くと、戦時中で食材が手に入らないのだと言われた。
 既に一週間近く、パリシで似たようなことを繰り返している。
 数年前に来た時は、美食の街だった。さすがにこの状況で美味いものを食べ歩こうというのは虫が良過ぎたのだろう。今かじっているパンがパリシ最後の食事というのも寂しいので、今晩もう一軒くらい試してみるつもりだが、明日の朝には、パリシを出ることに決めた。馬車を引く馬すら痩せている今のパリシに、多くを望むべきではない。アングルランドがこの街を完全に支配下に置くか、あるいはアッシェンが再び王都を奪還するか。いずれにせよ、この街がかつての輝きを取り戻すまで、立ち寄ることもないなとアナスタシアは思った。特に知り人も思い出もあるような街ではない。むしろ、長居し過ぎたくらいだろう。
 午後は市内を歩き、スラヴァル人の集まる場所を探すことにした。パリシには、様々な人種、種族の集まる共同体がある。
 旅の間、ミサに出ていなかった。アナスタシアは自身をあまり敬虔な信者だとは思っていなかったが、それでも長い間ミサに出ていないと、何か足元が揺らぐような感覚に襲われる。アッシェンの教会はどこも、同じセイヴィア教とはいえアモーレ派の教会で、アングルランドでは大半が新興の宗派、アングルランド国教会だった。その姿勢は新世界秩序と共に興ったゼーレ派に近く、アナスタシアの信奉する、オールドー派とは程遠い。
 しかしこの広い街にはスラヴァル人の共同体があると聞いたので、オールドー派の教会もあるはずだった。
 通りを行き交う人の数は少なく、皆一様に沈んだ面持ちである。笑い合い、冗談を飛ばしている人間もいるにはいるが、それがひどく浮いて見えるくらい、街全体は落ち込んでいる。店の半分は閉まっていた。住宅街に入っても、家の前や窓辺に飾られた鉢の花は、本来なら今が咲き頃なのだろうが、大半は枯れている。
 通りの向こうで、男たちが数人、取っ組み合いの喧嘩をしている。空の酒瓶を手にした老人が、それをぼんやりと見つめていた。
 どう転がるにせよ、戦の決着が着けば、この街は輝きを取り戻す。
 そうあってほしいと願いながら、アナスタシアは石畳を踏みしめた。

 一言で言えば、華がない。
 美醜は別として、華のある人間というものは確実におり、その点において、今ライナスの横に立っている娘は、まさに正反対と言えた。
 遠目からパリシの城壁を不安げに見上げているこの娘の名を、ユーフェミアという。そばかすが目立つということ以外、何の特徴もないこの娘にはしかし、政治的に大きな存在意義があった。
 アングルランド王家ランカシャー、アッシェン王家アルパジョン、その二つの王家の血を引いているのが、このユーフェミアなのである。
 三代前、和平工作の一貫として、両王家の王子、王女の婚姻が執り行われた。が、講和が成った後も既にアッシェンに領地を獲得していたアングルランド諸侯と、それを取り戻すべく動いていたアッシェン諸侯の小競り合いは続き、和平は当初の十年を待たずに崩れ去った。その十年間、両国の王侯に近い大貴族が戦に臨まなかったというだけで、むしろ戦そのものの頻度は高かったといってもいい。上の話し合いだけで無理に和平を急いだ結果が、今に至るまで百年も続いた戦の遠因といってもいいだろう。
 歴史を紐解けば、そもそもランカシャーとアルパジョンは血縁であり、両国の橋渡しという建前が、いかに馬鹿げているかがわかるだろう。ランカシャー家自体がアルパジョンの分家だったのだが、百年前のアッシェン王の死により、その後継にランカシャーが名乗り出てきたことが、この百年戦争の始まりなのである。今では忘れかけられているが、三代前の当時では、そう昔の話でもなかったはずだ。横槍を入れ、無用な混乱を巻き起こしたのは、元来分家筋だったアングルランドだったのだ。
