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2,「そのままどこか、誰も知らない土地まで飛んでいってしまいそうだ」


 五日目に、ゆっくり休めそうな場所を見つけた。
 山の中腹。枝に雪を乗せた木々。かつて熊が冬眠に使ったのだろうか、アナスタシアが休むのに充分な大きさの洞穴を見つけた。横穴で、あまり深くはないが、立って天井に頭がぶつかるかどうかという、充分な高さはある。
 すだれのように上からかかる、木の根を斬り払う。中は思ったよりも乾燥していて、寝床には充分だ。虫が多ければ煙で燻さなければならなかったが、その心配はなさそうだった。風も通っていたようで、地面は乾いている。
 すぐ近くに小さな温泉と、湧き水もあった。まだ昼前だが、今日はここで野営をしてもいいと思った。追手は、二日前に撒いてある。南に逃げた後、進路を西に取り、ザーゲル州に入った。まさに敵地だが、通達や人相書きが出回る前に駆け抜けることができるはずだという目算もあった。
 生き残ったのだ、という実感はまだ湧かないが、頭で考えればそういうことになるのだろう。
 馬を繋ぎ、秣を食べさせる。これで最後の分だ。明日には麓に下り、草を食べさせる必要があった。しかし季節的に近場で適当な場所があるとも思えないので、どこかの村落に寄ることになるだろう。汗を拭ってやり、毛並みを整える。馬の世話を終えたアナスタシアは、手荷物を持って温泉に向かった。
 小さな溜め池のような温泉は、座っても腹の深さしかないが、今のアナスタシアには楽園に等しかった。髪をほどき、よく頭を洗う。束の間、溜め池は真っ赤に染まった。返り血を浴び過ぎてごわごわになっていた髪を洗い終える頃には、温泉は元の色に戻っていた。
 岩の縁を枕に、温泉の中で横たわる。岩陰から、数頭の猿がこちらを見ていた。
「すまんなあ。久しぶりの風呂なのだ。もう少し、浸かっていてもいいか」
 言葉の意味がわかったのか、猿たちはやがて姿を消した。
 身を清めた後、近くの小川で武具と下着を洗った。替えの下着は一組しか持ち合わせていないので、洗える時に洗っておく必要がある。
 枯れ枝を集め、洞穴の地面を掘って、かまどを作る。雪の水分が枝に染み込んでいるようだと火がつきにくいので苦労するのだが、思っていたよりも簡単に火がついた。枝を乾燥させなくてはならない場合は、まず上着か外套を火にかけなくてはいけないところだった。条件が整っていない場所で火を起こすのは実は大変なことなので、ほっと胸を撫で下ろす。
 次いで、食事の支度である。昨晩兎を一羽捕まえ、既にしめて簡単な血抜きをしてあった。
 霹靂団では、団員は戦闘中でも、二、三日分の食料を携帯していた。それは大抵干し肉と大麦のビスケットで、大麦のビスケットはそのまま食べてもいいし、湯や乳で煮込めば、大麦の粥となる。
 諸侯に仕える、ないしは召集された正規軍とは違い、団員は必要に応じて隊から離脱することもあった。一番多いのは、スラヴァル北部、ないしはさらに北、常に吹雪いているような極寒の地での行軍である。視界が悪く、時折行軍からはぐれてしまう者がいるのだ。そのような場合は無理に見失った隊に戻ろうとはせず、二、三日で辿り着ける中継地点を目指すことになる。行軍を続ける団員も必要以上の捜索はしないし、はぐれた側も見つけられることを期待しない。行軍そのものが戦いである土地では特に、まず互い自身の命を優先することになる。
