前のページへ  もどる

 

3,「小さくたって、幼くたって、本気で恋はするんですよ」

 いつも以上に、段取りがまずい。
 レザーニュ城まであと一日という村で、三日の足止めをくらっていた。ここで受け取るはずの最後の補給物資が、いつまでたっても届かないのであった。二百五十の兵に対して、用意されていた武器は二百、食料に関しては百に届かなかったのだ。食料は現地で兵糧が出るなら必要ないようにも感じるが、万が一現地で兵糧が滞った場合、手持ちにないというのは危険だった。
 叔父のドナルドによると、足りない物資は主に、これから向かうレザーニュ軍の集結地に集められているらしい。あちらで足らず、ここの村に運ばれていたものが接収されたそうだ。村の長によると、ここで足りない分を余所でなんとかできないかと人をやっているそうだが、しわ寄せが次々と広がっていくのは目に見えている。そう考え、シャルルは今日何度目かの舌打ちをした。
 馬蹄の響きが聞こえてきた。カード遊びに興じていた兵たちと共に、シャルルは顔を上げた。レザーニュ城に直接状況を聞きに行っていたアネットが、戻って来たようだ。馬を下り、ドナルドの元へ駆けて行くアネットを追う為、シャルルも席を立つ。
「ようしお前ら、今日はここまでだ」
 手札を卓の上に投げて、叔父たちの元へ向かう。兵たちが一斉に不満の声を上げた。今日のシャルルは大分、負けが込んでいたのだった。
 シャルルが来るのを見て、ドナルドはアネットの報告を待たせていた。
「で、あっちはどうだった?」
 シャルルが聞くと、アネットは太い眉をハの字に曲げて溜息をついた。
「向こうでは、物資は余っているくらいだったよ。今回の作戦が、レザーニュ始まって以来の規模とはいえ、段取りが悪過ぎる。早い者勝ちではないが、さっさと向こうに行って物資を受け取った方がいい。叔父上、いかがです?」
 今回のパリシ奪還作戦において、レザーニュ伯が集める兵は、五万とも十万とも言われている。先代から、一度に万を超える部隊が編制されたことはない。やはり身の丈に合わない徴集なのだろう。
「ふむ、ではすぐに出発しよう。今から急いでも、夜になっての到着になるか。が、賊の心配もないので、日が落ちても心配なかろう。お前たちは準備をして待っていてくれ。私は村長の所に挨拶に行ってくる」
 黒い口髭の先を軽くしごきながら、ドナルドは村の中に入っていった。シャルルも、すぐに出発の準備を始めた。といっても、シャルルが胴鎧を着て、天幕を片付けている間に、アネットが兵の徴集まで澄ませていたようだ。
 二百五十の兵の列が、ドナルドを先頭にゆっくりと進み始める。シャルルは馬に跨がり、最後尾についた。
 何度か兵としての動きの調練をやったが、兵の多くは初めて徴兵された者たちで、大した調練はできない。なのでかえって、ここ数日で長旅の疲れを大分回復させているようだ。この村に着くまではぐったりとしていた者たちも、今は歩きながら冗談を飛ばし合ったりしている。
 今日は天気も良く、風も暖かい。シャルルは馬上で何度か、うとうととしかけた。ばらばらの足音や荷馬車を引く馬のいななきが、ちょうどいい子守唄になるのだ。
「シャルルさん」
 声を掛けられ、かつズボンの裾を引っ張られ、シャルルは危うく落馬しかけた。
「なんだ、お前か」
 下を見ると、ジャンヌが馬と並んでいた。
 大陸五強の一人ヴィヴィアンヌと、剣聖の子を自称する不思議な少女だったが、彼女が得体の知れない強さを持っていることは、ここまでの旅で何度も目にしてきた。言動にしても、弱冠十一歳とは思えない娘である。出来上がっている、とでも言おうか。しかし、年相応の子供っぽさは充分残してもいた。
 そのジャンヌに促され、シャルルは馬を下りた。鎧が重たい。三十歳を過ぎた辺りから、急に鎧を重たいと感じるようになっていた。兜と手甲を外し、鞍袋に収める。脚甲は、そもそも実戦が近い時以外は身につけていなかった。
「何だよ。トイレだったらあそこの木立で済ませてこい」
