前のページへ  もどる

3,「あなたが見た地獄が、私にはある程度理解できる」


 外は、ひどい土砂降りだった。
 蜜蜂亭の隅の席で、アナスタシアは石畳を激しく打ち鳴らす、無数の雨粒を見つめていた。
 今は、三人組の楽団の調べが、賑やかな店内に一層の彩りを与えていた。楽団員たちの裾はいずれも泥で汚れている。何曲か弾いては次の店へ向かう、この町の流しの楽団だった。
 アッシェンのほぼ中央、グリシーナ伯領のノルマランという町に滞在して、既に三週間になる。美食の町と聞きこちらに足を向けたのだが、噂以上の町だった。どの店に入っても思わず美味いと声を上げてしまいそうになる。料理が美味しくなる季節はこれからが本番だと思うと、いっそこの町に居を構えてしまっても良いのではないかとさえ思ってしまう。実際に夏や秋の品々はこんなものじゃないと聞くと、なおさらだ。
 土地が、豊かである。青流団と別れた後、街道沿いにほぼ西に向かう旅だったが、いずれもアッシェンの常勝将軍、ゲクラン元帥の直轄地、ないしはその配下の土地だった。合わせて、ゲクラン領とも呼ばれている。
 遠い昔こそ塩の出やすい大地は開墾に苦しんだそうだが、今のアッシェンは、概ねその地味は豊かなのだという。百年に及ぶアングルランドとの戦で国は疲弊しているが、大地そのものは、まだまだ肥えているようだ。そしてその大地の力を今もって有効に活用できているのが、ゲクラン領だった。
 そんな話を以前から小耳に挟んでいたが、実地にこの土地を旅すれば、ゲクラン領だけ冬枯れの大地から一足先に脱皮し、馬車宿のつまみ一つにしてもいい料理を出すことで、それは実感となっていた。
 楽団の演奏が終わりに近づき、客の手拍子が一層激しくなる。アナスタシアもパイプをくわえたまま、控えめに手を叩いていた。掛声とともに演奏が終わり、拍手鳴り止まぬ中、楽団員は帽子を裏返して各席を回った。アナスタシアもアッシェン銀貨を一枚、帽子の中に放り込んだ。
 楽団員が去ると、店はまた色の違った活況を帯びる。店のすぐ傍を流れるマロン川で働く荒っぽい港湾労働者と、抜け目ない行商が客の大半を占める店だ。乾いた怒声とひそひそと密談する声が混じり合い、楽団の演奏とは違う猥雑な合奏を店内に響かせていた。
 外の川は、明らかに水位を増していた。轟々と唸る音が、ここまで聞こえる。このマロン川はやがてパリシ市内に入り、主要河川のブークリエ川に合流する。マロン川はいわば、パリシの動脈のひとつだった。
「お嬢さん、相席よろしいでしょうか?」
 どうぞ、と普通に返事をしようと思って見てみると、料理の大皿を卓の上に置いているのはこの店の看板娘、ジジだった。おどけた調子で、片目を瞑ってみせる。歳はアナスタシアの一つ下だが、既にこの店の女将といっていい風格を漂わせていた。
「ジジ、そんなに食うとまた貫禄出ちまうぞ!」
「うるさいわねー。あんたらの相手すんのにこっちも体力いるのよ!」
 客の一人にいわれ、ジジが店の喧騒に負けない声で返す。
「ジジ! 俺のジョッキが空になってるぞ!」
「あーわかったわかった! お客様、只今お持ち致しますよ!」
 アッシェン語は学ぶ機会がなかったため道中多少不便を感じたが、この程度のやりとりは理解できるようになっていた。ただ、ほとんどの者はアナスタシアを見て余所者だとわかるようで、向こうからは大抵共通語で話しかけてくる。町では共通語を話せる者がほとんどだが、小さな村でも一人くらいは、共通語の話せる者はいた。
 忙しく立ち回ったジジだったが手早く仕事を済ませると、再びアナスタシアの向かいにどっかりと腰を下ろした。
「大変だな。一人で客の相手をするのは」
「マスターが調理以外何もやらないからねー。あたしが来る前は、全部一人でやってたみたいなんだけど」
