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2,「既にもう一人の英雄は、そこにいた」

 日差しには、春の気配が漂っている。
 が、窓の外はまだ冬の寒さといってよく、まだ積もった雪が、溶けるのをじっと待っているように見えた。ゲクランの吐息が、窓ガラスを曇らせる。
 ゲクランは今、アヴァラン領ノーデキュリー城に来ていた。部屋の暖炉は赤々と燃えているが、暑さを感じることはない。こうして窓辺に立っていると、外の冷気が足元から這い上ってくるようでもある。
 アッシェンの北の守り、アヴァラン公ボードワンは、いくつかの城を居城にしていたが、中でもここは、もっとも標高の高い城だった。普段は、夏の盛りの避暑地として使うそうだ。
 会談の場をここに設けたのは、あまり人目につきたくなかったというのもあるが、何よりゲクランの居城から最も近いというこちらの都合もあった。日の出と共に出発すれば、ここまでは日没までに着いてしまうほどの近さだ。パリシ奪還作戦を前にして、あまり自分の領土を留守にしたくはない。
 部屋の中にはゲクランの他に、もう二人いた。一人はまさしくこの城の城主であるアヴァラン公ボードワンと、もう一人はその息子で有能な将軍、イジドールである。
「なるほど、話はわかりました。同時に、このアヴァランへも攻め入ってくると」
 白い顎髭に手をやりながら、そのボードワンが言う。
「なので、二人の内どちらかは、レザーニュに集結次第、急いでここに戻って来てほしいのよ。一応形としては、奪還軍に参戦したものの、急遽自領が襲われたという形を取った方が、お互いやりやすいだろうから」
「それなら、俺が戻ってくることにしましょう。かなりの強行軍だ。親父にはちとキツい」
 ボードワンにむっとした顔を向けられ、イジドールは軽く肩をすくめた。一言多いが、六十歳のボードワンよりも、三十歳のイジドールの方が足回りがいいのは確かである。そのイジドールはいかにも武人肌のボードワンと違い、少し斜に構えたところのある男だった。
 ゲクランはあらためて、席に着いた。三人で、パリシ奪還作戦の、最後の詰めを話し合っているところである。
 ゲクランの読みでは、レザーニュに集結するパリシ奪還軍に対するアングルランド最初の一手は、北に遠く離れたここ、アヴァランに攻め入る姿勢を取ることだと睨んでいる。攻められるのではなく、逆に攻めてやろうということである。
 アヴァラン公ボードワンの参戦は、既に公言されている。パリシ奪還作戦が現王の命で行われる以上、先代から常に王命に従ってきたボードワンの出兵は、当然のことでもある。実際ボードワンとこうして顔を合わせていると、彼の士気の高さは充分伝わってくる。アッシェンという国よりも自らの領土の安全、拡充に腐心するアッシェン諸侯に珍しく、この男は国というものに忠義を捧げていた。
 ボードワンの評価は、アングルランドでも高いと聞いている。ならば出撃そのものを思いとどまらせるか、少しでも出撃する兵を減らそうとアングルランドが考えるのは、自然なことでもある。西に隣接する、今はアングルランドの支配地になっているレヌブランがアヴァランに攻め入れば、その目的は達成される。
 戦闘宰相ライナスがこう動くだろうと確信した時、ゲクランは一人舌打ちしたものだ。先程その見立てを二人に話した時、親子は共に驚いた様子だったが、戦略的に見て間違いないとわかったようだ。まだ確証のない話でもあるが、どの道、戦で敵の動きに確証が得られるのは、干戈を交える直前でしかない。
「で、もしここの防衛もしなくちゃならないとして、どの程度の兵なら防衛が可能なのかしら」
 同じアッシェン諸侯とはいえ、何かのきっかけで敵同士ともなりかねない、そんなアッシェン貴族の間柄である。領地の内情をたやすく教えることは少ない。が、ゲクランはアヴァラン親子と親密な関係を築いてきたと思っている。二人もゲクランを信用してか、あっさりと数字を口にした。
「通常なら、一万もいれば大丈夫でしょう。が、あの戦闘宰相が全体の指揮を執っているとあれば、何をしてくるかはわかりません。一万五千、いや、二万いれば、アヴァランが落ちることはないと断言できますが」
 イジドールの言葉に、ボードワンはむぅと唸った。
「一万五千でお願い。こちらにはアヴァラン軍が、最低でも二万は欲しいのよ」
「そういうことなら、やってみますよ。そうだな、この戦いにはアッシェンの命運がかかってる。俺も贅沢は言ってられませんね。こっちの侵攻にどんな指揮官が来るのかわかりませんが、可能なら、大将の首を獲ってやりますよ」
「まあ、あまり無理はしないでね。パリシを奪還できたとしても、ここを取られてしまったら、厄介な状況は続くわ。ああ、でも、万が一にでもライナス自身がやってくるのなら、あなたの銃で一発狙ってみるのも良いかもね」
 イジドールは、射撃の名手である。その狙撃銃で、敵の部隊の指揮官の命を、何度も奪ってきた。用兵の巧さも充分で、ゲクランが敵に回したくない大将の一人だと言える。
 卓に広げられた地図に、ボードワンがその太い指を這わせていた。ゲクランの話から、何通りかの戦の想定をしているのだろう。