 脛を蹴られ、シャルルは絶句した。軽く蹴ったようで、しかし鉄の棒で殴られたかのように痛い。この小さな少女のどこに、こんな力があるのか。身体つきは、華奢である。
「ちょっと、聞かせてほしい話があるんです。おじさんのことで」
 ジャンヌはドナルドのことを、おじさんと呼ぶ。
「アネットに聞いたらどうだ? 彼女の方が色々知ってるんじゃないか」
「アネットさんには、ちょっと・・・いいから、聞かせて下さい」
 このジャンヌとアネットは、正反対のように見えて、実は仲が良い。姉妹のように接していると見ていたが、実際はどうなのだろう。
「喧嘩でもしたのか」
「違いますって。シャルルさんに聞いた方がいいと思ったんです」
「女同士じゃかえって話せないことでもあるのか」
 何の気なしに言ったことだが、何故かジャンヌはばつの悪そうな顔をしただけだった。しばしの沈黙の後、再びジャンヌが口を開く。
「シャルルさんって、どうやって結婚したんですか?」
「村の教会で、かみさんと誓いのキスをしたんだよ」
「もう! そういうことじゃなくて、じゃあどうして奥さんと結婚することになったんですか?」
 どうやら、ジャンヌは結婚のことについて聞きたいらしい。それも既婚者に。アネットは独身だし、ドナルドは妻と死に別れている。なるほど、そんな話なら一応自分は適任者ということになる。
「隣村の娘でな。と言っても、十分も歩かずに行けるほどの近所だ。祭なんかは近隣の村で合同でやるからな。小さい頃から何度か会ってる内に・・・結婚することになった」
「んもう! 途中から端折り過ぎですって!」
「・・・いや、あまり思い出話とかは、ないんだよなあ」
「シャルルさんって、本当に最低ですねえ。奥さんにはきっと、いい思い出とかいっぱいあったかもしれないのに。あ、ちなみに結婚の話は、どちらから?」
「向こうから」
「最低。シャルルさんってモテそうにないのに。あ、一応騎士だからか。玉の輿狙いで」
「それも少しはあるのかなあ・・・いや、そうじゃないとか言ってたな。というより俺みたいな田舎騎士なんて、下手すりゃ村にたまに来る行商人より貧乏だからな。他にも近くの町から商売に来る連中は多かったし、金とかそういうものじゃないんじゃないかな」
 ジャンヌは顔を赤らめて、口を尖らせている。聞いてきたら下品な話の一つや二つしてやろうかと思っていたが、この様子ではまた向こう脛を蹴られそうだ。それとなく間合いを測りながら、ジャンヌの次の言葉を待った。
「シャルルさんって、お金持ってないんですか?」
「持ってないよ。田舎騎士は大体そんなもんだ。自慢じゃないが、俺の鎧は四代前からのものだからな。ちゃんと一式揃ったのも、俺の親父の代になってからってくらいだ。ま、じい様たちの苦労の結晶がこれだな」
 シャルルは指先で、胴鎧を叩いた。こんなに重たいのに、やけに乾いた音がする。
「それは、誇っていいことだと思います」
 真顔で言われて、シャルルは少し面食らった。
「お話遮る形になっちゃったらごめんなさい。じゃあ、お金とか地位で、シャルルさんは奥さんに見初められたってわけじゃないんですね?」
「ん、まあそうなんだろうな。苦労するとは思ってただろうが。おまけに俺が死んだら、大したものも残らないしな。封土ってわかるか? 俺は俺の村の持ち主だが、それはレザーニュ伯から賜ったものなんだよ。騎士としてもらったもんだから、俺の子供が騎士になる資格を持ってなかったら、一番近い血縁の騎士か家士が土地を引き継ぐことになる。騎士の位と土地は別の親戚・・・多分アネットか。今だと多分、あいつが一応権利を持つことになると思う。従姉妹だからな。何よりあいつは叔父上の家士をやって長いし、従者になっちゃいないが、その修行も済ませてある。後は空いた土地ができればすぐにでも騎士になれるんだよ。従者、騎士って段取りは、後は手続きだけなんだ。いわば騎士の順番待ちだな。叔父上も、俺が死んだらアネットの推薦状を書くつもりでいるだろうな。俺の娘は、騎士になるって感じじゃないし。何より、かみさんが反対してるんだよ。生まれた子が娘で良かったって。何故って聞いたら、息子だったら騎士にしなくちゃいけなかったからってさ。ま、今のご時世、女の騎士も珍しくないんだが」