 ライナスは、苦笑した。もし自分がアッシェンの権力者だったら、このことを盾にアングルランドを責め立てていたことだろう。そしてあの手この手で諸侯をまとめ、一気にアングルランドを叩き潰す。アングルランドの貴族に生まれてしまったのは、まこと皮肉としか言いようがない。が、戦を優勢に進めながらも瓦解寸前だったアングルランドを立て直し、今こうしてアッシェンを飲み込もうとするところまで来れたという足跡は、やはりやりがいに満ちていたのだろうという感慨がある。
 ともあれ、三代前の両王家の婚姻などなかったかのように表舞台から姿を消した新家アップルヒルだったが、一応三代、その血筋は続いていた。初代の孫に当たるこのユーフェミアはしかし、アップルヒル家最後の一人である。
 彼女が十歳の時、ライナスは一度顔を合わせている。それから十年、二十歳になったユーフェミアは、いくらか背が伸びたとはいえ、あの時の彼女と全くといっていいほど、同じだった。印象と、中身がである。
 再会の前に、手の者に彼女のこれまでと、内面的なことを調べさせた。
 十五歳、両親が相次いで他界した後、ユーフェミアは自分の意思で修道院に入った。領地の経営は、全て家令に任せているらしい。
 修道院では、問題児扱いされていた。
 それは彼女が出家し、修道女になったにも関わらず、好き勝手に振る舞うからである。出家しない形で、修道院に居を移し、隠居する貴族というのはいる。その場合、修道院も逗留する賓客として扱い、しかし修道院の中のことについては口出しさせない。ユーフェミアがそうしなかったのは、出家することで婚姻や、その他の貴族としての責任などを避ける為だったと言える。修道女として出家してきたが、賓客の如く好きなように振る舞わせろ、という態度である。院長の許可を取るとはいえ、度々そこを抜け出し、家に帰ることもあるそうだ。
 その修道院はアップルヒル家からの出資も受けているので、院長他、周囲の人間も文句は言えない。院で与えられた一室には大量の本を持ち込み、占星術やカード占いをやることも多いらしい。これが、世を捨てて出家してきた他の修道女に、良くない影響を与えている。一応修道女として入ってきたので日々の雑用や日課があるのだが、体調不良を理由に、しばしばそれを行わない。やっても、注意することもできないので、おざなりなことしかできない。元々どうしようもなく内気な娘である。他人との共同生活が営めるはずもなかった。
 そして周囲の不満の眼差し、腫れ物に触れるような態度を、しかしユーフェミアは自分に対する敵意や攻撃と感じているらしい。そしてまた、自分の殻を厚くする。
 ライナスは、報告書の文面を思い出した。高貴なる血筋を自覚しているが、それから逃げ出したいと願い、被害者意識に苛まれている。一方でその立場を利用し、自分に対する批判を感じると、途端に高圧的な態度に出る。自己肯定感が低く、そのせいで異常に自尊心が高い。
 重要人物である為、報告書をまとめたのはマイラである。彼女には珍しく、行間に感情の滲み出た文章だった。その時のライナスも、苦笑した。マイラがこうした報告を上げてくることは、それまでになかったかもしれない。このような人物に対する報告書では、好悪の感情は脇に置いて、冷静に長所と欠点を挙げていく娘である。
 女に嫌われる女、といったところか。この類の娘はえてして女しかいない環境を選びがちで、ゆえに周囲はいつも敵だらけである。
 ライナスは、後ろを振り返った。少し離れたところで、護衛の兵と共に、逞しい身体つきのもう一人の愛娘、エイダがこちらを見ている。ライナスの視線に気づき、娘は満面の笑みを返してきた。が、一瞬前までエイダが射抜くような目つきでユーフェミアの背中を睨んでいたのは確認できた。エイダはユーフェミアに関する報告書を読んでいないし、彼女のこれまでをよく知らない。初見から、エイダはユーフェミアを嫌っている。わずかな言動からでも、何か感じ取るものがあるのだろう。
