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3,「慕ってくれる者より、殺す者の方が多い商売だ」

 人の住む気配を、匂いで感じた。
 馬糞の匂いである。街道のそこかしこにそれを処理した跡があり、匂いはそこからわずかだが、立ち上っている。馬糞を片付ける者がいるということは、旅の集団ではなく、この地に留まる、組織立った集団がいるという証でもあった。
 馬糞は乾燥させればいい燃料になる。糞尿独特の悪臭は、日干しして乾燥させればほとんど気にならなくなり、成形した草の塊のようになるのだ。そして草の塊よりも、よく燃える。霹靂団でも、駐屯中に出る馬糞は、極力無駄にしなかった。
 夜も更けているが、この辺りの風は、どこか生ぬるい感じがする。森を抜けてアッシェンに入った時から、そんな感じだ。夜は凍てつく冷気に身を引き締められていたアナスタシアとしては、少しねばつくような感じすらする。しかしユーロ地方全体としてはここでもかなり北に当たり、大陸に住むほとんどの者は、この場所を寒いと思うのだろう。ゴルゴナに時折行っているアナスタシアは、自分の住んでいた場所からはるか南に訪れることは珍しくないものの、基本的に列車の旅で、馬を連れての一人旅でこの辺りを巡ったことはない。
 僅かに蛇行する街道を進むと、不意に遠くに灯りが見えた。
 集落だった。街道から少し外れた所にある。アナスタシアはそちらに馬首を向けた。両脇に、黒い土の畑が広がっている。
 この時期にこの地域では、どんな作物を植えているのだろうか。畑に生っているものはないが、畝は作られていた。幾重にも連なったそれは、こちらに向かって打ち寄せる、夜の海の波のようにも見える。ただ、その時間は止まっていた。
 手綱を引き、宿になりそうな建物を探す。苦労することはなかった。唯一明かりを灯している建物は、酒場である。二階に宿があるはずだろう。人のいる気配もあった。近づくと、中から声が聞こえてくる。
 厩に向かうと、脇に小屋があった。厩の奥から出てきた小僧に、アナスタシアは声をかけた。
「宿を取りたい。あれは、風呂でいいのかな?」
「そうですよ、旅の方。沸かしておきますか? 少し時間がかかるので、中で食事でもいかがです?」
「ああ、そうするよ」
 こんな時間に具足姿で現れたアナスタシアを見ても、小僧に慌てた様子はない。傭兵や冒険者など、見慣れているのかもしれない。
 小僧に銀貨を一枚渡した。少し多かったのか、小僧は目を輝かせてそれを受け取った。
「馬のお世話も、お任せを」
「いや、それは自分でやるよ。おとなしいようで、少し気難しいのだ、こいつは。道具を借りるぞ」
 空いている場所に繋ぎ、積んでいた物を下ろす。馬甲は、店で預かってくれるようだ。一通り世話を終えた後に、酒場の中へ入った。
 人はまばらながらも、どの卓も埋まっていたので、カウンターの隅に腰掛けた。若い女給に戟と剣を渡したが、手慣れた様子でカウンターの奥に立てかけた。卓にいる傭兵たちは帯剣したままで、他に武器を預けているような者はいないようだった。鎧を預けても置く場所がなさそうだったので、胴鎧と肩当て、腕甲を外して席の下に置く。ほっと一息ついて、荷物からパイプを取り出した。
 女給が注文を聞きにくる。
「宿は、いくらかかる?」
「個室は、ちょっと高い部屋しか残ってないんですよ。鍵はちゃんとしてます。女性ですし、そこでいいですよね?」
「いいよ」
「斧銀貨で二十枚、ゴルゴナ銀貨で銀貨十枚になります」
 斧銀貨とは、アッシェンの通貨である。アッシェンの象徴、斧が刻印されているので、そう呼ばれている。
「確かに、ちょっと高いな。ま、仕方ないか。それに旅の身なんで、ゴルゴナ通貨しか持ってないんだ。あと、煙草の葉はあるかな」
「ありますよ。マスター!」
 呼ばれた酒場の主人がこちらにやってきて、カウンターの裏から刻んだ葉の入った箱を取り出す。長旅になるので、箱ごと買った。早速パイプに葉を詰める。女給は別の卓に呼ばれて行った。