「元帥の読みでは、奪還軍を叩く、アングルランドの迎撃軍の指揮は、ライナス殿自身ということでしたが」
「おそらくは、ね。だから奪還軍本隊は、直接私が指揮を執らなくてはいけないと思ってるわ。不測の事態に備える為にも」
「不測の事態として、今の段階ではどんなものが考えられますかな」
「リチャード王麾下の、五千」
 むぅ、と再びボードワンが唸る。
 リチャード王の軍は、アングルランド正規軍からは独立した存在である為、動きが読みづらい。それどころか所在の捕捉すら難しく、先日も奪還軍に合流予定だったラシェル辺境伯軍が、不意打ちに近い形で、あっさりと打ち破られた。
「リチャード王が、この度の戦に参戦するかどうかは」
「わからない。案外、ライナスが一番それを知りたがっているかもね。あの王は、動きが全く読めない。ライナスの要請を断るくらい、平気でするだろうから」
 ゲクランは笑い、イジドールも釣られるような苦笑いを見せたが、ボードワンは難しい顔をしたままだった。
「怖いのは、南から来ることね」
 パリシ、レザーニュの南はまだアッシェン領土だが、騎馬のみで編成されたリチャードの部隊なら、アッシェン内を移動することは難しいことではない。パリシの西で補給を受ければ、少なくとも一週間くらいは、アッシェン内を自由に闊歩できるだろう。
 パリシ奪還軍と、アングルランドの迎撃軍がぶつかり合っている間に、南から奪還軍の横腹を衝く。備えなくそんなことになれば、即潰走の事態も考えられる。
 ライナスが、リチャードを動かすことができれば、これが最悪の想定だった。
「ライナス殿が迎撃軍の指揮を直接執るというのなら、それを打ち破るだけでも至難の業でしょうな。ましてリチャード王の部隊が横腹を衝いてくるというのであれば、敗色は濃厚と言わざるをえますまい。元帥の、これに対する手は?」
「青流団を当てるつもりよ。ここで使わずして、ってとこかしら」
 大陸最強の傭兵隊と謳われる、青流団。ゲクランとの契約は、あと一戦限りのものとなっている。
 実を言うと、この青流団は、パリシ奪還に失敗し、アッシェンそのものの瓦解が予想された場合、次の標的になるであろう、ゲクラン領の防衛に使うつもりであった。青流団の契約は、アッシェンという国相手ではなく、あくまでゲクランとの個人的な契約である。
 が、やはりアッシェンが滅びに向かうというのなら、ゲクラン領がアッシェンから独立したとしても、それは大海に浮かぶ小舟のようなものだろう。さらに言えばそうなった場合、一戦、大勝してから講和に移るよりも、さっさとアングルランドに帰順してしまった方が得策である。ゲクランもアッシェンという国に対してそれなりの忠誠心は持っているつもりだが、負けが確定した後の抵抗で、いたずらに自領の民を殺してしまいたいとは思わない。
 当初ゲクランは、パリシ奪還を、もう少し楽観的に考えていた。楽に勝てるとは思っていなかったが、新アッシェン王の号令のもと、多くのアッシェン諸侯が呼応し、少なくとも五分に近い状態で戦に臨めると睨んでいた。
 だが蓋を開けてみると、有力諸侯で参戦を決めたのは、ゲクラン、アヴァラン、レザーニュ、それに辺境伯の一人だけだった。最初は身ひとつでパリシから逃げ出してきた新王に代わっての軍資金集めに苦労するかと思っていたが、諸侯の多くは兵の代わりに軍資金と、それに抱き合わせる形でわずかな兵を送ってくるだけで、兵力はないが軍資金だけは集まるという、なんとも皮肉な事態に陥っていた。
 この軍資金で有力な傭兵隊を雇おうと思ったが、強力な傭兵隊はどれも契約履行の最中であった。今から大幅な戦力増強というわけにもいかず、せいぜい兵糧が尽きる心配がなくなったというくらいである。防衛戦ならともかく、こちらが攻めるのだ。潤沢な兵糧で長期戦に持ち込む戦では、どちらが攻めているのかわからないというものだった。おまけに持久戦に突入すれば、大都市パリシを半ば掌中に収めているアングルランドに分がある。全てが、想定外にあべこべな戦なのだった。
「で、それで、第一段はなんとかやりくりできるってとこですかね」
「多分ね。うーん、頭が痛いわ・・・」
 言い回しではなく実際に頭痛がして、ゲクランはこめかみを押さえた。窓の外では雪がちらつき始めている。が、もう高く積もることもないだろう。下の世界では雪解け水で、どの川も増水している季節なのだ。
「第一段でアングルランドに痛撃を与えることが、勝利への必須条件になりますな。第二段の決戦では、それこそ死ぬ気で戦うしかない」
 戦に精神論は好きではないが、今はボードワンの言葉に頷かざるをえない。迎撃に来たライナス、場合によってはリチャードも破り、かつパリシ包囲軍を撃破しなくてはならない。緒戦で攻めきれないとライナスたちはあっさりと退却し、包囲軍と合流するだろう。ライナスたちが退いた時点でよほどこちらが大きく勝っていない限り、パリシに籠る兵たちとの連携が取れない。緒戦で大きく勝って、なお五分の戦なのだ。討ち洩らしが多ければ、決戦で勝つことはほぼ不可能になってしまう。
