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プリンセスブライト・ウォーロード 第2話
「自分を不幸だと思っている人間は、いつだって他人に残酷なものだ」

1,「あなたは強すぎる。そして、強くなるには弱すぎる」

 海を、眺めていた。
 水面がせり上がり、うねる。一列になって迫ってくるそれはしかし、こちらに向かってくるにつれて力をなくし、砂に吸い込まれるようにして消えてしまう。が、もうその後ろには同じような、それでいてひとつとして同じではない波の列がやってきて、同じ運命を辿っていくのだった。
 ジルはぼんやりと、その光景を眺めていた。日が、ゆっくりと傾き始めている。暖かくなり始めていたが、まだ春の陽光を感じられるのは、それが中天を差している間だけだ。今はまだ冬の名残の寒風が、決して優しくない手でジルの頬を打ち、髪をかき上げる。
 視線を水平線に沿って右へずらしていくと、海岸線に面したレヌブラントの街並と、高い尖塔を持つその城が見えた。もう、方々で明かりが灯り始めている。
 十八歳になっていた。小さかった頃の自分が、今の自分に何を期待していたのかはわからない。ただ、強くなろうと思っていた。強い人間に憧れた。
 立ち上がり、刀を鞘から抜く。夕陽を受け、刀身は赤く、怪しい光を放っていた。
 初めて竜を狩った時、その金で購ったものだ。東方の剣だった。銘はなかったので、吹毛剣と名付けた。かつて東の国にあったという名剣だ。吹いた毛すら断ち斬るという由来が気に入って名付けたのだが、東方では、吹毛とは人の粗探しをするという意味もあるらしい。この剣が断ち切るのは自らの粗、弱い部分であってほしいと思う。元々、他人の粗探しは趣味ではない。
 より東方の島国、ヒノモトの日本刀とは違い、やや幅広、肉厚の刃で、それでいて斬れ味はどこまでも鋭く、鈍ることもなかった。そうあるよう、研ぎ続けてきた。
 構えるでもなく、刃を振るう。風を切る音と、微かな破裂音。何を斬ったのか、しかし何かを斬ったという感触はある。そう、確かに何かを斬ったのだ。今のジルには、それが何だかはわからない。どこかで、何かをこじらせてしまったような気もするが、これでいいのだという気もしている。
 わからない何かをわかる為に、ずっと剣を振り続けてきた。それはあの人、かつての大陸五強セシリアに出された問いを、今でも追い続けているということでもあった。


 一番古い記憶は、母が使用人の女を叱りつけている場面だった。
 幼いジルの面倒を、よく見てくれた人。名前は覚えていないが、あの人のことが大好きだった。家の中でつまらなそうにしていたジルに、忙しい中でもあれこれと声をかけ、遊んでくれたのだった。確か、そういう人だったと思う。その使用人は、次の日から来なくなった。
 その次の日からは別の娘が家にやって来たが、彼女も優しく、ジルの遊び相手になってくれた。まだ若く、今の自分と同じくらいの年頃だったと思う。しかしその娘も、一ヶ月と経たずに母の怒りを買い、姿を消した。そんなことがジルの物心がつくまでに、幾度となく繰り返された。
 母は幼い自分から見ても、怒りっぽい人だった。ジルが母の気に障るようなことをすると、顔が真っ赤に腫れ上がるまで何度も叩かれた。鼻血が止まらないと言って泣くと、さらに叩かれる。幼いジルは、いつも母に怯えていた。
 家は狭かったものの、それに反してそこそこ裕福だったのだと思う。家にいない父から、養育費としてそれなりの額が送られていたのだ。しかし母は倹約家で、家のことをする使用人を一人雇う以外は、生活は質素なものだった。ただ時折夜になってから出かける母は、立派なドレスに身を包んで、呼んだ馬車に乗り込んでいた。
 あまり家から出ることは許されないジルだったが、それでも稀に、近所の子供たちと遊ぶことがあった。当時のジルにとって、それが唯一、心休まる時間だった。決してジルから目を離すなと言いつけられていた使用人の目を逃れ、他の子供たちと一緒に物陰に隠れる。そういった他愛のないいたずらに、手を叩いて喜んでいたものだった。