 次に多いのは、戦闘中での負傷離脱だ。本人の脚、騎兵なら馬の脚を負傷した場合、激しく陣形を変える隊の足手まといにならないよう、できるだけ迅速に部隊を離れる。動きの悪い兵が混ざっていると、それが綻びになり、全体の動きに支障が出る。本陣に帰ることができればそれが一番だが、難しい場合には、這ってでも戦場を離脱することが推奨されていた。たった数人部隊からはぐれた兵を、敵軍がわざわざ追いかけるようなことは、まずない。かえって安全なのだ。とにもかくにも、傭兵団は自分の命と仲間の命、両方を生かすように行動する。
 今アナスタシアが持っているのは、ビスケットが一枚と、三枚のゴルゴナ金貨である。三枚あったビスケットは、この五日間で二枚食べた。二枚目は一昨日食べたので、昨日は丸一日何も口にしていない。今、残りの一枚を鍋の中に入れ、粥として食べるつもりだった。併行して、兎の肉も焼いている。
 肉の一串を取り、ひとつまみの塩を振りかけて、かぶりついた。美味い。料理が趣味のアナスタシアだが、今は材料も香辛料もなく、手の込んだものは作れない。が、空腹も手伝って、最近食べたものの中でも一番の美味となった。何より、身体が温まる。
 残りの肉は切り分け、鍋の中に入れた。味も何もないが、頃合を見てかき込むと、かっと身体中が熱を持ったようになった。
 自分で思っていたよりも、疲労の度合いは強かったようだ。毛布をかけて焚き火の前で横になっていると、あっという間に眠りに落ちる。
 ほんのひと時うとうととした程度に思っていたが、外はもう暗かった。
 懐中時計に手を伸ばす。夜中の二時を少し回ったところだ。十二時間近く眠っていたことになる。焚き火は既に、熾火すら消えていた。
 アナスタシアは毛布から這い出し、もう一度焚き火に火を入れた。身体が温まると、泉の水を汲みに外へ出る。ふと、微かだが血の匂いが鼻をついた。返り血を浴びた上着の匂いかとも思ったが、こちらは既に乾き、すえた匂いがするだけだ。周囲に生き物の気配はない。それに、兎一匹、狼に喰われた程度では、ここまで濃密な血の匂いはしないだろう。気になって、アナスタシアは匂いを辿り、風の吹き下ろす斜面を登った。
 獣道の先。わずかに開けた場所がある。月明かり。アナスタシアと同じような銀の髪の男が、こちらに背を向けて立っている。
 血の匂いの正体は男の先、木の根元に足を投げ出して座っている、太った男からのものだったようだ。貴族か商人か、身なりはいい。が、猿ぐつわをはめられ、両腕と両脚は半ばから斬り落とされ、出血を押さえる為だろう、脇と脚の付け根をきつく紐で縛られていた。それでも、男は出血している。数時間と保たないだろうと、アナスタシアは思った。
 立っていた銀髪の男が、振り返った。血に濡れた小剣を構え、アナスタシアに向き直る。
「いや、邪魔をするつもりはなかった。血の匂いが気になってな」
 男は低く身構え、無言のままアナスタシアに斬り掛かろうとする。
 瞬間、アナスタシアは気を放った。男が、弾かれたように後ずさる。こういうことがわかる程度には、腕の立つ男だということだった。
「構わないよ。続けてくれ。旅の身だ。この場であったことは、忘れることにする」
 アナスタシアは男に背を向けると来た道を引き返し、洞穴に戻った。
 まだ疲れは残っている。焚き火に充分に枝を足すと、再び眠りについた。


 首筋に冷たいものを感じ、アナスタシアは目を覚ました。
 目を開けると、先程の銀髪の男が、アナスタシアの首に刃を当てている。
「なんだ。まだ私に用があったのか」
「何故、見過ごした。あの時であれば、俺を斬ることができたかもしれない」
「何故、お前を斬る必要があるのだ」
「人を、殺していた」
「大方、復讐か何かだろう?」
「どうしてそう思う?」
「悲しい目をしていたよ。あんな目をしている男を、私は止めようとは思わない」
 不意に、男は小さく笑い出した。剣を鞘に納め、焚き火に枯れ枝を何本か足す。