 戦略眼、知恵比べという点で、自分とライナスはほぼ互角だろうとゲクランは思っている。ゆえにこそ、アングルランドをその手で動かせるライナスと、単に集まった軍の大将であるというだけのゲクランとの、力の差は大きい。そんな相手に、二度も立て続けに勝つことはできるのか。
 結局その日は夜遅くまで、アヴァラン親子と戦の細かい話をした。運用と兵站については、こちらが心配するようなことはないという、小さな安心感を得る為だけの話だった気がする。ただ、北に広がるであろう戦線については、イジドールに任せておけば大丈夫だろうという確信は得た。
 ゲクランはアッシェンでおそらく一番の勢力を誇っているがゆえ、国内にその存在を疎ましく思う者も多い。そうした中、ボードワンが自分に信頼を置いてくれているというのは、小さなことではなかった。王家への忠誠心の高い男である。新王がゲクランを信じるというのなら、自分も同じくらい信じようという思いがあるようだった。まさに、忠臣の鑑か。
 夜明けと共に、ゲクランはノーデキュリー城を出た。
 二人には話さなかったが、ゲクランの胸中にはずっと、先日出会うことになったあの大陸五強の一人、アナスタシアのことが引っかかっていた。
 アッシェンにはもう一人、ゲクランと並び立つ英雄が必要である。彼女もそれについて、肯定的な様子だった。どういう意味だと、問い返されることもなかった。結論から入る話題を繋ぐことができるのは、アナスタシアが既に戦況を理解していた証左でもある。が、アナスタシアへの口説き文句は、アッシェンには人が多いと切り返されてしまった。振られたのである。
 確かにアッシェンは広く、今回参戦を見合わせた諸侯の中にも、傑物と言える者は何人かいる。が、いずれも、新王への不信や戦地が遠過ぎるといった理由で、参戦には至っていない。単に指揮官としてでもいい、今からでも誰か召集すべきだろうか。が、志願兵が多く、徴兵も国軍として再編成されるアングルランドと違って、アッシェンの諸侯は、自らの領土で集めた兵しか信頼できないところがある。領地が荒れていれば、自分の兵、部下すら信用していないだろう。指揮官としてのみの召集は不可能ではないが、やはりそれなりの準備が必要となってくる。今は、それをやるだけの時間がない。
 つまり、今回参戦を見合わせた諸侯の中から、英雄を掘り起こすことはできない。
 今回の作戦で、ゲクランの指揮下にある者たちの中ではどうか。
 真っ先に、青流団の麒麟児、ルチアナの顔が思い浮かんだ。
 あれこそ、傑物というのだろう。まだ十四歳だと考えると、肌に粟を生じる。今の時点で、青流団の団長となっていても不思議ではないほどの用兵をする。ゲクランも何度か調練で手合わせしたことがあるが、戦術、個人としての武共に、舌を巻いた。何とか互角の戦をできたが、あと一、二年でゲクランを超える指揮官になる可能性は高い。
 ただ、青流団にはひとつ問題がある。ゲクランとの契約が、あと一戦限りという点だ。
 次の戦では使わざるをえないとして、その後新たな契約を結ぶことができるのか。
 ゲクランとの契約前には辺境伯領やグランツ帝国辺りで戦を重ねていたが、今後最悪、アングルランド側につくことも考えられる。団の長い歴史では過去にアングルランドに雇われていたこともある上、ライナスがかつての、そして今も空席になっている団長の、あのロサリオンと接触しているという情報もある。ロサリオンは現在アングルランド西部に居を構えており、ライナスとの関係が良好ならば、ロサリオンがアングルランドの軍人として立ち上がることもありえた。この噂は青流団でも一部の者がしており、時期次第で青流団がアングルランドにつく可能性は低くない。青流団は今も、ロサリオンの帰りを待っているのだ。
 供回りの五十騎と共に、麓に下りた。日は落ちかけているが、もう自分の領土に入る頃だ。居城にも近い。しかしゲクランの思考は止まらなかった。一度休憩と昼食を摂ったはずだが、それがいつだったのか覚えていない。
 青流団である。
 仮に次の契約ができたとしても、長い、あるいは参戦回数の多い契約は無理だろう。ロサリオンの動向次第だが、彼がアングルランドについてしまえば、いずれ彼の旗の下につくことは確定である。
 今からでは遅いだろう。早い段階であのエルフの英雄と接触を図るべきだったが、元帥などと呼ばれていても、所詮ゲクランはアッシェン諸侯の一人に過ぎない。戦略的な着想を持てたとしても、それを実行に移すだけの余裕も力もなかった。王ではないのだ。
 そういったことを、先王と宰相に具申すべきだったか。いや、先王との関係は良好だったが、宰相のポンパドゥールはゲクランを国政の場から遠ざけようとしていて、議会の場でそれを発言するような機会はなかった。議場でのゲクランはポンパドゥールの意見を冷笑するだけの立場におり、そういった状況に追いやったのが、あの宰相なのである。
 "アッシェンの光"などともてはやされていたが、ゲクランはいつもあの女の頭をかち割ってやりたかった。新王がパリシを脱出して、真っ先に向かったのがこのゲクランの元であるということを、あの女はどう考えているのか。
 ともあれ、過ぎ去ったことを振り返っても、今は不毛である。