 紫煙を吐き出す。いつも吸っているものより甘く独特のくさみがあり、あまりアナスタシアの好みではなかったが、他に選べるものもないようなので、当面はこれで我慢するしかない。
 飯は適当に注文し、少し店内を見回してみた。十人ほどが村人で、帯剣している三人ほどは、先程も思ったが、多分傭兵だろう。暖炉の前を占拠している。
 ほどなくして、パンと林檎酒、羊肉の欠片が入ったシチュー、キッシュが運ばれてきた。簡素だが、なかなか気持ちのこもった料理である。今はそれを、一層美味いと感じる。店で出るような、きちんと下味の付いた料理を食べるのは久しぶりだ。追手が来るかもしれない可能性を捨てきれず、途中の馬車宿等は通り過ぎてきたのだ。
「冒険者さんですか? それとも傭兵さん?」
 暇になった女給が、アナスタシアに話しかけてきた。
「元は傭兵、といったところかな。廃業して、今は西に向けて旅をしている」
「あ、ここの傭兵隊に入りに来たって感じじゃないんですね。パリシ解放の兵に直接応募するんです?」
「ん、傭兵隊? 近くにいるのか」
 答えようとした女給だったが、他の客に呼ばれ、また卓の方へ行ってしまった。
 やはり近くに、それなりの規模の兵が駐屯しているのだろう。先程感じた馬の気配に、間違いはなかったようだ。
 あまり目立ちたくはない。今晩はここで泊まるつもりだが、夜明けと共に出発してもいいかもしれない。既にアッシェンに入っているものの、フーベルトの領地ザーゲル州からも、そんなに離れていないのだ。
 しかしあの男が、暗殺者のようなものを使って、自分を追うだろうか。ただアナスタシアを殺したいだけなら、あの戦の前に暗殺を謀ってもいいはずだ。武人としての誇りにこだわる男でもある。あの戦でも一度、直接首を獲りに来た。兵の追撃を振り切った時点で戦としての戦いは終わり、それでアナスタシアのことを割り切ったという気がする。
 が、あまり予断は持てない。それを覆すのがあの男だということも、わかっているからだ。武人か、為政者か。後者なら、まだ安心はできない。
 そこでふっと、死ぬならそれでもいいという、投げやりな気持ちも頭をもたげてきた。
「はい、これはサービスよ」
 目の前に、肉の皿が置かれた。大きさはまちまちながら、羊の骨つき肉のようだった。
「今日は、余りそうだったから。せっかく新鮮なまま仕入れたのに、賄いで食べちゃうのももったいないって思ってね」
「いいのか? これはチップの方が高くつきそうだ」
 言うと、女給はおかしそうに肩をすくめた。いつの間にか女給の態度は砕けたものになっており、アナスタシアはそれを心地よく思った。
「お客さん、まだ若いのに、歴戦の兵士って感じ。軍は長いの?」
「十年くらいかな」
「え、ほんの小さい時から、兵隊さんだったの?」
「ああそうか、少し童顔らしいので、若く見られてるのかな。今年で二十一になる。十歳やそこらで親の仕事を手伝うなんて、今時でも珍しくないだろう?」
「あら、私と同い年だったのね。そうね、それなら、私は八歳の時から父さんのことを手伝ってるわ」
 女給はちらりと酒場の主人に目をやる。なるほど、主人の娘らしい。
「仕事をしてきたという点では、私より先輩だな。それより、一杯おごらせてもらうよ。それとこの肉は、美味い。お前もつまんでくれ」
「あら、男前ね。じゃあお言葉に甘えて」
 女給と、他愛のない話をする。村に同年代の娘がいないそうで、同い年のアナスタシアと話をすることを、心底楽しんでいるといった様子だった。
「お前は、客商売に向いてるよ」
「あら、どうして?」
「先程まで、少し、嫌な気分になっていた。頭の中に、霧がかかるというか。お前が来てくれてとりあえずしばらくは、そういったものにつきまとわれなくてすみそうだ」
「なんか、大袈裟な話ね。でも、そうね、ちょっと落ち込んでいるように見えたから。そういうの、放っとけなくてね」
 がたり、と椅子から立ち上がる音がした。三人の傭兵の卓からだった。
「おいおい、俺たちだって落ち込んでんだ。それとも何か? 俺たちへのサービスは、ベッドの上でか?」
