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2,「なぜ人は瞬く星々に目を奪われて、その周りに無限に広がる闇に気がつかないのだろうな」

 席に着くと、向かいの男と顔を合わせることになる。
 面倒くさいと嫌がる素振りを見せていたものの、ジルは実のところ、この週に一度の晩餐の席が、それほど嫌いだったわけではない。ただ、目の前の男が不快で、それだけで全てが嫌になる。
 レヌブラント伯の一人息子、イポリートである。趣味は狩猟だそうだが、ジルのことをいつも、獲物であるかのような視線で舐め回す。初めは自分の勘違いだと思おうとしてきたが、そんなことはなく、最近は露骨なことを口にして、ジルを苛立たせていた。
「アングルランドとの絆を一層深める為にも、我々は一つになっても良いかと思うのだが、ジル殿はどうなのかな?」
 自分が何を言っているのかわかっているのか。燭台を投げつけたい気分を、ジルはよく焼けた羊肉と一緒に飲み込んだ。
 左に顔を向けると、長く連なる晩餐の席が見えた。ジルたちのいる席から大扉の手前まで、この卓は連なっている。一番扉に近い側に、ゲオルクとアーラインの席がある。今日は、いつもより遠く感じた。ジルの視線に気づいたゲオルクが、楽しんでいるかと問いかけるように、こちらに杯を掲げた。
「父上は、どう思われる?」
 イポリートが、斜向いのレヌブラント伯、バルタザールに問いかける。このレヌブラント伯が唯一卓の辺の狭い方、主賓の席に座っており、彼から向かって斜め右の席にイポリート、斜め左がジルの席である。席次の決め方は地域によって異なるそうだが、ここレヌブランでは、ジルの席次はバルタザールに次いで第二位の席を与えられている。
 イポリートの問いに、大きな身体を丸めて座っているバルタザールは、曖昧に首を振るだけだった。
「私の一存では、そういうことは決められぬのだ」
「なるほど。これはまさしく男女の間の話と、父上はお考えになっているわけですね」
 植民地と、宗主国の関係だと言いたいのだ。ジルは内心毒づいた。そんなこともわからないのか、下衆め。
 イポリートの芝居がかった口振りも手伝って、傍から見ればただのつまらない喜劇かもしれないが、舞台に上がらされているジルにとっては笑う所のない悲劇である。
「聞き遅れました。バルタザール殿、今週の定期報告を」
 まだ話を続けようとするイポリートを無視し、ジルはバルタザールに目を向けた。この領内の定期報告は、形式半分、本来の意味合いが半分といったところである。
 形式にも二つの意味合いがあり、一つ目は、領内で不穏な動きがあれば逐一手の者がジルに報告する手筈になっている為、この場で領主から直接そんな話を聞く必要がないのである。形式のもう一つは、これを行わせることによって、どちらが支配国か、関係性をはっきりさせているというものだ。政治的には、これが大きいのだろう。
 そして本来の意味合いとは、逆に手の者からは上がってこない、領主にしかわからない視点というものがあり、そういう話はこの男から直接聞くしかない。
「特に、大きな話はございませんな。ただ、今年は良い林檎が採れそうだとのことです」
「ほほう。こんな時期から、もうそんなことがわかるものなのですか」
「携わっている者たちには、わかるそうです」
 北ユーロの中でもさらに北にあるこの地域では、酒は葡萄酒ではなく、林檎酒が主である。葡萄を作付けするには、この辺りは寒すぎるのだ。
 林檎は、羊毛の加工と並ぶほどの、レヌブラン地方の基幹産業である。村の人間が雑談でもするように気軽に口にしたバルタザールだが、言葉の響きと裏腹に、意味するところは小さくない。
 政治や経済は、ここに派遣されるまでそんなことにさえ目を向けてこなかったジルにとって不得手な話だが、この程度のことは理解できるようになっていた。
 向かいの席でワインを水のように飲み干している男には、その葡萄酒がどこから来たのかも、わかっていないだろう。林檎に付いた虫だな、とジルは思った。そのイポリートが口を開く。
「そう言えば、ジル殿はかの武名高き大陸五強のお一人なのだろう? 私は前から疑問なのだ。五人いるはずなのに、よく聞く名は四人だけだ」
「珍しいことを聞かれる。武術の世界には関心がないと思っていましたが。ではまず、その四人についてはご存知なのですか」