 ただ何度考えてみても、今手元にある駒で、英雄となる資質を持っているのは、青流団のルチアナくらいである。
 今後のことを考えると、ルチアナだけでも、配下として引き抜いてみるか。何度か話したことがあるが、屈託に紛れて心の奥底が見えない娘で、当たり障りのない会話しかしてこなかった。どんな条件なら、引き抜くことができるだろう。そのあまり似ていない双子の妹の方に聞いた話では、強くなり過ぎた剣に危うさを感じ、セシリアファミリーの頭、半エルフのフェルサリに傭兵団への入団を薦められたという話だったか。
 危うさ。あの時そんな話を聞いた時はあまり腑に落ちなかったが、先日アナスタシアが営地を訪れた際、調練でもその後の立ち合いでも、完膚なきまでに叩きのめされたという話を聞いている。なるほど、あの麒麟児にも危うさがあったのだと、その時は特に考えることもなく報告を聞いていたものだ。
 その時、閃くものがあった。もう一人の、英雄。アナスタシアの肯定はしかし、既に答を持っていなかったか。
 思わず、ゲクランは笑い声を上げた。実は、ゲクランのそれまでの問いと答は、何も間違っていなかった。いたではないか。既にもう一人の英雄は、そこにいた。
 居城に帰ってからも、ゲクランは時折笑い声を上げてしまい、周囲の者たちに訝しげな視線を送られた。
 勝つ為に、小さな負けはいくらでもばらまいてきた。
 今回も、それと何の違いがあるのか。


 豚、というのとは、少し違う。
 豚という言葉から連想されるものが、エイダの中では蔑みの対象ではなくなりつつあった。
 鎧を着た豚、あのアッシェンの不敗将軍、ゲクランである。同じく軍人として名を馳せた亡父のあだ名を受け継いだものだが、その名は既に先代にあった蔑みの意味を超えて、畏怖の響きを持ちつつある。
 なので、今目の前にいる男を、豚と呼びたくはない。小さい。堅太りで、醜い。ああ、あれだ。ロンディウムで最近流行の博打、牛いじめに使われる犬。ブルドッグと言われていたか。あれにそっくりだ。
 エイダは今、ブルドッグにそっくりの男の幕舎にいた。男の名を、オーブリー・ダンブリッジという。平民から軍の中将にまで上りつめた男。エイダが軍に入る頃は単にオーブリーと呼ばれていたが、近年、リチャード王とエイダの父ライナスの領土の一部を割譲し、男爵の位を手に入れた。以来、徐々にダンブリッジ卿と呼ぶ者が増え始めている。
 愛する父に、目をかけられた男である。ゆえに表立った対立は避けているが、エイダはこのダンブリッジが大嫌いだった。
 何故この男が嫌いかということは、考えてみた。考えるまでもなかった。単に、この男は生理的に受けつけない。
 そのダンブリッジは今この幕舎で、アングルランド国教会の司教と話し込んでいた。司教が熱心にダンブリッジに語る内容は、しかしエイダの耳にはほとんど入ってこない。大方、パリシ平定の後、国教会内でしかるべき地位に推してくれるよう、宰相に掛け合ってほしいというような話なのだろう。ダンブリッジは父に近い将軍としても知られている。
 アングルランド国教会はアモーレ派の腐敗を糾弾し、新世界秩序崩壊後のどさくさに紛れてに新たにできた宗派だが、利権を貪る姿は、アモーレ派の連中と、何ら変わるところがない。加えて国教会は文字通り、アングルランド王を首長とする、いわば国の庇護によって成り立つ宗派である。アモーレ派を中心にセイヴィア教の各宗派は国から独立、ないしはそれより上の存在とされているが、アングルランド国教会は違う。国の権威と権力にすり寄らなくてはやっていけない事情があった。
 ただ、これだけは言えるだろう。どんな権力でも、雨風に当たらない場所にいれば、あっという間に腐敗する。目の前のこれが、いい例だった。
 ライナスに取り入りたいのなら、娘である自分に取り入ればいいのだと、事情を知らない人間なら思うだろう。が、エイダはあらゆる宗教を信じない。最近の言葉では無神論者という奴で、これまで近づいてきた様々な司教、司祭たちの尻を蹴飛ばしてきた。
 その話は目の前のこの男も知っているのか、エイダを見てもそんな話一つ振ってきたことがなかった。実を言うとエイダとしては、その手の話を持ちかけられるのは大歓迎である。今すぐにでも、この男の尻を蹴飛ばしたいからだ。
 司教が息を継ぐわずかの間に、ダンブリッジは軽く手を上げ、司教の話を遮った。次いで、幕舎の入り口に控えるエイダの方に目をやる。振り返った司教が、エイダの姿を見て後ずさった。
「お待たせしました、エイダ大佐。調練は無事、終わりましたかな?」
「はい、中将。特にご報告申し上げなければならないことは、何も」
「了解です。ご苦労様でした」
 今は、この男が自分の上官である。調練後の報告は特別の理由がない限り責任者がするようにとの通達があったので仕方なくそれに従っているが、エイダにとっては、ダンブリッジのこうしたところも気に食わなかった。手続きに、こだわる性質なのだ。
 敬礼し、司教を睨みつけてから幕舎を出た。顔を上げて、最初に目に飛び込んでくるのは、一キロほど先にそびえ立つ、パリシの長い城壁である。そしてそれを囲むようにして張られたアングルランド軍の幕舎、さらにその外周にはかつて城壁外に住んでいた者たちの掘建て小屋が点在している。
