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プリンセスブライト・ウォーロード 第1話「今日この場をもって、霹靂団を解散する」


1,「これこそが、霹靂団の戦なのだよ」


 幕舎を出ると、夜の外気が肌を刺した。
 月は、かろうじて見える。ただ、速く流れる黒雲がその前を何度か横切り、雪の残る凍った大地を、怪しく明滅させていた。
 アナスタシアは、自分の陣へと足を向けた。アナスタシア率いる霹靂団二千は、西を向いた軍の最左翼、南端に陣取っている。
 軍議の開かれていた幕舎から、少し慌てた様子でこちらにかけてきたのは、今回の軍を率いる総大将、ダニイール卿だった。全身鎧の板金が打ち鳴らされ、それは澄んだ空気によく響いた。
「すまぬ。諸侯がお前に無礼な発言を繰り返すのも、いつものことになってしまったが」
「ええ、仰る通り、いつものことです。私は気にしていませんので、どうか卿もお気になさらず」
 ざくり、ざくりと地面を踏みしめる音が、規則的に響く。ダニイール卿は短く刈り込んだ白い顎髭を何度かさすり、アナスタシアに歩を合わせた。ダニイール個人の幕舎とは方向が違う。何か、もう少し話したいことがあるのだろう。
 何気なく、頭に手をやる。アナスタシアの髪は、氷の大地と同じ、鈍い銀色である。
「パリシが、アングルランド軍によって包囲されたらしい。もう、聞いていたか」
「小耳に挟む程度には。どう決着しようが、今の私には関係のないことだと思っていますが」
「あくまで、今の我々にはな。アッシェンが敗れれば、いずれは我々も関わることになるかもしれない。アングルランドが勝てば、いずれはグランツ、そして我らがスラヴァルにまで押し寄せてくることもあるかもしれない」
 世間話のようなことがしたいのか、他に何かあるのか。アナスタシアは歩調を緩め、兵の少ない場所へ向かった。ダニイール卿には世話になっている。実際、スラヴァルでのアナスタシアの立ち位置は、少し危ういものを含んでいた。ダニイール卿が庇ってくれていなかったら、今頃女帝とその取り巻きに、反逆者の容疑をかけられていても不思議ではない。こんなことで返せる恩ではないが、ダニイール卿の望むことなら、できるかぎりやっておきたいという気持ちもあった。
「陛下は、どう考えておられます?」
「それなのだ。陛下は、まるで我がスラヴァルが侵攻されたかのごとく・・・」
 アナスタシアの生まれ育ったスラヴァルでは十年近く、十皇帝時代と呼ばれる時代が続いた。偉大なる先帝ピョートルが崩御した後、その息子、娘たちがこぞって後見人を立て、自らが皇帝にふさわしいと後継を争ったのだ。野心ある者、ないしは野心ある後見人にせき立てられるように、それぞれが皇帝を名乗り、長い内戦が始まった。後継を勝ち取ったのは長女のエリザヴェータで、ダニイール卿は、その後見人であった。
 先帝ピョートルは、武勇、知略共に優れた、まさに英雄と呼べる皇帝だった。が、それに劣らぬくらい、狂気の人でもあった。
 エリザヴェータは皇帝即位直後、まるで先帝から狂気だけを抜き去ったような、英知と寛容の女帝だった。狂気の片鱗をいつ頃からちらつかせるようになったのか、アナスタシアは知らない。
 ある時期までは、貴族でも役人でもないアナスタシアにも宮廷の議会に出席し、政に対して発言することが求められていた。アナスタシアの父、ヴラジミルとピョートルは、友人同士であり、ヴラジミルは相談役のようなこともやっていた。それぞれの娘もそういう関係でありたいと、アナスタシアはエリザヴェータに請われたのだった。あの頃の女帝はアナスタシアを信頼しており、自分もまたそれに報いたいと思っていた。
 しかし三年前、いつものように議会で発言していたアナスタシアに女帝は激昂し、あらん限りの罵詈雑言を浴びせた。その目には、はっきりと狂気の光が宿っていた。ダニイール卿によると、その少し前からそういった兆しは見え始めていたらしい。
 以来アナスタシアは、宮廷への出入りを禁じられ、エリザヴェータと直接顔を合わせたのも、その日が最後となった。
「実は私も、当面こちらが心配するようなことは何もないと思っている」
「しかし、陛下は心を痛めておいでであると」
 ダニイールは、唸るように頷いた。
「今は、内を固めるのが先決でしょう。ポルタを奪われたばかりです」
「私も、そう進言しているところなのだ」
 内を固める。今や狂気の人となってしまったエリザヴェータに対し、反乱を起こそうという動きがあることは、アナスタシアもよく知っていた。所詮は貴族同士の権力争いだが、内乱を起こすだけの大義名分は立つ。
「反乱分子は、洗い出せそうですか?」
