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 びしり、と音がしそうな勢いで、アンナが手を上げた。
「先生、質問です」
「はい、どうぞ」
 ロベルトが頷くと、アンナが神妙な面持ちで席を立ち、質問を始めた。
 フェルサリは教室の後ろから、ロベルトとアンナのやりとりを聞いていた。アンナの少し的を外した質問に、子供たちの間から笑い声が漏れる。ロベルトが黒板に文字を綴っていき、アンナの質問に丁寧に答えた。
 この時間は十人ほどの子供たちが集まり、共通語の読み書きが教えられていた。年齢が低い子供たちの中で、二十歳のアンナの存在はいくらか浮いている。しかし何の気後れもなく、アンナは子供たちと一緒に学んでいた。フェネサリがここにいた時は、一人だけ年齢が高いことに、かなり気後れていたことを覚えている。
 あれから一行は話し合い、アンナにセシリアの家のメイドとして働いてもらうことにした。アンナの強い希望があってのことだったが、三人にとっても異論の出る話ではなかった。聞きはしなかったが、ひょっとしたらシルヴィーの望んでいたことなのかもしれない。
 最近まで家のことはフェルサリが手伝っていたのだが、今も、これからも家を空けることは多くなる。炊事洗濯掃除等、子供たちは大抵のことは自分たちでやる。それでも面倒を見る人間は必要で、セシリアは本格的にメイドをやってくれる人間を探そうかと思っていたところでもある。
 フェルサリが教室を出ると、ちょうど玄関ロビーにセシリアが帰ってきたところだった。街の会合に出ると言っていた。今日は午後から急に雨が降ってきたのだが、案の定、セシリアはずぶ濡れだった。白いスーツを着ていたので、肌が透けて見える。
「おかえりなさい、母さん。すぐに、拭くものを・・・」
「ただいま。ああ、いいわ。着替えだけ持って、このままお風呂に入るから。沸けてるわよね?」
「さっき、アンナさんが用意できてると言ってました」
「じゃ、そうするわね」
 言って、セシリアは居室への階段を上がる。悠然とした歩き方はいつもと変わらないが、脇腹の骨を折ってしまっているそうだ。ジャクリーヌとの激闘の際に負った傷だ。その姿が二階に消える直前に、少しだけつらそうな顔をしているのが見えた。
 授業が終わったらしく、教室から子供たちが出てきた。アンナと、ロベルトも出てくる。フェルサリはロベルトに声を掛けた。
「アンナさん、どうですか?」
「学ぼうという意欲が、人一倍強いですね。いい生徒ですよ。ちょっと人と違った感性をお持ちですが、むしろこの土地柄によく合うのではないでしょうか」
 後半の部分は、勉学よりも仕事ぶりのことを言っているのだろう。大雑把でどこかいい加減さのつきまとうアンナの仕事ぶりは、あまり細かいことを気にしないこの土地の人々に、受け入れられやすいだろう。陽気さと、人を思いやれるところもだ。
「すみません、せっかく家にいるのに、あまりお手伝いできなくて」
「いえ、今でもフェルサリはよくやってくれいますよ。あまり家のことは気にせず、早く怪我を直して下さい」
「そうします」
 フェルサリの脚の怪我は順調に回復しているが、それでもあと少し時間がかかりそうだった。
 そのままロベルトと細かい話をしていると、セシリアが浴場の方から、タオルを巻いただけの格好でこちらにやってきた。ロベルトに何か話しかけようとしたが、アンナの姿を見つけると、そちらに声をかける。
「アンナ、あなたがお風呂沸かしたの?」
「あ、はい、お館様。もう入られたんですか?」
 アンナもロベルトを真似て、セシリアのことをお館様と呼ぶようになっていた。不思議ともうずっと前からそう呼び続けているかのように、アンナの言い方は自然だった。
「いい湯加減でしたか?」
「あなたそれ冗談で言ってるのなら、笑えないわよ」
「あ、ぬるかったです?」
「・・・地獄の釜のように煮立ってるわよ。薪の量が多すぎる、沸けた後は熾き火にしときなさいって、あれだけ言ったじゃない」
「あ、はいはい、覚えてます。いやあ、ああいう大きなお風呂は、今まで扱ったことなくて。シルヴィー様の所では、沸かしたお湯をバスタブに入れてから、水を入れて温度調節してたんです。普通は、そうですよね?」
「普通がどうとかいう話じゃないのよ」
「それより、そんな格好で歩いていると、風邪を引きますよ? 私はお夕飯の支度がありますので、これにて」
「ちょっと、待ちなさい」
 すたすたと早足で逃げ去っていくアンナを、タオル一枚のセシリアが追いかけていく。
「とにかく、お館様とはうまくやっていけそうです」
 片目を悪戯っぽく閉じて、ロベルトが笑った。