 血の繋がったライナスとマイラ相手では、それぞれ別の方向に感情が先走ってしまうようだが、エイダは本質的に冷静で、人を見る目がある。父と腹違いの姉に対して感情のほとんどを振り向けている分、他人に対してはライナスが驚く程に冷徹である。それは、彼女が編成する軍を見ていればよくわかった。自らに与えられた人の配置を組み替えるだけで、実に見事な軍を作り上げていた。
 その苛烈な性格から見ても、エイダが嫌っている人間は少なくないだろう。特に、ダンブリッジを嫌っている様子だ。が、そうした感情に振り回される程、馬鹿ではないということだった。今の所、他の将校との軋轢はない。にも関わらず、エイダはユーフェミアを嫌っているようだった。
 そのエイダたちの背後には、野営地が広がっている。パリシを囲む、十万の兵。しばらくここを離れていたが、軍にいささかの緩みもなかった。再び、ユーフェミアに視線を戻す。
「市内は、少し荒れているそうです。しかし新市長の就任と共に、パリシはまた以前の輝きを取り戻します」
「私は、何をすればいいのですか?」
 俯き、眼鏡の位置を直しながら、ユーフェミアが訊く。
 彼女をここに連れて来た理由。それは有史以来市長の存在しなかったパリシに市長職を創設し、新たな統治体制を敷くためだった。
 パリシにはこれまで、市長というものが存在しなかった。元から独立した市ではない。ゆえに市長を決めるということはすなわち、それを決める権限を持つ貴族の支配に従うということでもある。それを肯んじるには、パリシ市民は強過ぎた。市民はここが王都であるにも関わらず貴族によって統治されるのではなく、自分たちが市を運営するのだという気風を持っており、市の政治はその時に最も力を持つ組合の長が取りまとめてきた。実質的な市長なわけだが、国や貴族によって任じられたわけではないというところが、他の街の市長とはまるで違う。王が命じようと、その時の長が否と言えば否なのである。ゆえにこそ、パリシは貴族、聖職者、市民の代表による三部会によって政治を執り行う。
 個人的には、これはこれで良いことなのではないかと、ライナスは思う。が、パリシは今、アングルランドの支配下に入ろうというところだ。王や自分の命令にいちいち反撥されていては、かなわない。そこで正式にパリシを支配下に置いた暁には、市長職を誕生させようという目論見なのである。
 新市長に誰がふさわしいか。最良を選ぼうとすると、かえって難しい。自分たちの国の王にも統治を譲らなかった市民が相手である。どんなに優れた者を選ぼうとも、反撥を受けるのは必至だ。
 ならば就任当初、市長はあくまで飾りという体裁を取ってはどうか。そこで白羽の矢が立ったのが、両王家の血を引くアップルヒル子爵、ユーフェミアなのである。
 彼女が実務的な能力を持っていないことは、目ざといパリシ市民でなくても、すぐにわかる。そして、アッシェンは戦に負けるのである。降伏する以上、形だけ、という市長職の設立を、認めないわけにもいくまい。飴と鞭という喩えなら、これがまず、あまり痛そうに見えない鞭なのである。
 飴は、すぐに見える形で、ふんだんに用意してある。まずは向こう一年、税を免除する。現在力を持っている組合の長たちの権限も、政治の最終的な決定権をのぞき、手を付けない。何なら、より大きな利権を与えてやってもいい。本質的に彼らは敵ではなく、パリシの、ひいてはアッシェンの豊かさの源泉なのである。無駄な対立に意味はなかった。立法、行政府の最終的な権限さえ譲ってもらえれば、後は好きにさせた方がいいのだ。その方が、互いの利益になるはずである。
 アングルランド人と、アッシェン人の、高貴な血を継ぐ者。飾りにふさわしいが、何の力も持ち得ない者。それが、ユーフェミアなのだった。
「何も、大きなことはしなくて良いのです。細かいことは、連れてくる役人たちがやってくれます」
 とにかく、頭の部分だけ押さえてしまえばいい。パリシはそもそも、経済的にも文化的にも優れた街なのである。全て自分の思い通りにしようなどと、ライナスは思っていなかった。