 ジルが十歳になった時、母が死んだ。城の舞踏会で、毒の入ったワインを飲んで死んだらしい。
 当時のジルにはわからなかったが、陰謀渦巻く宮廷主催の舞踏会で、他の貴族を暗殺しようと用意されたものを、誤って飲んでしまったという話だった。
 葬儀は、宮廷から来たという見知らぬ男たちが取り仕切った。母の棺を納めた後、この国の宰相だというライナスという男と話した。
 そこでジルは初めて、自分がこの国の王、リチャードの娘だと聞かされた。
 家は売り払い、それからは王城に住むことになった。母が溜め込んでいた金も、すべてジルに引き継がれた。
 父と初めて会った時のことは、強烈に覚えている。
「おう、お前がジルか。大きくなったなあ。もっとも、あまり大きくなりそうもないなあ」
 熊の様に大きな父は、のんびりとした口調でそんなことを言った。何故、今まで会いにきてくれなかった。ジルは言ったが、すまんすまんと手を振った後、兵たちに肩を借りながら、寝室へ向かったのだった。宰相から聞いた話ではひどい病に冒されているということだったが、それはここ数年のことで、それ以前に一度も顔を見せてくれなかったと宰相に詰め寄っても、曖昧な答えが返ってくるばかりだった。父を、恨むようになった。
 宮殿の生活には、すぐに飽きた。母から自由になったと思ったのも束の間、面倒な決まり事ばかりの生活になり、それをただ淡々とすごす日々は、見える景色は違うのに、元の生活に戻ったようだった。外に出たいと申し出ると、意外にもあっさりと許された。供回り二人だけを連れて、ジルはある人の元へ向かった。
 掌砲セシリア。少し前の大陸五強と呼ばれる戦士の一人で、既にその存在は伝説になっていた。父もその一人だが、ジルにはそのことが認められない。そして後にセシリアがアングルランドのロンディウム出身と聞いて、幼いジルはそれだけで胸がいっぱいになったものだった。自分と同じ場所で生まれ育った。ひょっとしたら、そこは近所だったのかもしれない。同じ通りを歩いたり、同じ景色を見たことがあったのかもしれない。
 宮殿に住むようになってびっくりしたことは、父がこの国の王であることよりも、自分がその血を引いているということよりも、憧れのセシリアと不意に接点ができたということである。セシリアはリチャードの子を産んだ。その娘セリーナはジルと同じ父を持つということであり、二人は腹違いの姉妹なのだ。セシリアと自分の間に直接的な血の繋がりはないが、義理の母といってもよいのではないか。セシリアみたいな人が母だったらと、幼いジルは何度も願った。そしてそれは突如、現実のものになろうとしている。
 アングルランド西部、森の奥にあるセシリアの屋敷には、数日で到着した。初めて目の当たりにするセシリアは美しく、まぶしかった。供回りから話を聞いたセシリアは、満面の笑みで抱き締めてくれた。右腕が義手になっているのには驚いたが、その鋼の腕さえも、温かく感じた。長い金の髪からは、微かに石鹸の香りがした。
 数日、セシリアの家に滞在した。二歳になる娘のセリーナは、面立ちこそあまり両親に似ていなかったが、豊かな金髪は母親譲りだった。まるで子犬のように、ジルによくなついてくれた。自分にもこんな無垢な時期がそう遠くない過去にあったのだろうかと思うと、胸が苦しくなる。
 セリーナを使用人に預け、セシリアと森の中を散策したり、近くの浜辺で波と戯れた。
 その時までは、全てが輝いていた。
 その日、森から帰ってきた後、ジルは意を決してセシリアにあるお願いをした。
「セシリアさん、ずっと憧れていました。私を、あなたの剣の弟子にして下さい」
 セシリアは自分を受け入れてくれると思っていた。これが母だ、と思い定めていたのだ。ゆえに返ってきた答えは、ジルの心を深く傷つけた。
「あなたは、私を超えられるだけの素質がある。けれど、その道に進んではいけないわ。あなたは強すぎる。そして、強くなるには弱すぎる」
