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 思わず、鞍を強く殴りつけた。
 目を大きく見開き、手の平を何度も鞍に叩き付ける。
 エーフライムは勝利の雄叫びを上げそうになるのを、必死にこらえた。
 決まった。勝った。心の中で力一杯に叫ぶ。完璧な、理想通りの形で策は成った。眼前で繰り広げられる光景、ザーゲル、スラヴァル両軍合わせて十一万の猛攻を受ける霹靂団に、これまでの苦労が一気に報われるようだった。
 エーフライムの策。それはスラヴァルの女帝、エリザヴェータとの密約だった。
 陥陣覇王とあだ名され、戦場では無敵の軍略を持つアナスタシアの、しかしこれが傭兵の限界でもある。アナスタシアは貴族でもないのに、因習根深いスラヴァルの忠臣であろうとし続けた。
 だがその気持ちは、エーフライムにはよくわかる。自分も、何があってもフーベルトに忠義を尽くそうとするだろう。捨てられても悔いはない。まともな地図にも乗らないような寒村で生まれ、体格にも恵まれないままただ痩せた土地を耕すだけの人生だった。光を当ててくれたのは、フーベルトだ。彼から与えられたものは何も金品だけではなく、財務、軍略、充分な経験を経た後に、その最前線に立たせてくれた。それらの経験は、人生の宝と言ってもいい。両親や姉たちにも、いい暮らしをさせてやれた。今この場でお払い箱となっても、悔いのない人生だったと胸を張って言える。
 あなたは、どうだったのか。
 エーフライムはアナスタシアに聞きたかった。あなたは何故スラヴァルに、あの狂気の女帝に忠義を尽くそうと思えたのだ。その土地に生まれ、あるいは父の代からスラヴァルに仕えてきたからか。女帝との間に、余人では窺い知れない何かがあったのか。その全てが、エーフライムには些末に思える。そんなことで、その程度のことで、あなたはその溢れんばかりの才能を、無駄にしようとしてきたのか。
 不意に、エーフライムの頬を、涙が伝った。
 わからない。何故涙が溢れてくるのか。霹靂団はこの期に及んでも自暴自棄な突撃などせず、猛攻を受けつつも必死に陣形を保っている。望遠鏡を覗き込むと時折、中央で指揮を摂るアナスタシアの姿が見えた。矢継ぎ早に指示を出し、その目はまだ何もあきらめていない。
 エーフライムは激しく打ち続ける鼓動を少しでも落ち着かせる為、これまでのこと、今後のことに思考を巡らせた。
 スラヴァルの女帝エリザヴェータは、アナスタシアのことを激しく憎み、そして恐れていた。間者から集めた情報では、かつては英邁だった女帝も狂気の影が差し始めてからは、全てを持って生まれたアナスタシアが、やがてはスラヴァルの女帝となる夢をよく見ていたという。自信と自身を失い、アナスタシアに嫉妬し、そして反乱を恐れた。実際の所、反女帝派の諸侯は、アナスタシアを担ぎ出そうとしていた。もっとも、女帝ではなく、使い勝手の良い剣としてのものだったが。
 女帝の心の弱さにつけ込むのは、たやすかった。苦労したのは直接の交渉に臨むまで、ダニイール卿を筆頭とするアナスタシアを守ろうとする勢力に、いかにそれを悟られないかということだった。ダニイール卿はまだわかりやすいからいいのだ。中には表立っては女帝の側に付きながらも、ヴラジミルに対する恩義があってか、密かにその娘アナスタシアを守ろうとする諸侯もいる。これらをすり抜け、いかにして多くの兵を出動させるか。
 そして今回の作戦の規模の大きさは、偽装の意味合いも大きいが、何よりも絶対にアナスタシアの首だけは取らねばならない、失敗できないという部分が大きかった。
