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3,「知ることと違い、理解は意志の問題である」

 パリシ周辺に、いくつかの部隊が配置されていた。
 なるほど、聞いていた通り、完全な包囲ではない。アングルランド軍は城壁から離れた場所に、絶妙な距離感をもって配置されていた。
 見事な陣だ、とアナスタシアは思った。戦略眼の飛び抜けた優秀さはこれまでの話でわかっていたが、この光景だけを切り取っても、都市包囲の理想型が展開されている。アナスタシアもかつての軍人として、一度はこうした大規模戦の指揮を執ってみたいと思っていた。あれはまだ、スラヴァル女帝エリザヴェータの支持があると思っていた頃か。自分の力を驕り、所詮は傭兵と思い定めることが、できないでいた頃とも言える。
 アナスタシアは望遠鏡を取り出し、パリシの市壁の様子を見てみることにした。
 厚い城壁の上に少ないながらも、守兵の姿は見える。表情まではさすがに読み取れないが、士気は落ちていることだろう。
 城壁の下、おそらくは外壁に沿って建てられていた建物は、あらかた焼き尽くされていた。大規模な攻城戦はまだ行われていないと聞いているので、住民を避難させてから焼き払ったのだろう。その代わり、包囲陣の外側に、いくつか掘建て小屋の集落のようなものは点在していた。市壁外の住人は、こちらに移り住んだとみえる。夕餉の準備か、集落の方々から煙が立ち上っており、アングルランド人相手の商売で、ひょっとしたらアッシェン人相手よりも、いい商売になっているのかもしれない。
 元より、市壁の外に住む人間は、市壁内の人頭税を払わずに済む分、攻城戦の際には真っ先に敵軍によって住居を破壊されることを覚悟している。もっとも、ここの住人は、まさかパリシが攻められることはないと思っていただろうから、その点は不憫だとも言えた。
 ともあれ、市壁外周辺の土地は開けており、人の出入りはアングルランド軍によって筒抜けになっていることだろう。当然アッシェン軍が出てくるのも丸見えで、布陣する前に叩くのは容易である。
 一度、現アッシェン王が、その包囲を突破してゲクラン領に逃げるということがあった。取り逃がしたのは、アングルランド軍にとって想定外だっただろう。それまで名を聞かなかった騎士が獅子奮迅の活躍をして、若い王を守ったという。酒場でその名を聞いた気がするが、すぐには思い出せなかった。
 周囲の土地は起伏も少なく、見晴らしもいい。調練をしているアングルランド軍の部隊もあった。きびきびとした兵の動きは、見ていて気持ちがいい。志願兵の多いアングルランド兵は、アッシェンのそれと比べ、はるかに精強である。
 その兵たちが動きを止め、駆けている百騎ほどの部隊に向き直った。全員が敬礼をしているので、位の高い将軍の率いる百騎なのだということがわかる。
 騎馬隊は、どうやらこちらの方に向かっているようだった。アナスタシアは、木立に馬を寄せた。こちらをアッシェンの斥候と勘違いしているわけでもあるまい。大体、部隊は敵軍の斥候など追い回さないものだ。周囲を見回したところで、人の気配はない。となるとやはり、アナスタシアに向けて駆けてきているのだろう。この状況は先日、アッシェン軍元帥ゲクランと出会った時と似ている。思い過ごしを期待したが、百騎は途中で道をそれ、真っすぐこちらに駆けて来ていた。
 先頭の男。見覚えがある。はたしてそれは、今はあの戦闘宰相と名高い、ライナス自身だった。
「アナスタシア殿か。大きくなられた。ライナスです。私のことを覚えておいでかな」
「ええ。お久しぶりです、ライナス殿。直接会うのは、あの武闘会以来ですか。口髭が、よくお似合いです」
 すらりとした長身に、黒い髪。ライナスと会うのは、実は初めてではない。父も参戦した、あの大陸最強を決める武闘会で、この男は今のアングルランド王リチャードの側仕えのようなことをしていた。その時に挨拶をし、いくつか言葉を交わしているが、当時のライナスの印象はほとんど残っていない。影のような男だったのだ。こうして会っても、顔を見たことがあるという程度だ。後にここまで名を馳せる存在になるとは思わなかったが、あの時は影を演じる必要があったのだろう。宰相となって国を治めろと言われれば、いつでもそれができる男だったということだ。