 言って、アナスタシアは皮肉なものを感じた。自分も反乱計画の容疑者として上げられていてもおかしくはない。しかしアナスタシアに、反乱の意志はなかった。
 闊達で、笑顔の絶えなかった頃のエリザヴェータを知っている。この国を、エリザヴェータを守ろうと、一度は誓ったのだ。それにいくら狂気に侵されているとはいえ、エリザヴェータはエリザヴェータだろう、という思いもある。
 アナスタシアは歩みを止め、言い淀むダニイール卿に向き直った。
「私と、ダニイール卿の仲です。互いに腹を探り合うようなことはやめましょう」
 むう、と再びダニイールが唸る。太く、雪の積もったような白い眉の下にある、冬の空のような瞳を、アナスタシアはじっと見つめた。
「何度か、叛意を持つ勢力に接触されたことはあります。いずれも話は聞かなかったということにして、お引き取り願いました。間に、人を立てての話です。諸侯の誰が私と接触しようとしていたのか、私は知りません。知るべきではないとも思いました」
 周りに、人はいない。少し離れた所で、ダニイール卿の兵が集まって焚き火をしているだけだ。時折、笑い声も聞こえる。
「ただ、もし事が起きるようなことがあれば、私は陛下の剣となりましょう。これは常々、申し上げていることです」
 ダニイールは、大きくため息をついた。目を細め、慈しむような瞳でアナスタシアを見つめる。
「そういうところは、本当にお父上に似ている。ヴラジミル殿も、清廉な人であった」
「父は父、私は私でしょう。しかし亡き父への友情を今も娘の私に向けて下さるのなら、私もそれに応えたいと思っています」
 不意に、ダニイールは笑った。六十を少し過ぎた辺りだが、偉丈夫で、動きそのものも若い。しかし笑い方はもう、老人のそれになりつつある。普段は年齢を感じさせないが、ふとした時に、老境に入りつつあるダニイールを感じてしまうのだった。気苦労がそれを加速させているのだろうと、アナスタシアは思っていた。
「すまんな。お前に探りを入れるような真似をして、私は自分が恥ずかしい。ヴラジミル殿に笑われるな」
「父は、笑ったりはしないでしょう。ただ静かに、そんな卿を見つめているだけです」
「それだ。私は若い頃から、そんなヴラジミル殿に圧倒されるばかりだった」
 話は済んだのか、ダニイールは自分の幕舎へと帰っていった。
 アナスタシアは、夜空を見上げた。
 黒雲。先程よりも流れが速い。
 明日からは吹雪くこともあるだろう。そう、アナスタシアは思った。

 

 朧げな陽が中天を差す頃に、全軍が集結した。
 スラヴァル軍七万。西方より進軍する、ザーゲル軍の五万を迎え撃つための軍である。
 ザーゲル州はグランツ帝国最北の一州だが、当代のフーベルト一世は、帝国の対外不干渉の方針に、はっきりと反対の姿勢を打ち出していた。また実際のところ、グランツ帝国の女帝マリアティルデは、スラアヴァルに対して敵対の意志を示していない。それどころかザーゲル州の暴走には立腹しており、非公式の場では、ザーゲルを止めるものがあれば、なんらかの支援をしてもいいとさえ言っているという噂だ。
 ゆえにこれはスラヴァルとグランツ、二つの帝国の全面戦争ではなく、あくまでスラヴァルとザーゲル州の戦ということだった。
「さっさとグランツ皇帝自らが、ザーゲルのフーベルトを討っちまえばいいものを。あれはもう立派な反乱でしょう」
 幕舎の中、アナスタシアの前でそう口に出したのは、霹靂団大隊長の一人、グリゴーリィである。アナスタシアの右腕とも呼べる男で、副官の一人でもある。黒い髭に覆われた顔は悪相だが、険のある顔つきと裏腹に、どこか飄々としたものを持っていた。
「内戦という形を避けたいのだ。フーベルトは皇帝の意志に反することをしてはいるが、同時に最も帝国を愛し、また己こそが皇帝にふさわしいとも公言している。フーベルトが提唱する対外膨張策も、それなりに筋は通っているのだ。何より、フーベルト率いるザーゲル軍が、グランツ相手に剣を向けているわけではない」
「しかし、相手は皇帝ですぜ? その皇帝に逆らうってのは・・・」
「フーベルトは選帝侯の一人であり、その皇帝を選ぶ権利も持っているのだ。そしてグランツ北部最大の州も統括している。そんな人間がグランツを愛しているからこその行動だと言い張れば、諸侯も安易に反乱と決めつけることもできまいよ。まあ、やり方は狡猾ではあるがな。いかにもかの御仁らしい」
 フーベルト率いるザーゲル軍とは、何度も戦っている。策を弄する類の大将だった。幕僚に有能な者が多いのだろう。しかし策に溺れるような将ではなく武人としても優秀で、兵は皆精強である。
 同じ軍人として、アナスタシアはフーベルトのことが嫌いではない。軍を統率するのに必要なものは鋭利な知能ではなく、尚武の気質や、人を惹き付ける何かである。その他権力、財力等の全てを持って生まれ、存分にそれを使いこなすフーベルトを、アナスタシアは時折、眩しいものに感じていた。