 もちろん、アナスタシアの抹殺、霹靂団の壊滅だけが交渉の材料ではない。こちらからもうひとつ提示したのは、制圧したポルタ地方、その東半分の返還である。事実でもあるのだが、女帝側にはこう伝えてある。今のザーゲルにポルタ地方全域の経営は荷が重い、東半分の返還を条件に、御身の持つ鋭い剣を一本、へし折ってはもらえないか。
 あの剣は既になまくらで、そのくせ持ち手を傷つける。それが女帝の答えだった。目障りだった傭兵団の壊滅と、失った領土の回復。スラヴァル側に美味し過ぎる話と取られないよう、今回のザーゲル側の軍費は、スラヴァル側が支払うことになっている。ザーゲルだけでも五万の軍の軍費は、馬鹿にならない額である。が、それでもやはり女帝にとっては旨味のある話で、交渉の窓口が開いた途端、話自体はほとんど滞りなく進んだ。
 女帝エリザヴェータは、霹靂団がスラヴァルにどれだけ貢献してきたかをわかっていない。ポルタ遠征で、常にザーゲルの圧勝を食い止めてきたのが霹靂団なのである。今後全ての戦に霹靂団が現れることを考えると、エーフライムは頭が痛かった。スラヴァルで標的にすべきは、まずはこの傭兵団であったのである。
 そして何よりも、アナスタシアが自身の価値をわかっていなかった。あなたが率いる二千は、時に小国の持つ数万に匹敵するのですよ。アナスタシアに言ってやりたかった。あなたは何故、そんな小さなところでまとまろうとしていたのか。
 眼前の戦闘は、激しさを増している。まだ霹靂団に、大きな犠牲は出ていないように思える。鬼神のごとき攻防も、いつまで保つのか。
 十一万対二千と、兵力差は圧倒的である。堅牢な砦に籠っているわけでもなく、原野を自由に駆け回れる状況でもない。この天候で足場は悪く、おまけに完全に包囲されていて、機動力も活かせない。
 十一万の軍の猛攻。まるで隆起し続ける大地が一カ所に吸い込まれているようにも見える。視界の全てが、兵である。ただただ、壮観だった。
 完全に詰んでいる。一つだけ懸念があるとすれば、フーベルトが直接アナスタシアの首を狙っているということだけだ。包囲陣の中を移動し、霹靂団への突撃の機を窺っているのが、エーフライムの所からはよく見えた。
 もう勝っているのだ。無茶なことだけはやめてほしい。
 エーフライムは、ただ馬上でつぶやいた。


 このフーベルトの覇道に、立ち塞がった者がいる。
 霹靂団団長アナスタシア。陥陣覇王。大陸五強。初めてだった。自分の目の前に、自分より強いかもしれない者が立ち塞がるのは。
 経済、軍備。あらゆる困難を打ち破り、短期間でザーゲルをグランツ帝国で最も力のある一州とし、ポルタへの対外戦でも負け知らずだった。いや、思い描いた戦を阻まれたという意味では、霹靂団のいる戦場で、フーベルトは常に負けていたのかもしれない。
 戦は戦術ではなく、まずは戦略である。それが決まった時点で、戦には勝っているのだ。この戦いも、既に勝っている。
 物足りない、とは少し違う。武人としての矜持か。言葉にしてしまうと、これも違う気がする。何故か、このまま包囲を続けたところで、アナスタシアは絶対に死なないという気がするのだ。
 そう、一兵卒くらいではあの女の首は落とせない。落とせるとしたら、それは自分だ。自らが先頭に立ち、領地に巣食う怪物たちを、この剣で斬り倒してきた。人ならざるものの強さは、人間ではとても味わえないものだった。
 武勇には自信があるが、さすがに自分が大陸五強と呼ばれるまでに、強くなったとは思わない。孤立したアナスタシアに、麾下と共に臨むことになるだろう。しかし所詮は人であるという思いもある。斬れば血も出よう。渾身の一太刀でも致命傷を与えられなかった、怪物たちとはそこが違う。