「何も・・・では、私でなくても良いのではないでしょうか」
 この野心と知性のなさは、傀儡としてはうってつけだが、個人として付き合うのは、いささか難儀しそうである。
「いえ、あなたが、最もふさわしいのです」
「私の・・・両王家の血でしょうか」
「まあ、そういうことになりますな」
 少し苛々し、ライナスは紙巻き煙草に火をつけた。ユーフェミアは煙草の煙をひどく嫌うので、立ち位置は、常に風下となるよう気をつけている。もっとも、こちら側のそういった振る舞いに気づく程、気の回る娘ではなさそうだった。食うに困らぬ境遇を幸運と思えたのなら、彼女ももう少し視界の広い、やわらかい女性に成長していただろう。そして、周囲に愛されていたはずだ。正直に言うと、その程度の人望は欲しかった気がする。
「でも・・・」
 言ったきり、ユーフェミアは口をつぐんだ。拒絶の意志はあるが、それを上手く言葉にできず、さりとて無茶な理屈だろうが何としても拒絶するという意志の強さもない。ただ、不満だけが募っていることだろう。
 風向きが変わった。ライナスは彼女に煙がかからないようそれとなく立ち位置を変えながら、話を続けた。
「しばらくの間、辛抱して下さい。数年の内に、ユーフェミア殿が望む境遇を用意できるよう、こちらとしても全力を尽くします」
「早く、修道院に戻りたいです」
「お望みとあらば、できるだけ早く」
「その・・・これも、国の為でしょうか」
 それなら仕方ないと思わせれば、また被害者意識を膨らませるだけだろう。この娘の扱いは、難しい。いっそ彼女の言葉を一切聞かず、駒の一つとして扱おうという思いが、ちらちらと頭をよぎる。しかしライナスの胸の内の何かが、それを許さなかった。ゆえに、この娘との付き合いは難しいのだ。
 自分の意思で修道院に籠っていた時ですら、大きな不満を抱え込んでいた。このユーフェミアは、自由にやっていてさえ、常に不自由だったのだ。
「いえ、私からのお願いです」
 ユーフェミアは曖昧に頷き、また目線をパリシの城壁に戻した。
 いつも、自分を不幸だと思っている女。
 この娘を幸せにできる男がいるのなら、きっと王にでもなれるだろうと、ライナスは思った。

 教会を出て、宿に向かう。
 久々のミサに出て、アナスタシアはどこか身が引き締まるような気持ちになっていた。正直に言うと、幼い頃は、教会に行くのが嫌だった。が、人とは勝手なもので、こうして長い間ミサに出ていないと、どうにも落ち着かない気分になるのだった。不敬なことを承知で喩えれば、今は風呂上がりのように気持ちがいい。
 スラヴァル人たちと会い、久々のスラヴァル語で話せたのは良かった。アナスタシアのことも、霹靂団の壊滅も、こちらでは知られていた。こうして生まれ故郷を離れている彼らにとって、祖国のことはやはり最大の関心事なのだ。彼らは充分情報を知っていたがそれでも、こちらが聞くつもりで、かえって色々と聞かれてしまった。なんといっても、アナスタシアは当事者である。
 だがここで、アナスタシアの知らない話も聞けた。その後のことである。
 生き残りの消息はいまだ不明のものが多いが、元副官の、グリゴーリィは違った。
 彼は生き残った数人と共に、なんと宮廷に乗り込んだらしい。そこで謁見中の女帝を激しく糾弾し、投獄されたのだそうだ。
 霹靂団の壊滅したあの日、雪原の上で、グリゴーリィが慟哭していたのを覚えている。見た目同様武骨ながら、同時にどこか飄々としていた男の涙を、アナスタシアはあの時初めて見た。アナスタシアへの忠義はもちろん、それでいて何よりも祖国への思いが強かった男である。裏切られたという思いは、ひょっとしたらアナスタシアより大きかったのかもしれない。