「団長、そろそろ時間ですが」
 幕舎の隅で、やはり副官の一人であるニーカが言った。つぶやくような低い声だが、何故かその声は聞く者の耳によく響く。彼女との付き合いは他の団員と比べてまだ浅いが、アナスタシアの誘いに乗ってこの傭兵団に入ってもらった関係上、その信頼は厚い。
「では、そろそろ行くとするか」
 諸侯が揃ったので、二時から総大将のダニイールの幕舎で、軍議ということになっていた。
「副官は、誰を伴います?」
「ボリスラーフにしよう。呼んできてくれ。いや、通り道だ。行きがけにつかまえていこう」
 アナスタシアは立ち上がり、幕舎を出た。
 空は晴れているが、よく見ると空気の中をきらきらと輝くものが舞っている。そして日差しの強さに反して、むしろ昨晩よりも冷え込んでいるようにも感じた。
 ダニイールの陣に向かう途中、ボリスラーフが兵の調練をしている場所を通った。武器を収め、挨拶しようとしている兵たちを手で制す。アナスタシアは、ボリスラーフの元に向かった。こちらに背を向けているが、その大柄な背格好で、すぐにそれとわかる。
「全体の軍議がある。来てくれ」
 ボリスラーフは調練を部下に任せ、アナスタシアの後に続いた。
「明日は、少し吹雪くかもしれませんな」
「お前もそう思うか。昨日の夜半から予兆はあったので、今日には吹雪いていてもおかしくはないと思っていたところだ」
 ボリスラーフは父の代から霹靂団を支える、歴戦の副団長である。ダニイール卿と同年代で、既に老境に入っているが、すっかり白くなった髭、傷のように深く刻まれた皺を除いては、まだ老いを感じさせる部分はない。今でも、団ではグリゴーリィと一、二を争う腕前だろう。剣を執り始めた頃のアナスタシアを、厳しく鍛えてくれた恩師でもある。
 自らの陣を出、ダニイールの陣に近づくにつれ、雰囲気は重く、物々しいものとなっていった。見渡すと、陣の端から撤収の準備にかかっているように見える。
「これは、どうしたことですかな」
「何があったのか、ダニイール卿の口から聞かせてもらえるだろう」
 広い幕舎の中に入ると、諸侯は既に集まっていた。何人かがアナスタシアの方に目を向けたが、ほとんどの者は幕舎の中央にいる男の方に注目していた。
 アナスタシアの気配に気づき、その男が振り返った。いかにも役人然とした男だが、着ているものは豪奢である。ダニイールが、奥の席からアナスタシアに声をかける。
「アナスタシア殿、皇帝全権大使殿だ」
 アナスタシアは、大使に一礼した。文字通り、一時的にではあるが皇帝の全権を付与されている男だ。何もこの男が専属でその任を担っているわけではなく、女帝の腹心から、案件に応じてその都度誰かが選ばれる。通常は外交の場にいることが多い。
 大使は恭しくアナスタシアに頭を垂れた。顔を上げる際に、蛇のような視線がアナスタシアの全身を舐め回す。今は、こんな男たちが女帝に近いのか。
 しばし、沈黙が流れた。居並ぶ諸侯の間から、いくつか咳払いが起きる。
「どうやら、私から説明した方が良さそうだ。ここにいる者たちは、既に大使から話を聞いている」
 アナスタシアにだけ同じ話をするのは、大使からすれば億劫なのだろう。事実、ここに集まった者の中で、唯一貴族でないのはアナスタシアだけだ。身分としては一人だけ何段も落ちるということになり、軍議の場でも末席に座る。
 アナスタシアは頷き、席に着いた。すぐ後ろの椅子に、ボリスラーフが腰掛ける。
「帝都で近日、大規模な反乱が画策されているようだ。私はすぐに都に戻り、反乱分子を洗い出さなければならぬ。争闘も予想されるので、私の軍はすぐに、ここを撤収することになった」
 ダニイール卿の率いる兵は一万。これでスラヴァルは六万で、ザーゲルの五万を迎え撃つことになる。淡々と事実を受け入れたアナスタシアだったが、大使の甲高い一声に、思わず声を漏らしそうになった。
「霹靂団団長アナスタシア。皇帝陛下より直々の任命だ。お前をこのザーゲル討伐軍の、総大将とする」
 一体何の意図が。アナスタシアが考えたのは、それだった。
「皇帝陛下直々のご指名、謹んで承ります」
「そしてこれは、勅命である。アナスタシア将軍、ザーゲル州統轄フーベルト・フォン・ゴルトシュタットの首を討つまでは、帝都に、いやこのスラヴァルの地を踏むことは許されぬ。必ずや、フーベルトの首を持って帰還するように」
 なるほど、そういうことか。アナスタシアは思った。連敗続きのスラヴァルが、勝てればそれでよし。今まで通り負けるようだったら、そのまま女帝はアナスタシアと霹靂団をお払い箱にするつもりらしい。