 目の前の戦闘は、熾烈を極めていた。血しぶきが方々で、まるで間欠泉のように上がっていた。あるいは、岩場に打ちつけられた白波か。
 反逆者に死を。これはスラヴァルの兵たちの雄叫びである。スラヴァルの兵たちには、最初こそ戸惑いがあったようだが、諸侯の通達で、アナスタシアこそが反乱の首謀者であったと思い込んでいるようだ。ザーゲルとは一度矛を収め、今は協力して逆賊アナスタシアを討ち取ることに専念している。
 女帝エリザヴェータは、こちらの想定以上に良い兵を集めてくれた。だまされやすく、士気は高い。指揮する諸侯は、誤った憎悪の炎で、救国の盾の乙女を焼き殺そうとしている。いや、憎しみに正しいも間違いもないのかもしれない。けしかけた側が言うことではないが、ただ、憎悪で剣を振るうのは、どこか歪んでいる。
 この期に及んでも、霹靂団の動きには目を見張るものがあった。
 今の陣形は中央に歩兵を円陣、周囲に四つに分けた騎馬隊を配置し、円陣が広がると同時に、騎馬が突撃をかけている。陣全体を見れば花が大きく開き、また蕾に戻ることを繰り返しているようだ。
 いや、見ているうちにそれは変わった。騎馬の突撃と共に円陣は小さくなり、中央に引き返してくる騎馬隊を飲み込みながら、歩兵の円陣が大きくなる。馬が限界に近いのか、脚を休ませながらも、しかし周囲に血の花を咲かせることをやめはしない。
 フーベルトの胸は震えた。なんと美しい光景だろう。そして内なる炎が激しく燃え上がる。ここまでの指揮を執る者の首は、やはりフーベルト自身が斬り落とす。
 麾下の五百の騎馬隊を動かしながら、フーベルトは慎重に突撃の機会を窺った。みぞれ混じりの突風が吹き始めているが、見えるものは見える。今のアナスタシアの用兵に、隙はない。先程と同じ動きをしてくれれば。どうだ。馬の脚も、そろそろ持ち直してくる頃だろう。
 来た。歩兵の広がりに、騎馬の突撃が同期する時。蕾となった花が一斉に花弁を広げようとする、その瞬間。
 控えていた五千の騎馬に合図し、フーベルトは五百の麾下で突撃した。
 歩兵を蹴散らし、中央で五十の麾下と共に孤立するアナスタシアに猛進する。首を、もらうぞ。
 馬上のアナスタシアと目が合った途端、全身が粟立った。おかしい。いやにあっさりと、歩兵は道を譲らなかったか。
 背後に衝撃を感じ、同時に背中が軽くなったような矛盾する感覚。
 孤立していたのは、自分だった。付いてくるはずだった五千の騎馬は、わずか二列の歩兵に阻まれている。麾下の五百。退路を完全に断たれていた。
 次の瞬間、暴風に巻き込まれていた。天候ではない。霹靂団の全てが、自分の首を獲りに殺到していた。周囲の兵が、次々と突き倒される。
 全てをかなぐり捨て、逃げなくてはならないと思った。いや思考すらなく、全身がそう警告している。アナスタシア。こちらに向かって突進してきている。
 不意に、馬が竿立ちになった。前方の視界を馬の首が遮る。しかしそれも一瞬だった。いきなり目の前が開け、フーベルトは馬上から放り出されていた。見ると、馬の首が跳ね飛ばされていた。アナスタシア。血に濡れた戟を手に、もう一度こちらに突進してくる。
 誰かに身体を引き上げられた。次いで怒号。雷のような、鋼と鋼が打ち交わされる音。フーベルトは激しく身体を揺さぶられながら、何かに掴まっていた。誰かの馬だと気づいたのは、しばらく経ってからだった。
 周囲には、血まみれになった麾下の兵たちがいた。力尽き、一人また一人と馬上から滑り落ちる。いつの間にか、自分の陣へ戻っていた。決死の覚悟で、麾下の兵たちが自分を守ったのだろう。霹靂団がどうなっているのか、振り返って見る力も残っていなかった。