 牢獄に、どのような囚われ方をしているのかはわからない。生き残ってほしいとだけ、アナスタシアは思った。霹靂団の者たちを家族のように思っていたアナスタシアだが、さしずめあの男は兄といったところか。もしアナスタシアが戦場で命を落とすことがあれば、ボリスラーフにはそのまま副官でいてもらい、あの男が団長になるはずだった。
 人通りの少ない大通りを歩く。かつては無数の街灯に明かりが灯され、夜でも大勢の人たちで賑わっていた大通りも、今は人影もまばらで、閑散としていた。
 警備兵の一団と、それを避けて通る柄の悪そうな男が見えた。痩せた野良犬が、道の隅でうずくまっている。まだやっている店も、客が一人いればいい方だった。夕食を摂るのに適当な店はないか、スラヴァル人たちに聞いておいた方が良かったかもしれない。ただ、腐ってもパリシである。金額と味が釣り合わないとはいえ、どこかに入れば腹を満たすことはできるだろう。
「お姉さん、ちょっと」
 路地の方から、子供の声がする。自分に掛けられた声だと気づかず、アナスタシアはその子供の前を通り過ぎようとした。
「アナスタシア、あんたに会わせたい人がいるんだ」
 子供の声がいきなり大人の女のものに変わり、アナスタシアはぎょっとした。
「驚かせるな。子供じゃなくて、ハーフリングか」
「そうだよ、陥陣覇王。あんたに会わせたい人がいる。少し、顔を貸してもらえないかな」
「追いはぎなら、間に合ってるぞ」
「あんた相手の追いはぎも、苦労しそうだ。が、そうじゃない。あんたの知人だよ。一人はあたしの主、ゲクラン様だ」
「なんと、今、ここパリシに潜入しているのか」
 ハーフリングの女はアナスタシアと路地の影に位置取っていて、大通りからその姿は見えていないだろう。通りがかりの人間からは、アナスタシアが誰と話しているのかはわからないはずだ。忍びである。
「危険は承知で、あんたに会いにきた。もう一人、あんたを待ってる御方がいる」
「誰だ? 高貴な人間であるかのような言い回しだが」
「会ってのお楽しみさ。ついてきてくれ」
 子供の格好をしたハーフリングの後をついて、アナスタシアは路地に入った。大通り近辺の区画は整備されているが、少し裏路地を進むと、途端に入り組んだ場所になる。人がかろうじてすれ違えるくらいの、道とも言えない道。何度も角を曲がり、柵を開け、間仕切りの垂れ幕をくぐる。人は意外といて、奥から来る人間に道を譲り、地べたに座り込んでいる酔っぱらいを跨いで進んだ。
 ある一角では、屋台が建物の一部であるかの様に、狭い路地に沿って並んでいた。美味そうな匂いが漂ってくるが、串に刺しているのは鼠のようだった。いや、あれはあれで美味そうだと、アナスタシアは思った。
「こっちだよ、ほら」
 危うくハーフリングの姿を見失いかけて、アナスタシアは先を急ぐ。建物の、裏口。扉を開けると、中はこうこうと明かりの灯された酒場だった。
 特に狭い酒場ではないが、低い天井とぎっしりと入った客のせいで、息苦しささえ感じた。旅の身のアナスタシアにはわからなかったわけだが、いるところに、人はいるものだ。乾杯の音頭と、下品な笑い声が響き合う。
 垂れ幕のある、奥の個室。手前の卓に座っている一団は、皆とんでもなく剣の腕が立ちそうだ。ゲクランの護衛か、忍びたちだろう。幕を上げ、中に入る。
「アナスタシア、再会できてうれしいわ」
 ゲクランだった。地味なうぐいす色の平民の服を着ているが、そもそもこの女はよく目立つ。パリシに潜入するのは大変だっただろう。大きく盛り上がった胸が、卓の上で重たそうに鎮座していた。
 個室にはもう一人、子供がいた。金髪で、利発そうな目をしている。
「紹介するわ。この御方が現アッシェン王、アンリ十世その人よ」
 少年は笑顔を浮かべてから、ぺこりと頭を下げた。その仕草があまりにも自然で、束の間、アナスタシアは彼が王だということを認識できなかった。顔を知らなかったからではない。本当に王かと思うくらい、偉ぶったところがどこにもなかったのだ。
「これは、驚きました。まだ、頭が整理できていません」