「驚いたな。話はよく耳にしていたが、こうして立派なレディとなられたアナスタシア殿を目にすると、感嘆の声を上げずにはいられません」
「まだ、九歳でした。もう二十一となります。しかしそれを言ったら、ライナス殿の方が輝かしい道を歩んでこられました」
 どちらともなく馬を下り、互いの手をしっかりと握った。ライナスの身体からは静かな、それでいて目を細めたくなるような覇気を感じる。先日ゲクランと出会った時同様、これぞ英雄といった佇まいだ。十二年前には、微塵も感じられなかったものである。
「このような所でどうされました。陣を見たければ、ご案内致しますが」
「申し出、感謝致します。なに、ただの興味本位で覗き見をさせてもらっていたところです。中々、軍人であった頃の感覚から抜け出せません」
「ハハハ。話は聞いています。先日の戦は、大変なことだったと思います。同じ指揮官として、多くの将兵を失った痛みは、察するに余りある。あの後、こちらへ向かって旅をしているという話は聞いていました。あるいは、我が軍に仕官されることもあるかと思っていたのですが」
「もう、傭兵は引退しようと思っています。当然、軍人としても」
「・・・そうでしたか。これから、何を?」
「先のことは、わかりません。当面、旅暮らしです」
「どちらへ」
「アングルランドへ。ロンディウムの西方に、会いたい人がいます」
 それだけでライナスは、旅の目的を察したようだった。少し寂しそうな笑い方は、この男に関する微かな記憶を掘り起こす。案外、中身はかつてのライナスと変わっていないのかもしれない。変わったのは地位と仕事、それと周囲の目の方なのだろう。
「北へ馬で四時間ほど行った町に、大陸鉄道の駅があります。列車に乗れば、今晩にでもロンディウムに着くでしょう。実は私も、ロンディウムに戻る用事があるのです。どうですか、ご一緒に。ちょうどその支度をしていたところに、アナスタシア殿らしい人物が現れたと聞き、慌てて駆けつけた次第で。淹れ立ての紅茶を、飲みそびれてしまいましたが」
「私なんかの為に、申し訳ない。ではそのお詫びがてら、喜んでご一緒いたしましょう」
 百騎と共に、北を目指した。原野を吹き抜ける春の風が、心地いい。アナスタシアの馬も、久々に集団で駆けることを、喜んでいる様子だ。馬は、群れをなす生き物である。寂しい思いをさせてしまったなと、アナスタシアは愛馬の首筋に手をやった。
 町が見えてきた。この町は現在アングルランドの領地というわけではないが、さりとて今のアッシェンに忠実というわけでもない。元は間違いなくアッシェンの領地で、今も外交文書等ではアッシェン領ということになるのだろうが、それぞれの国境に近い領地は、実質的な中立地帯である。両国の百年戦争により生まれたこうした地域は、今では二剣の地と呼ばれていた。
 というのもこの二剣の地は、領主の意志とは関係なく、あまりに長い間、その戦渦に巻き込まれ続けた。時にはアングルランド、時にはアッシェンと主を変えることになるならと、両国に同時に剣を捧げる形を取ったのだった。騎士や領主が、一人の主のみに剣を捧げなければいけない義理はない。複数の主を持つにしても大抵は同国の貴族が忠誠を誓う対象となるものだが、二剣の地の領主たちは、アングルランド、アッシェン両国に剣を捧げることで、どちらか一方の国に蹂躙されるのを避けた。こうした地域は各国の国境を挟み、今ではかなりの地域がこうした中立地帯となっているようだった。
 アナスタシアたちは、検問を受けることなく町へ入った。一部の例外を除き、どの町に入る時にも税を払うものだが、ここにはそれすらもないようだった。その理由は、町の中央までやってきた時にわかった。小さな町にしてはかなり大規模な市が開かれている。近隣の住民が、通行税もかからないこの町にやってきて物を売り買いするのは、当然のことと言える。おそらく、市場で取られる税自体も安いのだろう。小規模な町の市場とは思えないくらい、中央広場には熱気が溢れていた。
 大陸鉄道の駅に向かう。この辺りは戦地ではないという判断だろう、ライナスの言う通り、駅には列車が停まっていた。その列車はすぐに駅を出てしまったが、次の列車の時間まで、あまり待つこともないのだという。切符と馬を運ぶ貨車の料金を払おうとしたが、ここはライナスが持つということなので、その言葉に甘えることにした。