 酔った一人がこちらにやってくる。嫌な笑い声を上げながら、女給の腕を掴んだ。
「ほらほらお客さん、ちょっと酔い過ぎですってば」
 困った愛想笑いを浮かべながら、女給は男の腕を振りほどこうとする。カウンター越しに、アナスタシアはその男の腕を、軽く指で弾いた。ぎゃっと悲鳴を上げ、男がうずくまる。
「何で落ち込んでいるのかは知らないが、腹いせに女に手を出すのは、見ていて気持ちのいいものではないな。嫁か、母君が天へ召されでもしたのか? 気の毒だが、仮にそうだとしても、嫌がる女に手を出すものではない」
 残りの二人も、椅子から立ち上がった。剣呑な空気が、酒場に充満し始める。男たちは剣の柄に手を伸ばしている。
「てめえ、傭兵か何か知らないが、あまり調子に乗るんじゃねえぞ。今すぐてめえも、上の部屋に引きずり込んでやってもいいんだぜ」
「調子なら、すこぶる悪い。溜まっているのだったら、すぐに上の部屋に行って済ませてこいよ。私だって、我慢できなくなったらそうする」
 少し呆気にとられた様子の三人だったが、顔を見合わせた後、椅子に座ったままのアナスタシアを取り囲んだ。
「べっぴんってわけじゃねえが、今晩はお前で我慢してやるよ。ちったあ鍛えてそうだな。体力には自信があるんだろ?」
「お前たちよりかは、いくらか。力ずくはやめておけよ。怪我をさせてしまう」
 一人が、アナスタシアの肩を掴んだ。さてどうしたものかと思っていると、酒場の扉が開いた。
 入ってきたのは、五人の男女だ。男の一人はドワーフで、ならず者たちに囲まれていたアナスタシアには、初めその姿が見えなかった。
 しかし三人はそのドワーフの顔を見た途端、ばつが悪そうな表情を浮かべ、アナスタシアから手を離した。
「やれやれ、やはりお前さんたちは入れないで正解だったの。入れたところで、一日と保たずに音を上げていただろうが」
 ホッホッと笑いながら、老ドワーフが言う。しかし次の瞬間、そのドワーフの目が大きく見開かれた。
「お前さんたち、無茶もいい加減にしないか。わからんのか。その御方は瞬きひとつしない間に、お前さんたち三人の首をへし折ることができるのだぞ」
 ドワーフの薄茶色の瞳は、アナスタシアをぴたりと捉えている。ただならぬものをそこに見たのだろう。男たちは渋々といった様子で、店を出て行った。
「あの男たち、ちゃんと勘定は払ったのか? おまけに上に行くんじゃなく、店の外に出て行ったぞ。今夜は野宿かな」
「え、ああ、うん・・・」
 アナスタシアが声を掛けても、女給は上の空といった様子だった。
「ご老公、助かりました。お連れの方も一緒に、一杯おごせらせてもらえませんか?」
 アナスタシアは、ドワーフと残りの者たちに言った。一人を除いて、はっとするほどの猛者である。その一人は気を抑えるのが上手いのか、本当に弱いのかはわからない。
「驚きました。これほどの使い手を余所で見るのは、何年振りじゃろうか。名のある御方とお見受けいたしますが」
 向こうは、すぐにアナスタシアの力に気づいていたようだった。連れの一人、黒い髪の女は警戒しているのか、こちらを怖い目で睨んでいた。
「北の地で、通り名のようなものは持っていました。おこがましいもので、とても自分で名乗ろうというものではありませんでしたが」
 五人の内訳は、ドワーフを含め男三人、娘二人だ。
「陥陣覇王・・・」
 男の一人、三十前後の男がつぶやいた。老ドワーフは何度も頷いている。
「ええ。ゆえあって、今は放浪の身です」
「まさかとは思ったが、本当に。いや、違う名を名乗ったところで、そうだと確信しておりましたぞ。では、噂は本当だったのですな」
 北の地での戦の噂は、こんなところにも届いていたようだ。大陸鉄道が敷設されてから人の噂は驚くほど速く伝わるようになったというが、アナスタシアは今まさに、それを実感していた。
「申し遅れましたが、わしらは傭兵をやっている者です。青流団、と言えば、おわかりになるでしょう」
「この時代を生きる者なら、その名を知らぬ者はおりますまい。で、あなたが団長代理を務める、ベルドロウ殿ですか」