 その後、ジルはどうセシリアと別れを済ませたのかすら、ほとんど思い出せない。それだけ深く、胸を抉られたのだろう。
 愛する人に、拒絶された。受け入れてくれると思ったのに、裏切られた。
 宮殿に帰るとすぐに、剣を握った。それを、倒れ込むまでひたすら振り込む。そうしていないと、身体がばらばらになりそうだった。腕が上がらなくなっても、身体全体で剣を振った。
 強いのに、強くなるには弱いとは、どういうことなのだろう。考えてもわからなかった。わかるために、剣を振った。宮殿の中庭で、雨の日も雪の日も、朝から晩まで、ただ振り続けた。気を失い、使用人に運ばれている時も、身体がつらいと思ったことはない。痛いのは、胸の内だ。
 ある日、宮殿で剣を教えている貴族に声を掛けられた。稽古をつけてくれるということだった。木剣で立ち合った。気づいた時には、その男は血まみれで倒れていた。
 それは、ただのきっかけだった。ジルは宮殿を去ることにした。ここでは時折現れる腹違いの兄弟たちが何かとジルを気遣ってくれたが、それを少し疎ましく思っていたのだ。感謝はしている。しかしそれ以上に、お前たちに私の何がわかるという思いが強かった。
 旅に出た。十二歳だった。
 初めて人を殺したのは、旅に出て三日目だった。
 路地裏で男たちに囲まれた。男たちはジルの行く手を塞いだだけで、もうどこに売り飛ばそうかという話をしていた。
 一人が手首を掴み、背の低いジルの股ぐらに手を伸ばした。男か女か、確かめたかったのだろう。かがみ込んだ男の顔が目の前にあったので、ジルはその額に思い切り頭突きを食らわせた。男の身体の中で、いくつもの砕けるような、潰れるような音がした。男の後頭部が背中にくっつくほど反り返り、額は陥没していた。
 逃げようとしない、あるいはできない男たちを、一人一人殺した。騒ぎになると面倒くさい。ジルはそのまま町を後にした。
 セシリアのような冒険者というには、あまりに陰惨だっただろう。金よりも、ただ強い相手を求めて、ジルは殺し続けた。何かが違うと思いながら、それでも闇を彷徨った。
 セシリアとの血の繋がりはないのに、自分は間違いなく強い。それはこの頃から自覚していた。実の母に、武の天稟があったとは思えない。この強さはあの父の血だと思うと、全身を掻きむしりたくなる。ジルを見捨て続けた父リチャードに対する恨みは、深い。殺してやりたいと思うこともあったが、腹違いの兄弟たちの、父である。あの兄弟たちの悲しむ顔は見たくない。そう思い、どす黒い感情は押し殺し続けた。
 初めて恐怖を抱いたのは、竜と戦った時だった。ひどい傷を負いながらも、紙一重のところで勝った。村に帰り、傷を手当てしている時に思った。また、死ねなかったのか。十五歳になっていた。
 それからも、賊を、怪物を殺し続けた。竜も、二頭目からは怖い相手ではなくなっていた。伝説に残るような英雄たちは、時に神に近いような力を持った何かと戦い、勝利している。そんな相手を求めて大陸中を彷徨ったが、ついにジルはそうした何かに出会わなかった。巨人や竜では、既にぬるすぎる。いつの間にか、大陸五強の一人に数えられるようになっていた。
 十七歳になった時、ゴルゴナでアングルランドからの使いに出会った。
 一番上の姉、今は軍の元帥となっている、エドナからの手紙だった。
 お前に、頼みたい仕事がある。一度帰ってきて、一緒に食事でもしないか。そして旅の話を聞かせてくれ。
 格式張った封筒と封蝋とは裏腹に、中身はいかにも彼女らしい、武骨で簡潔なものだった。
 それで、アングルランドに帰ってくることになった。そこで、地位と仕事を与えられた。アングルランド支配下の、レヌブラン地方の総督である。妾腹ではあるが、一応王族に属するジルである。あてもなく放浪し、ただ殺し続けるだけのジルに対して、周囲は思うところがあったのかもしれない。
 忙しくはあるが、退屈な仕事だった。その思いは今も変わってはいない。
 

 土を打つ、馬蹄のくぐもった響き。