 パリシを包囲する際、城壁近くの家々は全て焼き払った。城攻めの邪魔になるからだ。そこまでは攻城の常套手段だが、父ライナスの傑出しているところは、そのまま城壁を攻めなかったことである。パリシは攻め落とす形で占領するには、あまりに大き過ぎる。緩やかな包囲と、市から通じる陸水問わぬ道を封鎖することにより、パリシが徐々に衰え、降伏するように仕向けた。
 包囲当初こそ城門から市内の兵が討って出てきていたが、それらが陣を組む前にことごとくを撃破し、城内に退却させた。
 こんな攻められ方をするとは、想像もしていなかったのだろう。パリシを守る高い防壁は、今や牢獄の鉄格子である。
 物資は窮乏しているはずだが、罪人に水とわずかなパンを与えるように、小さな流通の流れは通してやる。それで、パリシに立て篭る者たちは大人しくしていた。自らの身体が弱っていくことに気づきながら、それを自覚する頃には動けない身体になっている。
 そして、本当はわかっているのだ。降伏し、アングルランドの一部となれば、以前よりも豊かな暮らしが手に入ることを。
 それにしても、パリシはこの締め付けによく耐えていた。いや、アッシェン政府がというべきか。既に小規模な暴動は、何度も起きていると聞く。その度に徹底的な鎮圧を命じているのが、"アッシェンの光"と呼ばれる、宰相のポンパドゥールである。が、今のパリシ市民が、彼女をそう呼ぶことはないだろう。度重なる暴動を力で押さえつけた時点で、ただの圧政者である。アングルランドに街を囲まれ、パリシ市民に憎悪の眼差しを向けられ、ポンパドゥールはどんな心持ちでいることだろう。
 ポンパドゥールは先のアッシェン王の愛妾だったところから、今の地位を手に入れたと聞いている。先王の存命中に義理立てして忠義を尽くすというのなら、まだわかる。もし先王との間に子供がいて、それを王位につけたいが為、という話でも、充分わかる。しかし先の王は既に死に、二人の間に子供はいない。そもそも新王は、王とその王子が次々と暗殺の憂き目に遭い、嫡子の王位継承者がいなくなって初めて、その存在が明るみに出た庶子である。その唐突な登場に、血縁を疑う者すらいる始末なのだ。
 ポンパドゥールは何の為に、そこまでして、既に新王すら捨てたパリシを守り抜こうとしているのか。大人しく降伏していれば、今頃アングルランドでもそれなりの地位を得られていたことだろう。もっとも、父はこのポンパドゥールも評価している。経緯はどうあれ、パリシ落城の際には、アングルランド宮廷に入ることになるだろう。軍略ではなく、民政の人間であると、父は話していた。ポンパドゥールも、アングルランドでもそれなりの地位が保証されるとわかっているはずだ。ならば、何故。
 考えても仕方ないと、エイダは溜息をついた。このところ、どうも気が塞いでいけない。父と、随分会っていないからかもしれない。自らも軍人となり、家にほとんど帰らなかった父と轡を並べられると思ったが、ライナスは想像以上に多忙で、一緒に食事を摂る機会すらほとんどない。
 それよりも腹違いの姉、マイラと会わなければならないことが増えた。父と同じ忍びから情報を得ている以上、その頭領であるマイラとの会話を、避けて通れないことがある。極力彼女の部下から情報を得るようにしているが、本当に重要な情報は、マイラ自身が届けてくる。
 エイダは、あの姉が嫌いだった。父と行動を共にしている機会が多いというのが、まず気に入らない。あの、いつも澄ました様子も気に障る。裏で扱う情報を一手に握っているからなのだろうが、自分は何でもわかっているという態度が頭に来るのであった。
 その世界では、"打骨鬼"と呼ばれているらしい。その拳で打たれた者は、必ず死ぬのだという。エイダは腕に力を込め、拳を見つめた。腕力は、アングルランドで一番と自負している。エイダの拳をまともに受ければ、どんな者でも即死だろう。腕力でも知力でも、エイダがマイラに劣っている点は、ひとつもないはずだった。
 父の前で、マイラがとんでもない失態を演じることはないだろうか。その時はこの拳で、思い切り殴ってやるつもりだった。父の前で、あの腹違いの姉を殺してやりたい。本当の娘はお前しかいないと、父に認めさせたい。
 エイダは、ライナスの嫡子である。ライナスの死後、残した領地は自分が受け継ぐ。しかし父の死なんて考えたくもないし、そんな先のことはどうでもよかった。エイダこそは唯一正統の、ライナスの娘である。愛人の残した子種より、もっと自分のことを可愛がってくれてもいい。
 荒々しく戸を開け、エイダは自分の幕舎に戻った。小姓に飯を命じ、具足を脱ぐ。エイダが苛つく前に、食事が運ばれてきた。仔牛のステーキである。一枚目を平らげる前に、二枚目が運ばれてきた。次いで、パンと山盛りの茹でた野菜の付け合わせ。肉ばかりではなく野菜も摂った方がいいという父の助言に従い、野菜もたらふく食べることにしている。
 父の言うことなら何でも聞く。父が命じるなら、マイラの足を舐めたっていい。
 食事を摂り終える前に、風呂を命じた。大きな金盥に、小姓たちが熱い湯を張っていく。