 火の粉が舞い上がり、洞穴の中が少し明るくなった。暗がりではわからなかったが、男の瞳は淡い金色だった。灯りを反射し、瞳そのものが揺れているようにも見える。その目がこちらを向き、大きく開かれた。
「これは、驚いた。いや、こんな腕の剣士など、そうそういないか」
 一人納得したらしく、男は頷いた。
「あんた、アナスタシアだろう。あの、陥陣覇王の」
「どこかで会ったか。私は、お前を知らないな」
「スターリィツァに行った時に、遠くからだが、あんたのことは何度か見かけている。俺を知らないのは当然さ」
「ならよかった。団員以外は、よく人の顔と名前を忘れるのだ。まるで覚えてないので、また無礼をしたかと、肝を冷やしていたところだ」
 アナスタシアは身を起こし、燃えさしからパイプに火をつけた。男は声も出さずに笑っているのか、俯いて肩を震わせている。
「こちらだけ一方的にあんたを知っているのも何か悪いな。ラルフという」
 屈託のない笑顔で、男は名乗った。差し出された手を握る。
「あらためて、アナスタシアだ。剣は、どこで使えるようになった? 軍で覚えるような使い方ではないな」
「裏稼業でね。せっかくだ。あの霹靂団団長アナスタシア殿とこうして話す機会を得たからには、営業を兼ねて伝えておくか。忍びをやっている」
「暗殺者、というわけでもないのだな」
「先程の男のことか。あいつはかつての雇い主さ。俺たちを売り、一族の多くが死んだ。あんたの予想通り、仇討ちだ」
 あんな残酷な殺し方をした後だ。気持ちは少し脆くなっているのだろう。飄々とした口調と裏腹に、声音にそんなものが滲み出ている。
「なるほど。少し羨ましい気もするな。一族が殺されたお前に、羨ましいなどと言うのもおかしな話だが」
「・・・そもそも、何故あんたがこんな山中を一人でうろついているんだ。よかったら、聞かせてくれ」
 アナスタシアは先日起きたことを、かいつまんで話した。時折軽口を挟んでみるが、ラルフの神妙な面持ちは、こちらが話し終えるまで変わらなかった。
「裏切った主を、殺す。私もそう思えたのなら、いくらかでもこの胸のつかえは取れたような気がする。だが、私はエリザヴェータ陛下を殺してやりたいとは思えなかった。どこかで、どうでもいいという部分もある。わからないな。私は、私の気持ちがわからない。ただ、何かが終わったという、そんな感慨があるだけだ」
「・・・そうか。あんたの気持ちは、わかるような気がするよ」
 ラルフは立ち上がった。まだ目元に悲しみの光をたたえている。自分も、こんな目をしているのだろうか。
「麓に、小さな集落がある。何か入り用のものがあれば、買ってきてやるよ」
「すまないなあ。二、三日分の食糧と、古着の上下を手に入れてもらえないか。男物でいい。返り血を吸ったこの服を洗いたいのだが、下着姿で外で洗濯をするには、まだ寒い季節なのでな」
 隠しから、金貨を一枚渡す。
「多過ぎるな。もう少し細かい金はないのか」
「ないよ。残りはお前へのチップだ」
 ほとんど足音を残さず、ラルフは斜面を降りていった。忍びというのは本当だろう。
 どれくらい経ったのか。また毛布にくるまってうとうととしている内に、良い匂いで目を覚ました。
「鍋を借りているぞ」
「美味そうな、匂いがする」
「昼飯だ」
「もう、昼だったか。私はともかく、馬が腹を空かせている」
 身を起こすと、馬は新鮮な秣を食んでいるところだった。夜などとうに明け、日は中天を差している。
「ありがとう」
 木の椀を受け取る。腸詰めの入ったポトフだった。アッシェンの料理だが、アナスタシアもよく作って食べる。美味い。
「今、どの辺りだろう。西に向けて逃げてきたはずだが、そろそろザーゲル州を抜ける頃だろうか」
