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2,「お姉ちゃんが生きていれば、やれたはずのことだから」

 昨晩市場に流した物資は、滞りなく行き渡ったようだった。
 ユイル商会を出て、二人は適当に選んだ食堂で、朝食を摂っていた。客は、思いのほか多い。
 物の値は、一気に落ちている。かつての値の、三割り増し程度か。貯め込むばかりで物価に影響が出ない可能性もあったが、業者にばかり流したわけではなく、誰でも買えるようにしたことが功を奏した形になる。それぞれの家の台所にも小麦の袋があるのに、店が高い値段で料理を出していたら、商売にならない。
「いいねえ。みんなの顔に、活気が戻ってるよ」
 エンマが、肉の塊を頬張りながら言う。朝っぱらから油っぽいものをがつがつと食べるエンマの様子は、食の細いシュザンヌにしてみれば、見ているだけで胸焼けを起こす。クロワッサンを軽く齧り、シュザンヌは言った。
「昨日も言ったけど、人助けの為にやったんじゃないわよ」
「それが人助けになってるなんて、最高じゃない。いいんだよ、シュザンヌはやりたいようにやれば。あんたのやることは、人を豊かにする。さすが、その指先でユーロ経済の半分を回す女だね」
「からかうのは、やめて頂戴」
「からかってなんかないよ。いひひひひひ」
 嫌な笑い方で、エンマは応える。人を苛つかせる娘だが、不思議と気持ちはささくれ立たない。
 食事を済ませ、通りに出た。中央を離れ、別の区画を目指す。ユイル商会を通り過ぎ、さらにその奥へ。ここは商家の多い地域だ。中央に比べ高い建物は少なく、見通しもいい。本来はここもまた決して人通りの少ない区域ではないのだが、今通りに出ている人間はいない。この街の窮状を、至る所に感じる。が、知った顔と会わないというのは、それはそれで、どこか心地よくもある。商売柄人と会うことが多く、知った顔を見つければ必ず挨拶のひとつも交わすが、実のところシュザンヌは人付き合いが好きではなかった。
 角をいくつか曲がり、目的の屋敷が見えてきた。門の前に座る、襤褸を纏った物乞いが、シュザンヌに軽く頭を下げる。このような格好をしているが、男は闇の組織の一員だった。他にも似たような男たちがそれとなく屋敷の周囲に配置されており、この場所を厳重に警備している。
「変わったことは」
「特に、何も。二度、中の掃除と庭の手入れをしておきました」
「ありがとう。そうそう、この娘はエンマっていうの。私の代わりに、この屋敷に使いとして来ることもあるかもしれない。その時は通してあげて。他の人間にも、このことは伝えておいて頂戴」
「わかりました」
「そういうことみたい。よろしくね」
 エンマが悪戯っぽい顔で男に会釈する。男は、無言で頷いただけだった。
「これは、チップよ。皆で分けて」
 シュザンヌは、男に革の小袋を渡した。中身は全て、ゴルゴナ金貨である。
「どうも」
 男が、慇懃に頭を下げる。
 エンマを連れて、門を潜った。表に庭のようなものはない、この辺りでは質素な屋敷で、十歩も歩けば屋敷の入り口である。
「ふぅん。ああいった人たちに警護してもらってんだ。ギャングとかマフィアかな?」
「闇の組織は、信義を破らず充分な報酬を出せばまず裏切らないし、何より有能よ。彼らにしてみたらつまらない仕事だろうけど、引き受けた以上は、文句も言わない」
 扉に手をかけた。一応鍵は持ってきてあるが、必要ないようだった。
「で、ここがあの人の家か。お邪魔しまーす」
 先に入ってしまったエンマに続き、シュザンヌも中に入る。薄暗い屋敷の中は、無人である。外から微かに、鳥のさえずりが聞こえる。エンマはここに来るのが初めてなので、興味深そうに辺りを見回している。