 百騎はライナスの護衛なので、ここで引き返すようだ。軍の移動を、大陸鉄道は許していない。が、道中からライナスの側にぴたりとついている女兵士は別のようである。他に、百騎の内二人が具足を脱ぎ、少し距離を置いて次の列車を待っている。このくらいの数では、軍と呼べないということなのだろう。
「護衛は、三人ですか。いくら大陸鉄道の軍事利用と戦闘行為が禁じられているとはいえ、少し心配にもなります。ライナス殿の命を狙っている者は、少なくありますまい」
 アナスタシアが言うと、ライナスは快活な笑顔で応えた。
「実は、もう少しいるようなのです。私の認識も、アナスタシア殿と同じでしょう。あそこにいる二人とここにいる一人。それくらいしか把握していません」
 次いでライナスは、傍にいる女兵士に目をやった。ライナスが頷くと、黒髪の娘が口を開く。
「私を含め、全部で七人います。お二人に気づかれないよう、この町から合流する者と、これから乗る列車に元々乗っている者です。それぞれ、二名ずつ、計四人ですね」
「なるほど。良い忍びを使われているようです。敵に回していたら、私などこれまで何度命を落としたか、わかりませんな」
「ハッハッハ。それは私も同じです。頼りになる者たちが、側についていてくれています」
 列車が、駅に入ってくる。二人に続き、アナスタシアも乗り込んだ。
 客室に入り荷物をまとめていると、列車はすぐに発車した。アナスタシアはパイプに火をつけた。客室は最も高い部類のもので、普段一番安い客室を使うアナスタシアには、随分と豪華に感じた。あいかわらず大陸鉄道の客室は狭いものの、それでも充分ゆったりとした気分になれる。爽やかな春の色合いの壁紙に、絨毯。立派な物入れもあった。
 部屋にいるのはアナスタシアとライナス、それに先程の女兵士の三人である。二人は、アナスタシアの向かいに並んで腰掛けていた。
 ライナスと話している間も、女はほとんど口を開かなかった。時々話を振ってみるが、返事は丁寧ながら、どこか素っ気ない。年の頃は、おそらくアナスタシアとそう変わらないだろう。綺麗な娘だ。そして、気になる点がいくつかある。ここには三人しかいない。聞いてみても良い気がした。
「違っていたら失礼かもしれませんが、こちらの方は、ライナス殿のご息女であられますか?」
 ライナスは少しだけ驚いた様子で、肩をすくめた。目には、悪戯っぽい光がある。
 対照的に、女兵士は警戒心を強めたようだった。が、それも一瞬のことで、ライナスにどうすべきか、目で指示を仰いでいる。その様子は今までの挙措になかったもので、どこか不安げにも見えた。すぐに、ライナスが口を開く。
「さすがですな。どうしてわかりました? ごく近しい者にしか、このことを話していないのです。長く付き合っている部下でも、気づいている者は少ない。あまり、似ていないでしょう?」
「どことなく、距離感が。恋人にしては遠く、他人にしては近いという気がしました」
「距離感・・・?」
 女が、口を開いた。忍びとして、正体を見破られたことに、思うところはあるだろう。しかしその目には、好奇の輝きがちらついていた。
「ほとんど、立ち合いの気のようなものですが」
「ああ、なるほど」
 女が、くすりと笑う。ライナスが頷くと、女は穏やかな面持ちで言った。
「挨拶が遅れて、申し訳ありません。宰相の娘で、マイラと申します。宰相の元で、こうして働かせて頂いております」
 娘と認めながらも父の元で、と言わなかった辺り、あくまで今はライナスの忍びとしてこの場にいると言いたいのだろう。
 もうひとつ気になったのは、この娘がまるで気を発していないことだった。視界に入っていないと、そこにいることを忘れてしまいそうになる。これが本当の忍びの技か。
 アナスタシアのいた北の地では、密偵の仕事をする者たちはある程度いたが、武術の腕前まで高い忍びはそういない。暗殺も毒殺が多く、単独で武に秀でた者を暗殺できるような忍びは、まずいないと言ってよかった。もしいたら、アナスタシアなどとっくに消されている。
「さすがは、大陸五強と言われる御方です。感服致しました」
「いえ、こちらこそ。しかしマイラ殿も、相当な腕前のようです。私には、あなたの実力が底知れないものに思える。少なくとも、ここまで完璧に気を消す者に、初めて出会いました」