「殿、お怪我は」
 兵の一人が聞いた。咄嗟に、フーベルトは自分の首に触れた。まだ、首は繋がっていた。それはあの状況下で、信じられない僥倖でもある。
「生きているぞ」
 絞り出すように、フーベルトはそれだけを言った。


 犠牲については、考えた。
 銃が多用される場合には死者数は大幅に増えるが、犠牲、損害については、百という報告ならば、その時点で死んでいるのは約一割、十人程度である。犠牲や損害とは次の日の戦闘に耐えられない者という意味で、百人の内九十人は、報告が上がった時点でまだ生きている。
 ただ、重傷を負ってもう助からない者、故郷に帰ってから命を落とす者も少なくはなく、生き残った者の内二割近くは、遠からず死ぬ。
 よって、戦闘直後の犠牲百で、およそ三十人強が死亡、残った者も次の戦に召集できるとは限らず、結果、犠牲の半数近くが、実際に失う兵力なのである。
 そして二つの軍がぶつかった場合、負けた側の犠牲がある程度多いのは当然として、勝った側の犠牲は驚くほど少ない。特に、兵力差が響く。二千と千の軍勢がぶつかり、二千が勝ったとする。負ける千は、犠牲が三百から五百になった時点で、陣形を維持できず潰走することが多い。追撃戦で、さらに倍。
 この場合、勝った側の犠牲は、百から二百が大体の相場だ。さらに言えば、その中での実際の死者数は、ぐっと減る。五千と千というような兵力差に大きな開きがある場合はより顕著で、五十程度の犠牲、死者数はなしということすら過去にたくさんの例があるくらいだ。兵力差を活かした戦いは、とにかく犠牲、特に死者数が少ない。
 さて、今回の戦はどうか。
 エーフライムは既に、冷静に戦況を分析していた。
 十一万対二千。圧倒的というのもおかしなくらいの兵力差で、本来なら犠牲すら十人未満で済んでもおかしくはない。しかし当然、霹靂団はそんな甘い相手ではなかった。
 先程フーベルトが包囲された時に突撃させた騎兵だけでも、千近い犠牲を出しているはずだ。間一髪だった。左翼で待機していた騎兵に決死の突撃をさせなければ、今頃フーベルトは討ち取られていただろう。
 策の偽装もあるが、念には念を入れ、この大兵力でわずか二千と対することとなった。より犠牲を少なくし、かつアナスタシアを逃さない為である。双方合わせ四、五万程度だと、戦そのものは勝てても、霹靂団にほとんど痛撃を与えられないまま、おまけに取り逃がすということも考えられた。杞憂ではなかったと、目の前の戦いを見て思う。殿軍で数万の追撃に耐えられる二千なのだ。五万程度だと逃げる形はとっても、たやすく包囲を突破し、後は機動力で簡単に追撃を追い払い、堂々と戦場を離脱していったことだろう。
 エーフライムは騎馬で飛び出したフーベルトに代わり、副官として全体の指揮も執っている。ゆえに戦況の推移も、最も把握しているといっていい。望遠鏡のレンズを拭き、再び詳細を探る。
 霹靂団で、まだ立って戦っている者は、千を切るだろう。アナスタシアの全身は血に濡れているが、これは返り血だろうから、まだ健在である。
 周辺の状況は、目を覆いたくなるような惨状だった。文字通り、死体が山となっている。二千か、三千か。視界は悪く、馬上にあっても見通せる範囲はそう広くない。この時点で両軍合わせ、一万を超える犠牲を出していることだろう。霹靂団の凄まじい精強さは何度も目にしてきているので、この大兵力で包囲しても五千以上の犠牲は覚悟してきた。しかし現時点で、想定の倍近い。