 ここはシュザンヌの従姉妹、シルヴィー・ユイルの屋敷だった。
 シルヴィー。かつて、いや今も姉と慕っている、シュザンヌにとっては絶対の存在だった。
「中、見て回ってもいい?」
「いいわよ。あまり置いてある物をいじらないでね。私は、下にいる」
 とんとんと軽快な音を立て、エンマは階段を上っていった。
 シュザンヌは、玄関ホールのすぐ脇の部屋に入った。
 奥に、寝台がひとつ。その脇に大きめのソファー。部屋を囲むように、壁には本棚が並んでいる。
 晩年の、シルヴィーが過ごした部屋だった。
 カーテンを開け、一応、部屋の中を点検する。本の上の埃は取り払われている。持ち去られた物はないようだった。
 シルヴィー、本来ユイル商会を継ぐはずだった彼女がこの家を出て、最初で最後の旅に出てから、もう十五年になる。
 当時の様子は、今はレムルサのセシリアファミリーに身を寄せるメイドのアンナに、幾度となく聞いていた。かつてはこの屋敷に仕える大勢の召使いの一人に過ぎなかったアンナに対する記憶は、残念ながらシュザンヌの方にはほとんどなかった。が、アンナはこちらのことをよく覚えていたらしい。まだシルヴィーの寝室が二階にあった頃は、よく遊びに来ていたのだ。
 寝室が一階のこの部屋に移ってからは、二、三度しかシルヴィーと顔を合わせていない。勉強や習い事が急に増えたことに加え、ここを訪れてもシルヴィーの体調が悪く、会えないことがほとんどだったのだ。
 元々シルヴィーは、極めて病弱だった。危篤に陥ったことも、何度かある。その度に幼いシュザンヌは悲しみに沈み、絶望した。が、彼女はいつも、死地と思えるところから帰ってきた。
 だからあの時も、いつかシルヴィーは回復して、あの輝くような笑顔で自分を迎えてくれると、信じていたのだ。
「お姉ちゃん・・・」
 思わず、声を洩らす。
 床の軋む音がして、シュザンヌは振り返った。エンマが少し驚いた顔をして、部屋に入ってくるところだった。
「あ、ごめん。お邪魔だったかな」
「いいわよ。それより、今の聞いてた?」
 鼻をすすりながら、シュザンヌは言った。嗚咽をこらえているので、声が裏返りそうになる。
「お姉ちゃんって。今入ってきたところだから、それより前はわかんないよ」
「そう。格好悪いとこ、見せちゃったかしらね」
「世間で言われてる程あんたが冷たい女じゃないってこと、私は知ってるよ。それに、ほら」
 エンマは指先で、自らがかけている眼鏡の、赤い縁をなぞる。
「私も、好きな人がもういないって気持ち、わからないでもないから」
 エンマの目は、悪くない。いつもかけているそれは、彼女の母、ニコールの形見だった。
「ここにいる時くらい、泣きなよ」
「何、生意気なこと・・・」
 それ以上は、言葉にならなかった。そっと、頭を抱きかかえられる。その胸で、シュザンヌは泣いた。
 シルヴィーは、もういない。
 世界で一番好きだった人は、もうこの世にはいないのだ。

 軽食と飲み物を買い出しに行ったエンマが、戻って来たようだった。
「ここの蔵書は全部、シルヴィーさんの物?」
 バケットを齧りながら、エンマは部屋の様子をしげしげと眺めた。調度らしいものはほとんどないので、自然と目は本棚に行くことになる。
「そう。経済、自然科学、哲学のものがほとんどね。医学や宗教関連のものは、あまりないわね」
「物語もあるみたいだけど、少ないね。お硬い本がほとんどってわけね」
「そうね。頭のいい人だった。正直、あの人が何を考えていたのか、今の私にもわからない。面白くて、子供だった私にもわかりやすい話をしてくれる人だったけど、言葉の真意がわかったのは、あの人が亡くなってからというのがほとんどだった」
 エンマはパンをくわえながら、本を取り出しては、ぱらぱらと頁をめくっている。