 舌打ちを抑え、ジルはイポリートに問い返した。もう少し、バルタザールの話を聞きたかったのだが。
「ええと確か・・・"青の円舞"ロサリオン、"熱風拍車"ウォーレス、"陥陣覇王"アナスタシア・・・そして、"弾丸切り"のあなただ」
「ご名答です。通り名も知ってらっしゃるのですね」
「まあ、私も馬鹿ではない」
 名前くらいは知っているんだなという皮肉を投げたつもりだったが、この男の面の皮の厚さには、そういうものは無意味なようだった。
 林檎酒の杯で口元を隠しながら、ジルはバルタザールの方を見ずにはいられない。熊の様な巨体を屈め、無言のままであったが、顔はジルの方を向いている。
 この男も、かつては大陸五強に数えられるまで、あと階一つというところまで武を極めていたのだった。当時はアッシェンに属していたレヌブラン地方は、アングルランドとアッシェンが唯一陸路で繋がっている地域であり、対アングルランドの防波堤であった。
 レヌブラントの戦いは近年の百年戦争では最も規模の大きな戦争であり、この男、レヌブラント伯バルタザールは、ジルの父であるリチャード王と戦い、敗れた。
 掌砲セシリアが現役から退いた直後でもあり、次の五強と目されていたバルタザールだったが、リチャードに敗れた時の負傷が元で、以来剣を握っていない。もう剣を握れないほどの重傷だったと聞く。
 本人に直接その時の話を聞いてみたいと思っていたが、それは単に傷口を抉ることにしかならないと思い、控えてきた。武人としてのバルタザールは、十年前に死んでいるのだ。
 ただ、共に大男であった二人の戦いは、熊が丸太を振り回しているようにも見えただろうと、そうジルは想像している。
 そのバルタザールが、話を促すようにジルを見つめている。くすぶったまま、まだその身には武人の血が流れているのか。バルタザールを気遣ってこの手の話題は避けてきたが、本人が聞きたいというのなら、少しばかり不肖の息子の話に付き合ってもいいだろう。
 パンをスープに浸しながら、ジルは話を続けた。
「まず、たとえば何か特定の機関のようなものが決めて、五人を選んでいるわけではありません。民の間で、そんな話で盛り上がっているというようなものなのですよ。五人目の名前がないというのは、単に民の間で、誰を五人目とするかで話が分かれている、そんな感じです」
「ふむ。その五人目は、例えばジル殿のような強者に比べて何かが劣る為、決めあぐねていると?」
「違います。いずれも稀代の英雄ではありますが、しかし五人の中に数えづらい理由というものが、それぞれにあります」
 顔こそイポリートの方に向けていたが、ジルはバルタザールに気持ちを向けて話していた。いずれもバルタザールにとっては既知のものばかりだろうが、バルタザールの反応を見てみたい。
「まずはかつての五強でもあった、私の父リチャード王ですが、これは病に倒れている時間が長過ぎました。ちょうど五強と呼ばれる者たちにも代替わりが起き始めていたので、長く表舞台から姿を消していたリチャードは、自然と大陸五強に数えられなくなりました。また、不死身と思われていた男の、病です。神話が崩れたように、民の間には映ったことでしょうね」
 ジルは、ちらりとバルタザールの方を見た。大男は小さく身じろぎしたように見えたが、単に姿勢を正したのか、過去に敗れた男の話に反応したのかは、わからない。人の話を聞く時に身じろぎひとつしないという方が、かえって不自然なのである。
「病とは違いますが、ここ数年表舞台に出ていない、"青の円舞"ロサリオンは、少し事情が違ってきます。彼の場合、まずエルフで長命であり、何よりも大陸五強などという呼び方が民の間で広がった時からの英雄ですからね。いわば最初の五強の一人です。命でも落とさない限り、生ける伝説たる彼が、その座から追い落とされることはないでしょう。ここが、父とは違う」
 イポリートは、早くもジルの話に退屈し始めたようだ。ジルと話すきっかけを作りたくて話題を振ってきたのだろうが、実際のところ、この男は他人の話に関心がない。一方的に喋り続け、相手が従順な聞き手であることしか望んでいないのだった。ならばもっと話してやろうと、ジルは決めた。