「いや、私は・・・ありがとうございます。励みになります」
 ライナスが腕を伸ばし、マイラの肩を抱く。娘は、顔を赤らめて俯いた。
「良かったじゃないか、マイラ。アナスタシア殿、娘は、アナスタシア殿に憧れていたのです」
「私に?」
「正確には、大陸五強と呼ばれる者たちに、ですかな。しかし中でもアナスタシア殿とジル殿には、特に執心しているようですぞ。同性ということもあるのでしょうな」
「なるほど。ジル殿は噂に名高い、苛烈な剣の使い手と聞きますが、私の方はマイラ殿をがっかりさせてしまったかな。こんなぼうっとした娘でも、そう呼ばれてしまうことがあるようです。逆に、マイラ殿の励みになればとは思いますが」
 くすくすと、マイラが笑う。二十歳前後の娘として相応の初々しい仕草であるが、既にその手は多くの血によって染められているだろうと思うと、少し胸の奥が痛い気がした。
「おそらくは、同年代だ。あまり私には気を使わないでほしい」
「はい。ありがとうございます」
 客室に、紅茶と軽食が運ばれてきた。その中でもアナスタシアは、籠に入ったアッシェンのパン、ブリオッシュと呼ばれるものに目が行った。具のようなものは入っていないが、卵と砂糖をふんだんに使った、贅沢な一品である。この旅の間何度か食べる機会があり、アナスタシアはこれを気に入っていた。これはブリオッシュの中でも、上部にぽこりと丸い部分のある、ブリオッシュアテットと呼ばれるものだ。雪だるまのような形をしている。そしてこの頭は、何故か僧侶の頭ということになっているらしい。
 アナスタシアは真っ先にそれに手を伸ばしかけたが、危ういところで止めた。
「おっと、失礼致しました。ご馳走になっている身で、はしたない」
「ハハハハ。いえ、気にせず好きなものからお召し上がり下さい。空腹でしたかな?」
「それもありますが、大陸鉄道のパンは好きなのです。どの料理も外れたことがないくらい、美味なのですが。むむ、焼きたてですね。先程の町で仕入れたばかりのようです」
「お料理が、お好きなんですよね」
 マイラも、笑顔でクロワッサンに手を伸ばす。
「よくご存知だ。そう遠くない未来に、酒場か食堂を開ければ、と思っています」
「ほほう。ではやはり、軍を率いる予定はないと?」
 ライナスも、ブリオッシュアテットに手を伸ばした。頭の部分を、一息に噛みちぎる。ぎりぎりのところで上品さを損なわない、それでいて野性的な食べ方だった。誰もがそうだというわけではないが、食べ方には性格が出ることがある。
「できれば。血は、たくさん見てきました。もう充分だろうという気がします」
「惜しい。可能ならば思い直して頂き、ぜひ我が軍の指揮官として迎え入れたいと思っていたのですが」
「先日、ゲクラン殿にも同じようなことを言われました。もったいない話です」
 ゲクランの名を出しても、ライナスに表情の変化はなかった。その辺りの情報は、既に耳に入っていたのだろう。とすれば、しつこく仕官を勧めてこないことにも納得がいく。
 利用価値が低いにも関わらず、こうして鉄道の旅に誘ってくれた。ありがたい話だった。
「では、この旅を終えられたら、店を開く準備を?」
「どこに開くのかも決まっていないので、またそれを探す旅暮らしですね。どんな店にするのかも、まだ決まっていないのです。生き残るということを、あまり考えてこなかったのかもしれません。もし第二の人生があったらと、そんな遠い夢だったのです」
「そうですか。アナスタシア殿の夢路に、幸多きことを願っております」
 寂しそうに笑って、ライナスは言った。この顔はゲクランと同じだと、アナスタシアは思った。
 孤独な、指揮官の顔だった。

 しばらくは、他愛のない話題が続いた。
 車窓の外を眺めると、ちょうどレヌブランとアングルランド本国を結ぶ地域に差し掛かっていた。
 地図で言うと、そこだけ東西に細長い通路が伸びているように見える地域である。南北の幅が最も狭い地域では、実際には地続きでありながら、海に架かる橋の上を走っているように見える。今も、車窓の外の景色は、一面の海原だった。窓に顔を近づけ下を見ると、断崖絶壁が遥か下方まで続いていて、思わず身をすくめそうになる。シレーナ海に浮かぶゴルゴナからも大陸に向かって鉄道の走る橋が伸びているが、あの光景に近い。
「この地域がもう少し南北に広ければ、戦はまた違った展開を見せていたでしょうな」