「後になって、実は意地悪なこと言ってるのがわかったり?」
「まさか。でも優しくて、同じくらい厳しいことを言ってるのが、後になって理解できたりもした。驚くほど繊細に人の心の機微に触れていて、同時に地平線の彼方まで見渡すような、広い視点。あえて言葉にすれば、そんな感じよ」
「なるほど・・・どう? ここに来て、シルヴィーさんのこと、より理解できる?」
「単に、気持ちの問題かもしれないけどね。でもここでしか得られない着想というのは、不思議とあるわね」
 今日も含め、シュザンヌはパリシに寄る際には極力、ここに来ることにしている。ここでシルヴィーが何を学び、何を考えていたのか。
 それを知ることが、シュザンヌの生き甲斐だった。
「これは? あ、いけない」
 本に挟まれたメモ書きが気になったのだろう。こちらに見せようとした時に、しかし別の頁に挟まれていた紙片が、落ち葉のようにひらひらと床に落ちた。エンマはばつが悪そうに頭を掻く。
「大丈夫よ。そのメモには、なんて書いてある?」
「ええと・・・金がものを言う時、真理は黙り込む」
「238ページに挟んでおいて」
「え、ひょっとして、全部覚えてるの?」
「大体は。でも、上辺だけよ。意味まではわかっていないことが多い。そのページにそのメモが挟まれてた意味、わかる?」
 素早く、エンマはその頁に目を走らせる。しばらくの沈黙の後、彼女は大きな溜息をついた。
「わからないな。アングルランドの歴史について記されてるけど、お金とか真理とか、そういうのに関わることは、少なくともここには書かれてないかな」
「エニス島について書かれてるでしょう? 今起こってるノースランドの叛乱に続き、あそこもまた、ずっと前からアングルランドからの独立を図る動きがある。メモの解釈は・・・エニスも今は経済的な繋がりが深いから、アングルランドからの独立をしづらい? これだとむしろ、一層経済的な繋がりが強かったノースランドの方にそのメモがなかったことの説明にならないし、独立を真理というのも、当人たちにとってはそうだろうけど、それでも少しおかしい気がする。いや、全ての戦いは戦う者にとっては真理なのかもしれないけど、戦そのものについて書かれたページは、その本の中でいくらでもある。仮に最初の着想を進めたところで、こんな簡単な答えでいいのかしらという疑問はつきまとうわ。お姉ちゃんは、そんな当たり前のことを言う人じゃなかったから。わざわざそんなメモを残すというのも変だし・・・」
「なるほどねえ。あんたがここに足繁く通ってる意味、わかったわ。これは、まるで・・・」
「壮大な、謎掛けね」
 シュザンヌも、周囲の本棚に目を走らせる。一冊一冊、いや一文字一文字が、シルヴィーの考えであり、頭脳だった。彼女がいれば、あのやわらかい口振りで、全ての意味をわかりやすく教えてくれたことだろう。財宝のありかを隠すような、そんな謎掛けではない。だから必ず解けるという保証もない。彼女の命が短過ぎたがゆえに、その意志に反し、それは謎掛けになってしまったのだ。
 謎を残して、死ぬべき人ではなかった。自らの命が短いと悟った時、彼女はどんな気持ちで窓の外を眺めていたのだろう。シュザンヌは四角く縁取られた外の世界に目をやる。目の前に、樫の木と灌木。その奥は塀で、通りの様子すらわからない。
「少し、私自身のことも話しておくわ」
 シュザンヌは寝台の縁に腰掛けた。革袋に入った葡萄酒を、一口だけ口に含む。酒に弱いシュザンヌは、その一口だけで胃の奥がかっと熱くなるのを感じた。
「ユイル商会の主だった伯父が死に、私の父が商会を継いだ時、正直、私は商売に大した興味はなかった。ただ一人娘の私は、いずれ余所の商家の跡取りか、下級貴族と結婚して、夫の仕事の補佐の為に商売を学ぶ必要はあるんだなって、そんな軽い気持ちしかなかった。もっとも、勉強はきちんとしたわ。馬鹿な貴族の坊々と結婚するなら、私が商売を切り盛りすることになるだろうって思ってたしね」