 アナスタシアが率いていた霹靂団は、北で最強と言われていた。そして大陸最強と言われるのが、青流団なのである。
「いかにも。おお、これは何と申し上げてよいものか・・・」
「あらためて、アナスタシアです。お会いできて光栄です。駐屯している傭兵隊というのは、青流団だったのですね」
 ベルドロウが、残る四人を紹介する。
 まず男の一人、四十前後の、少しとぼけた戦士が、ルーク。歩兵の大隊長をしているそうだ。
「いやいや、あのアナスタシア殿に会えるとはねえ。俺はルーク。よろしく頼みますぜ」
 もう一人、三十歳くらいの男が、ジュリアン。目元が涼しげで、どこか戦いに向かない感じもするが、しっかりとした顎と意志の強そうな口元が、その印象を戦士のものに変えている。騎兵指揮の大隊長であった。
「ジュリアンです。お初にお目にかかり、光栄です」
 娘の一人、ルチアナは、鳥肌が立つほどの覇気を漂わせている。そしてそれを隠そうともしていない。挑みかかるように、アナスタシアを睨みつけていた。
「なんと、ルチアナ殿は、まだ十四歳か。私と同じくらいかと思っていた。その若さで、大変な実力をお持ちだ。隊の次代を担う者として、これは期待が持てますね」
「ホッホッホ。ほれ、ルチアナ、そんな怖い顔をしないで、ちゃんと挨拶なさい」
「・・・ルチアナです」
 差し出された手を、握る。やわらかいが、力強い。若さか、とアナスタシアは思った。
「私は、アニータっていいます。こう見えても、ルチアナ姉さんとは双子の姉妹なんですよ。私が妹で。よろしくお願いしますね」
 最後の一人アニータは笑顔で、アナスタシアの手を両手で握ってくる。こちらは年相応の、よくいる愛らしい娘といった感じだ。程々に剣を使えることは挙措の端々に出ているが、あの青流団の一員としては少し心許ない。聞けば、入団を認められたのも、ルチアナの妹として、そしてその出自に関係しているらしい。二人の外見は、まったくといっていいほど似ていない。
「姉さんは、ちょっぴり父さんに似てるかな。私は、母さんにそっくりなんですよ。父さんがロベルトで、母さんが、アンナ。二人の名前、聞いたことあります? あたし、セシリア・ファミリーってとこの生まれなんですよ」
「おお、あの・・・」
 アナスタシアの胸を、ちくりと刺すものがある。もちろん、その名は知っていた。アニータはアナスタシアの隣りに腰掛け、話を続ける。他の者も、カウンター席に並んで座った。
「ファミリーで育ったんで、私一応、武術の基礎はできてるんですよ。さすがに、姉さんほどじゃないですけど。すぐに、みんなの足を引っ張らないようになると思うんです」
「強くなるにこしたことはないが、今のままでも、きっといい戦力だと思う。お前みたいな者がいると、周りは守ってやらなくてはと力が出るものだし、平時においては場が華やぐ。そういうものも、いい軍には必要なのだ。ベルドロウ殿、いかがです?」
「まさしく。それにこの子は、思ったよりできますぞ。たまに調練に身が入ってない時がありますが、年頃の娘です。しばらくは大目に見てやろうと思います」
 それからは、アナスタシアの話になった。先日の戦についてである。ルチアナはアナスタシアから一番遠い席で、不機嫌そうにカウンターの染みを睨みつけていた。
「疎まれましたかな、女帝に」
「そのようです。そして多くの同胞を手にかけることになった。私は私を、許せないかもしれません」
 ふっと黒い霧がアナスタシアの胸中に立ちこめ始めた刹那、外にいた小僧が入ってきた。風呂の準備ができたらしい。アナスタシアが荷物をまとめていると、ベルドロウに声をかけられる。
「ここと西の村の間に、わしらの幕舎があります。明日、我々の調練を見ていきませぬか。団を失ったばかりのアナスタシア殿にこんなことをお願いするのも酷かもしれませんが、稀代の英雄というものを、一度隊の連中に見せてやりたいのです」
「英雄ではありませんが、お安い御用ですよ。私も一度、青流団を見てみたいと思っていたのです。宿を出た後、伺いましょう」
 女給に声を掛け、預けていた武器を受け取る。
「あ、あの・・・アナスタシアさん、すごい人だったんですね。あの、青流団の人たちが・・・」