 そもそも今回の戦も、ダニイール卿を通じてだが、アナスタシアは兵力の増強を訴えていた。ほぼ同数の兵力の戦では、必ず何らかの策を講じてくるフーベルトに勝つことは難しい。小出しに数万の軍勢を度々出すよりは、一時に十万を超える軍を出した方がいいのだ。軍費も馬鹿にならないが、こうして何度も数万の軍を出しているよりは、よほど安く上がるはずである。
 事前に話を聞いていたからか、アナスタシアが大将となることに、声を上げて抗議する諸侯はいなかった。皆、苦虫を噛み潰したような顔をしただけである。
「勅命、謹んで承りました」
 大使は、アナスタシアの顔を覗き込み、怪訝そうな顔をした。退路を断たれたことで、アナスタシアが動揺することを期待していたのだろうか。あるいはアナスタシアのことをよく思っていない諸侯たちを率いるという立場に、重圧を感じるとでも思っていたのだろうか。
 戦場に立つということはすなわち、死地に赴くということでもある。事態が好転しようが窮地に立とうが、気持ちの有り様は変わらない。大使に向け、思わず口をつきそうになった言葉を、アナスタシアはなんとか飲み込んだ。不安も恐れもないが、憤りだけは確実にある。
 それで、軍議は解散ということになった。夜にもう一度、今度はアナスタシアを総大将として、あらためて軍議を開く。ダニイールが席を立つと、諸侯はぞろぞろと幕舎を後にした。皆、アナスタシアの方を見向きもしない。
 最後にアナスタシアが席を立つと、ダニイールが外で待っていた。
「すまぬ。まさか、このようなことになっていたとは」
 昨晩アナスタシアの後を追ってきた時と違い、ダニイールは明らかに狼狽していた。
「ダニイール卿の耳にも、大規模な反乱の話は入っていなかったのでしょう?」
「そのことではない。お前に、多くを背負わせることになってしまった」
「良い機会です。フーベルトの首を持って、凱旋することにいたしましょう」
 ダニイールは、一度強く目を閉じた。
「諸侯とは、上手く折り合いをつけます。命令としてではなく、お願いをするような形で、伝令を飛ばすつもりです」
「まったく・・・そもそも今回の軍の編成は、陛下が中心になって考えられたそうだ」
 集められた諸侯は、いずれも女帝に極めて近い。スラヴァルの諸侯の中にも、アナスタシアに好感を持っていたり世話を焼いてくれる者も僅かばかりいるのだが、今回の軍にそのような者はいない。唯一の味方と言ってもいいダニイールも、急な帝都への召喚である。
「ひょっとしたら、帝都での大規模な反乱など、噂程度のものかもしれぬ。初めから、これが目的だったのではないかとすら思えてならない」
 それについては、アナスタシアはほぼ女帝とその腹心の考えだと思っている。
「このようなことを考えていたのだと思うと、陛下の後見人だった私は、心苦しい。あれは、一体いつから・・・」
「やめましょう、ダニイール卿。こちらのことは心配せず、今は帝都へ急がれた方がよろしいでしょう。フーベルトの首を持って帰っても、守るべきものがなくなっていては、どうしようもない。私は私で、できることをします」
「・・・そうだ。お前の言う通りだな」
 何かを振り切るようにダニイールは笑って、アナスタシアの肩を叩いた。
「お前なら、きっと奴を逃さず、あの首を持ち帰れると信じている。生きてまた会おう。ボリスラーフ、アナスタシアを頼む」
 そう言って、ダニイールは兵の元へ戻っていった。
 最近はすっかり苦悩の人となってしまったが、ダニイールは元より闊達な男だった。別れ際の笑顔は、ひどく懐かしいものに感じた。まだ髪が黒かった頃のダニイールは、記憶にある限りいつも朗らかに笑っていた。
「さてと、色々と考えなくてはなりませんな」
 ボリスラーフが言う。
「厄介事が増えた。単にそう思えばいいさ」
 アナスタシアが言うと、ボリスラーフは笑った。
 ダニイールと違い、この男はまだ闊達さを失ってはいない。


 寒さによるものだけではなく、身体が少し震えていた。
「おお、ここは少々暑過ぎるな」
 エーフライムの幕舎にずかずかと入り込んできたのは、ザーゲル軍の大将、フーベルトである。高い身長と均整の取れた身体つき、エーフライムが生涯持つことのないであろう、華に満ちた佇まいに満ちている。
「防寒着くらい来て下さい。風邪を引きますよ」
「俺の心は熱く燃えたぎっているのだ。わかるか。この上着すら脱いでしまいたいくらいだ」
 芝居がかった仕草で、フーベルトが言い放つ。
 自らを太陽侯と称するだけあって、フーベルトの放つ熱量のようなものは、確かにあった。容赦のない夏の日差しに感じることもあるが、今のエーフライムには、その熱はいくらかありがたいものだった。
 大方、エーフライムが幕舎で一人震えていることを察して来たのだろう。そういった人の心の機微を掴むようなところは、さすがだと思わざるをえなかった。