 せわしなく動き回る小姓たちの中に、一人動きの悪い者がいた。叱責してやろうかと思ったが、どうやら新入りらしい。波打ったふわふわの金髪に、くりくりとした青い目。エイダの好みの少年である。先日一人首にしたので、この子が補充されてきたのだろう。
 幕舎の入り口で、古参の小姓が目配せをした。入浴の世話は、この少年がすることになる。
 エイダが服を脱ぎ始めると、小姓たちは食器を下げ、いそいそと幕舎を出て行く。残った新入りだけが、隅で所在なさげにしていた。
「こっちに来なさい。世話の仕方は、もう聞いてるんでしょう?」
 小姓は何か言ったようだが、声が裏返っていて、よく聞き取れなかった。
 恐る恐る近づいてきた小姓に手を伸ばし、股ぐらを掴む。ひっと悲鳴を上げ、小姓は直立した。
「・・・そんなに硬くならないでもいいのよ。やだ、身体はこんなにかちこちなのに、ここはこんなにふにゃふにゃじゃない・・・?」
 服の上から、陰嚢をゆっくりと揉みしだく。よほど緊張しているのか、小姓の男根はなかなか硬くなる気配を見せなかった。
「お姉さんのこと、怖い? ごめんね。お姉さん身体が大きいから、ボクにはちょっと、怖いかもね」
 小姓の首筋で、舌を何度も往復させる。巻き髪から、甘い石鹸の香りがした。
「怖がらなくていいから・・・ひょっとして、初めてなのかな?」
 わずかに、小姓が首を上下させる。初物か。これは調教のしがいがあるなと、エイダは思った。
「ほら、楽にして。そう、いいよ・・・段々と元気になってきた」
 小姓の熱い吐息が、エイダの乳房を揺らす。
 エイダは身を屈め、小姓のそれを口に含んだ。

 

 セシリアの家に滞在してから、もう一週間が過ぎていた。
 アナスタシアは、納屋に釣り竿を取りに来ているところだった。探すでもなく、すぐにそれは見つかった。釣り針と糸も合わせて持っていく。納屋を出て、家の周りを見渡した。
 屋敷の裏には納屋の他に、馬小屋、鶏小屋、井戸、菜園と、養蜂場があった。春の花の恵みを集める蜜蜂たちが、巣箱の周りを飛び回っている。
 いずれのものも極めて小規模だが、親子二人の生活には充分過ぎるものだろう。実際、余った蜂蜜や鶏卵は、近くの村に分け与えているそうだ。代わりに、ここでは手に入らないものを受け取る。
 納屋の横にはもうひとつ小屋があり、こちらでは仕留めた兎や鹿の解体や、皮なめしを行っているそうだ。
 全てが小さいが、全てが豊かだった。
 釣り具一式を持ち、屋敷の表に向かう。セリーナが小さな身体をさらに屈めて、木々の間を歩き回っている。釣り餌に使うみみずを探しているのだ。昨夜は雨が降ったので、土の中で呼吸できなくなったみみずが、地上に出てきているのだった。脇に抱えたバケツの中にみみずを入れていくセリーナの顔は、真剣そのものだ。
 人は、命を奪わなければ、生きていけない。
 その当たり前のことを、しかしセシリアはセリーナによく教えているようだった。
 一応セリーナも、王族の娘である。だが山野に生き、命と向き合って暮らしているおかげで、セリーナは命の尊さをよくわかっていた。菜園に水をやる時、捕まえた兎を捌く時に見せるセリーナの表情に、アナスタシアは幾度となく胸を打たれていた。
 ちょこちょこと歩き回っていたセリーナが、バケツを抱えて駆け寄ってきた。白いワンピースの裾が、軽やかに踊っている。
「ん、それくらいでいいんじゃないか。よし、行こうか」
「はい!」
 満面の笑みを広げて、セリーナはアナスタシアの横に並んだ。
 今年で十歳になるというセリーナだが、その身体は同年代の少女に比べて、大分小さい。160cmに届かないアナスタシアでも、大きく見下ろす格好になる。両親は共に長身、特にあの冒険王リチャードの人間離れした巨体を考えると、不思議な気がする。初めて見た時の六、七歳の印象は、今も変わらない。ぷくぷくとしたやわらかい頬や手は、ほとんど幼児のそれに近い。
 これから一気に成長するのかもしれないが、単に幼く見える外見なのだろうと思い直した。というのもアナスタシア自身がひどく童顔で、特に兵たちの間に入っていると、子供が鎧を着ているようだと言われたことがあるのだ。
 森の中に入る前に、屋敷の方を振り返る。セシリアの部屋の窓が見えたが、カーテンは閉められており、中の様子はわからない。
 今日のセシリアはひどく体調が悪いらしく、一日部屋で休むということだった。新世界秩序との戦いで受けた呪いの力は大きく、今でもその影響が強い時は、指一本動かすのにも苦労するのだという。全身を馬の蹄にかけられているようだというセシリアの言葉は、馬に踏まれ内蔵を吐き出して死んだ兵を何度も目にしているアナスタシアにとって、身にしみてよくわかる表現だ。セシリアは笑顔で二人を見送ったが、半端な苦しみではなかったことだろう。セリーナは母の傍にいたがったが、そのセリーナの世話を、アナスタシアがすることになる。部屋で苦しむ様子を見せたくはないという、セシリアの気持ちもわかった。
 釣りをする湖までは、少し距離がある。道中、セリーナと様々なことを話した。概ね、既にここで暮らしていて聞いたことを、掘り下げる形になる。