「なるほど。んー、ではやっぱり奥さんに、玉の輿狙いはなさそうですね。じゃあなんで、奥さんはシャルルさんと結婚しようと思ったんでしょう」
「んんん・・・なんか、ツボに入ったんじゃないかな」
「ツボ? 好みじゃなくて?」
「女からすりゃ、似たようなもんだろう。男は相手と添い遂げたいかどうか、それなりに吟味するからな。いや、ちょっと違うか。考えるというかな。性格やらなんやら、自分に合いそうかどうか、それなりに考える。考えて良いと思ったら、相手のことを受け入れるというかな。女はほら、直感的に駄目だと思ったら、その男がどれだけ押してきても駄目だろう?」
「ああ、言いたいことはわかります」
「男は、それだけ自分のことを好いていてくれるのなら、みたいなとこはあるわな。どうしても受け入れられないってとこはあるにせよ、そのハードルは女に比べりゃずっと低い。かみさんが俺のどこを良いと思ったのかは、俺にもさっぱりわからないよ。見ての通り、俺は間違ってもモテるって感じじゃないしな」
「わかります」
「わかるなよ。まあそんなわけで、かみさんが何で俺を好いてくれたのかは、かみさんに聞いてくれ。それならむしろ、女同士の方が話しやすいだろう。女、というには、お前はまだまだお子様だけどな」
「女ですよ。馬鹿にしちゃ駄目ですよ」
「馬鹿にするつもりはないが、俺にもお前に近い歳の娘がいるからなあ。やっぱり、子供にしか見えないんだよ」
 ちょっと不機嫌そうな顔をしてから、ジャンヌは溜息をついた。しばらくして顔を上げると、珍しい、どこか切迫した様子で口を開いた。
「おじさんって、結婚されてたんですよね?」
 ドナルドと、その家族の記憶が甦る。シャルルが頷くと、話して欲しいというように、ジャンヌはこちらをじっと見つめた。
「・・・綺麗な人だったよ。町から来たんで、物腰の柔らかい人だった。娘が一人できたんだけどな。外征の間に、二人とも流行病で亡くなってしまった」
 ジャンヌは視線を落とした。随分と長い間、轍だけを見つめていたような気がする。場違いな笑い声が、兵の列の先から聞こえてきた。
「・・・私の勘違いかもしれないですけど、私、おじさんに避けられているような気がするんです」
「そうかな。言う通り、お前の勘違いじゃないか」
 何となく思い当たる節があり、シャルルはしばらく黙っていた。が、再びジャンヌの真っすぐな瞳に見つめられ続けて、口を開かざるを得なくなった。普段はよく喋る娘だけに、沈黙は思いのほか雄弁である。
「・・・似てるんだよ、お前に」
「誰とです?」
「叔父上の、娘に」
 眉尻を下げて、ジャンヌは微笑んだ。なんて悲しそうな笑い方をするのだと、シャルルは思った。
「顔つきは、あまり似てないな。あの子は幼くても、母譲りの上品な顔立ちをしていたからな」
「ええっ!? それって私が、下品な顔してるってことです?」
「下品ってわけじゃないが、目と口は、お前ほど大きくはなかったってことだ」
 実際にひどい言い草だったと自分でも思ったが、ジャンヌのくりくりとした青い瞳には悪戯っぽい輝きがあり、口にしたほど傷ついてはいないのだと安堵する。
「ただ、後ろ姿は似ているな。似ているともちょっと違うかな。俺でも、あの子がお前くらいの年まで生きていれば、きっとこんな感じだったんだろうなと思った」
 シャルルがそう思うくらいである。ドナルドなら一層、そう思ったことだろう。ジャンヌの後ろ姿を見て、アネットが目を見開いていたことがある。きっと彼女も、同じことを感じたのだろう。
「お前を見て・・・その、叔父上は、思い出しちまうことも、まあ、あるかもしれないな。でもそれは、お前のせいじゃないからな。他人の空似ってヤツで、いやしかし、お前の顔は似てないからな」
「顔の話はやめて下さい。レディに対して失礼ですよ、騎士殿」
「これはこれは大変なご無礼を、レディ。まあでもなんだ、お前が気に病むことじゃない」