 思念を断ち切って振り返り、ジルはこちらに向かってくる騎影を見た。馬のように見えるが上半身は人のそれ、つまりはケンタウロスだった。白い甲冑に豊かな金髪、整った面貌。夕闇ではっきり見えなくとも、ジルはそれを美しいと思った。その馬の背には、くすんだ鎧を着た老人。
 アーラインと、ゲオルクだった。
「遅い」
 ジルが言うと、鞍上のゲオルクは、笑いながら木剣を投げてよこした。
「少し、兵たちと話し合わなくてはならないことがあってな、すまない」
 言ったのは、アーラインだ。少し低く深みのある声音は、ジルの苛立ちを曖昧なものにする。
「暗くなってしまったが、早速始めるか?」
 ケンタウロスのアーラインと老騎士ゲオルクは、ここレヌブラントの客将である。兵の指揮もそうだが、それぞれの腕も相当立つ。週に三日、兵の調練後にジルと軽い手合わせをする約束になっていた。二人と、同時に戦う。この二人は驚くべきことに、長年連れ添った夫婦でもある。息は、ぴったりと合っている。
「今日は晩餐会の日じゃぞ。少し早めに切り上げねばのう」
 ぱんぱんと鎧の上から腰を叩きながら、ゲオルクが言う。
「遅れていけばいい。あんなもの、退屈なだけだ」
「ジルには、大使としての仕事があろう」
「わかっている。だから、顔だけは出すのだ」
 ジルの肩書きは、レヌブラン総督、及びアングルランド特命全権大使だった。仕事としては大使の方が比率が高く、兵を鍛える以外、総督の仕事は少ないと言ってよかった。軍も指揮できないようでは退屈だろうと、エドナが気を遣ってくれたのだろう。
 その総督としての仕事は、アングルランド本国からやってくる新兵を鍛え、レヌブラン地方を見回ることだった。今も定期的に行ってはいるが、レヌブランが再びアッシェンに帰属するという心配はなさそうだった。ジルの指揮ではないが、国境線でアッシェンと何度か小競り合いもしている。実質総督としては、ほぼ兵を鍛えるだけの仕事になっている。
 大使としては、簡単に言えばレヌブランの現状を、本国へ伝えることである。付随して、レヌブランとの友好も深めておく。報告をまとめるのも面倒だが、友好を深めるというのは、ジルにとって苦痛でしかなかった。レヌブランが嫌いなのではなく、人と触れ合うのが苦手なのだ。週に一度、主立った者たちと会食する。ほとんど形だけだが、ジルにはこれが精一杯だった。
「わしは腹が減った。さっさと済ませて、ご馳走にありつきたいわい」
「遅れてきてなんだ、その言い草は。もういい。始めよう」
 二人のやり取りを微笑を浮かべて聞いていたアーラインだが、穂先のない木の槍を手に取ると、その顔はすぐに真剣なものとなる。一方、鞍上のゲオルクはのんびりしたものだ。だがジルは知っている。ゲオルクは立ち合いの気のようなものは、一切表に出さないのだ。
 ジルが木剣を構えると、アーラインは少しだけ後ろに下がった。ジルの気に押されたわけではない。槍として最良の間合いを探しているのだ。一歩下がり、もう半歩下がったかと思うと、一歩出ている。波のようにそれを何度か繰り返していると、不意に潮合が来た。
 ジルが一歩詰めようとした刹那、アーラインは三歩分を一足で跳び、強烈な突きを放ってきた。かわし、アーラインに突きを繰り出す。がん、と大きな音を立て、ジルの一撃は跳ね返された。アーラインの持つ、鋼鉄製の大盾だった。
 盾は本来、枠は金属で出来ているが、縁より中は、木板を革張りしたものだ。強い攻撃を受けた時、木の部分が壊れることで持ち手に伝わる衝撃を逃がす。第一、全て鋼鉄では、重過ぎて取り回しができない。
 しかし、ケンタウロスのアーラインは別だった。上半身こそ人間のそれだが下半身は馬で、見た目にそぐわず、上半身も馬並みに強かった。それで、重さ九十キロもある分厚い鋼の大盾を、まるで紙で出来たものであるかのように、軽々と扱う。
 槍。ケンタウロスの突きをかわしていると、鞍上からゲオルクの槍が来る。この男の槍は、本人同様曲者だった。鋭い一撃が来たかと思うと、差し出すようにゆったりと突き出し、ジルの行方を阻み、あるいは足を引っ掛けようとしてくる。