「ふふ、奇襲は成功ね」
 片目を閉じて、ゲクランは笑った。
「名乗るのが遅れたけど、あたしはマグゼ。よろしくね」
 ハーフリングが名乗り、奥の席に座った。個室は狭く、アンリとマグゼが子供の大きさだというのに、四人が座ると部屋は一杯になった。元々、二人用の個室で、それこそ額をくっつけ合うようにして密談を交わすような部屋なのかもしれない。
 少年王が、口を開いた。十二、三歳くらいか。矮躯で、これから大人になろうという身体つきをしている。まだ、声変わりはしていない。
「アナスタシア殿、急な呼び出し、誠に申し訳ありません。理由については、これからゲクラン殿が・・・」
「陛下、お話を遮ってしまって申し訳ない。陛下はいつも、そのような口調で下々の者に話しかけられるのですか」
 アナスタシアが言うと、アンリは破顔した。それもまた、とても王族とは思えない、まぶしい笑顔である。ひとつ咳払いをした後、少年は続けた。
「ゲクラン殿から、何度か注意されているのだが、中々直らない。僕はつい最近まで、この街で印刷工の徒弟をしていたんだ。まさか、自分が前王の隠し子だなんて知らずにね。こんな、砕けた調子でいいのかな? ゲクラン殿には、せめて同年輩の友人と話すようにすればよいと言われ続けているが、私は、姉のようなものだと思っている。姉などいないから、あくまで感覚だが」
「そうですね。そのような口調の方が、私も落ち着きます」
「しかしこれも、結構居心地が悪い。僕の歳だと、こんな綺麗なお姉さんたち相手に、友人のように話しかけるようなことはないからね。一つ歳上の女性でも敬語で話していたし、お客さんの子供なら、それが五歳でも貴族の令嬢のように頭を下げていたんだよ。何か、背中がむずむずする」
 言って、アンリは笑った。一言多いが、利発そうな少年である。相手を持ち上げつつも懐に入ってくるような話し方は、なるほど、いかにもこの街の暮らしが長いといった感じだ。嫌みも下心も感じず、実に板についている。
 これが、王と王子の連続した暗殺により、非嫡子からいきなり王になった、アンリ十世か。幼王などと言われているのは、単に背が低いからだろう。この王については、小さいという噂話以上のものは聞かなかった。パリシ脱出後はゲクランの居城にいたとされ、その言動が世間に知れ渡ることはなかったのだ。
「さて、私などを呼び出しておいて、どういったご用件でしょうか。まさか二人とも、お忍びでパリシに遊びに来たので、ちょっと飲みに誘ったというわけでもありますまい」
「もちろん、あなたを誘いに来たのよ、アナスタシア。単刀直入に言うわ。今度の戦、あなたに力を貸してほしいの」
 ゲクランが、身を乗り出して言う。
「何が出来ます? ゲクラン殿から禄を頂くような話は、既にお断り申し上げましたが」
「一度だけ、青流団を指揮してほしい」
 青流団。大陸最強の傭兵隊。麒麟児ルチアナと、老獪なドワーフのベルドロウの顔が、真っ先に思い浮かぶ。ルーク、ジュリアン、アニータ。皆、元気だろうか。
「これもまた、出し抜けですな。しかし青流団の人間が、それを肯んじるかどうか。いくらゲクラン殿に雇われているとはいえ、部外者が直接指揮を執っていいというものではありません」
「それについては、ベルドロウから直接聞いて。そろそろ来る頃だと思うから」
 ゲクランが言い終わるのとほとんど同時に、垂れ幕を上げて、老ドワーフが入ってきた。節くれ立った大きな手を、アナスタシアに差し出す。
「アナスタシア殿、お久し振りです。思っていたより、早い再会となってしまいましたが」
「健勝そうで何よりです。それにしても、今夜は驚くようなことばかりだ。夢でも見ているようですよ。まだ、この状況をはっきりと理解できていない」
「もう、話は聞かれましたかな?」
「たった今、聞いているところです」
 既に座席は一杯である。老ドワーフに席を譲ろうと立ち上がりかけるが、ベルドロウは一度酒場に戻り、丸椅子を持って来た。