「いきなり、かしこまるなよ。お前と同じ、小さい頃から親の仕事を手伝ってきた、一人の娘さ」
「そ、そう言われるとそうなんだけど、あなたの場合、たくさんの人から尊敬されているみたいだし・・・」
「確かに、団の人間は、私を慕っていただろう。長である以上、そうあることが求められるからな。剣の道を歩む者も、私の名前くらいは知ってるだろう。だが、慕ってくれる者より、殺す者の方が多い商売だ」
 何も言わず、女給は頷いた。
「こう見えても、飯を作るのが何よりも好きでな。少し、口うるさい方でもある。今日ここで食べたものは、どれも美味かったよ。いつか店を出すのが私の夢だが、こんな心尽くしを出してみたい。苦労の多い商売だろうが、私はお前を、少しまぶしく感じる」
 言われた女給は、目を大きく見開いた。
「あ、明日の朝食、楽しみにしてて」
「ああ。楽しみにしてる」
 言うと、女給は弾けるような笑みを浮かべた。


 空の青は、既に春めいたものになりつつある。
 地図の上ではスラヴァルから大きく南に来たわけでもないのだが、グランツの森を抜けた後は、昨夜同様、夜も寒いと感じなくなっていた。昼前の今の時間だと、暑いと感じてしまうくらいだ。
 調練を見た後、鎧櫃を譲って欲しいとベルドロウに頼むと、物資を集めている場所へ案内された。
「旅の身ですと、箱のものより革のものの方が良いですかな?」
「ええ、そちらの方が助かります」
 購うつもりだったが、譲ってくれるらしい。長い旅を考えると路銀は節約したいところで、アナスタシアにとってはありがたい申し出だ。
「金は、パリシで少し下ろせると思っていたのですが。思っていたよりも、厳しい締め付けにあっているようですね」
「金の流れは、アングルランドによって管理されております。スラヴァルの人間が預金を下ろすのは問題ないかもしれませんが、アナスタシア殿がパリシにいるとわかると、少々面倒くさいことになるかもしれませんのう」
「身分を偽ると、そもそも金が下ろせませんしね」
 アングルランドとアッシェンの百年戦争はひとつの大きな山場を迎えており、アッシェンの首都パリシは、現在アングルランド軍によって包囲されている状況だ。あの大都市を軍によって完全包囲するのは容易ではなく、しかしアングルランド軍は城壁の外に分散展開、出てきたアッシェン軍をその都度叩く、というような戦が続いているらしい。兵力を落としすぎると市内にアングルランド軍が侵攻してくるため、アッシェン軍は籠城のような形に追い込まれている。
 そして、出入りする人や物資は全てアングルランド軍によって検閲されているとのことだ。徒歩で商いをするような小さな規模の行商人や職人は簡単な荷物検査で済むようだが、商隊の物資は出入りが出来ない。出来ても、高い税を取られる。これらが積み重なってパリシの経済は深刻な傷を負っており、高騰した物資を巡って、打ち壊しのようなことまで起こっているのだという。当然、賊も横行していることだろう。
 話を聞く限り、これは効くなとアナスタシアは思った。完全な包囲ではないところが肝で、市を囲むには少ない兵力を、外部からの収入によって養っている。完全包囲なら何十万という兵力が必要だろうし、そんな軍の補給など、あまり長い時間は維持できない。が、今の形を続ければ、パリシが内側から瓦解するまで、何年でも包囲を続けられる。
 実に、戦略的な戦である。"戦闘宰相"として名を馳せるあのライナスが直接指揮を執っており、パリシ内の軍だけでこの現状を打破することは不可能だろう。パリシ市内にはあの"アッシェンの光"と呼ばれる名宰相ポンパドゥールがいるものの、こちらは政治と行政でのみ手腕を発揮してきた女だ。政治的才能があり、戦場でも名将と言われるライナスとは、役者が違う。逃亡に成功し、パリシ解放の軍を募っている若過ぎるアッシェン王と、それを指揮することになっているアッシェンの常勝将軍ゲグランがどう動くかで、アッシェンの命運が決まる。
「これなど、いかがですかな?」