 ライナスも、外の景色を眺めながら言う。
 大陸鉄道が敷設されている土地とその周辺はゴルゴナに支配権がある為、アングルランド本国とそれ以外の大陸は、この辺りで政治的に切り離される。ゆえに近代のアングルランドは領土的に、島国のように振る舞わざるをえなかった。
「ただ、結果的に、アングルランドは海軍力の基礎を築けたという認識です。あるいは、多くの植民地を手に入れたのでは?」
 アナスタシアが言うと、宰相は静かに首を振った。
「全て、昔日のことです。いずれも、アッシェンに比べてはそうであると言えるでしょうが、海軍力ひとつとっても、沿岸諸国の多くに引けを取っているというのが現状です。植民地にしても、私が国の指揮を執る前に、有力なものは大体失っていました。フロンティア東岸の植民地を失った状態から始めなければならなかったのは、つらいところではありましたな」
 溜息をつき、ライナスは言う。たやすく人に弱みを見せる男だとは思えないので、これでアナスタシアをその手の話題に引きずり込みたい腹なのだろう。
「本来は地理的に、海洋国家であるべきだったのでしょうね。しかしライナス殿が最初になった時には、大陸覇権を目指さなければならない現状があった。何より、百年続いたアッシェンとの戦がある」
「仰る通りです。まずは、その決着を着けねばなりません。軍船も既に増産しておりますが、あれはどうしても軍を整えるのに時間がかかる。船の数もそうですが、優秀な海軍将校が、我が軍にはいかにも少ない。水兵ひとつにしても、育てる時間は陸の兵とは比較になりませんからな」
 そうは言っても、稀代の名将、名宰相のライナスである。手は充分に打っていることだろう。時間がかかるは、時間をかければ、とも受け取れる。
 加えて、アングルランドは今、ノースランドの大規模な叛乱を抱えていた。北のノースランド、東のアッシェンと、二方面作戦を余儀なくされている。手早く北の叛乱を抑えたいところだろうが、戦線は膠着している様子だった。
 マイラが、新しく運ばれてきた紅茶を、それぞれのカップに注いだ。
「パリシ攻防は、上手く運びそうな気配です」
「アナスタシア殿には、そう見えますかな? アッシェンは今、パリシ奪還の大軍団を編成中です。辺境伯まで加勢する、これまでにない規模の大作戦です」
「手は、打ってあるのでしょう? 例えば集結した軍を、分散させるような」
 ライナスは口元を微かに動かしたように見えた。十二年前にはなかった口髭が、わずかな表情の変化は読みづらくしている。
「さすがです。アナスタシア殿なら、どうされますかな?」
「まず、レヌブランの兵を東の国境まで動かします。次いで、本国より少数の精鋭を、東西に長いゲクラン領で暴れさせる。これで、奪還軍の主力の何割かは削ぐことができるでしょう。後は包囲を維持しつつ、その主力を集結地であるレザーニュへ向け、奪還軍にむしろこちらから攻め入る形を取る。これで、戦況はアッシェン不利から始めることができるでしょう」
「いや、本当に怖い御方だ。ほぼ、私の考えを読んでいる」
「それが本当だとしても、たまたまでしょう。ゲクラン元帥を奪還軍本隊の指揮から引きはがせるかが鍵となるでしょうな。元帥なしでも、あの四騎将を始め、ゲクラン軍はアッシェンの中では飛び抜けて精強と聞きます。奪還軍本隊にゲクラン元帥がいれば、あの天才的な軍略で出動した包囲軍主力を撃破、そのまま残った包囲軍に向けて進軍し、籠城するパリシの軍と挟撃の形を取りかねない」
「まさに、そこです。色々手を考えておりましたが、これだ、というものに辿り着くのに、時間がかかりました」
 つまり既に、ゲクランを自領に縛り付ける手は打ってあるということか。
「しかし、アッシェン史上最高の軍人と呼ばれるゲクラン元帥が相手です。逆にどんな手を返してくるか、楽しみにしている部分もあるのですよ」
 穏やかに微笑むライナスだが、残酷な男でもあると、アナスタシアは思った。戦を、楽しんでいる。
 アナスタシアは、本質的に戦を楽しんだことはない。変わった手を打ってくる相手だと、それを面白いと感じることがある程度だ。調練を楽しいと感じることはあるが、実際に人が死ぬ戦を、楽しいと思ったことはない。