「外に出ろ。少し歩けば温まる」
 強引なところは閉口ものだが、それは多くの場合、豪快さに姿を変える。そして軍内でも州内でも、フーベルトの言葉は絶対なのである。
 エーフライムは、引きずり出されるようにして外に出た。雪がちらついている。時折吹く強風で束の間それは消えたように見えるが、頬を打つ風に氷の粒が混じっているのを感じ、雪は消えるわけではないのだと思い知らされる。
「あまり、固くなるなよ。女を何人か連れて来ている。抱くか?」
「いえ、結構です。かえって緊張が高まって、戻してしまいそうです」
 口を大きく開けて、フーベルトは笑った。
「お前はいつまで経っても、女に慣れないなあ」
 笑いながら、フーベルトは大股で歩き続けた。フーベルトにそんな歩き方をされると、エーフライムは小走りで追いかけねばならない。当のフーベルトは、兵が集まっている辺りに目を向けては、兵たちの敬礼に応えている。
 五万人の兵士。一カ所に集まると中々の壮観だが、こうして野営地でばらけていると、一度に視界に入る人数が少ないからか、さほど多いようには感じなかった。そこかしこで十人、二十人といった集まりが、焚き火を囲んで笑い合っている。
「全て、滞りなく進んでいるのだろう?」
 何も知らない兵たちが、方々にいる。フーベルトはあえて、ぼかすように話していた。
「はい。フサリアの協力が得られなかったのは、誤算ではありましたが」
 フサリアとは先頃スラヴァルより奪った領土、ポルタ地方の驃騎兵たちのことである。変幻自在、そして強力な突破力を誇る驃騎兵、ユサールたちの中でも特にポルタ地方のユサールは、フサリアと呼ばれている。驃騎兵の中でもフサリアこそ最強と言う者たちは多い。エーフライムもそれに同意する。歴史的に見ても、第四世界帝国の騎馬民族相手に互角以上の戦いを繰り広げられたのは、フサリア以外にはいないからだ。
 ポルタ地方への侵攻、平定は、このフサリアとの戦闘を、極力避ける形で行われた。まともにぶつかっても勝てる見込みはない上、できれば無傷に近いフサリアを手に入れたいという目論みも、そこにはあった。
 結果、ポルタ地方を手に入れることができたが、領主の娘でありフサリアを率いているアリツィヤは、ザーゲルへの協力を頑として拒んだのである。
 今も根気づよく話し合いを続けているが、結局今回の戦への参戦を、見合わせることとなった。フサリアを筆頭に、ポルタの兵たちは、対スラヴァルの戦に参戦していない。しかしこれは仕方のないことであった。つい先日まで、ポルタ地方はスラヴァルの国境を守る盾であったのだ。
 できれば、フサリアの協力だけでも取り付けておきたかった。わずかだが、勝算はあったのだ。それはフサリア大将アリツィヤの、アナスタシアに対する強烈な対抗心である。同じスラヴァルに属しながら、アリツィヤのアナスタシアに対する思いは、敵愾心に近いものがあった。一度でもいいからアナスタシアと陣を異にして戦いたいとは、彼女が常々口にしていたことでもあった。
 アナスタシアと決着をつけることができる。これはアリツィヤに対して、エーフライムが何度も口にした言葉だった。
「過ぎたことをいつまでも悔やんでいても、始まらないぞ」
 エーフライムの心中を見透かし、フーベルトが言う。
「そうですね、はい。できれば策が嵌らなかった時の、保険にしたかったのですが。あと、少し僕のペースに合わせて下さい」
 仕方ないな、そんな顔でこちらを見やったフーベルトだが、やがて歩調を緩めてくれた。
「何だ、まだ震えているではないか」
「寒いだけじゃないんですよ。やはり本当に、あのアナスタシアを討ち取ることができるのかと、不安になっているのです」
「そんなことか。なに、明日、奴は伝説の存在となる。俺が討ち取ることになるからな」
「は、はは・・・」
 フーベルトの自信に押され、エーフライムはなんとか笑おうとしたが、口の端が引きつって上手く笑えなかった。
 アナスタシア。"陥陣覇王"の異名を持つ、当代の大陸五強の一角。
 このパンゲアには、それこそ化け物のような強さを持った人間たちが、大勢いる。人がここまで強くなれるのかと目を疑うような人間たちだ。その化け物のような人間たちが化け物と呼ぶ、掛け値なしの怪物。それが大陸五強と呼ばれる者たちだった。
 化け物、ということでいえば、実際の所アナスタシア率いる霹靂団は、北の大地に潜む巨大な怪物たちを、星の数ほど屠ってきている。一兵にいたるまで、精鋭中の精鋭だった。ザーゲルの兵も大陸屈指の精兵であると自負しているが、霹靂団のそれは、次元が違うという気がする。兵力は、二千。それでも二万近い軍と互角に戦えると、エーフライムは分析していた。あらためて、恐るべき戦力である。
「今度こそ、確実に奴の首を獲る。その為にお前が、色々と策を練ってくれたのだろう?」