 エンマは窓を開け、シュザンヌと向かい合う形で壁にもたれかかった。その目は葉巻の先でくすぶる火を、じっと見つめている。
「ある日、私はお姉ちゃんに対する気持ちの整理をつけようと、数年振りにこの屋敷を訪れたの。お姉ちゃんは、病に冒されていなければ、伯父が死んだ後に商会を継ぐはずだった。その勉強の為、ここにこうしてたくさんの蔵書があることを知っていたから、きっと商売に役立つ本があるだろう、そうでなくとも思い出の品として数冊手元に置いておいてもいいだろう、そう思ってね」
 もう一口、シュザンヌは葡萄酒を飲み下す。エンマに革袋を手渡すと、彼女は残りを一気に飲み干した。
「この部屋は閉め切ってたせいで、少し埃が積もってるって程度だったわ。今のような闇の組織ではないけれど、警備兵の巡回の多い地域だから、持ち去られた物もなかった。人のいない屋敷に盗みに入るほど、ケチな賊がいなかったっていう幸運もあるわね。ともあれお姉ちゃんが家を出る前の状態、手つかずのこの部屋に、私は入ることができた。で、そう・・・この辺りかしらね。枕の横に、一冊の本が置いてあった。題名は、経済学入門。印刷されてる、どこでも手に入るものよ。私だって一冊持ってる。でもね、最初のページに、一枚のメモが挟んであったの」
「そこには、何て?」
「国に支配された時、人は片目を失う。初めは、ピンとこなかった。しばらくはお姉ちゃんの筆跡を見て、懐かしい字だなって、馬鹿な感慨に耽ってた。でもちょっとして、頭を殴られたような気がしたわ。その言葉を前提にして本の内容を思い返すと、その本が本当に言いたかったこと、あるいはお姉ちゃんの言いたかったことが、奔流になって私の頭の中に流れ込んできたのよ。噛み砕いて言えば、それまでの私は、商売は目の届く範囲で行うものだと思ってた。帳面を見て、収支の辻褄だけを合わせるものだってね」
「でもその程度は勉強すれば誰でもできるし、逆に言えば難しくないだけに、運に左右されすぎる」
「ん、相変わらず冴えてるわね。嫌いじゃないわ。目の届く範囲、もっと言えば枠組みに縛られないこと。国という今では象徴的なその枠組みが外れた時、私には世界中に網の目のように張り巡らされている流通の流れが見えた。後は、どこで何が作られ、何が必要とされてるか、どの経路で流せば最も効率が良いか。そして意味を成すか。それを調べ上げるだけでよかった。もちろん、最初はやるべきことのあまりの膨大さに面食らったけどね」
「それでも、あんたはわずか数年で、ユーロ地方で最も力のある商人になった」
「そういうこと。その一言はきっかけに過ぎなかったけど、確実に私の目を開いてくれた。実地でやるべきこと、留意すべき点は、ここにある本と要所に挟まれたメモの意味を解釈して得たものよ。それでも、まだ無数にあるメモの、四分の一も解読できていない」
「その全てを、理解したいと?」
「そう。それがお姉ちゃんの目指した、ううん、お姉ちゃんが生きていれば、やれたはずのことだから」
 エンマは、窓の外に目をやった。外に向けて吐かれた煙が、風に乗って霧散していく。次いで、シュザンヌの瞳の奥を見つめ、彼女は言った。
「なるほどね。そっか。あんたを、シュザンヌを選んで、やっぱり正解だったかな」
「どういうこと?」
「私も、見てみたい気がするわ。シルヴィーさんの目指したもの。大き過ぎて、私には見渡せないかもしれないけど」
「あなたは、頭がいい。きっとわかるわ」
「ありがと。傍であんたの話を聞いてれば、私にもわかるかもしれないね」
 にっと歯を見せて、用心棒は笑った。