「気に病みますよ。私、いるだけでおじさんを傷つけちゃうんですか?」
「わからないよ。だとしても、叔父上の勝手だろう。それにそんなことで、叔父上がお前を嫌うと思うか? お前みたいな子供を兵にしちまって、それを気に病んでるんだよ。それは間違いない」
「子供子供って、言わないで下さい」
 ぷいと顔を背け、ジャンヌは黙ってしまった。どうしていいかわからず、シャルルは空を見上げた。忌々しいほどに、よく晴れた空である。兵たちの何人かがこちらを振り返っていたので、シャルルは手で払う仕草をした。
 ふと、この少女は何故こんなにも叔父に懐いているのかを考えた。
 叔父は人が好い。何よりもシャルルは、その人柄に惹かれている。加えて、あのドナルドの体型である。小太りで、どこか愛嬌があった。子供が好きになるぬいぐるみに、どこか通じるものはある。叔父は案外、子供に人気があるのかもしれない。シャルルと違い、ドナルドが初対面の子供に警戒されることはほとんどない。ただやはり、内面から滲み出るようなものはあるのだろう。子供っぽい大人には伝わらないだろうが、子供そのものは大人のそういった部分に敏感でもあった。
「なにさっきから、頷いてるんですか」
「いや、色々と納得がいってな。お前が叔父上を気に入っている理由がわかった」
 言うと、ジャンヌは面白いくらいに、うろたえた様子を見せた。顔を耳まで真っ赤にして、口をぱくぱくとさせている。
「な、ななっ、何ですか。何がわかったんですか」
「俺は大人だからな。大人にしかわからない世界がある。お子様にはわかるまい」
「な、何ですかそれ。本当、シャルルさんは意地悪だなあ」
「お前も、大きくなったらわかるよ。というよりお前のその仕草、まるで恋する乙女みたいだなあ。かわいいとこもあるじゃないか」
 ジャンヌはむむむと、赤面したまま唸っている。目には涙が溜まっていて、少しからかい過ぎたのかとも思う。シャルルはまた、それとなく間合いを測った。また、あのつま先が脛や尻に襲いかかってくるかもしれないからだ。
「ま、お前に恋はまだ早い。もう少し大人になったら、真面目に相談に乗ってやるよ」
 好きになるのと惚れるのは、似ているようで、まるで違う。まだ小さいジャンヌには、自分でもその違いがわからないのだろう。ただこの少女が、叔父のことをとても好いているのはわかった。
 下唇を突き出して震えていたジャンヌだが、不意に、その顔が憑き物が落ちたかのように穏やかになった。まぶしいものを見るかのように、シャルルを見上げる。
「はい。その時はよろしくお願いしますね。ありがとうございました」
 ぺこりと頭を下げ、兵の列に戻ろうとする。駆け出した足は、しかしすぐに止まった。
「あ、そうだ。でもひとつだけ」
 両手を背中に回して、ジャンヌはこちらを振り返った。はっとするような笑顔で、少女は言う。
「小さくたって、幼くたって、本気で恋はするんですよ」

 

 霧と共に、耐え難い何かが近づいてきた。
 シュザンヌはハンカチを口元に当て、窓の外を見た。まずそれを感じさせたのは、臭気である。目に映るのは、霧の立ちこめる湿地帯だ。デルニエール北部、悪名高きトロール沼である。
 昨晩は北風で、南に少し行った所にこのような悪臭を放つ沼地があるとは思えなかった。南風だったら、かなりの距離までこの臭気が漂っていたことだろう。
 排泄物や吐瀉物ともまた違う、独特の臭いである。何か身体の奥に染み込むような、背筋の凍る臭気なのだ。硫黄に似ているが、かび臭さにも似ている。気分が悪くなるよりも早く、気持ちの方が滅入りそうだった。
 しかし沼の水は澄んでいて、くるぶし程の深さだろうか、水面の下に泥の地面が見えた。馬車は道のように続く硬い地面を選んで進んでいるが、沼地に車輪を取られたら、抜け出すのに苦労するだろう。霧は深く、沼地に近づくまでは強かった日差しも、今は曇天であるかのように薄暗い。
 窓を閉め、馬車の中に視線を戻す。