 木箱の並ぶ天幕の奥から、ベルドロウが革の鎧櫃をひとつ取り出す。大きな革袋に見えるが、中に竹の骨組みが入っており、組み立てれば鎧一式を仕舞うことができるというものだ。
「助かります。しかしあらためて、鎧はかさばるものだと気づきました」
「ホッホッホ。アナスタシア殿にして、今でも武具に関する発見があるのですな」
「旅と行軍は違うのだと、あらためて。なにやら、平時にこれを着て暮らすのにも、慣れてきたところだったのですが。こんなものを着て過ごす冒険者たちの気が知れなかったのですが、慣れてしまうと思ったよりも気にならないものですね」
「冒険者の鎧は、日常でも暮らせるよう、色々と工夫がなされておりますからのう。最近は、洒落っ気を効かせ過ぎたものが多いような気もしますが」
「生き方が、そもそも酔狂なのだと思っております。粋であるとも。私など、面白味に欠ける人間性が、そのまま出てしまっている」
「武骨である。若い女性にこんなことを言うのも失礼かもしれませんが、アナスタシア殿のような生き方こそ、今のような時代には、大切なもののように思えますぞ」
 自分よりもずっと多くの生と死を見つめてきた歴戦の将にそう言われると、アナスタシアもそれでいいのだという気がしてきた。
 ベルドロウは一見ドワーフの好々爺に見えるが、団長のロサリオンがいなくなった後も、軍の無敗を支える、まさに名将であった。代理とはいえ、大陸最強の傭兵団の大将なのである。
 時間があれば、この老ドワーフと、エルフのロサリオンの繋がりについて、話を聞いてみたかった気がする。ドワーフとエルフは、第一世界帝国以来の、犬猿の仲である。最近でこそ両種族の間にも交易を介した繋がりがあるというが、感情的には互いに相容れないものがあると聞く。それでも、ベルドロウとロサリオンの間には、今もこうして老ドワーフを待たせておけるだけの絆がある。
 天幕を出ると、昼食の準備だろう。いい匂いが漂っていた。午前の調練を終えた兵たちが、幕舎のあるこちらに、戻り始めている。
 ベルドロウと一緒に、配給の列に加わった。大将でも兵と同じものを食べるという姿勢は、老ドワーフの人となりを表している。アナスタシアの話は充分伝わっているのだろう、行き交う人々に声をかけられたり、熱狂的な眼差しで手を握られたりした。
「ところで、青流団はしばらくここに?」
 今はアッシェン側についていると聞いていたが、今後の予定については知らない。
「ゲグラン殿に雇われておりましてな。あと一戦だけ、参戦することになっております。おそらく、パリシ解放軍に組み込まれるでしょうな」
「なるほど。その後は?」
「わかりません。全ては、団長次第です」
 青流団は今も、ロサリオンの帰還を待っている。ゆえに雇用主との契約は、短期か数戦程度にとどめているのだろう。
「ロサリオン殿の噂は、最近あまり耳にしません。今も、冒険者を?」
「ですな。といっても今は、奥方の病床の世話に専念しているようです」
 青流団団長にして長い間最強の武将の一人だったエルフのロサリオンは、人間の妻を娶り、傭兵をやめた。冒険者になってからの彼の活躍は、大陸五強に数えられる者としてはそれほど華々しくなかったものの、あの新世界秩序の崩壊に貢献した英雄の一人だ。
 そして当時から今もなお大陸五強に数えられる、唯一の戦士でもある。
「待っているのですね、今も」
「待っていますとも。もっとも、団長がやめられた当時を知っている人間は、一人もいなくなってしまいました」
「ドワーフと、エルフの兵たちは」
「何人か失いましたが、今も同じ気持ちです」
「羨ましい話です。ロサリオン殿が」
「アナスタシア殿は、今後どうされるご予定で?」
「当面の目的は西に向かい、縁のあった人に会うことです。その後は、どこかで美味い料理を出す酒場でもやりたいと思っています。私個人で貯めてきたものが、店を開ける程度にはありますので」
「あなたほどの将が、もったいない、などと気軽に言ってはいけないのでしょうな。恬淡としたご様子ですが、ひどく傷つかれたことでしょう」