「次に、騎士団領統轄を務め、領内全ての騎士団の頂点に立つ、アウグスタ騎士団長です。戦を為す者ならば知らぬ者はいないほどの武人ではありますが、その戦歴のほとんどは対デルニエールにおける外征、及びそこから押し寄せる怪物に対する防衛です。ここでは大型の怪物を倒すことなど日常茶飯事ですからね。かえって民の間の話題にならないという不幸があります。もっとも、アウグスタ卿自身が、大陸五強に数えられることを嫌っているという話もありますが。ちなみに私自身は、ふらりと散歩にでも出るように竜を狩ってしまう彼女こそ、まさに最強の一角に数えられるにふさわしいと思っていますが」
 新しい林檎酒が運ばれてきた。ジルはそれに軽く口をつけ、話を続ける。
「ただ、私が個人的に最強だと思っているのは、"常咲きの女王"ミランダです。十二年前にゴルゴナで行われた、当時の五強全て、そしてそれに肉迫、ないしは超えると言われる者全てが集結した、あのトーナメントについてはご存知ですか」
「え、あ、ああ。聞いたことはある」
「彼女はそこで、それまでの強さの基準すら変えてしまったと言われています。異世界からやってきた、"来訪者"の彼女ですが、あの武闘大会までは、四千王国の片隅に小さな領土を持つだけの、目立たない存在でした。そしてトーナメントが終わった後は、現れた時と同様、風のように去っていきました。以後の話は伝わるものすべてが誇張され過ぎていて、信じるに足るものが見当たりません。それがかえって、今の民の間で信用の置けない話として広まってしまったのです。しかしあのトーナメントを直接見た者は、誰もが常咲きの女王こそ最強だと口を揃えますし、目の当たりにしたわけではありませんが、私もそうだと思っています」
 イポリートはもうつまらなそうに頬杖をついて、くちゃくちゃと羊の肉を咀嚼しているだけだ。こちらを向いてさえいない。ジルにはそれが、ひどく痛快だった。
 さらに話を続けようとすると、絶妙な間合いでバルタザールが口を開いた。
「大使殿はもう、ウォーレス殿と顔を合わせられたのですかな?」
 ジルは、バルタザールの方へ向き直った。
「はい。任官の後に一度、対ノースランドの宿営地に赴きましたので」
「いかがでしたかな、かの"熱風拍車"は」
 聞きたいことは、わかる。やはり放蕩息子よりも、かつての武人であった父親とは話が合いそうだ。
「これは、と思える人物でした。正直に申し上げると、人相手に勝てないかもしれないと思ったのは、初めてのことです。無論、負ける気もしませんでしたが」
 しかし息子とは違った意味で、ジルはこの男のことを少し苦手にしていた。時折無性に話をしてみたいと思っているのに、実際にこうして顔を合わせてしまうと、妙に胸が騒ぐのである。
「立ち合ってみたいと?」
 恋も知らず、当然男も知らない。しかしジルにも、性欲はあった。大抵は一時の快楽欲しさに股ぐらに手を伸ばすだけだが、最近ではしばしば、この男の顔が浮かぶ。当然のこと、この男のことを、好きだと思ったことはない。そのことについて、ジルなりに考えていることがある。
「姉の手前、さすがにそうは思えませんでした。それにウォーレス殿は戦人です。その時点で兵も率いたことのない私が、立ち合いならできるから立ち合ってくれというのは、武人としての彼に対して、あまりに非礼なことだと思いました」
 目の前のこの大男は、今まで数えきれないほどの女を抱いてきたことだろう。人を、怪物を殺し続けてきた者には、それを経て初めて身につく気のようなものがあり、きっと性交についてもそういうものがあるのだと思う。自分のような男を知らない身体は、その性の毒気に当てられてしまうのだ。
「もうひとつ、ありそうですな」
「・・・ええ。その時の私は、強くなることに疑問がありました。いや、少し違うな、強くなることに、飽いていたというか・・・」
「これが自分の求める強さだったのかと、そんな疑問が頭に浮かんだということですかな」
「ああ・・・まさに、それです」
 ふっと、心の隙間に何か入り込んできたようだ。バルタザールに理解してもらえたという感覚は、しかしジルの何かを苛立たせる。これは、何か・・・。
「ジル殿、顔が怖い」
 イポリートが、女給の尻に手を伸ばしながら言った。まったく、人の話を折ることに関してだけは、天才的な男だ。
「生来のものです。私も、鏡を見て美しいと思ったことはありません」
 ジルは、広間の大扉の方に目をやった。兵たちの輪の中で、ゲオルクがこちらに手招きしている。
「今宵は、これにて失礼致します。あちらで、ゲオルク殿が呼んでおりますので」