 ジジは、この店の主人の姪である。十歳から店を手伝い始め、十五歳からは本格的にこの店で働いているそうだ。
 その店の主人ロズモンドは、厨房の奥で難しそうな顔をしてパイプをくゆらせている。料理の注文も、一段落ついたのだろう。
「いつも悪いわねえ。こんな汚い店に通い詰めてもらって」
 豪快なまかない飯を咀嚼しながら、ジジが言った。
「いや、気取らない雰囲気がいいんだよ。それより私こそすまないな。ここしばらく、夜になるとこの席を占拠してしまっている」
「それこそ気にしないでよ。あんま回転いい店じゃないし、それこそ女の常連なんてこの店には数えるほどしかいないんだから。あなたがいるだけで、店が華やぐわ」
「陰気な外国の女が隅に座っているだけでも、違うものかな」
 ジジは大口を開けて笑った。
 何故かこの娘とは馬が合う。料理の美味さはもちろんのこと、この娘に会えるというのも、アナスタシアがこの店に通い詰める理由のひとつだった。
 店内を見渡す。店に、女が一人もいないなんてことはない。が、大抵は男勝りの港湾労働者だった。時折華奢な女や子供の姿もあったが、これらは皆、そういった連中の家族である。確かに、若い女が一人で入るような雰囲気ではない。
 そういった女たちと少し毛色の違うアナスタシアが来たことで、ジジには気分転換になる部分があったのかもしれない。ふと、そんなことを考えた。
「で、もう行っちゃうの? 寂しいわあ」
「旅の身だからな。ただ、いずれこの店には戻ってくるよ。次はどんなメニューが並んでいるか、楽しみなんだ」
 週に一度、この店の品揃えはその半分近くが変わる。地元の食材で作る定番の郷土料理以外は、毎週新しい料理が並ぶのだ。
 あらゆる国の、種族の文化が共存するゴルゴナに幾度となく訪れているアナスタシアでも食べたことのない料理が並び、その度に新しい発見に胸が躍る。傭兵隊を長く営んでいたので、アナスタシアは自身にそれなりの経営感覚があると自負していた。いつか店をやりたいと思い、その経営を想定してもいた。なので、この店の経営がいかに大胆かがわかる。厨房の裏を覗いてみたい。そんな欲求は強い。
「すごい人だったってのはあたしでもわかるけどさあ、もう傭兵稼業から足を洗ったんでしょう? 料理が大好きって言うし、ならいっそ、この店で働いちゃえば?」
「魅力的な提案だなあ。こんな店を持ちたい。それは私の夢でもある」
 ジジとは、既に様々なことを語り合っていた。いや、ジジは良く喋るようで、その実相手の話をよく聞いている。引き出すと言った方がよいか。話が上手い者は、概ね聞き上手である。その逆はない。
 ゆえに、ジジにはある程度アナスタシアの身の上について話していた。喧伝することはないが、極度に身の上を隠す必要もない。そしてジジには何よりも、気楽に話せる魅力があった。
「正直、ロズモンド殿のような優れた料理人に、一から料理を学びたいという気持ちはある。私の料理は野戦料理から始まったからなあ。美味さには自信があるが、自分でも時折、奥行きがないと感じる」
「あの人、信じられないほど無愛想だけど、料理の腕前だけは超一流だからねえ。ならほら、あたしが掛け合ってあげるからさ。ほら、ほら」
「落ち着いたら、あらためて考えてみるよ」
「あたしも、アナスタシアの料理、食べてみたいわあ。あ、今晩もゆっくりしてってね」
 まかない飯を平らげたジジは、手の平をひらひらと振りながら、厨房の方へ戻っていった。
 この店自慢の蜂蜜酒に口をつけながら、アナスタシアは再び開けたままの扉越しに、外を眺めた。
 状況が許せば、もう少しこの町に留まりたかった。が、ここから南に半日、レザーニュ城の郊外が、パリシ奪還作戦の、アッシェン軍の集結地だった。戦火に巻き込まれることを恐れてはいないが、アナスタシアの名は、アッシェンでも知られていた。戦が近くなれば、仕官の誘いもあるだろう。断って、禍根を残さない相手だったらよいが、レザーニュ伯はあまり人格者ではないとの噂だった。軍事に疎いので、名や身分だけで将校を選ぶと聞く。名だけは知られたアナスタシアは、格好の標的になる可能性が高い。