 この大きな六頭立ての馬車ファミーユ号の中は、まるで旅籠の一室のようだった。あくまでその広さがである。乱雑に積み上げられた木箱や管のついた金属の筒、その他諸々の用途不明の器具が足の置き場もないくらいに散らかっている馬車内は、さながら発明家か研究者の片付けられない部屋を思わせた。
 道中、道の凹凸に車輪が当たる度にそれらの器具は動き回っていたものだが、今は不気味なくらいに大人しくしている。地面から伝わる振動がない。馬車が通れる道を選んでいるとはいえ、大地そのものはやはり軟弱なのだ。向かいの席、といっても部屋の反対側といった感じだが、そこでは用心棒のエンマとユストゥスの娘、赤い髪の少女デルフィーヌが話していた。いや、エンマが一方的に話しかけているといったところか。
 デルフィーヌは幼い頃の病気で喉の一部、声帯と呼ばれる部分を切除しており、自力で声を発することができない。なので魔法を駆使した発声器官を喉の辺りに着けているのだが、この機械の調整は難しいらしく、温度や湿度によっては正常に動作しないのだそうだ。
 今日がまさにその時で、このトロール沼の冷気と湿度は、デルフィーヌから正しい声を奪っていた。ここまでの旅で基本的に無口な少女だとわかっていたが、沼に入ってからは、本当に最低限のやりとりしかしていない。
 そのデルフィーヌだが、パリシで初めて出会った時は六歳前後の女の子だと思っていた。御者台にちょこんと腰掛けた姿が、とても小さく見えたのだ。が、席を立つと、意外なくらい身長が高かった。150cm台の半ばくらいか。初めもっと幼いと錯覚したのは、ひょろひょろと妙に長い手足を、認識できなかったからである。今年十一歳ということだが、このまま身長が伸びれば、シュザンヌよりも大きくなりそうな気がした。
 今はまた席に座っているので、小さく見える。横にいるエンマが180cmに届こうかという長身なので、余計にそう見えた。この二人の年齢差が五歳というのも、おかしな気がした。歳よりずっと小さく見える赤毛の少女と、実は少女といっていい年齢の長身の娘の、奇妙な取り合わせである。場合によっては、親子のように見えなくもない。
 しかしこの二人は馬が合った。いや、エンマは誰とでも馬が合うようなところがある。気難しいと言われるシュザンヌとも合わせられるのだ。構えたようなところがどこにもなく、誰の懐にもすっと入っていく。母のニコールが近寄りがたい雰囲気を持った女性だったと聞いているので、少し不思議な感じがする。
 デルフィーヌは先程からその髪と同じような赤い服の裁縫にいそしんでいるが、時折顔を上げ、エンマの話に頷いていた。
 シュザンヌの頭上で、御者台と馬車内を繋ぐ小窓が開いた。再びの臭気と共に、ユストゥスの緊張をはらんだ声が響く。
「そろそろ、奴らが来そうだ。そちらは大丈夫か」
 窓を閉め切っていたことで多少は楽になっていたが、やはりこの外の臭気は耐え難い。しかしユストゥスはずっと外の御者台にいるのである。人に気を遣えない、自分勝手だとも評されることの多いシュザンヌだが、今すぐ小窓を締めろと言ってしまうほどに、分別がないわけではなかった。
「私は、いつでも。つっても、何も用意するものはないしねえ」
 言いながらも、エンマは度の入っていない伊達眼鏡のガラスを磨いていた。それを掛け直すと、葉巻をくわえたまま、早速外に出ようとする。
「ああ、ユストゥス。何匹くらいいるか、わかる?」
「霧が濃くて、なんとも。見えているのは二匹だが、奴らは群れをなす。十匹以上は覚悟しておいた方がいい」
 奴らとは、この沼に棲息する怪物、トロールたちである。どんな存在かは本で知っているが、さすがに実物を見たことはない。沼の瘴気と相まって、シュザンヌは震えた。
「コ、コレ・・・」
 デルフィーヌが機械じみた声を出し、エンマの白いコートを引っ張る。少女が指差したのは、大型の魔法銃である。
「私は、大丈夫。そうだ、近づいてくるトロールがいたら、援護射撃してよ。当たらなくても、威嚇くらいにはなるでしょ」
「ア、当タル。射撃ニハ、自信アルカラ・・・」
「心強い。しっかり頼むわ」