「もう、抜けている。南西に一日進めば、すぐにアッシェンだよ」
 しばらくは二人とも黙ってポトフをかき込み、チーズを乗せた黒パンを頬張った。
「・・・美味かった。大分力が戻って来たよ。礼を言う」
「不思議だな、あんたは。大陸屈指の英雄なのに、何故か色々と世話を焼きたくなる」
「戦場に立っていない時の私は、どこか抜けているらしいのだ。こういうことは、自覚できないものだがな。部下たちにもよく言われた。お前にも、世話になってしまった」
 手早く髪を編み、手に入れてもらった新しい服に着替える。慌てて後ろを向くラルフに、やはり自分は抜けているのかもしれないとアナスタシアは思った。さすがに全裸になることはないが、戦地では男も女もなく、着替える時に、いちいち周りに異性がいるかなど意識しない。必要があれば目の前に部下がいても着替えるし、洗った下着なども、幕舎の裏にそのまま干していた。今も、下着は木の枝に吊るしてある。
 鎧櫃は持ち合わせていないので、鎧をもう一度身につける。随分軽く感じるのは、やはりゆっくり眠れたことが大きいだろう。荷物をまとめ、出発の準備を整えた。
 もうこの辺りでは、山を下りれば春の爽やかな風が流れていることだろう。どさりと音を立て、近くの木の枝から、雪の塊が滑り落ちている。
「ラルフ、お前はこれからどうするのだ」
「まだ、この土地でやることが残っている。そういうあんたは?」
「当面は、西に向かおうと思っている。知り人がいてな。向こうは、まだこちらを覚えているか、わからないのだが」
 逃避行の間に、考えた。胸にぽっかりと穴が開いたようになっており、あの人と会うことができればあるいは、という獏とした予感がある。何も変わらないかもしれないが、先のことは、その後で考えればいい。
「古い友人か」
「いや、幼い頃に憧れた人さ」
 馬を引き、獣道を下りる。山道に出てしばらくすると、麓に街道が見えた。
「ああ、そうだ。釣り銭を返すのを忘れていたよ」
 ラルフが、革の袋を投げて寄越す。手にずっしりと重い。中には銀貨と、数枚の金貨が入っている。
「驚いた。金貨一枚の釣りが、金貨五枚分になっている」
「しばらくは入り用だろう。なに、いつかまた会った時に、倍にして返してくれればいい」
「助かる。何から何まで世話になってばかりだ、私は」
 ラルフが笑った。笑顔は、この男をどこか幼く見せる。
「もうひとつ、聞き忘れたことがあったよ。あんたの名前、何故アナスタシーヤじゃないんだ?」
「ああ、それか。たまに聞かれる」
 名前は、ほとんどの場合どこで生まれたのかで決まり、余所の地域に出ても呼び方を変えることはない。かつてもっと人の行き来が少ない時代は、同じ名前でも地域によって綴りと読み方を変えていたそうだが、今は違う。
 スラヴァルに生まれたアナスタシアは、本来アナスタシーヤと名付けられるのが妥当だった。綴りも今のものとは異なる。アナスタシアという名は通常、共通語かそれに近いアングルランドの名前だ。どちらの名前か父に聞くことはなかったが、おそらく共通語でつけられた名前だろう。
「私にも、わからないよ。ただ、生前の父は、狭い世界に閉じこもるなということを、よく私に言っていた。共通語で名前をつけたのは、そういうことなのかもしれないと、今は思う」
「なるほど。あんたはその名をもって、北の大地から世界に羽ばたくのかい?」
「どうかな。そのままどこか、誰も知らない土地まで飛んでいってしまいそうだよ」
 街道で、手を振って別れた。
 いつかまた会いたい。そう思える男だった。

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