 勝負は、始まった時点で着いている。通常ならば一度矛を収め、降伏勧告を行っているところだが、女帝との約定があった。霹靂団を壊滅させ、アナスタシアの首だけは獲らなくてはならない。それに何よりも、フーベルトがアナスタシアの首にこだわっている。
 残っている霹靂団は、既に八百ほどか。ここからは人馬共に体力の限界であり、加速度的に数を減らしていくことだろう。見る間に七百、六百。
 不意に、地割れのような轟音が鳴り響いた。一瞬雪崩かと思ったが、周囲にそれが起こるような山はないのだと冷静に思い直した。
 見ると、スラヴァル諸侯の一軍が、潰走しているようだった。五、六千ほどの兵が中央に背を向け、戦場から離脱していく。指揮官の首が落ちたのかもしれない。もう一軍。方向は別だが、同じように潰走する。
 肝が冷えた。今や五百ほどに減った霹靂団は、最後の力を振り絞っているのか。
 その姿が、いきなり大きくなったように思えた。違う。陣形を維持しながらも、霹靂団はこちらに向けて進軍してきている。まだ、そんな余力が。
「あれは、力を利用しているのだ」
 いつの間にか、フーベルトが横に立っていた。傷の手当は済んだようで、左の頬に当て布をしている。
「力を・・・?」
「よく見ろ。背後から押すスラヴァルの力を、そのままこちらへの前進に使っている」
 なるほど。フーベルトの言う通り、スラヴァルからの攻撃は踏みとどまることなく受けに徹し、代わりにこちらに向いている兵が、押されるように攻撃の度合いを激しくしている。両軍に押しつぶされる格好のはずが、巧妙に力をこちらにずらしているのだ。
「このままだと、ここまで到達しそうだな。そしてこの戦は、まだしばらく続く。お前は少し休憩を取ってこい。顔色が悪いぞ」
「はい・・・しかし、惜しいなと思います」
 アナスタシアと霹靂団の姿は、無性にエーフライムの胸を打つ。
「何がだ?」
「あのような英雄を我らの陣営に招くことは、本当にできなかったのでしょうか」
「・・・できたのかもしれんな。しかし全て遅過ぎた。俺があの女をほしいと思ったのは、戦場で出会い、あの女だけは殺さなくてはならないと決意した時だ」
 雪と血の混ざった泥濘をまき散らし、霹靂団がこちらに近づいてくる。
 フーベルトが直接指示を出し、後方の兵力を増強させた。霹靂団は決死だが、こちらにはまだ剣を鞘から抜き放ってもいない兵が、大勢いる。
 エーフライムは一度陣を離れ、後方の幕舎に入った。小姓により、すぐに湯と糧食が運ばれる。椀の中のものをかき込み、湯を飲み干す。一息つくと、また胸に熱いものがこみ上げてきた。
 この戦の間中、何度もこんな思いにとらわれてきた。アナスタシアの戦いは、心の奥底にある何かを、激しくかき乱す。
 殿軍としてスラヴァル諸侯を守っていた時は、掴み所のない戦をする大将だと感じていた。今思えば、殿軍という最も犠牲の多いはずの役回りで、それでも犠牲を出さず、さらに潰走するスラヴァル軍を守るというあまりにも厳しい戦いが、彼女に複雑な戦術を強いていたのだとわかる。
 今日みたいな戦もするのだ。もし彼女が本当にスラヴァル軍の大将となっていたら、どれだけの戦果を上げていたことだろう。見てみたかった、という思いは強い。
 エーフライムは今年で十九歳となる。アナスタシアが、二十一歳。年齢は、ほとんど変わらない。エーフライムは十歳の時にフーベルトに見出され、これまで多くの濃密な経験を経てきたという自負があるが、ちょうど同じ頃、十二歳で初めて戦場に立ったというアナスタシアは、人と怪物を問わず、これまでどれだけ多くの敵を屠ってきたのか。