 しかしこの男の持つ残酷さは、戦を続ける国の頂点として、必要な要素であることは認めなくてはならない。アナスタシアを破ったフーベルトもまた、こうした資質を存分に持っていた。戦だろうがパンを焼くことだろうが、それをつらいと思いつつも、一方で真から楽しんだ者だけが自らを高みに導く。宰相もパン焼き職人も、同じである。
 ライナスは早く宰相の座につけなかったことを悔やむような口振りだったが、充分、時代に選ばれた男だと言えた。逆境であったことは、むしろこの男にとって、喜びではなかったのか。
 後世に名を残す者は、時機と人の縁に恵まれている。戦闘宰相ライナスの名は、大陸で長く語り継がれていくことだろう。しばし、アナスタシアはそれをまぶしく感じた。
「が、アナスタシア殿は、やはり惜しい。まだ充分に、あるいはこれから羽ばたこうとする者がその世界から身を引いてしまうのを、数多く見てきました」
「やはり私も、その一人のようです」
「ですが、アナスタシア殿には、これからの夢があるのですね。それは同時に、私の救いでもあります」
 一瞬ライナスの顔を横切った表情を見て、アナスタシアはおやと思った。先程アナスタシアが思ったのとちょうど真逆に、ライナスがまぶしそうな顔をしたのだ。
 しばし考えて、ひとつの結論に到った。この男は残酷であると同時に、優しいのだ。闇の中を這いずり回ることで光のまぶしさを知ったのか、あるいはその逆か。
 最近の輝かしい軍歴こそ知れど、アナスタシアはライナスという男のことを、それ以上には知らない。過去に挨拶程度の話をしたとはいえ、今日が実質的な初対面といってもいい。戦振りを見れば大抵その人となりがわかるアナスタシアであるが、百年戦争に関わってこなかった為、この男が頭脳明晰で広い視点を持っているということしか知らない。そしてそれは戦の素人でもわかることだ。つまるところ、アナスタシアはライナスのことをまだ知らない。それでも今、少し深いところでこの男を理解できたような気がする。
 つまるところこの男は、光も闇も、十二分に知り尽くしている。
「アナスタシア殿は、他にパリシ侵攻を、どう見ておられますか」
 今まで黙って話を聞いていたマイラが口を開く。この娘にもライナスの血が流れていることを考えると、ただの腕のいい忍びとは見れなくなる。
「どちらが勝つにせよ、これ以上民の暮らしが荒れなければ、というのが率直な感想です」
「つまり、戦の勝敗に関わらず、別の点が気になっているわけですね。もう少し、詳しく聞かせて頂きますか」
「最善の策とはいえ、物の流れが止まっています。パリシの物の流れが止まっているということは、アッシェン全体の血の流れを止めかねないということです。長期化は、両国共に望まぬ結果しか生み出さないでしょう。ああ、そういえば」
 せっかくだから、ハンザ同盟との関係も聞いておこうと、アナスタシアは思った。戦のような表層的な話に対して、こうした動きは政治や現場に関わっていないと見えづらい。
「ハンザは、今回の戦に何か言ってきていますか。不快に思っても、不思議ではないと思いますが」
 所属都市の市壁の内側にしか領土を持たない北ユーロの都市同盟ハンザは、領地からの税よりもむしろ、大陸に張り巡らされた物流の流れによって身を立てている。パリシ包囲は少なくとも、アッシェンを担当する者にとっては打撃のはずだ。
 ライナスが、答える。
「表立っては、何も言ってきてはいませんな。物流に関してはシュザンヌ殿自らが現地に赴き、新たなものを構築していきました」
「あの"銀車輪"殿ですか」
 経済そのものについての知識はそこそこにあっても、実地の政治的な駆け引きについて、アナスタシアは知らない。が、さすがに銀車輪シュザンヌの名は知っている。武の世界で言えば大陸五強の、その頂点といったところか。
「あえて担当地域の物流を独占してしまわないのが彼女の流儀なので、敵地ながらこちらである程度、調整できればと思っていました。ですが、シュザンヌ殿がこの地に入ったという情報とほぼ同時に、新たな経路を構築してしまいましたな。驚きました。立ち合いなら、剣を抜いたと思ったら斬られていた。そんなところです」
「具体的には、どのような」
 ライナスが、ちらりとマイラを見やる。軽く咳払いして、マイラが言葉を継いだ。