 馬車が停止し、扉を開けてユストゥスが入ってきた。長銃を何本か手に取り、小脇に抱える。魔法銃の弾丸も、ポケットに詰め込んでいた。
「あの、私も何か、手伝えることがあれば・・・」
 シュザンヌは言った。小さな女の子まで、戦闘に参加しようというのである。自分が何もできないという、無力感は避けたかった。エンマが応える。
「あんたを守るのが、私らの仕事。あんたがやるべきは、守られることでしょ? それ相応の、代価を支払ってる」
「ま、まあ、そういうことになるのかもしれないけど・・・」
「なら、やることもやれることも、シンプルでしょ?」
「・・・そうね。じゃあ、任せるわ」
「おう。任された」
 扉を開け、エンマは外に飛び出した。デルフィーヌが、馬車の窓を次々と開け放っていく。その手の先が、そうとわかるくらいに震えていた。大の大人であるシュザンヌですら恐怖に震えているのに、十一歳の少女が怖くないわけがないだろう。
「ダ、大丈夫ダヨ・・・パパトエンマガ、ツイテルカラ・・・」
 魔法銃を抱えたエンマに励まされ、シュザンヌは唇を噛んだ。金で人を雇っている身だが、雇われる側の気高さが、一層シュザンヌを打ちのめす。思わず舌打ちしそうになった自分に、どうしようもない嫌悪感をもよおした。沼の瘴気でもなく恐怖でもなく、そのことに吐いてしまいそうだった。
 どこからともなく、船が軋むような、重たい音が聞こえてきた。それに反するような、高い水しぶきの音。それは四方から、この馬車に迫っている。
 シュザンヌの目は、窓の外に釘付けになった。霧の向こう、ぼんやりとした何かの影が、こちらに向かって近づいてきていた。徐々に、その異形の姿が浮かび上がる。
 大きい。最初に思ったのがそれだった。パリシやゴルゴナの動物園で、象という生き物を見たことがある。それか、あるいはそれより大きいが、目の前に現れたそれは、人の形をしているのだった。いや、脚がひどく短く、身体の半分くらいは大きく膨らんだ腹なので、ドワーフに近いか。
 一匹が、獣のような吼え声を上げ、シュザンヌの心臓は飛び上がった。二匹、三匹と、次々と同じような声を上げる。肌が粟立ち、心が恐怖を感じる前に、凍てついてしまいそうだった。
 これが、トロールか。
 エンマが一匹に向かって駆けだしていた。ぶよぶよと太ったトロールの身長は、背が高いはずのエンマの、実に倍以上である。どうやって、戦おうというのか。
 トロールの生態ついても、事前に調べてあった。身体の一部が切り離されても、しばらくすると新しい部位が生えてくるほどの、強烈な再生能力。口に出来る物は何でも食べ、どんな物でも消化できるという強烈な胃液。首の後ろの部分、延髄と呼ばれる箇所を破壊することでようやく殺すことができるらしいが、素手のエンマがどうやって倍の大きさがある生き物の首を破壊できるのか。
 エンマと対峙した一匹が、巨大な拳を振り下ろす。懐に入ってかわしざま、エンマはその拳をトロールの腹に叩き込んでいた。
 酸の胃液を吐き出しながら、トロールはうつ伏せに倒れる。起き上がろうとした怪物の後頭部に、エンマは振り上げていた踵を叩き込んだ。トロールは、そのまま泥の中で動かなくなった。
 すぐにエンマは、次のトロールに向かった。全てが流れるようで、シュザンヌには驚嘆の声を上げる暇もなかった。あんなに大きな怪物を、いともあっさりと殺してしまうエンマに、戦慄を禁じ得ない。
 車内に、銃声が響き渡る。デルフィーヌが窓越しに、別の方向から近づいてくるトロールに、魔法銃を発射していた。銃声は、火薬を使う銃に比べて、かなり小さい。デルフィーヌが使うそれは銃口が大きく広がった、ラッパ銃の形状に近く、弾丸も散弾を撃ち出しているようだ。顔から胸にかけていく筋もの血を吹き出させたトロールが、顔を押さえて悶絶する。頭を下げた怪物に、もう一発。この銃撃ではトロールを殺すことはできないだろうが、頭を押さえて沼を転げ回る怪物を見ていると、牽制には充分なようだった。
 御者台の方でも、銃声が聞こえる。ユストゥスが怯える馬たちを巧みに制御しながら、さらには魔法銃も撃っていると思われた。