 手練だった。この老騎士は、若い時には大陸五強に引けを取らなかったと豪語し周囲から失笑されているが、ジルにはそれが本当のことだとわかっていた。若い時のゲオルクと立ち合うようなことがあったなら、ジルも本気でかからねばならなかっただろう。間合いも、気の扱い方も巧く、今のジルでも時折不意の一撃をくらいそうになる。
 この二人となら、ジルもある程度力を出せる鍛錬となった。一人一人なら、ほぼ一撃で倒せる。しかし二人の組み合わせはそれぞれの力を大きく高め合い、ジルの力に肉迫できるものがあった。物足りないと思うこともないわけではなかったが、一人で刀を振っているだけでは決して身につかないものがあり、こうした活きた攻撃を受けるというのは、ジルにとって小さいことではなかった。
 ゲオルクの、足下への突き。飛び越えてかわすと、アーラインの左からの薙ぎ払い。剣で受け右に身体を流すと、鋼鉄の盾の強烈な叩き付けが来た。
 その驚異的な腕力に加え、四本の脚を巧みに使った、全体重を乗せた一撃。二人の体重、武具の重さ、それを何倍にもして叩き込む一撃の重さは、竜の尻尾でのそれに匹敵した。ジルの小さな身体は、大きく吹き飛ばされる。
 が、全ての勢いを殺して地上に舞い降りたジルは、次の瞬間には一跳びで間合いを詰め、アーラインの槍、次いでゲオルクの槍を叩き折った。
 後ろに跳び退ると、アーラインは折れた槍を手放し、肩をすくめて手の平を上に向けた。
「ここまででいいだろう。汗を洗い流してから晩餐に向かうとなると、本当に間に合わなくなってしまうぞ」
 アーラインが言ったので、ジルも構えを解いた。今日の鍛錬は、ここまでである。
「あいかわらず、屈託を抱えておるのう。怖い顔をして海を見て、昔のことでも思い出しておったか」
 剣ではジルに及ばなくなったゲオルクだが、こうしたやり取りの鋭さは、すっとジルの胸の内に斬り込んでくる。そしてジルは、こうした一撃を切り返す術を持っていない。
 剣を極める為に、多くを捨てた。ゆえにそれ以外の、自分の不得手とするところを攻められると、素直にそれを受け入れられる自分がいる。
「怖い顔は生まれつきだ。もう言うなと言っただろう。しかし、そうだな・・・人の、縁のようなものについて、考えていた」
 ジルは街に向かって歩き始めた。ゲオルクを乗せたままのアーラインも、横に並ぶ。西の海岸線を見ると、まだしぶとく、陽がその半身を水平線に残していた。先程の鍛錬は、実は一分に満たないものだったのかもしれない。
「人の縁か。お前にしては、珍しい。聞かせてくれ」
 アーラインが微笑む。人の部分は二十代後半の女に見えるが、年齢は八十六歳で、ゲオルクより一回りも上だ。その落ち着きと包容力は、月日を重ねた者にしか身につかないものなのだろう。
「私の旅は、見つけて殺す、それだけだった。他の、英雄と呼ばれる者たちと剣で渡り合って、負ける気はしない。しかし過去のそういった者たちの旅は、栄光に彩られたものだった。たとえそれが、悲劇的なものであってもな」
「これは、驚いた。ジルはそういうことに関心がないと思っていた」
「ないさ、今でも。ただ、何が違っていたのだろうかと、過去を振り返っていた」
「セシリア殿と、おぬしの違いかのう?」
 この老騎士は、あいかわらず痛い所を突いてくる。ジルはぎこちなく頷き、続けた。
「人の為に剣を振るっていたかどうか。初めはそれかと思っていた。私はただ、私の為だけに剣を握ったわけだからな。しかし私も多くの場合、弱い、困っている者の為に剣を振っていたし、行く先々で感謝されたりもしたのだ。もっとも、恩着せがましいのは好きではない。全て自分の為と思い定めていたわけだが」
 二人は黙って話を聞いている。ぽかりぽかりというケンタウロスの蹄の音がどこか牧歌的で、暗くなりがちなジルの話に、わずかな明かりを灯していた。