「そろそろ、ここを出ましょう。今日は旅に出る前に、あなたにここを見てもらいたかっただけだから」
「いや、いいもの見せてもらったよ。話もね」
 シュザンヌは寝台から立ち上がった。エンマが窓を閉め、カーテンを下ろす。
「ん、じゃあこれからの旅は、私にとっても大きな意味を持ちそうだ」
「そうであることを願うわ」
「シュザンヌ、ありがとね」
「何が?」
「そんな大事な旅に、私を連れてってくれてさ」
 エンマの笑顔は珍しく、年相応のあどけなさを漂わせていた。
「当たり前じゃない。あなたは私が見つけた、最強の用心棒なんだから」
「そうあるよう、努力するよ」
 言って、エンマはもう一度笑った。

 荷物をまとめ、商会を出た。
 これからの旅程は、旅というより冒険に近い。
 留守の間商会に一度連絡があり、これから会う男は、既に約束の場所に来ているということだった。
「ね、もう時間ないじゃん。真っすぐ向かわなくていいの?」
「いいの。それじゃ意味がないから。ほら、急ぐわよ」
 エンマと二人、パリシ駅に向かって駆ける。永世中立都市ゴルゴナの管轄にある大陸鉄道は、戦時にはその地域の路線を動かさない。その為、パリシ駅は閑散としていた。駅長には、事前に話をしてある。シュザンヌの顔を見て、正確には帽子に描かれた砂時計のハンザ徽章を見て、駅員が改札を通してくれた。
「息、上がってんじゃん。少し休む?」
「いい。ほとんどあなたに荷物持ってもらってるのに。自分の体力のなさにがっかりするわ」
 シュザンヌの荷物は、背負い袋に入れた着替えの類だけだ。対してエンマは、その広い背中から腰の下まである大型の背負い袋に加え、両手に同じくらいの大きさの鞄を持っている。そのほとんどがシュザンヌの荷物だということを考えるとさすがに申し訳ない気持ちにもなるが、当のエンマは息一つ切らせてはいない。
「ちょうど、この辺りか・・・」
 無人の駅のホームに立ち、辺りを見回す。
 十五年前、セシリアファミリーの面々がここに下り立ち、シルヴィーたちの旅の供となった。当時はろくに読み書きのできなかったアンナが、それでも一縷の望みをかけて、セシリアに送った手紙。列車から下りる大勢の人々、アンナを探すセシリアたち。その光景を思い浮かべ、シュザンヌは胸を熱くした。
 ホームから下り、駅の奥へ向かう。大分進み、車庫を抜けたところで、シュザンヌはランタンに明かりを灯した。下水道に続く道。鉄格子の扉を開けると、先程から漂い始めていた不快な匂いは、途端に強くなる。坂を少し下ると、下水道のトンネルに出た。
 ここからは、エンマが前を歩いた。物陰から、何かが襲ってくることもあるかもしれない。彼女の邪魔にならないよう、手を伸ばして前方を照らす。すぐ足下を流れる汚物の臭気は、もはや耐え難い。
 ハンカチを口元に当て、シュザンヌは迷路のような下水道の道順を指示する。時々鼻先をかすめる、普段はあまり好きではないエンマの葉巻の匂いも、ここではどんな最上の香水にも勝る香りだった。
 しばらく進むと、遠くに明かりが見えた。この先には大きな空間があり、物乞いや下水の中から貴金属を漁る者たちのねぐらがあるはずだった。すぐ近くに川へそそぐ排水溝があるのか、臭気は徐々に弱いものになってきている。
 シルヴィーが追手をまくために、しばらくこんな不潔な場所に潜伏していたのだと思うと、胸が締め付けられた。
 この場所を使いの者たちに調べさせていた時に、既にここの者たちにはシュザンヌの来訪を伝えてあった。床に寝そべっていた者の何人かがこちらに気づき、手を振っている。残りの者たちも次々と起こされ、皆声を上げてシュザンヌたちに歓迎の意を示した。思わぬ歓待に、逆に警戒してしまう。使いの者にわずかばかりの謝礼を持たせてあったが、もっと寄越せということなのかもしれない。エンマは笑顔で応えているが、シュザンヌは自分の顔がこの者たちへの嫌悪感を隠し切れているか、不安である。