「そう見えますか。実際、終わる時はこんなものかと思っていたのですが、時折、何もかもどうでもよいと感じてしまう時もあるのです。こんなことを話せるのも、あなたが偉大な将だからでしょうね。尊敬できる人物は今でも大勢いますが、仰ぎ見ることができる軍人というものに、長らく出会っていませんでした。部下に感じる敬意は、またそれとは違うものですし」
「将としては、アナスタシア殿の方がわしより遥かに上でしょう。しかしこの爺、若き姫君の悩みを聞けるくらいには、年を重ねてきたつもりですので」
 言って、ベルドロウは笑った。
 本当の父とは違う意味で、父親のようだとアナスタシアは思った。ここにいる兵たちも皆、この老ドワーフにそんな感情を抱いていることだろう。
 ベルドロウの後について、本陣の天幕の横に用意された席についた。ゆっくりと昼飯を味わっていると、ルークとジュリアン、それにルチアナとアニータの姉妹もやってきた。姿を現す直前に、何故私が?というルチアナの声が聞こえた。ルチアナはアナスタシアに向けて軽く会釈をしただけで、以後は目すら合わせようとしない。
「姉さんと食べるの、久しぶりだね」
 アニータがうれしそうに笑っている。
「どうでした、大将。俺たちの動きは」
 歩兵を指揮していたルークが、話しかけてくる。仰ぎ見られるのも指揮官の素質のひとつだが、逆にこの男の気さくさのようなものは、兵にとって救いとなることが多いだろう。
「さすがだな、と思ったよ。壁のようにもなり、楔のようにもなる。遊んでいる兵がいないにも関わらず、無駄な力を使わせない。歩兵とはこうあってほしい、という用兵だった。青流団の名の如く、水のような動きだと思ったな」
「へっへ。大将にそう言われちゃ、悪い気がしません。でもせっかくウチの調練見てってくれたんですから、気づいたことを言って下さいよ。俺たちは、俺たちの戦しか知らないって言ってもいい。戦相手から何かを学ぶには、俺たちは強くなりすぎた。大陸五強の大将だ。勉強させて下さい」
 アナスタシアは、どうしたものかと思案した。が、ルークに頭を下げられては、気になったところを話さないわけにはいかない。
「では、私なりに気づいたところを、ひとつ。ルーク殿の歩兵は、もう少し騎兵を頼ってもいい気がしたな。普段は気を遣わずにすむ、いい指揮官なのだと思う。それゆえに戦の場では、逆にルーク殿に気を遣う者が出てくるのだ。ベルドロウ殿を除けば、割合年長の指揮官だというのも、あると思う。歩兵に気を遣う軍は、どこか決定力に欠ける。騎兵が道を切り拓き、歩兵が決める。これが戦の基本ではないかな」
 じっとアナスタシアの話を聞いていたルークが、うれしそうに頭を掻いた。
「いやあ、さすが。なるほど、なるほどねえ。わかる、わかりますよ。そういうことか。ちょっと、騎兵の動きが固いと思う時があったんですよ。それは、騎兵の連中の問題だと思ってた。違うな。今、それがわかりました」
 飄々としているが、どこか冷めた印象のあったルークの目が、輝いている。気づいたか、何かを取り戻したのだろう。騎兵を率いる、二人の大隊長に向かって言った。
「これからは好きに動いてくれって言っても、そうすぐにはいかないだろうなあ。でもこれだけは信じてくれよ。お前らがどう動いても、俺の歩兵は必ずついていくからよ」
 隣りにいたジュリアンが、しっかりと頷く。しかしルチアナは、我慢ならないといった様子で、肩を震わせた。
「気に入りません。いくら大陸五強の一人、名将と言われた方といっても、私たちのことを何も知らない人間が、私たちの用兵について知ったようなことを言うのは、納得がいきません」
 いきなりそう言われてアナスタシアは少し驚いたが、他の者の様子はそうでもない。やれやれといった調子で、ベルドロウが首を振る。なだめようとしたアニータの手を、ルチアナは鋭くはたいた。
「いや、まさにルチアナ殿の言う通りだ。申し訳ない。私は、それぞれがどんな思いで戦っているのかを知らない。ただ一度調練を見ただけで、軽々しく言うべきようなことではなかったと思う」
「おやめください、アナスタシア殿。客人に頭を下げられては、わしらの立つ瀬がない」