 どこか夢見心地のまま状況を把握していると、不意に、シュザンヌの心臓は激しく脈打ち始めた。どっと冷や汗が出て、俯いた鼻の先から、汗が滴り落ちる。いや、涙だったかもしれない。からからに乾いた喉では、泣き声も悲鳴も上げられなかった。
「お、お姉ちゃん・・・」
 シルヴィーの顔が、瞼の裏に浮かんでは、消える。シルヴィーの最後の旅路を辿る旅。旅の目的を思い出していないと、あっという間に思考が暴走してしまいそうだった。
「お姉ちゃんは、こんな怖い思いをしながら、旅をしていたの・・・?」
 かろうじて顔を上げると、エンマがまた一匹のトロールに、止めを刺しているのが見えた。手妻か、曲芸か。いや、素手のエンマは真っ向から怪物と打ち合い、そして打ち倒していた。
 一時、外のエンマと目が合った。
 大丈夫とでも言うように、用心棒はこちらに向かって親指を突き立てた。

 

 名残惜しさに、胸が張り裂けそうだった。
 こんな思いは、いつ以来だろう。まとめた荷物を眺めながら、アナスタシアは思った。
 いつまでも、ここにいたいような気がする。しかしいつまでもここにいてはいけないと、思い直す。来たくなったら、また来ればいい。そういった我侭を許してくれそうだからこそ、やはり発たねばならない。
 荷物を持って階下に下りると、居間でセシリアが煙管を吹かしていた。
「ん、もう行くのね」
「はい。静謐な暮らしを、乱してしまいました」
「また来たくなったら、いつでも。私たちは、歓迎するわ」
 本当に、歓迎してもらった。立ち上がったセシリアの後を追い、外に出る。
 セリーナが、馬を引っ張ってきているところだった。既に鞍袋に、他の荷物は詰め込んである。
「これから、どうするの」
「悲願であった、店を開こうと思います。以前から出会った人間にはそれとなく話し、自分でもそう思っていたのですが、ここに来るまでは、どこか他人事のように考えていました。今は実感を持って、そう口にできます」
「あなたは、料理の腕もいいからねえ。応援してるわ」
「ありがとうございます。が、まずはどこかで料理の修業をしてみたいと思っています。剣と同じく、その道にはその道の基礎があると思うので」
「当ては?」
「とりあえず、一つは。ここに来る旅路で見つけた店です」
 アナスタシアは胸に手を当て、大きく息を吐いた。
「どうしたの?」
「断られるような気がしているのです。それは、万の軍勢を相手にすることよりも、私にとっては怖い」
「相手に悪いとか、誰かの迷惑になるだとか」
 セシリアの髪が、風になびいた。光の残滓が、空に舞い上がった気がする。
「そんな下らないことは、考えないことね。あなたの、あなただけの人生だもの。その夢にすら振り回されず、好きなように生きなさい」
「そうですね。本当に、そうだ。あまり細かいことにこだわらず、やりたいことは全てやっていきたいと思います」
 アナスタシアは身を屈め、寄ってきたセリーナを抱き締めた。
「ありがとう、セリーナ。お前に会えて、よかった」
「あうぅ、また、来てくれますか」
 セリーナの顔は、涙でぐしゃぐしゃになっている。その涙を指先で拭い、もう一度抱き締めた。
「母上を、しっかり頼むぞ」
 鐙に足を掛け、馬に乗る。毛並みは、ここに来た時よりもいい。セリーナと共に馬を世話した日々が、胸の内を駆け抜けていく。
 セシリアが、戟を投げてよこした。しっかりとそれを受け取ると、アナスタシアは馬首を返した。久しぶりに握った戟の柄が、妙に手の平に吸い付く。まだこの刃で、やり残したことがあるというのか。
 振り返ると、セリーナはセシリアの脚に抱きついて、泣いていた。できればその涙が彼女自身のものであってほしい。アナスタシアはそう願った。
 森の中に入る。もう一度振り返ると、二人が手を振っていた。アナスタシアも、手を振り返す。
 親子の姿が見えなくなるまで、アナスタシアは手を振り続けた。

 

つづく

前のページへ  もどる

inserted by FC2 system