「パリシに通さず、周辺の町や村を横に繋ぎ、地域全体にパリシのような役割を与えました。これまでは、そのほとんどがパリシを経由する、いわば縦の道筋だったのです。今回の横の動きは今後のことを考えると、アッシェン全体としては、むしろ地域経済の底上げとなっていることでしょう」
「地図で見ると、これがまた面白いのですよ」
 笑みを堪えながら、ライナスが再び話す。
「流通経路はちょうど、パリシの輪郭をほとんどそのまま大きくしたような形になっているのです。偶然ではなく、意図的なものですよ。三カ所、道のない所を強引に通しています。こんなことはいつだってできるのだという、強烈なメッセージです。怖いと思いましたな。敵に回すべきではないと、はっきりと悟りました」
「怒っている、と思ってもいいのでしょう。やはり、銀車輪殿の警告に思えます」
「ハンザ全体としてはともかく、シュザンヌ殿は怒っている様子です。少し感情的なところがあるようで、かえってやりづらい。ただ、才気走ってしまうところは確実にあります」
「これまでに、実際に、お会いしたことは?」
「昨日、私が会いました」
 マイラが言った。
「どのような人柄なのでしょう」
 傭兵隊を率いていた頃は、物資をいかに確保し、行軍の流れに沿わせるかということに腐心してきた。正規軍に従軍する時は国や諸侯に任せればよかったが、単独での仕事では、いかに効率良く安全に物資を動かし、そして出費を抑えるかも、傭兵隊長の重要な仕事だった。
 アッシェンの事情は今まで大した興味もなかったが、今の話を聞いて、シュザンヌという人物については関心を抱きつつある。
「失礼ながら、これがあの銀車輪かと思ってしまったくらい、小娘然とした女性でした。市内に現れたと聞いたので行ってみると、パリシの中央市場に、直接物資を運んでいたのです。彼女の商いの規模を考えると、あまり意味のある行為ではありません。本人にしてみたら悪戯のようなものでしょうが、怒っていることを表に出さずにはいられない性格なのでしょう。知性よりも感情の人だとすると、既にその知性が図抜けていることを鑑みて、やはり怖い人だなと思いました」
「なるほど。あるいは、複雑な人なのかもしれませんな」
「そういえば、彼女が母体であるユイル商会を継いだ時のことを聞いたことがありますかな?」
 意味ありげな微笑をたたえ、ライナスは隠しから一本、紙巻き煙草を取り出し、優雅な手つきで火をつけた。
「いえ。まだ今の地位について数年だと聞いたことがあるだけで、それ以上は」
「先代・・・彼女の父親は、精神を病み、自死を選んでいるのです」
 きなくさい話である。アナスタシアも、パイプに新たな葉を詰め、先を促した。
「彼女が追いつめて、そうしたのではないかという話があります」
「つまり、父殺しだと?」
「確信はありません。ただ、親子の確執があったにしても、事故や病気に見せかける等、やり方はあったはずです。少し、やり方がおかしいと思いませんか」
「シュザンヌ殿が先代を殺した、という前提に立てばの話ですな」
「先代までのユイル商会は、パリシでは名が知れているといっても、アッシェン全体では西の商人しか知らない程度の商会でした。おまけに先代の晩年は、商売も傾き始めていたと聞きます。それがシュザンヌ殿の代になって突如息を吹き返し、彼女自身、今ではハンザ大使の一人にまで上りつめています。いや、上りつめるということでいえば、既にハンザを牛耳っているといってもよいでしょうな。ハンザもまたラテン都市同盟と同じく、力のある都市は決して盟主となりません。これは本来、力のある都市を盟主としてしまうことで権力が集中してしまうのを避けるという意味合いが強いのですが、本当に力のある都市の、隠れ蓑として利用されてしまうという側面もあるのですよ。実際、シュザンヌ殿は三つの小都市の市長でもあります」
「今最も力ある商会の主というだけでなく、ハンザ同盟の主は、今ではシュザンヌ殿ということでしょうか」
「まさしく。その指先で、世界の経済の半分を回す。最近のシュザンヌ殿は、その界隈ではそんな風に言われているのですよ」
「彼女の過去に何があったにせよ、弱みを握ろうというのは、かえって危険かもしれません」
「それも、まさしく。しかし調べられることは調べておくつもりです。別の世界で戦うことで、彼女とはいずれ、手を結べると思っているのです」
 既にライナスは、アッシェンに勝った後のことを話している。
「知恵比べではなく、最後は人間の勝負になるということですな」