「大使殿のお話、大変楽しめました。なるほど、今の武人たちをそう見ているのかと。いずれまた、続きを聞かせて下さい」
 そう言ったバルタザールに頭を下げ、ジルは席を立った。
 まだ、胸の内がざわついている。
 それが何か、ジルは考えるのをやめた。


 その輪の中に入ることを、ジルは束の間ためらった。
 ゲオルクとアーラインを囲む、兵の輪である。長い晩餐の卓の端で、その卓や壁を背にしながら、兵たちが車座になって集まっている。輪の中心には食べ物や酒の小樽が積み上がっており、皆そこから思い思いのものに手を伸ばしているようだ。
 兵の何人かが、それとなく輪の中から外れていった。輪にいる半数はゲオルクたちの兵、もう半数はジルの率いる兵たちで、ゲオルクの兵たちとの摩擦はないが、自身の率いる兵たちは、ジルをひどく嫌っていることだろう。今抜けていったのは、ジルの率いる兵たちだ。
 いずれも貴族や大商人、いわば名家の子息たちで、軍に入ったのはその後の地位や立場を得る為である。軍に入る、しかし安全な任地ということで、ここに送られてきた。初めから強くなり、祖国の為に戦おうなどという意志は、微塵も持っていない者たち。それでいて自尊心だけは人一倍高く、人の命令に逆らうことをなんとも思わない連中だ。
 根性を叩き直してやろうと、任官以来、ジルはこの者たちを徹底的に鍛え上げようとした。体力的に多少はましになってきたものの、ジルへの反撥心は日に日に強くなっている。不貞腐れる者を見つける度に叩きのめしてきたので、今では表立ってそんな態度を見せる兵はいない。しかし本国に願い出て国に帰ってしまう者は後を絶たず、新兵は補充されるものの、また一から鍛え直さなくてはいけないという始末だった。
「私は、ここでいい」
 ジルは、兵の輪から一歩下がった壁に寄りかかった。ゲオルクたちの兵の側で、お互いにあまり気を遣わなくていい。それに背の低いジルが一歩下がると、あまり兵たちから見えることもないだろう。
「ぬうぅ、この話はおぬしが来るまで取っておいたのじゃぞ」
「ジルが、私たちの馴れ初めを聞きたいというのでな、みんなにも特別に話してやる。いいか、ここにいる者たちだけの秘密だぞ」
 人差し指を唇に当て、アーラインが笑った。兵たちの間にも笑いのさざ波が広がる。どうせ明日には兵たちの間で話題になることを承知で、このケンタウロスは言っているのだ。こうした兵の心の機微の掴み方は、さすがとしか言えなかった。同じ指揮官として勉強になるが、とてもジルに真似できることではない。
 アーラインは、床に敷物を敷き、大きな羊毛の詰め物に身を預けている。その身では人の椅子に座れないので、いつもこんな感じでこうした場に参加していた。
 やがて、アーラインが口を開いた。蝋燭の火が、その横顔を神秘的に照らし出す。
「私はこう見えても、族長の娘でな。一族は風の丘で最も力の強い部族だった。力とは、腕力ではないぞ。いや、お前たちに比べれば腕力はある方だと思うが。おっと、話が逸れるところだった。膂力の強い私だが、これでも品行方正、気品溢れる姫君だった。おいそこのお前、今笑ったな?」
 兵たちが笑う。その光景に、ジルは先程とは違う苛立ちを禁じ得ない。
「まあこいつは今でこそこんな格好で気取っておるがな、とんでもないじゃじゃ馬じゃった。ケンタウロスの里を訪れたわしにな、いきなり槍を投げつけてきおったのだ」
「いや、それは違うぞ。この男こそいきなり、私のことをじゃじゃ馬だと言ってきたのだ。顔を合わせるなり、いきなりな。それで、槍を投げつけてやったのだ」
 ジルは、持ってきた杯に口をつけた。あまり、酔えそうにない。
「少し、言い争いになってな。私の父はこの男を客人として扱っていたが、私はこの男の無礼が許せなかった。それで人間のやり方に則り、決闘を申し込んだのだ」
「殺されるところだったわい」
「嘘をつくな。始まるや否やこの男はあっさりと私の槍を奪い、地に組み伏せたのだ。最初、何をされたのかもわからなかった」
「そうだったかもしれん。わしもあの頃は髪も黒く、豊かな前髪をかき上げるのが癖じゃった」
 ゲオルクが、禿げ上がった額をなで回す。兵たちが苦笑する。
「その後も里の中で二度、この男に決闘を挑んだが、まるで歯が立たなかった。悔しくて眠れないほどでな。この男が里を出た後も、私は単身、この男を追い続けた」