 本来はもう軍の集結が始まっていてもおかしくはないところだが、援軍として駆けつける予定だった辺境伯ラシェルの軍が打撃を受けたことと、レザーニュ伯領での徴兵が予想外の遅れを見せていることで、いまだ一兵たりとも集結地には至っていないようだ。無論、両軍の遅れを聞いて、他の領地の軍が自領からの出発を見合わせているからでもある。
 そのような事情があってこの町、特に蜜蜂亭に長く通い詰めることになったが、そろそろ頃合だろう。急ぐ旅ではないが、一応今のアナスタシアには胸に秘めた目的地がある。
 アナスタシアは店内に目をやった。主人のロズモンドは厨房で忙しく働き始め、ジジは料理の皿を掲げ、踊るように立ち回っている。
 今晩は閉店までいよう。アナスタシアはそう思った。

 宿の中庭に、夜明けの光が差し込む。
 親指で体重を支え、アナスタシアは腕立ての運動を繰り返していた。旅暮らしが続き、筋力が落ち始めているのを実感している。特に町に滞在してしまうと、思ったような鍛錬ができない。
 甲冑を着て雪道を駆ければ三十分とかけずに充分な筋力を維持できるが、ここには降り積もった雪もないし、具足姿で駆けるのは目立ちすぎる。
 上半身も、剣や戟を力の限り振り込めば、短時間で仕上がるが、これも空を切る音が思ったより周囲に響く。町中ではできない。腕立てや腹筋、屈伸運動は一時的に足りない部分の筋力を補う為の補助運動とみなしてきたが、今の暮らしではこれらを中心にやるしかなかった。アナスタシアはこうした運動が好きではなかったが、それは単に時間がかかりすぎるからだった。それぞれ、身体に充分な負荷をかけるのに一時間近く、合計で三時間は費やしてしまう。
「今日も精が出るねえ。お風呂、もうすぐ沸けるからね」
「ありがとうございます。いつもお世話になっております」
 この宿を、常宿としていた。集合住宅のように、生活の場を共同で使うこの宿での生活は、逗留というより下宿に近い。年老いた女将は気の効く人物で、朝の運動が終わる頃になると、中庭の小屋の、風呂を沸かしておいてくれる。
 宿は何軒か回ったが、ここが一番朝飯が美味かった。料理の美味さと居心地の良さは、不思議と合致することが多い。この宿の女将と蜜蜂亭の主人の接客には天と地ほどの差があったが、料理以外にも、隠された共通点があるのかもしれない。結局のところ、この手のことは実際にやってみないとわからないことが多いと思っているので、今のアナスタシアにはそれが何なのか、まだ見えてはこなかった。
 身を清め、髪が乾く間に朝食を済ませる。あっさりとした味付けの飯は、運動の後の身体に染み込んでいくような気がする。少し遅い朝食をとるアナスタシアの為に、女将が前の晩から仕込んでおいてくれたやわらかい鶏肉はわずかに塩味が強く、それが流した汗を補ってくれているのが、身体でわかる。
「また来てくれるのかい? あんたがいなくなると、寂しくなるねえ」
 昨晩のジジのようなことを、女将は言う。長く滞在したというのが大きいものの、初見から、この町の人間は温かい。慎ましくも、豊かだからだということが、はっきりとわかる。
 異国を旅して実感したが、貧しい土地や、豊かでも競争の激しい地域では、客を単に金を落とすだけの人間とみなす傾向がある。要は、気持ちにゆとりがない。
「金に換えられるものは換えてきましたが、少し路銀が乏しくなってきました。しかしいずれまたこの土地を旅することがあれば、この宿を使わせてもらいますよ」
 女将に別れの挨拶をした後、まとめてあった荷物を抱え、宿を出る。手綱を引きながら、この厩を使うのも最後だという感慨にふけった。見送りにきた女将にもう一度頭を下げ、通りに出た。