「何故みんなこの女のことを、まるで新しい団長を迎えたかのようにもてなすんです? ロサリオン殿がいないのなら、ベルドロウ殿が大将です。ロサリオン殿が帰ってこないというのなら、私が団長となります。少なくとも私は、そういう気概をもって、戦に臨んでいます」
「もうやめないか」
 立ち上がった少女の肩に手をかけたジュリアンだったが、ルチアナはその腕を振り払い、アナスタシアを睨みつける。
「すまなかった。私はルチアナ殿の気持ちも、忖度できてなかった」
 アナスタシアは心の底から詫びたが、それが逆に、ルチアナの怒りに火をつけてしまったようだ。さらに何かを言おうと、口を開きかける。
 パンパンと大きく手を叩き、ベルドロウが立ち上がった。
「ふむ、そういうことならルチアナ、アナスタシア殿と演習で競ってみればよかろう。この御方の力は、いくら話したところでお前には納得できまい。今のお前は、アナスタシア殿を斬りつけてしまいそうな勢いだ。そんなことは、決して許さんぞ」
 拳をぎゅっと握り、ルチアナは答えた。
「いいでしょう。この女に負けるようなことがあったら、私はここをやめます」
「いや、ルチアナ殿、それは困る」
 アナスタシアは言った。ベルドロウに上手く乗せられてしまったが、それはそれでいいと思った。
「万が一にでも私が勝ってしまったら、未来の団長の芽を摘んでしまったことに、責任を感じる。その言葉を撤回できないのなら、私は確実に負けなくてはならない。逆だよ。私が勝ったら、なんとしても青流団の団長になってみせると、そう誓ってくれ」
 怒気をはらんだ目で睨みつけてくるルチアナの顔は、憤りで蒼白になっている。
「この女、どこまで、私を馬鹿にすれば・・・いいでしょう。では私が勝ったら、あなたには青流団の団長にでもなってもらいましょうか。そして私を奴隷のように扱えばいい。すぐにでも始めましょう。兵にすぐ集まるよう、声を掛けてきます」
 背を向け、ルチアナは去っていった。
「申し訳ない。まさかこんなことになろうとは」
 ベルドロウが頭を下げる。アニータはおろおろと手を揉みしだいていた。
「いえ、昨晩初めて会った時から、彼女は私に敵愾心のようなものを持っていたようです。それが何故かは、今は考えないようにします。どうあれ私がここに足を運んだ時点で、衝突は避けられなかったのでしょう。ここまで、ベルドロウ殿は推測を?」
 あくまで想像だが、おそらくルチアナは普段あまり兵と食事を共にすることがないのだろう。指揮官ともだ。怒りで隠そうとしているが、ルチアナからはどうしようもない孤独を感じた。不意の来客であるアナスタシアに向けられる敬意の目に、あの指揮官は耐えられなかったのだろう。
「ここまでは、さすがに。しかしルチアナのことは、アナスタシア殿に相談したいと思っていました」
「負けたことがないのでしょう。あるいは、そう思ったことが。アニータ、彼女はここに来る前は、どうだったのだ?」
「姉さんは・・・身体が大きくなってから、誰にも負けなくなってしまいました。父さんにも、師範のナザールおじさんにも」
「ふむ。しかしセシリア・ファミリーには、今も猛者が集っているはずだが?」
「本気でやったら殺し合いになっちゃうからって、誰も鍛錬に付き合えなくなっちゃって・・・フェルサリさんが、随分根気よくお話してくれたんですけど、それでも駄目で。あの人が言い出したんです、もっと広い世界を見せてあげる必要があるって。最初は、冒険者になるよう、勧めてくれたんですけど」
 それすら断り家を出、今ここにいるというわけだ。
「狷介なのだろう。子供の時分に剣を極めてしまった。そして、孤独なのだろうと思う。私もそんな人間に勝てるのかどうかは、やはり微妙なところだな」
 アナスタシアは立ち上がり、溜息をついた。
「ともあれ、乗りかかった船です。今更逃げ出しても、彼女を余計に傷つけてしまうだけでしょう。ベルドロウ殿、兵の手配を」
 アナスタシアが言うと、老ドワーフは深く頭を下げた。

 

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