「おお、お待ちしておりましたぞ。こちらです」
「すみません、遅くなりました」
 長らしい老人が前に出て、シュザンヌたちを先導する。この空間の奥にも何本か通路があり、そこには扉が並んでいるようだった。
「ああ、なるほど。そのふわふわとした銀の髪、あの子にそっくりです」
 道すがら、老人が嬉しそうに話す。
 とある事情で身の危険を感じ、屋敷を離れたシルヴィーとアンナは、追手の目から逃れる為、ここにしばらくの間潜伏していた。そしてアンナはセシリアファミリーに手紙を書き、シルヴィーは長年の夢だった旅に出た。彼女の母がかつて訪れた、最果ての地を目指す旅。
 それと同じ道程を辿ることが、今のシュザンヌの目的である。
「ここです。この部屋でしばらく、あの子たちは暮らしておりました」
 狭い部屋だ。わずかな調度品と、寝台。奥にはひび割れた、安い丸窓があり、そのすぐ向こうを、ブークリエ河が流れていた。窓辺に汚い花瓶と、その辺で摘んできたのだろう、名も知らぬ小さな花が活けてある。
「この部屋は今、どうされてるんです?」
 白い花を見つめながら、シュザンヌは聞いた。大して意味のある問いではない。黙っているだけというのも気が引けて、声を掛けただけだ。しかし返ってきた応えは、予想していたものと少し違っていた。
「あの子が旅に出てからは、誰も使っておらんです」
 半ば歯の抜け落ちた顔で、老人は笑った。残った歯も変色しており、汚いな、とシュザンヌは思った。
「誰も・・・どうしてです? 何か問題が」
「みんな、あの子、シルヴィーちゃんに良くしてもらったんです。こんなわしらを嫌がらなかったばかりか、その綺麗な髪を売って、わしらにいいもんを食わせてくれたりもしました。本当に、天使のような子でした」
 老人の目は、潤んでいた。エンマは、黙って部屋を見つめている。
「あの子がここにいたのはほんのわずかの間でしたが、あんな子がいたのだと、きっとわしらのような社会のあぶれ者にも良くしてくれる子がいるんだと忘れんように、この部屋は、あのままにしてあるのです」
 そうだった。シュザンヌは奥歯を噛み締め、こみ上げてくる嗚咽をこらえた。お姉ちゃんは、その優しさで周囲の人々を優しくする。シルヴィーの昔からの私物が残っていたわけでもない、この部屋を見ても初めは何の感慨も抱かなかったが、この老人を見ているだけで、確かに、シルヴィーはここにいたのだと実感できる。
 次いで、シュザンヌは自身を責めた。こんな汚い場所に、こんな汚い人間たちにと思ってしまった自分を、恥じる。
 お姉ちゃん。もうあの時のお姉ちゃんよりもずっと歳上になってしまったのに、あなたのまぶしさに、私は全然手が届かないよ。
 肩に、手が置かれる。エンマだった。彼女は何も言わずに、ただ首を振った。
「いつか、あの子がここに戻ってくるような、そんな気がしていましてなあ。するとどうだ、あの子にそっくりな子が、こうして訪ねてきて下さった。本当に、ありがたい。ありがたいことです」
 シルヴィーとシュザンヌは、髪質とその色以外、あまり似通ったところがない。それでもシュザンヌとシルヴィーを重ねて見てくれることに、感謝したい気持ちだった。
「今はこれだけしか出せませんが、いずれここの人たちには、何らかの援助をさせて頂きたいと思います」
 シュザンヌは金貨を三枚、隠しから取り出した。旅費のこともあり、手持ちではこれ以上出せなかった。そして今から商会に戻って、取りに行く時間もない。こんな時にも時間と金勘定をしている自分に、嫌悪感がこみ上げてくる。
 旅から帰ったら、この人たちにはきちんと御礼をしよう。しかし感謝の気持ちを金でしか表現できない自分を、あらためて情けないと思った。