 手を結ぶにせよ対立するにせよ、シュザンヌのことを知っておいて、損ということはない。いや、表面上はどんな関係であれ、この男はあの銀車輪を飲み込んでしまうつもりなのだろう。
「まあ、捕らぬ狸の何とやら、といったところですが」
 そう言って、ライナスは笑った。
 この男の目にはもう、誰も見たことのない地平が広がっているのだと、アナスタシアは思った。

 ロンディウムに着く頃には、すっかり日は落ちていた。
 二人とは、駅を出た所で別れることになる。
「長話に付き合って頂いて、ありがとうございました。良い聞き手に恵まれると、ついつい話も熱を帯びてしまう」
「こちらこそ、様々なお話を聞かせて頂き、ありがとうございました。宰相とお話ししているだけで、大分世情に明るくなった気がします」
 既に表舞台から去ったアナスタシアだからこそ、忌憚なく話をできたのか。あるいはもう一度、舞台に引きずり上げてやろうと思っていたのか。判断の難しいところではあったが、いずれにせよ、これまでの話にはもうひとつ彼の、はっきりとした意志を感じた。
 俺を、見ていろ。
 今後のことは置いておくにしても、アナスタシアはこの男の進む道を、しっかりと見ておこうと思った。
 同時に結局のところ、孤独なのだろうとも思った。ゲクランに感じたものと同じである。高みに立てば立つほどに、人は孤独である。どんな形であれ、アナスタシアはこの二人の理解者でありたいと思った。
 それは自分の過去に対する、贖罪のようなものなのかもしれない。自身に若さがあったとはいえ、アナスタシアはあの女帝エリザヴェータに理解を示すのではなく、理解を求めてしまっていた。
 ライナス、ゲクラン、二人を、頂点に立つ者たちを理解したい。
 知ることと違い、理解は意志の問題である。
 駅の出口には、兵が整列して待っていた。
 別れ際、アナスタシアはマイラを呼び止めた。
「マイラ殿。私が店を開いたら、ぜひ羽を休めに来てくれ」
「はい。約束です。楽しみにしています。とても」
 恥ずかしそうに、マイラは笑った。本当の彼女は今の笑顔のように率直で、感じやすい娘なのだろう。だからこそ皮肉にも、裏の仕事が向いているともいえる。人の心の機微がわかる、まっすぐな感性。だから、相手の裏が読める。芯は、強そうだ。何かはわからないが、心を折らず、彼女の望みが叶えばいいと思った。
 今回のマイラは、きっと素顔だったのだと思う。見た目だけでなく、気持ちもだ。アナスタシアとマイラが交われる場所。素顔の彼女がくつろげる店。そんな店をやってみたいと、アナスタシアは思った。
 二人と別れ、夜のロンディウムに繰り出す。方々に立つ街灯に火が灯されており、行き交う人々、酒場の喧騒、馬車の車輪が石畳を打つ音、すべてに力強さと活気を感じる。
 今、ゴルゴナに次いで最も豊かな街は、間違いなくここだろう。遠くにはこんな時間でも稼働している工房の明かり。窓から洩れでたその光は時折、煙と水蒸気で明滅を繰り返していた。ゴルゴナによく似た、蒸気の街の息づかい。
 店先に出された席。椅子の背にもたれかかった酔客が、向かいの席の男と戦の話をしている。
「で、大分押してるみたいだけどよう、結局の所、アングルランドはアッシェンに勝てるのかなあ」
 勝つよ。
 声に出さず、アナスタシアは男の疑問に答えた。
 戦闘宰相ライナスの戦は、底なしに深い。戦場の知恵比べに勝つことがあっても最後に膝を屈することになるのは、おそらくゲクランの方だろう。やはりアッシェンが勝つにはもう一人、彼女と同程度の役者が必要だ。
 アッシェンに、人は多い。探せばそんな英傑が見つかるような気がするが、決戦の刻限が迫っている今、その人の多さが人探しを困難にしていた。雌伏する英雄との邂逅。ゲクランに、それができるかどうか。
 一度戦に対する想念を捨て、アナスタシアは別のことを考えた。数日後、自分は何をしているのか。いや、これから目指すあの人との再会の後、自分は生きているのだろうか。
 馬を引き、人混みをかき分けて歩く。マイラやジジとの淡い約束。果たせるのか。今のアナスタシアにはわからなかった。いや、わからなくていい。
 そう、アナスタシアは思い直した。

 

つづく

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