 五人は身を乗り出し、互いの顔を寄せる形となった。酒場の喧騒で、相手の声が聞きづらいからだ。それは無論、外にいる人間たちの配慮だろう。今ここで話されていることは、外部の人間に洩れてはいけない話である。
「わしらとしては、いい機会だと思っております。以前話した通り、今の団員たちの多くは、本当の総大将の指揮というものを、知らない。しかしアナスタシア殿が我が隊に立ち寄られたことで、大将というのはこういうものだと、知ってしまった」
 先日、アナスタシアが青流団に立ち寄った時の話である。
「あの時もお頼み申した。一度で良いのです。本当の大将の元で、彼らに戦を経験させてやっては下さらんか」
 傭兵として戦うことに、未練がないわけではない。加えて、最強と名高く、かつアナスタシア自身でその実力を感じ取った傭兵団である。やってみたい気持ちはある。やれる自信もある。そしてあの時よりも、その話に耳を傾けてもいいと感じている自分に、少し驚いていた。セシリアの家に滞在したことで、何か憑き物が落ちたような感覚があることは確かだ。しかし気軽な誘いに乗るには、話が重過ぎる。
 パイプに火をつけ、しばし考え込んでいると、グラスのワインを飲み干したゲクランが言った。
「アナスタシア、私は改めて、友人としてあなたに頼むわ。力を貸して頂戴」
「友人、ですか」
「いずれ、私の愚痴を聞ける程度にって話、したじゃない?」
「アッシェン語に堪能でありたいと」
「そんな言い方、友人じゃない相手にするかしら」
「なるほど。仰りたいことはわかります」
 アナスタシアは苦笑した。かなり強引な気がするが、これがゲクランの価値観なのだろう。しかし、悪い気もしない。
「あの時あなたが言った、アッシェンに必要なもう一人の英雄。それはあなたよ」
「そんなつもりで口にしたわけでは、当然ありませんが。というより否定こそしませんでしたが、それはゲクラン殿の言葉です」
「その通りだって顔してた。この話、誰にしてもみんなきょとんとした顔してたのに、あなたはわかってる様子だった。あなただけなのよ。説明もせずにわかってくれたのは。あなたがどんなつもりでも、あなたは私と共に戦うんだから」
 鼻息荒くさらに身を乗り出したゲクランが、ひとつ息を吐いて椅子に座り直した。どん、と音を立て、大きな乳房が再び卓の上で弾む。
「僕からも、いいかな」
 アンリが話し始めた。申し訳なさそうにこちらを見る青い瞳には、しかし確かな知性の光を感じる。
「いきなり呼び出されて、皆から力を貸せと迫られたら、どんな人間だって、はいそうですかというわけにもいかない。にもかかわらず、僕からもお願いしなくてはならない。一度でいい。アッシェンの為に力を貸してほしいと」
 ゲクランと、ベルドロウが頷く。
「そこでだ。僕たち三人の願いを、三分の一ずつでいい、叶えてくれないか。一度に三人分の願いをそれぞれ背負ってしまっては、どんな人間でも荷が重いと思う」
「三つで、一人分ですか」
「しかし感謝は、三人分以上となる」
 それでもやることには変わりがないのだが、なるほどアンリの考え方には興味が引かれる。少なくとも、いくらか気が楽になる発想だ。
「それに、なんにしても急な話だ。アナスタシア殿にも、少し考える時間を・・・」
「お言葉ですが、陛下」
 それまで黙っていたマグゼが、口を開いた。子供のような外見をしているが、紫色の瞳の光は、歴戦の猛者のそれである。
「いや、これはあんたに言った方がいいな、アナスタシア。陛下とゲクラン様は、物見遊山でここに来たわけじゃない。入る時は苦労したし、この後アングルランドの連中にばれるようなことがあれば、出る時にはもっと苦労する。ウチの隊からそれなりの犠牲も出る」
 木のジョッキの中身を飲み干し、ハーフリングの忍びは続ける。