 

 ジャクリーヌが、海を見つめていた。
 待ち人岬の突端、崩れた灯台の石積みを持ってきて、それに座っている。歩けるようになってからの彼女は、一日のほとんどの時間をこうして過ごしていた。
 ユストゥスも時折隣りに並び、海を見ていた。
「何が、見える?」
「船が」
 ジャクリーヌは、左手で水平線を指さした。
「時々、あの辺りを通る。アキテーヌのワインを北に運んでるんだな。北から南に行く船もいる。今は、見ての通りだ」
 ユストゥスは目を細めて、海を見つめた。言われた通り、今は青い海と空以外、何も見えない。
 溜息をこらえ、ユストゥスは馬車に戻った。充分持ってきたつもりだが、もう食料が尽きかけている。そろそろここを離れなくてはならないだろう。
 ファミーユ号。家族と名付けられたこの馬車で、三人で旅をしてきた。長い旅だったという気がするし、まだ旅の途上だという気もする。
 セブリーヌを連れて旅をする必要が出た時に、ジャクリーヌが見立てた馬車だった。外装はまるで小屋を運んでいるようで、最初は少し、乗るのに気が引けた。目立つのは好きじゃない。しかし今は、まさに我が家だと思っている。中の機材の大半を片付けても、思い出はずっと残るだろう。
 強化薬を使ったあの後のジャクリーヌは、死の縁を彷徨った。ユストゥスの医術の常識の範囲内ではだ。絶対に生き残り、また元気な姿に戻ると信じていた。そうであってほしいという願い以上に、そうなるであろうという確信があったのだ。そして、その通りになった。
 ジャクリーヌの横に、木で作った十字架が二本、地面に立てられている。セブリーヌと、シルヴィーのものだった。ユストゥスはあの後、セシリアたちと共に二人の墓を作った。
 墓の前には、小さな花束が供えられている。毎朝、ジャクリーヌが森の中に入り、摘んでくるのだ。白い小さな花びらが、風に揺れて、震えている。
 荷を整え、ユストゥスはもう一度ジャクリーヌの方へ向かった。義手で頬杖をついていたジャクリーヌが、振り返らずに言う。
「青いなあ。海も、空も。二人はずっと、これを眺めているんだなあ」
 ジャクリーヌも、海を眺めている。
「・・・わからねえんだよ。これからどうしたらいいのか。ずっとあいつを助けることばかり考えてきて、何よりあたしがそれにずっと救われてきたから。何か、いつも通り望みを言ってくれよ。金が足りない、薬が足りない、こういった機器が必要だ。何でも用意するよ。怪物でも何でも相手にする。でもなあ」
「ジャクリーヌ」
 思わず大きな声が出てしまい、そのことにユストゥス自身が驚いた。一度間を置き、呼吸を整える。
「もう、行こう」
「・・・どこへ?」
「どこへでもさ」
「・・・そうだなあ。お前には医者の仕事があるからなあ。でも、あたしは・・・」
「一緒に、来てくれ」
 びくりと、ジャクリーヌは肩を震わせた。
「あ、あたしは、ここを・・・」
 離れなくてはいけないことは、よくわかっているだろう。
「自分を、責めるな」
 簡単なことではない。人に言えないこともやってきたはずだ。セブリーヌとユストゥスの為に、自分の全てを捧げてきた。
「もう、一人で背負わなくていいんだ。だから、一緒に行こう」
 両手で顔を覆ったまま、ジャクリーヌは肩を震わせている。胸の中を、様々なものが去来していることだろう。
 ユストゥスには、ジャクリーヌの背負ってきたものの重さがわからない。やってきたことの困難さもわからない。透視の魔法であらゆることを見通せても、こういうことはわからないのだった。
「いいよ」
 嗚咽をこらえながら、ジャクリーヌが言う。絞り出すような声。心の軋みを、少しでも楽にさせてやりたかった。手に顔を埋め、ただ震えている、赤い髪の娘の、本当の姿。
「それがお前の望みなら、あ、あたしも・・・」
 それ以上は、声が上ずって言葉にならなかった。
 ジャクリーヌの肩に手を置く。その手が、ぎゅっと掴まれる。
 魔法ではわからないことが、今のユストゥスには、少しだけわかった気がした。

 

 

 

 

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