 立ち上がり、エーフライムは幕舎を出た。新しい馬に乗り、すぐにフーベルトの元に駆けつける。
「戦況は、いかがですか」
「変わらんな、ここまでは。しかし、来るぞ」
 何が、と問う間もなく、前線に大きな穴が開いた。飛び出してきたのは、アナスタシアの騎馬隊だった。兵を蹴散らし、こちらに向かってくるかと思ったが、すぐに反転し、穴が閉じられつつある前線に、背後から突撃をかける。
「あれは・・・」
「取り残される歩兵を、逃そうとしている」
「アナスタシア殿だけでも逃げようと思えば、逃げられるようにも見えました」
「・・・そうだな」
 それきりフーベルトは口をきかず、ただじっと、アナスタシアの姿を目で追っていた。


 幕舎の中には、重苦しい沈黙が横たわっていた。
 勝った、とは言えない。負けたというのも、少しおかしい。
「南で、霹靂団を見つけたようです。すぐに部隊を編制します」
「追える者だけでも、すぐに追え」
 報告に来た将校にそれだけ言うと、フーベルトは肩を抱くようにして、背もたれのない椅子に腰掛けた。
 エーフライムは、今のフーベルトに、かける言葉を見つけられなかった。
 結果、霹靂団は戦場を離脱した。どれだけ兵力を落とそうと、最後まで変わらず戦い続けた。そして残った二百弱の兵で、堂々とザーゲル軍最後の防衛線を、突破していったのである。
 霹靂団は戦場を抜けた後、森へ向かい、南下を続けているようだ。東に向かえばスラヴァル帝都、西はザーゲル州となると、南に向かうしかなかったのだろう。北は、半日も進めば海である。
 フーベルトは身体を小刻みに振るわせながら、行軍用の小型薪ストーブの前で、ただじっとその灯を見つめている。小姓が駆け寄り肩に毛布をかけようとしたが、うるさそうに手で払われていた。
 犠牲は、どれだけ出たかわからない。この際スラヴァル側の犠牲はどうでもいい。ザーゲル軍五万に、どれだけの傷がついたのか。エーフライムの当初の見立ては、統計と常識に基づいた、今にして思えば甘過ぎる見通しだった。
 しばらくすると、副官の一人が青い顔をして幕舎に入ってきた。一瞬外が見え、もう暗くなり始めているのだなと、エーフライムは思った。
「ほ、ほ、報告致します・・・!」
 声が裏返っている。書き付けを持つ手も、ひどく震えていた。
「わ、我が軍の犠牲者数ですが・・・!」
「なんだ、早くしろ」
 フーベルトが、苛立ちを見せながら促す。
「ぎ、犠牲者数は、二万・・・あ、いえ」
 かなりの数を覚悟していたが、それでは多過ぎる。両軍合わせたものではなく、ザーゲル軍の犠牲者数である。副官がすぐに否定した通り、二千の間違いだろうか。しかしそれだと少な過ぎる。エーフライムがざっと見ただけでも、五千はいたような気がする。ただ途中から天候はさらに悪化し、視界が悪かった。一万と聞いても、驚きはしない。
「犠牲者数は、三万五千。内、現時点での死者数は、二万二千です」
「なにっ」
 フーベルトが立ち上がり、書き付けを副官の手から奪い取った。エーフライムは、目の前が真っ暗になるのを感じた。
「これは、我が軍のものだけではないな。ザーゲルとスラヴァルの内訳はどうなっている」
「いえ、我が軍の数字です。ま、まだ正式な数は届いておりませんが、スラヴァルの損害は我が軍よりも大きいという話です。死者だけで、三万とも、四万とも」
 言葉を失ったフーベルトが、どっかりと椅子に腰を下ろす。目を見開き、乾いた笑いを口の端から漏らし続けている。
「ハッ、ハハハハッ・・・聞いたか、エーフライム。どうやら俺たちは、とんでもない化け物を相手にしていたらしい。ハハハハッ、これだ、これだよ」