「いやいや、もう使いの方から充分に頂きました。これ以上は受け取れません」
「かえって失礼なことをしていると、承知の上です。どうか今はこれだけでも、お納め下さい」
「そうですか・・・では、こうしましょう。あの花瓶の花を、ちゃんと市場で売っているものと替えることにします。今は外を歩いている時に見つけたものしか差しておりませんので。その方が、シルヴィーちゃんも喜ぶでしょう」
「ぜひそれで、お願いします。旅から帰ったらあらためて、ここに伺わせてもらいます」
 老人の黒ずんだ、垢だらけの手を、両手でしっかりと握る。
 温かい手だなと、シュザンヌは思った。

 下水から出て、この区画の中心部へ向かった。
「さてと、ようやく旅が始まるねえ」
 相変わらず重たい荷物を軽々と扱いながら、エンマが言った。
「そうね。今の下水道だけでも、お姉ちゃんが残してくれたものは垣間見えた」
 できれば、あの時のセシリアファミリーの面子、その一人だけでも旅を共にしたかった。しかしそれは叶わない。
 セシリアは既に冒険者を引退していて、旅に出られるような状態ではない。あの新世界秩序と戦って、再起不能になってしまった。そしてこの大陸の安寧に桁違いの貢献をした彼女に、自分の思い出の為だけに旅の供をしてくれというのは、さすがに気が引けた。
 現リーダー、半エルフのフェルサリは、冒険の依頼で忙しい。吸血鬼のテレーゼは四千王国に姿を消し、魔法使いのネリーは新世界秩序との戦いで命を落としている。
 孤独に思える旅も、しかし今はエンマがいた。さらにこれから会う男が、欠けた部分を補ってくれるはずだった。
 狭い広場から、少し離れた所。
 家を模した、まるで小屋のような大きな車体。聞いていた通りの、六頭立ての大きな馬車だ。御者台には、くたびれた灰色の外套に身を包んだ男が乗っていた。その横に赤い髪をした女の子が、ちょこんと腰掛けている。おそらくは、あの男の娘だろう。
 こちらに気づいたのか、男が羽の付いた帽子を上げ、軽く会釈した。銀髪に、青い瞳。直接会うのは初めてだが、間違いない。
「遅くなりました。初めまして、ユイル商会のシュザンヌです。この度は私の呼びかけに応じて頂き、大変感謝しております。そして旅の案内を引き受けてくれて、本当に助かります。正直、私たちだけでは同じ道程を歩める自信がありませんでしたので・・・」
「娘が、ついてくることになった。いいかな? と言っても、この子も母親の旅の話を聞いて、どうしてもついていきたいってね。俺たちが駄目だと言っても、一人でついてきてしまうだろうな」
「構いませんよ。もっとも、旅の安全は保証できませんが・・・」
「私は、エンマよ。なに、聞いた話じゃ、私一人でも三人を守ってやれそうだから、なんとかなるでしょ。お嬢ちゃん、よろしくね」
 言いながら、エンマは少女の頭を撫でた。
「確かに、あの時の旅の困難さは、今回の比ではなかっただろう。思い出すだけでも、無謀さに鳥肌が立つ。それだけ、こちらも切羽詰まっていたからな」
 男は、遠くを見つめながら笑った。
 事情が事情とはいえ、この男もまた、あの旅を共にした者の一人だった。
 その後のセシリアファミリーとの関係を考えても、今はこの男に何の恨みもない。シルヴィーを追っていた理由についても、きちんと把握している。どこかでこの男にも、シルヴィーは感謝していたはずだ。
 きっとそうだよね、お姉ちゃん。
 シュザンヌは男に手を差し出した。
 男の名を、ユストゥスという。
 かつてシルヴィーの敵としてその命を狙った、追手の一人である。

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