 今はセシリアとセリーナの二人で住んでいる屋敷だが、普段はもう二、三人、住み込みで働く者がいるのだという。使用人として雇うわけだが、二人とも、やってくる者たちとは家族のような関係を築くそうだ。雇うのは近隣の村の者で、町で使用人の経験がある者が主らしい。先日までとある老夫婦がいたそうだが、夫が病に倒れ、息子夫婦の家に引き取られた。今はちょうど、新しい使用人を探しているところなのだそうだ。
 また、セシリアの元にはアルフレッドという近隣の村の若者が、剣の修行に来ているのだそうだ。ほぼ毎日通っていたが、今は家族の看病の為、しばらくは訪れないのだという。
 アナスタシアは、屋敷に続く森の入り口で出会った少年を思い出していた。彼が、おそらくそうなのだろう。
「今は二人だけで、大変なことも多いだろう」
「は、はう、今は、アナスタシアさんがいてくれますから」
 セリーナが、にっこりと笑う。つい一週間ほど前に、母を殺しにきた者に向ける笑顔とは思えない。いや、殺されるのはアナスタシアの方だったか。いずれにせよセリーナには、どこか余人には窺い知れない何かがある。あるいは、こういったところがリチャードの血なのかもしれない。一度、あの武闘会で会っただけだったが、リチャード王は、桁の外れた男だった。深いとか大きいとかでは形容しきれない何かを、この少女が持っていることは確かだった。
 ただ一緒に暮らす内、身体的にも両親の血を受け継いでいるかもしれないと気づくことがあった。二日に一度の早朝、セリーナは棒を振る鍛錬をしていた。時間は、一時間。初めてそれに付き合った時、一振り一振りを全力で振るセリーナを見て、五分も持たないだろうと思った。案の定、五分を過ぎた辺りで息が上がっていたが、それでもセリーナはきっちり一時間、一振りも手を抜かずに鍛錬をやり抜いた。その持久力の高さは間違いなくセシリアの血を継いでいると言えた。
 もうひとつ、真っ赤に擦り切れ、血をにじませていたセリーナの小さい手が、昼を待たずして完治しているのにも驚かされた。この辺りは不死身とも言われたリチャードの血なのだなと思ったものだ。怪我や病気の治りも、セシリアが驚くくらいに早いのだという。
 見た目にそぐわぬ頑健さを備えているにも関わらず、しかしセリーナは人の痛みや苦しみに敏感だった。普通、人並み外れた頑健さを持つ者は、それが身体精神問わず、他人の痛みに鈍感である。人は自らを通して人を見るので、自分が頑健であると、他人も似たようなものだと思いがちだ。健康な身体に生まれた者が、生まれつきの病や障害に苦しむ者に共感しきれないのと同じである。
 実際アナスタシアも、自分が他人より遥かに頑健なのだと気づくのには時間がかかった。多くの部下を持ち、人の数だけ背負っているものが違うとわかるまで、根気よく様々な人の話を聞かなくてはならなかった。部隊を指揮し始めた時は、自分には軽いと思える鍛錬で部下を怪我させてしまうこともあり、そういった失敗を何度も繰り返していく内に、個々の限界を悟っていったのだった。たまたまアナスタシアが若い時から多くの人間に触れてきたからこそ、そのようなことがわかったのであり、あまり多くの人間と関わらなかったら、今も人の痛みに鈍感だったかもしれない。
 セリーナにはそういった鈍さや残酷さが微塵もなく、相手と同じか、それ以上の痛みを感じているようにも思えた。セシリアに対してはもちろん、会って日が浅いアナスタシアに対しても、子供とは思えない気配りをする。相手がわかっていないと、なかなかできないことである。直感的に、相手を理解しているのか
 ここに来た当初、アナスタシアが霹靂団を失った話をした時も、セリーナは泣いていた。まるでその戦場で一緒に戦ったかのように。
 やがて、木々に囲まれた、湖にたどり着いた。手前には切り株が二つ並んでおり、Y字型の釣り竿を固定する棒が立っている。セシリアとセリーナ。二人が並んで釣りをしている光景が目に浮かんだ。
 釣り竿はアナスタシアが使ったことのあるものに比べて細く、勝手がわからないので、しばらくはセリーナの様子を見ていた。見よう見まねで、アナスタシアも餌をつけた釣り針を放る。
「あう、アナスタシアさんは、釣りは初めてですか?」
「こういったものは。急流で鮭を釣ったことなら何度かあるぞ。ここの湖は、とても静かだ。このような場所での釣りのコツは、セリーナ殿に先生になってもらうしかないな」
 言っている間に、かかった気配があった。一気に竿を上げる。が、針の先にまだ餌はついたままだった。アナスタシアは肩をすくめ、パイプに火をつけた。
「見ての通りさ。ぼうっとしているように見られるが、結構せっかちなんだ」
 セリーナが笑い、アナスタシアもつられて笑った。
 この湖で釣れるのは、どうやらヤマメの一種のようだった。アナスタシアが見たことのあるものと多少違う形をしているが、この辺りの魚なのだろう。どんな味がするのか、どんな調理法がいいのか、ついついセリーナにあれこれと聞いてしまう。
 釣りの手際はやはり、セリーナの方がいい。アナスタシアが一匹釣り上げる間に、三匹目を釣っていた。