 川沿いの道に出て、蜜蜂亭を目指した。中に人はいるかと、何度か扉を叩く。しばらくして、店の二階の窓が開いた。頭上から顔を見せたのは、ジジである。
「あら、今日はお店休みよ。開けてたとしても、早い時間なんだけど」
「知っている。ただ町を出る前に、挨拶をしていこうと思ったんだ」
「五分待ってて。あたしも今ちょうど、外に出るとこだったから」
 十分ほど待つと、店の扉が開いた。いつもとは違う、よそ行きの格好をしたジジが出てくる。
「ロズモンド殿は?」
「マスターは、寝てるわ。起こしてくる?」
「いや、そこまでしなくてもいいだろう。後で、よろしく伝えておいてくれ」
「わかった。これから広場まで行くところだったから、一緒に行きましょう」
 髪を上げ、めかしこんだジジを見るのは新鮮である。化粧はいつもより薄いが、その分入念に仕上げてあるようだった。
 昨晩よりも雨の上がった今日の方が、マロン川の勢いは強い。マロンの名の通りの茶色くなった濁流が、川岸までその飛沫をとばしてくる。
「ほう。こんな荒れた川でも、艀は出ているんだな」
 流れを縫うように、いくつもの艀が川を流れている。樽や木箱を山積みにしており、見ているこちらが冷や汗をかいてしまうような光景だ。
「ああ、あれね。この辺りの名物になってるわ。雨の後は、いつもあんな感じ」
「こんな流れの速い時は、艀など出ないと思っていたが」
 そう話している間にも、波止場からは荷物を積んだ艀が、次々と出ている。ただ、河川用の小船は出ていない。艀の方が確かに小回りは利きそうだが、丸太を繋ぎ合わせただけのそれが上下する流れの中に飛び出していく様は、岩にでも激突したらどうなるのかと、見ているこちらが心配してしまう。
「まったく、命知らずよねえ。でも、人が死んだって話は聞かないわ。代々、あんな技が受け継がれているのね。かくいう私も、昔は結構利用してたのよ」
「何の為に? おお、速いな。もうあんなところまで流されている。怖くないのか?」
「乗ってる時は、さほど。こうやって外から見ると、なるほど結構怖いわね。でもこんな日だと、パリシまで半日とかからずに着いちゃうのよ。普段だと丸一日、流れが緩い日だと休憩も取るから一日半ってとこかしら」
「それは、速い」
 荷馬車と馬を乗せた行商人も、これを使っているようだ。怯えた様子の馬を乗せたまま、艀はあっという間に視界から消えていく。
「でしょ? 四日五日とまとめてお休み取れた日は、あれでパリシまで買い物に行ったりしたわ。すごい時間短縮で、向こうでたくさん羽を伸ばせるし。だからお休み前に雨が降ると、期待で胸がいっぱいだったわあ」
 そう語るジジは、遠くを見つめていた。今では、店が休みの日以外の休日はないのだろう。
 しばしの、あるいは最後になるかもしれない会話としては味気ないものになってしまったが、もう広場は近づいてきている。噴水の近くに佇む男に、ジジは手を振った。
「ふふ。今度の恋は上手くいくといいな。幸運を祈ってるよ」
「ありがと。あなたも、この辺りに来ることがあったら必ず寄るのよ。本当に、待ってるから」
 互いに手を振って、別れる。
 また来たい町だと、アナスタシアは思った。

 街道に出てから、まだ一時間と経っていなかった。
 ようやく、町の周囲に広がる田園地帯から抜け出したばかりである。
 後方、ノルマランの方角から、騎馬の一団がこちらに近づいてきていた。土煙の上がり方から、およそ五十騎ほど。そしてかなり統制の取れた一団だとわかる。騎馬隊だろう。アナスタシアは街道を外れ、馬に草を食ませながら、一団をやり過ごすことにした。
 その姿が、徐々に大きくなり始める。先頭を駆けているのは上半身裸の男だと思ったが、近づくにつれ、恐ろしく胸の大きな女だとわかった。見事な馬に乗っている。二十代の半ばくらいか。しかし既にして、英雄の佇まいすら見せている。どこぞの令嬢、といった雰囲気ではない。