「ただ、私はいつも一人だった。先に言っておくが、友や恋人が欲しかったわけではないぞ。仮に傍に誰かがいても、胸の内は一人であったと思う・・・そこでだ。まだお前たちには話したことがなかったが、旅の間に、フェルサリ殿と立ち合ってみた」
 二人は、驚きに小さな声を上げる。
「まったく、あいかわらずの命知らずじゃのう」
「ゲオルクの言う通りだ。しかし、人の縁と言っていたな。なるほど、出会いに恵まれないというのなら、自分から作りに行ったというわけだ」
「ああ」
 フェルサリは半エルフの冒険者で、掌砲セシリアが現役から退いた後、冒険者集団セシリア・ファミリーの頭目を引き継いでいる。しかしただのファミリーの一員だった頃にはあの新世界秩序を崩壊に追い込んだ、英雄の一人でもあった。何より、セシリアと最も縁の深い一人である。
「真剣に、付き合ってくれたと思う。しかし私が本気で殺しにかかっても、あちらは殺しにかかるという感じではなかった。本気で命を守っていたがな。今考えれば、当たり前の話でもある。こちらにはフェルサリ殿を殺す理由、より強くなりたい、その過程で気持ちのどこかを繋げたいという願いがあったが、あちらには何もなかったのだからな」
 ジルはため息をつく。馬鹿な、失礼なことをしたという思いが、今でも胸を刺す。
「分けたか」
「ああ。私の方から剣を置き、非礼を詫びた。煮詰まるようなことがあったら。また会いに来いと言われたよ。恥ずかしかったな」
 その後、仕事を探してゴルゴナに立ち寄った時に、アングルランドからの使者に掴まった。全て、頃合だったということだろう。
「なに、人の縁など、ましてお前さんが求める強い繋がりなど、求めて得られるものではないぞい」
 かっかっと笑った後、ゲオルクが言った。
「なんとなく、わかる気がする。いくら自分から動こうとも、私はそういうものに巡り会える星の下にはないのかもしれない」
「出会ったのに、気づかないまま通り過ぎたのかもしれん。あるいはもう、出会っておるかもしれん。それにおぬしが、気がつかないだけかもしれんぞ」
 ゲオルクの言葉に、アーラインは深く頷いている。ケンタウロスの肩に、老騎士はそっと手を置く。
「わしも、こいつと出会った時は、ただのじゃじゃ馬としか思わんかったわい。まさか、生涯の伴侶となるとはのう」
「・・・私も、初めはただ殺したい人間でしかなかったよ、ゲオルクのことは」
「そうか。よく考えてみれば、お前たちのことを、私はよく知らないのかもしれないな。剣を交え、全てわかったつもりだったが」
 二人の手の内は、知り尽くしている。不意の一撃があっても、この場面でその手札を切るのは予想外だった、という程度のものだ。
「二人には、深い縁があるのだな。今度、その話を聞かせてくれないか」
 もう、街の門まで来ている。
「今度と言わず、晩餐の時に来るがいい。飯を食ったらこちらの席に来ればいいだけのことだ」
 二人とジルの、晩餐会での席は離れている。しかしあまり格式張った宴ではない。遅れて来て途中で帰るジルを、咎める者がいない程だ。
 城門を潜り、城に向かう。人通りは多い。大通りのそこかしこから、いい匂いが漂ってきていた。行き交う人々が時折ケンタウロスと老騎士に手を振り、二人はその度に頷いたり、手を振り返していた。二人ともすっかりこの街に馴染んでいる。その横を歩く小さな娘に目をやる者など、この中にはほとんどいないだろう。
「じゃあ、後ほど」
 城に入り二人と別れようとすると、鞍上のゲオルクがじっとこちらを見ていた。
「なんだ?」
「あまり、不幸だと思わんことじゃぞ」
「私は、不幸せに見えるのか」
 アーラインがゲオルクの言葉を継いで、言った。
「自分を不幸だと思っている人間は、いつだって他人に残酷なものだ」
 言葉の意味を問い返す前に、二人は背を向けて去っていった。残されたジルの姿は、ぽつりと佇む、という言葉がぴったりだっただろう。
 ジルは、街の方に目をやった。
 既に、街の喧騒もどこか遠い。

 

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