「ええ、まあ、そうですが・・・」
 日が、陰り始めている。影になり、フーベルトの表情はよく見えなかった。
 霹靂団とは過去に三度、ポルタ平定戦の時に矛を交えている。スラヴァル軍との戦、本隊を潰走させた後、ザーゲル軍の追撃を阻んだのが霹靂団だった。いずれも最も力を出しにくい殿軍としての登場で、霹靂団が本隊の主力を成していたら、あるいは遊軍として力を発揮していたらと思うと、鳥肌が立つ。
 しかし霹靂団を本隊として活用するには、今のスラヴァルの諸侯たちは、あまりに狭量過ぎた。諸侯の中で武勲第一は誰か。戦の勝敗よりもそんなことにこだわっていれば、当然のことながら平民のアナスタシア率いる傭兵団は、本隊と離れた位置に捨て置かれる。その精強さは殿軍としても役立つという見立てはある意味正しいが、最大戦力を放棄しての戦など、初めから敗北しているに等しい。
 スラヴァル諸侯が率いる軍は、これまでの戦績に反して、実は強い。士気も高い。しかしそれはただの蛮勇に過ぎず、戦略に則った戦をするザーゲル軍にとっては、与し易い相手でしかなかった。
 だが、連戦連敗で追いつめられたスラヴァルが、もしアナスタシアを大将とすることがあったなら。想像するだけで、エーフライムの血の気は引いた。ゆえにこたびの戦では、アナスタシアの首、次いで霹靂団の殲滅が戦略目標であった。
 その為の策は、練りに練った。これというものを思い立った時、作戦のあまりの大きさに、フーベルトに献策するかどうか迷ったほどだ。当初、立案したエーフライムですら、実現は難しいと思った。しかしフーベルトはいつもの笑顔で答えたものだった。
 難しいなら、やってみろ。その方がやりがいがあるというものだ。そして最後にこうも付け加えた。これで、確実にアナスタシアの首が獲れるな。
 策は練られ、それは半ば成った。後は実行の時を待つばかりである。
 フーベルトの後ろをついて歩いている内に、いつの間にか陣の端まで来ていた。所々で篝火が焚かれている。フーベルトはそのままずんずんと陣の外に出て、小高い丘を登っていった。
「見てみろ。あの灯が、明日には消えているのだ」
「・・・そうですね。そうしなくちゃ、と思います」
 スラヴァル軍六万。七万いたが、その内一万のダニイール軍は、帝都での反乱に備え既に撤収したと、斥候は伝えてきている。それでもまだ六万の軍が雪の残る平野に陣取り、その無数の灯は揺らめきながらも、まるでこちらをじっと見つめているようにも感じた。
 葉を落とした数本の木々しかないこの小さな丘には、平坦な場所はない。少しぬかるんだ土の上で、エーフライムは足を滑らせた。転倒しそうになるがフーベルトの腕が伸び、肩を抱かれるようにして支えられた。
「なんだ、もう震えは止まったようだな」
「そうかも、しれません。あの、ありがとうございます」
 白い歯を見せ、太陽侯が笑う。エーフライムは自分の肩を、しっかりと掴んでいる手に目をやった。
 大きくて力強い手だと、エーフライムは思った。


 昨晩の会合は、まるで軍議とは呼べないものだった。
 霹靂団の陣は全体の南端、それでもなるべく諸侯の陣に近い場所に大きめの幕舎を張り、酒と軽食を用意して諸侯が集まるのを待ったが、定刻に現れた者は一人もいなかった。遅れて身分の低い貴族が数人やってきたが、軽く酒に口をつけただけで、他の諸侯が集まらないことを理由に帰ってしまった。
 ある程度予想できたことだったが、孤立無援の大将であるアナスタシアには、それを今更どうと思うこともなかった。憤っていたのはアナスタシアの部下たちで、特にグリゴーリィの荒れようは、凄まじいものがあった。
 朝。部下に起こされる前に、アナスタシアは身支度を整えた。
 曇天である。風は強く、それに時折雪やみぞれが混じっていた。もう起きて焚き火を囲んでいる、十人ほどの兵たちの輪に入る。挨拶を済ませると燃えさしに手を伸ばし、アナスタシアはパイプに火をつけた。
 いつもはアナスタシアが来ても萎縮することなく軽口を叩く連中だが、今朝は重たい沈黙が兵たちの間に横たわっていた。しかし誰も俯くことはなく、多くはじっとアナスタシアを見つめている。どの目にも、微かな怒りや苛立ちの火がくすぶっていた。昨晩の出来事を知らない者は、一人もいないだろう。
「諸侯がなんと思おうと、私たちがスラヴァルを守っている。その誇りだけは、常に胸に抱いていよう」
 兵たちの何人かが、重々しく頷く。目を潤ませ、虚空を見つめている者もいた。
「それにしても、腹が減ったなあ。少し早起きをしてしまったようだ。朝の散歩をするにも、こんな陰気な連中に囲まれていては、こちらの気分まで滅入ってしまいそうだ」
 何かが弾けたように、兵たちは笑い出した。狙ってそうしたわけではないが、それで張りつめていたもののいくばくかは、解きほぐされたようだ。