 騎馬隊が速度を落とした。あるいは、と思ったが、やはりアナスタシアが目的だったみたいだ。先頭の女はほとんど手綱を使うことなく、脚の力だけで馬に意志を伝えている。
「お嬢様、間違いないようです」
 脇に控える壮年の男が言った。文人肌の男だが、こちらも並の乗り手ではない。眼鏡の位置を軽く直しながら、主に次の行動を促している。
 女が、アッシェン訛りの強い共通語で言った。
「アナスタシア。あの"陥陣覇王"アナスタシアで合ってるかしら」
「そう呼ばれたこともありました。今は、ただのアナスタシアで結構です」
 女は、その身に似合わぬ軽やかな身のこなしで馬を下りた。ただ、遅れてついてきた大きな胸が、地に足をつけた後も揺れている。脇の男も馬を下りた。女ほど派手な印象はないが、この男も相当の戦士であることは伝わってくる。
 女が再び口を開いた。
「申し遅れたわ。私はジャンヌ。もっともこんなありふれた名前よりも、デュ・ゲクランと名乗った方がいいかしらね」
「あの。アッシェンの常勝将軍と名高い。お初にお目にかかります」
 アッシェンの軍人として、最高峰に立つ人間である。名乗る前から、そんな気はしていた。このような使い手に会うことなど、そうそうないことだ。
「あなたと同じで、その通り名を自分で名乗ることはないわね。けど、アングルランドの人間が呼ぶ"鎧を着た豚"ってのは、嫌いじゃないわ」
 言うとゲクランは手の平をこちらに向け、中指と薬指の間を開いたり閉じたりして見せる。子供が豚の真似をする時にやる仕草で、豚の蹄を模している。
「ぶひ。ぶひぶひ」
 アナスタシアが首を傾げていると、脇の男がたまらず吹き出した。
「ぷっ・・・くははははっ! お嬢様、そのジョークはアナスタシア殿に受けなかったようです。ぷっ・・・くくくくっ!」
「あら、滑ったってヤツかしら。嫌ねえ。でもあなたには受けたようだわ」
「お二人の様子を見ていると・・・くくくくっ! いや、失礼。私はパスカル・デュ・カトリエマと申します。アナスタシア殿が滞在された町の、領主ということになりますかな」
「おお、ゲクラン四騎将のお一人ですな。噂はかねがね。よい町です。お世話になりました」
「町を挙げての歓待も考えましたが、静かな滞在を望まれているご様子でしたので」
「お心遣い、感謝します。まさに、そういった時を求めておりました」
「ちょっと、あなたたちが私を挟んで仲良くするのを、わざわざ見に来たんじゃないんだけど」
 言いながら、ゲクランは騎馬隊を後方に下がらせた。供回りは、麾下の兵でもあるのだろう。ほれぼれするほどに、その動きは良かった。
 ゲクランに睨まれながらも、パスカルは含み笑いをしている。中々に人を食った男のようだ。
「アナスタシア、単刀直入に言うわ」
 ゲクランの口調は、いつのまにか真剣なものになっていた。不意に宿った眼光の鋭さは、尋常なものではない。
「私の軍に、入る気はないかしら。禄は、最大限の誠意を尽くさせてもらうわ」
「お断りすることになるでしょう。ですが、お話は伺います」
「私の直轄地の内、伯領を三つ。望みとあらば、隣接する子爵領と男爵領をいくつかつけてもいい」
「・・・破格ですな」
「辺境ではないわ。伯領それぞれに、栄えている町が十以上ある」
「伯爵というより、小国の主と言ってもよい身分でしょう。私には大き過ぎて、想像もできません」
「これでも、納得いかない?」
「充分にも、程があろうというものです。田舎の傭兵上がりが、手にするべきものでもないでしょう」
「欲がないわね。そういう人だとは思ってたけど」
「何故それほどまでに、私などを欲しがるのです?」
「私と、並び立つ将軍。それがいれば、アッシェンは勝てるわ」