 ゲオルクは遍歴の騎士と自称しているが、若い頃から数年前まで、冒険者のようなことをしていたと聞く。
「わしは忙しい身でなあ。どうしてもこいつが追ってくるので、時折こいつと一緒に怪物を倒したりした。そういう時に背中を狙ってくる女ではないことは、わかっておったしのう」
「こいつがまた、人の頼みは何でも聞いてしまうのだ。数十人の賊を追い払うことなど日常で、時には銅貨一枚で飛竜を狩るなんて言い出す始末だ。正気ではないだろう?」
「いや、その話だけだと、わしは頭のおかしい人間に思われてしまう。よいか。まだ五、六歳の小さな村娘が、それが自分の全財産だと言って、わしに頼んできたんじゃぞ? どんな危険が待ち受けていようとも、引き受けねば騎士の名が廃るってもんじゃわい」
「その件だがその前に、近隣の町で金貨十枚で依頼されたのだ。受けようとしたこいつを、私は全力で止めた。金貨十枚で命を捨てる気か、とな。するとどうだ。こいつは夜の内に町を抜け出し、飛竜が現れるという山の麓の村で、子供から銅貨を受け取っていたのだ。これでも多過ぎるといって、上質な服と交換してやってな。その場に駆けつけた私は、これは完全に私への当てつけだと思って、頭に血が上ったよ」
「わしは、服にだけは金をかける」
「そこに怒ったんじゃない!」
 ゲオルクは、まるで吟遊詩人が語る遍歴の騎士のようだと思ったことがあるが、ほとんどはほら話だと思っていた。しかしアーラインの話を聞く限り、それ以上に酔狂な男だったことがわかる。
「ともあれ、私はこいつの後について旅を続けた。その後も数えきれないくらい、決闘を申し込んだよ。ことごとく負けたがな。しかし少しずつ、この男との力の差がなくなっていることに気がついていた。いつ私が勝ってもおかしくはない。そう思い始めていた」
「十年近く、このわしにマンツーマンの稽古をつけてもらえればのう」
「五年だよ。はっきりと覚えている。私がこの男と出会ってからきっかり五年目のその日、私は立ち合う前から、この男に勝てると確信してしまった。今日は確実に、この男を殺せると」
 兵たちは、静まり返っている。晩餐の席の喧騒が、どこか遠くの世界の出来事のようだ。
「その時になって、私は自分の気持ちに気づいてしまった。私は、この男を愛していたのだ」
 人の縁。ジルは今日、自分が言っていた言葉を思い出していた。
「男を、人の男を愛する日がくるなんて、夢にも思っていなかった。しかし私は自分の気持ちに気づいてなかっただけなのだな。きっとこの男と出会ったあの日から、私はこの遍歴の騎士に心を奪われていたのだ」
 女の兵の何人かが、すすり泣いていた。
「うぅむ・・・わしにもいつか思いがけず、人の男を愛する日が来るのじゃろうか」
 ゲオルクの一言で、兵たちがどっと笑い声を上げた。
 ジルは静かに、その場を離れた。
 広間の横に、露台に通じる扉がある。外に出ると、冷たい風がジルの身体を打った。見上げると、満天の星空である。
 しばらくレヌブラントの街の灯を見ていると、のんびりとした蹄の音を響かせて、アーラインがやってきた。本人の物だろう、上着をそっと、ジルの肩にかける。
「妬けたか?」
「妬けるには、遠過ぎる。おとぎ話を聞いているようだったよ」
 夜になればまだ、吐く息は白い。
「恋なんて甘ったるいものに興味はない。だから羨ましいとは思わなかったが、まぶしいとは思った。私にもいつか、人の縁があるのだろうか」
 それには答えず、アーラインもジルと同じように夜空を見上げた。あっと声を上げる。
「流れ星だ。二年振りかな。明日はツイてるかもしれない」
「・・・気づかなかった」
「本当か。何を見ていた」
「空を。夜空を」
 アーラインは、じっとジルの話に耳を傾けている。
「なぜ人は瞬く星々に目を奪われて、その周りに無限に広がる闇に気がつかないのだろうな」
 言ってから、ジルは苦笑した。
「気にしないでくれ。ただの受け売りだ」
「誰の?」
「掌砲セシリア。名前くらいは知ってるだろう?」
「ああ。ジルは会ったことがあるのだったな。しかしお前は、私たちには見えないものが、見えているのだろうなあ」
「見えていないよ。闇だから」
 手すりに身を預け、ジルはそっと目を閉じた。

 

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