「当番の連中に、言ってきますよ。団長はもう腹を空かせているって」
 一人が駆けだしていく。アナスタシアも立ち上がり、陣の中を見て回った。二千人の軍である。多いようで、実はそうでもない。何年も付き合っていると、顔と名前くらいは一致する。何割かは本名を知らない者たちもいるが、そうした者たちには大抵通り名やあだ名があり、そちらで覚えることも少なくはなかった。アナスタシアがつけたあだ名もある。
 父の代から共に戦っている者も多く、そうした者たちは平時において、アナスタシアのことをお嬢、姫などと呼んでいた。柄ではないが、慕われている気持ちにはしっかりと応えなくてはならないという思いが、アナスタシアの中にはある。
 皆、家族のような者たちだった。
 そうであるがゆえに兵たち同様、昨晩の諸侯の霹靂団に対する侮辱は許せなかった。アナスタシアに対する侮辱であれば気持ちの整理はできるし、どこかでどうでもいいという恬淡とした気持ちもある。が、家族に対する侮辱は、肚の中でひんやりと黒いとぐろを巻く。
 パイプを深く吸い込み、白い息とともに紫煙を吐き出す。肚の中に溜まったものをそうやって少しずつ、みぞれ混じりの風に溶かし込んでいった。
 自分の幕舎に帰ると、既に将校たちが集まって朝食を摂っていた。
 一晩寝てもう気持ちを切り替えたのか、将校たちはもういつも通りの雰囲気である。そして昨晩のことを置いておいても、数時間後には決戦であるという気負いもない。
「早くしないと、冷めますぜ。団長が急げって言うから、調理担当の連中が慌ててましたよ」
 煮込んだ芋を頬張りながら、グリゴーリィが言う。
「それは悪いことをしたかな。早起きして腹が減った。兵たちとそう話していただけなのだが」
「それはそれで、一大事です。大将が腹を空かせていては、良い指揮は執れませんから。特に、団長の場合には」
 ニーカが真面目くさった顔でそんなことを言うので、何人かが笑っていた。生真面目だが時折、こういったとぼけたことも言うのだ。
「私が食いしん坊みたいに言うなよ。食べるより、作る方が好きなくらいなのにな。そういえば、斥候から何か報告は?」
 朝食の集まりは、軍議も兼ねている。聞かれたボリスラーフは既に食事を終え、地図や書類に目を通していた。
「特に大きな動きは。逆に言えば、この悪天候でも決行してきますな」
「昼には吹雪いている可能性が高い。我々と違って、ザーゲルの連中には慣れない天候であるはずだが、いつだってそうだ。フーベルト殿は、はずだ、と思い込んでいるところに、巧妙な罠を張る」
「敵地側ゆえ確証のある情報ではありませんが、周辺に点在する木立に、フサリアが埋伏している気配はありませんな」
 ポルタは既に、ザーゲルによって占領されている。ポルタ驃騎兵、フサリアの参戦は、懸念事項の一つであった。フサリアの兵力五千は、霹靂団の二千丸ごとが相手にしなければならない程の難敵である。
 フサリアがいないということであれば、霹靂団はフーベルトの首に集中できる。
「だが、油断はできんな。フサリアの機動力は、半端ではない。斥候が捕捉できないほどの遠距離から戦場を大回りしても、今晩か明日にはこちらの背後を取っているということも考えられる。今日中にフーベルトの首を獲れれば、仮にアリツィヤ殿が背後を衝いたとて、それを見せてやることもできるのだが」
「それはいい。アリツィヤ殿も、さぞかし悔しがるだろうな」
 グリゴーリィが最後の一口を頬張りながら、獰猛に笑った。
 誰も、スラヴァルの勝利を疑ってはいない。勅命により、フーベルトの首を持ち帰れないということは、二度と故郷に戻れないのだという悲壮感は、胸の奥にしまいこんでいるようだった。
 一度解散し、霹靂団の陣を、スラヴァル軍の前線中央に移動させた。柵も幕舎も取り払う。諸侯の軍は、まだ朝食を摂っていることだろう。振り返ると、南北に長く伸びる陣のあちこちから、朝餉のものであろう、炊事ののんびりとした煙が立ち上っている。
 一度、全員に一杯ずつの火酒を支給した。動きが少ない時は、そうやって兵の身体を温めておく。じっとし過ぎていると、さすがに堪える寒さでもあった。その場で大きく足踏みをしている兵もいれば、すぐに隊列に戻れる距離で、馬を走らせている者たちもいる。こういうことは指示を出さなくても、それぞれの判断でやる。
 しばらく待った。懐中時計に目をやって、昼前。雪の量は多くないが、風は強い。ザーゲル軍が西より前進を始めたとの報告が入った。
「諸侯に伝令を。そのままの陣形を保ち、西に前進されたし」
 同時に十人ほどの伝令が駆け去っていく。既に視界は悪い。それでも霹靂団の背後に広がった陣が、ゆっくりと前進を始める気配は感じた。