「三日後には、辺境伯ラシェルの軍が、レザーニュに到着する予定だ。アヴァラン軍も、ほぼ同時期にやってくる。遅くても一週間後には、アッシェンとアングルランド、互いの未来を決定づけるような、決戦が始まる。時間がないんだ。本当は今すぐにでもあんたをうんと言わせて、皆をここから脱出させたい」
「マグゼ、待ちなさい」
 ゲクランがたしなめると、不満そうな様子を見せつつも、マグゼは口を噤んだ。
「いえ、いいのです、ゲクラン殿。しかしやはり、話が急過ぎる。ここは陛下のお言葉に甘えさせて頂き、少し時間を頂きたい」
 どれくらいだ、とマグゼが目で訊いてくる。
「明日の晩、同じ時刻に、ここで。受けるにせよ断るにせよ、そこでしっかりと、私の考えを述べたいと思います」
「オーケー、私はそれでいいわ。陛下、御身だけでもここを離れられては?」
「いや、アナスタシア殿の返事を聞くまで、残ろうと思う。アッシェンの命運は、まさにその時に決まるかもしれないからね。僕には、力がない。でもせめて、成り行きをしっかりと見届けるのがきっと、王としての責務なんだと思う」
 言って、アンリはアナスタシアに笑いかけた。
「けど、どうかそのことで、アナスタシア殿は責任を感じないでほしい。いきなりで、おまけに勝手な願いなのだ。そもそもあなたにはその願いを叶えるだけの、理由がない。ゲクラン殿と、ベルドロウ殿、双方の願いを、一度は断っているとも聞く。当然だ。僕はあなたが霹靂団を失って、どんなに苦しんだかを、知らない。それをゆっくりと聞く時間もない。にもかかわらず、こちらの願いを聞いてくれというのだ。断って当然だろうと思う」
 アナスタシアは頷いた。四人に目礼し、店を出る。マグゼだけが、店の外までついてきた。
「あんたの宿の近くまで送る。見つからない道があるんだ」
「見つからない?」
「アングルランドの連中にだよ。パリシはまだあたしたちの庭だけどさ、十人ばかり、アングルランドの連中が忍び込んでる気配がある。が、こっちの方が遥かに人数は多い。部下が目を光らせている道なら、奴らも近づけないってことさ」
 来た道とは違うが、同じような雑多で、混沌とした裏路地を進む。すれ違った人間の何人かは、マグゼの手下なのだろう。
「さ、あそこの通りを出れば、すぐだ。そこから先は、自由だよ」
「自由?」
「好きにしろってことさ。なんなら、アングルランドの人間と接触しても構わない。王と元帥が街に潜んでるって話は、高く売れると思うぞ?」
 選択肢として、確かにそれはあった。明日の晩、ゲクランたちの誘いを断って、アナスタシアが無事でいられる保証はない。アッシェンに対する義理もないので、断ったとて裏切りにはならない。そして断るのなら、このことをアングルランド側に知らせるのが得策なのである。いくらで売ろうというよりも、アナスタシアの無事を条件にできる。そもそもこの話自体、アナスタシアへの脅迫と見ても不自然ではないのである。
 無論、実際は違う。アンリとゲクランは、アナスタシアを口説く為だけに、とんでもない危険を冒している。
「マグゼ殿は、それでいいのか? 私をここで解放しても」
「いいわけないさ。が、ゲクラン様がそう言ったんだ。あたしは命令に従うだけさ」
 マグゼはほんの少しだけ、見た目相応の子供っぽい顔をして、下唇を尖らせた。
「ゲクラン殿も、いい部下を持った」
「やめときなよ。それこそ命令とあらば、いつでもあんたを消しにやってくる」
「それも、含めてさ」
 言うと、マグゼは大きく目を見開いた後、笑った。
「あんた、面白いな。腐っても今の大陸五強か。やっぱり、何か違う。陛下やゲクラン様が、あんたをあきらめたっていい。ただあたしはあたしで、見てみたいわ。ゲクラン様とあんたが、轡を並べるところをさ」
 マグゼは笑いながら、路地を引き返す。
 暗がりに入ったと思った時には、そこにはもう、誰もいなかった。

 

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