「お母様は、お魚が好きなんです。たくさん、食べてくれます」
 セシリアの食は、体格の割にはかなり細い。やはり、身体は相当悪いのだろう。
「ああ、好物だと、具合が悪い時でも口にしてくれるな。私も父の晩年は、父の好物ばかりを作っていた」
「あうぅ、アナスタシアさんのお父様は、ご病気で・・・」
「そうだよ。まあ、人はいずれ死ぬものだ。いや、セシリア殿はまだ大丈夫さ。セリーナ殿がいるからな」
 セリーナが、悲しそうな顔をした。これはまずいことを言ってしまったと、アナスタシアは猛省した。しかしセリーナは、アナスタシアの家族のことを聞きたがった。既に、両親とは死別しているアナスタシアである。何か今後のセリーナの助けになりそうなものはないかと、答える間も考えていた。
 父は、かつての大陸最強、"北の鉄槌"ヴラジミルだった。傭兵隊霹靂団を旗揚げし、今もスラヴァル史上最高の皇帝と名高いピョートルに仕え、各地を転戦した。その名はユーロ地域全域に轟き、やがて大陸五強の一角に数え上げられるようになったが、武人としての名声が本当に高まったのは、やはりあの十二年前にゴルゴナで開かれた武闘会のおかげだろう。
 新世界秩序との戦いでも剣を振るったが、崩壊後に病魔に襲われた。それはセシリアやリチャードが受けた呪いとは関係のないもので、結局六年前に他界した。アナスタシアが十五歳の時である。ひょっとしたら、既にあの武闘会に出た頃には、病を得ていたのかもしれない。何度か、血を吐くのを見たことがあるのだ。
 母のことは、よく覚えていない。アナスタシアが三歳の時に他界している。ぼんやりとした記憶に母の面影がちらつくことはあるが、肖像画も残っていないので、どんな顔をしていたのかも知らなかった。
 父は、あまり母について話さなかった。優しく、強い人だったとは聞いている。それは、父にとって最高の賛辞だったのではないか。その後も新しい嫁を娶らなかった辺り、母への強い愛は感じていた。父はその当時から名声高く、縁談の話は数多くあったことだろう。
 後に霹靂団の副団長ボリスラーフから聞いたのだが、母には東洋の血が入っていたらしい。面立ちは西洋のものでアナスタシアとあまり似ていなかったそうだが、特徴がひとつ世代を超えて、祖父や祖母から受け継がれるという話はよく聞く。自分が童顔なのは、その血なのだろうと思う。東洋の人間は顔の凹凸が少なく、童顔に見える者が多い。
 その母の話を聞かせてくれたボリスラーフは、今頃どうしているだろうか。あの森で生き残った百五十人を託し、別れた。ここまで各地を旅し、大きな街では霹靂団の名は意外と知られていることに気づいた。それが壊滅したこともだ。ロンディウムやパリシの事情通に聞けば、彼の噂も耳に出来るかもしれない。
 生きていてくれればいい。あの時生き残った者全員に、それは言えた。
「少し、話がそれてしまったようだ。退屈な話だったかもしれない」
 輝く湖面から目を離しセリーナに目をやると、彼女は泣いていた。目を大きく見開き、ぽろぽろと涙の粒をこぼしている。
「す、すまない。また何か、気に障るようなことを言ってしまっただろうか」
 セリーナは立ち上がり、腰掛けたままのアナスタシアに抱きついた。
「・・・傷ついています」
「申し訳ない。どうも私は、抜けたところがあるようで・・・」
「アナスタシアさんは、とても傷ついています」
 不意に、セリーナの心情がわかった。
 この少女は、人の為に泣いていたのだ。アナスタシアの話を聞き、涙を流さない自分の代わりに、泣いた。
 アナスタシアとセシリアが立ち合った時、ひょっとするとセリーナは、セシリアが勝つことを見抜いていたのかもしれない。自分の母に刃を向ける者がいるので、盾になろうとした。そう思っていたが、それだと、これ以上母を傷つけるなと言う言葉とは、どこか食い違う。あのまま続けていれば、やはりアナスタシアは斬られていた。そしてそのことにセシリアが傷つくことが、わかっていた。
 刃を収めただけで急になついてきたセリーナは、そして同時にアナスタシアの悲しみにも気がついていた。
「セリーナ殿、ありがとう」
 頬を、熱いものが伝わっていく。声を上げこそしないが、こみ上げてくるものを、抑えることができない。
 父と、母の死。吹雪の中で血を吹き上げて散った、同胞の命。唯一の主と定めた、女帝の裏切り。一人一人を家族と感じていた、霹靂団の壊滅。
 失うことに心を動かされまい。そう思い続けてきた。
 悲しいと、痛いと、もっと声を上げても良かったのかもしれない。振り返れば、支え、励ましてくれた者たちの顔が浮かぶ。誰が咎めたことだろう。そもそもアナスタシアは、自分が思っているほど強い人間ではなかったのではないか。少なくともセシリアやセリーナほどには、強くはない。そのことに、この少女は気づかせてくれた。
「そうか。私は、傷ついていたのか」
 よく晴れた空がぼやけて、滲んでいく。しがみつくように、少女はアナスタシアを抱き締めている。今日は、少し肌寒い。
 その小さな身体を、とてもあたたかく感じた。

 

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