「それにしても、勅命とはねえ・・・あ、フーベルトの首の件です」
 グリゴーリィが、馬を寄せてきて言った。
「それだけ、今やザーゲルはスラヴァルにとって脅威だということだ。フーベルト殿の首というのも、我らを鼓舞する為の陛下のはからいだろう。今は、全軍の指揮を任されたという栄誉に与ろうではないか」
「ま、団長ならそう言うと思ってました。ただ、俺はまだ、こんなやり方に納得しちゃいません。これまでだってそうだ。大体俺が守りたいのはスラヴァルそのもので、陛下は・・・」
「その辺にしておけよ。愚痴なら、後でたっぷり聞いてやる」
「へいへい」
 軽く髭を拭った後、グリゴーリィは兜の面頬を下ろした。
 アナスタシアは後ろを振り返った。南北両端の軍が、少し突出し過ぎている。釣られるように隣りの軍も前に出始めており、全体として陣は鶴翼に近くなっている。逆なのだ。霹靂団を先端にやや中央を突出させた三角陣、蜂矢の陣を想定しての伝令だった。その為に霹靂団がやや先行し、中央の陣を引っ張ったつもりだった。まるで、逆の動きをしている。
 背後の動きに気づいたのか、兜越しにもはっきりと、グリゴーリィが舌打ちするのが聞こえた。
 その時、アナスタシアは諸侯の軍に動揺が走る気配を感じた。周囲に敵の伏兵が埋伏できる場所はない。ならば諸侯の軍に広がっている動揺はなんなのか。こちらから問いただしても良かったのだが、それを聞いている時間はなさそうだった。
 前方にぼんやりと、ザーゲル軍の姿が浮かび上がった。この強風である。風も追い風向かい風と刻一刻と変化していくため、矢合わせのようなこともできない。
 全体の陣形は思い通りにならず、何故か兵たちは動揺している。この状況での最適解。アナスタシアはしばし考えた。ボリスラーフ率いる歩兵千を後ろに下げ、騎馬隊を前方に回す。
 霹靂団の二つの騎馬隊。グリゴーリィが四百五十、ニーカが五百を率いている。それとは別にアナスタシア麾下の兵が五十騎あり、今はグリゴーリィの隊に合流することにした。アナスタシア自身が、計五百騎の騎馬隊を率いる格好である。
 騎馬隊を二つの拳のような形にまとめ、ザーゲル軍を待ち受ける。アナスタシアが右の拳、ニーカが左の拳である。
 接近し、ほぼ全容を見せたザーゲル軍は、全体としては大きな方陣である。
 らしくない、おとなしい陣形だと思った瞬間、前列歩兵が二つに割れ、騎馬隊が飛び出してきた。先頭は豪華な具足姿ですぐにそれとわかる、フーベルトその人である。
「ハハッ、相変わらず、派手好きな御仁だ」
 グリゴーリィの笑い声。
 背後、遅れていたスラヴァル軍中央も、フーベルトの姿が見えたのか、全速力で駆けてくる。
 馬を前に進めようと思った時、何かアナスタシアの肌を刺すようなものがあった。戦場での勘のようなものは、よく当たる。違和感。その原因を、アナスタシアは探った。
 スラヴァル軍の緩慢な、それでいてアナスタシアの指示を聞かない動き。これはある程度想定内ではあった。フーベルトの虚をついた動き。何か仕掛けてくるだろうと思ったが、どうとでも対処できる動きでもある。いずれも、だからどうなのだという動きだった。これまで何度か目にしてきた、フーベルトの戦ではないという気がする。全てが、想定の範囲内。父が生前よく言っていた。知恵者相手に想定内の戦をしていると感じた時、それすなわち相手の手の平の上で踊っているに等しいと。
 絶対に、考えてこなかったこと。それは考えても仕方のないくらい膨大で、簡単には辿り着けない発想だ。が、こうして相手が動き始めた今、アナスタシアは数秒でその可能性に辿り着くことができた。全身に、粟が生じる。
 突出したスラヴァルの両翼。いつも通りのフーベルトの芝居がかった用兵、早過ぎる騎馬による突撃。俯瞰で戦場を見渡せば、たったひとつのまさかに辿り着く。抜けていたのは、戦略目標を過小評価していたことか。まさか、はこの状況において、既に確実なものになっている。そうか、フーベルト殿。私をそこまで高く評価して下さっていたのか。
 気づくのが遅過ぎた。しかし今は一秒でも、早く。
 伝令では間に合わない。兜を脱ぎ捨て振り返り、後方の歩兵に向かってあらん限りの声で叫んだ。向かい風に乗って、届け。
「最後尾、背後に向かって戟を並べよ! 敵はスラヴァルだ!」
 声が届いたのかボリスラーフも同時に同じ考えに到ったのか、霹靂団歩兵最後尾は戟を並べ、突進してくるスラヴァル軍に対し応戦の構えを取った。そこに、雪崩の如くスラヴァル軍が襲いかかる。
「陛下、それほどまでに、私のことを・・・」
 言っても仕方のないことが口をつき、アナスタシアは奥歯を噛み締めた。

 

 

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