 フーベルトの声が、どこか遠くのもののように聞こえた。自分の血の気が引くのを、はっきりと感じる。肩を抱いて座り込むフーベルトの身体は、今やおこりのように震えている。しかし続く言葉は、ひどくエーフライムの耳に響いた。
「これこそが、霹靂団の戦なのだよ」


 残った兵は、百五十ほどだった。
 敵陣を抜けた後、十人がその場で命を落とした。いや、既に死にながら戦っていたのかもしれないと、アナスタシアは思った。いずれも致命傷を受けたまま、それでも剣を振るい続けていたのだ。
 雪の上に座り込み、生き残った兵の多くは涙を流していた。傷は浅いものの精も根も尽き果て、倒れ込んでいる者もいる。
 アナスタシアは、西の空を見上げた。風は収まり、空は灰色のまま、徐々に明るさを失っていく。今日は血を見過ぎた。赤い夕焼けなら間に合っていると思っていたところだった。
「生き残る為とはいえ、私は今日、皆に多くのスラヴァル兵、同胞を手にかけさせてしまった。もう少し、上手いやり方があったかもしれない。これは私の落ち度だ。皆、すまない」
 アナスタシアは、頭を下げた。ほつれた髪が、頬にかかる。
「そんな。俺たちは誰一人、団長のことを悪いなんて・・・」
 言いかけた兵を、手で制した。
「そして結果は、この有様だ。このままでは隊の存続も難しいだろう。よって、今日この場をもって、霹靂団を解散する」
 グリゴーリィが、熊の咆哮のように号泣した。他の者たちの多くも、すすり泣いている。ボリスラーフは静かに、目頭を押さえていた。ニーカの姿は、ここにはない。
 立ち上がったグリゴーリィが、旗手の槍に巻き付いていた軍団旗を、半ば引きちぎるようにして、アナスタシアに手渡した。歩兵が持っていた大軍団旗は、既に失われている。
「団長。団長がいる限り、霹靂団は不滅です。確かに、今の状況では当分戦に出ることはできねえでしょう。ただいつかもう一度、この旗を掲げ、俺たちの大将になって下さい」
 方々から、同意の声が上がった。
「団長が解散すべきと思ったのなら、それでいいのです。しかし生き残った団員の気持ちも汲み取り、ここは一時解散ということでどうですかな」
 ボリスラーフが言う。アナスタシアは三角旗を折り畳み、懐に入れた。
「もし私が生き残ったのなら、またこの旗を掲げることがあるかもしれないな。が、私にはまだ仕事が残っている。全てが終わり、なお生き延びたのなら、考えてみることにするよ」
 アナスタシアは馬に跨がった。北。五十騎ほどの騎馬隊が、こちらを見ている。追撃の兵たちが、他の兵の合流を待っているのだろう。
「団長、何を」
「奴らの目的は、第一に私の首、第二に霹靂団の殲滅だろう。第一の目標が近づけば、第二は後回しにせねばなるまいな」
 制止の声を振り切り、手綱を握る。
「これを機に傭兵をやめる者もいようが、生きていれば、また会うこともあるだろう。私も生き延びて後、再び剣を握れるかはわからぬ」
 百五十。三百の瞳。アナスタシアをじっと見つめている。
「最後の命令だ。皆、生き延びよ。まずは南の森に退避するといいだろう。ボリスラーフ、後のことは頼む。皆、達者でな。最後まで不甲斐ない団長ですまなかった。さらば」
 馬腹を蹴る。後ろを振り返らず、アナスタシアは雪原を駆けた。雄叫びを上げ、追撃の部隊に突っ込む。
 三つ。同時に首が飛んだ。戟を振るう。突破した。
 すぐ後ろに、もう一隊いた。百人ほどか。四人を打ち倒し、その隊も突き抜けた。
 目の前にはただ白い、無人の原野が広がっている。

 

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