「あるいは。しかしそれは私に対する評価とは別でしょう。アッシェンには数々の名将がおります。今は地に伏せ、飛躍の時を待っている者も少なくはないはずです」
「一つ聞くわ。軍に対する興味は、もうないの?」
 ゲクランは、アナスタシアの心情をいくらか理解しているようだった。
 アナスタシアはしばし、目を閉じた。
「完全にない、と言えば、嘘になるかもしれません。きっと、未練はあるのでしょう。しかしそういったことに疲れてしまった自分もいます。今の私には、もうあれ以上の死を背負う覚悟がないかもしれません」
 先日のフーベルトとの戦については、ゲクランも聞き及んでいるはずだ。キセルに火をつけると、ゲクランは溜息をごまかすように紫煙を吐き出した。
「・・・そうね、私も酷なこと言っちゃったわね。あなたが見た地獄が、私にはある程度理解できる。気の効かない女だと、笑うかしら」
「いえ、とんでもない。わかって頂ける方がいるというだけで、望外の喜びです。もっとも、元帥を務めるゲクラン殿の重責は、恥ずかしながら、私には想像するしかない」
 アナスタシアも、パイプに火をつけた。今度はゲクランが目を閉じる番だった。
「規模の違いこそあれ、あなたも軍の頂点に立つ人間だった。変ねえ。断られたら私、あなたのことはすっぱりと忘れてしまうつもりだったのよ。でもこうして会って、わかる。別れた後も、ますますあなたに傍にいてほしいと思うでしょうね」
 胸の下で腕を組み、ゲクランはしばし、流れる雲を見上げた。
「・・・でも、今は道が合わないみたいね。仕方ない。仕方ないか」
 瞳に少女のような憂いを漂わせ、ゲクランはキセルに口をつけた。すみれ色のドレスの裾が、軽く風に巻かれる。
「けど、あなたとはそう遠くない未来に、また顔を合わせる気がする。できれば戦場で、敵将として会いたくはないわね。もっともその時は、私の全てを懸けてあなたと対することになる」
 少女の顔は戦士に、次いで母のような変化を遂げる。孤独な、そして孤独をものともしない指揮官の顔に、やがてそれは落ち着いた。
「軍が恋しくなったら、私のとこにいらっしゃいな。私の軍はどこよりもあなたを欲してるし、何より私が、あなたを求めてる。調練を見てくれるだけでいいわ。ううん、私とお茶を楽しんでくれるだけでもいい」
「ありがたい申し出です。私もいずれゲクラン殿の愚痴を聞ける程度には、アッシェン語に堪能でありたいものです」
「最後に一つだけ、私からもよろしいですかな?」
 まるで執事のように控えていたパスカルが、胸に手を当てて言った。
「我が主は、冗談のセンスこそ壊滅的ですが、何より人を大切にする主君です。主共々、私めもアナスタシア殿とは良い縁ができたと感じております。あなたがまたこの地を訪れるようなことがあれば、家族のように迎え入れると約束しましょう。少なくとも我が主の願いは、私の望み。いずれまた、アナスタシア殿とお嬢様がこうして肩を並べる日を、何よりも心待ちにしております。本当に、我が主の冗談のセンスは壊滅的ですが」
「余計なこと、二度も言わなくていいのよ」
「いえ、そこは大事なところですので」
 ゲクラン、パスカルそれぞれと手を握る。いい出会いだったのかもしれないと、アナスタシアは思い始めていた。
 手を振って、双方は別れた。今は、道が違う。
 街道に戻り、丘を上る。振り返ると、騎馬隊の上げる土煙が、風に流されていくのが見えた。
「なあ、お前ももう、血は見たくないよな」
 愛馬の背を叩きながら、アナスタシアは言った。
「けれど、どれもいい馬だった。お前もそろそろ、子が欲しい年頃か?」
 一度だけ嘶き、馬は歩を進めた。
 顔を上げると、どこまでも続く緑の大地だった。
 馬の背に揺られながら、アナスタシアはじっと前方を見つめた。

 

つづく

前のページへ  もどる

inserted by FC2 system