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 下りは、想定以上に難儀しそうだった。
 この西側の斜面には、ほとんど木が生えていない。それで、麓まで見渡せる。上りと同様、南北を往復するつづら折りの道が麓に向かって伸びているのだが、一部が、崩れてしまっているのである。中程くらいまではなんとか大丈夫そうだ。しかし、その先はこの馬車で下りられるのか、微妙なところだ。
 頻繁に土砂崩れが起きているのだろう。所々草こそ生えているが、木の数は少ないし、土が剥き出しになっている場所も多い。木が流され、より一層水はけが悪くなるので、また土砂崩れが起きる。緑に覆われていた上りの道とは仮面の裏表といった感じで、こちらは馬車が下りるには大変な悪路である。振り返ってみれば、ミュラセで聞いた情報は、かなり古いものだったのではないか。町の西から来るのは行商くらいだと言っていた気がする。徒歩ならまだ道がある分だけ山の移動としては楽なくらいだと思うが、馬車が通れる道は、半分もなさそうだ。
 が、それ以上にテレーゼの胸を痛ませていることがあった。
 シルヴィーの容態が、悪化しているのである。
 というより、昨晩から目を覚まさない。
「どうですの?」
 馬車から出てきたアンナに聞く。彼女の顔も、心配で蒼白になっている。
「変わりません。揺り起こすわけにもいきませんし・・・」
 涙目で語るアンナを横目に、セシリアがキセルに火をつけた。
「ともかく、旅を続けましょう。ここで留まっていても、事態が好転するわけではないわ」
 ネリーですら、今朝はまったく軽口を飛ばさない。そうしておとなしくしていると、肩口の包帯が悲壮感を漂わせてくる。
 フェルサリが御者台に座り、馬車が進み始めた。セシリアとネリーの話す声が聞こえてくる。
「魔法は使える? あそこまで行ったら馬車を浮かせて、まっすぐ麓まで行ければと思ってるんだけど」
「大丈夫。任せといて」
 ネリーが、お下げ髪に仕込んだ水晶を手にしながら答える。自身の身に溜めておける魔力は回復しなくても、あの緑色の水晶の中に溜めてあった魔力でなんとかできるということなのだろう。
「馬は、私が連れて下りるわ。あの辺りなら、馬でも下りられる」
 つづら折の端、北側の斜面は、馬が道を無視して下りられる程度にはなだらかである。
 ふと前方に目をやると、遠くの方に、水平線が見えた。フェルサリにも見えているだろう。海は、もうすぐそこだった。手前の森が邪魔して見えないが、あの絵の場所、待ち人岬も、あの海の手前にあるはずだった。
 今晩は、あの森の手前川岸で一泊。明日には、海に着く。
 空は一行の気持ちなどおかまいなしの、どこまでも続く青だった。
 山を、下り始めた。
 シルヴィーの容態もあり、皆の口数は少ない。というよりあまり口を開かないシルヴィーが、何故か一行の空気を明るくしていたのではないかと、今にして思う。
 セシリアが、さかんにキセルに火をつけている。思えば、何人かで旅をする時は、いつもセシリアが中心にいた。場の空気も、遠回しにセシリアが支配してきたという気がする。パーティのリーダーなので、当然と言えば当然だ。自然と中心にいる人間で、それは能力の高低ではなく、持って生まれたものだった。
 そのセシリアが、この旅の間はあまり中心にいなかったという気がする。確かに、旅の行程を取り仕切ってはいる。が、セシリアのたたずまいは旅のリーダーというより、シルヴィーに仕える騎士のようだった。セシリアが譲ったのかもしれないが、シルヴィーにも持って生まれたもの、人の中心になるべき何かがあったのだと、あらためて思い知らされる。中心になる人間の代わりはそうそういるわけではなく、セシリアにも何か感ずるものがあったのだろう。
 テレーゼは道中何度か窓のところに行き、シルヴィーの容態を確かめた。馬車の揺れが大きいので、目を覚ましていないかと思ったが、そんなことはなかった。
 熱もあるらしい。絞った布を、アンナが何度も取り替えていた。飲み水の全てを使ってしまいそうな勢いだが、この山を下りれば、南側の岩壁の下に、川がある。
 道の南側に来た時に、テレーゼはさらに南、崖の下の川の辺りを見つめてみた。賊の集まる集落があるということだったが、ここからはよく見えなかった。山のこちら側も急峻な崖になっており、土の山と岩の台地がぶつかるはずだった所を川が間に割って入ったといった感じの、遠くで見るよりは旅に過酷な地形だった。
「どこで、仕掛けてくるかしらね」
 中腹まで下って来た辺りで、セシリアが言った。
「昨晩の内にもう一度、と思ってましたけど。馬車の修理に手間取っているのかもしれませんわね。先程南の崖の下を見てみましたけれど、あの馬車が先行している様子はありませんでしたわ」
 ジャクリーヌたちのことである。
「替えの車輪はあったろうから、問題は車輪の懸架装置が壊れたか、馬車の中に何かあったってことかもしれないわね」
「ユストゥスが中にいるのかと思ってましたけど、当てが外れましたわ」
「にもかかわらず、二人は慌てて馬車に駆け戻っていった。特にジャクリーヌは、あと一息で私の背後を襲えたはずよ。好機をかなぐり捨ててまで、何があったのかしら」
「余程、大事なものを積んでいるのでしょうね。ファミーユ号でしたっけ、あの馬車の名前は」
 二人とも、それがどんなものかに気づき始めている。推測の輪郭が徐々にはっきりとし始めていたが、実際に何があるのか、この目にしてみるまでは、なんとも言えない。
「何であれ、今の私たちの目的は、シルヴィーにあの海を見せてやることよ」
「わかっていますわ」
 ファミーユ号の中について考えを巡らすことが、今後の戦闘の妨げになるかもしれないと、セシリアは考えているのだろう。テレーゼの呪いに関することだ。が、テレーゼは憶測を出ないものに、自分の行動が束縛されるとは思っていなかった。
 シルヴィーを、守る。彼女を殺そうと目論むのなら、命を懸けて止める。無論、相手にも命を懸けてもらう。
 道の崩れた箇所に近づいてきた。セシリアが馬を馬車から離し、四頭の手綱を持って先導する。一行から離れる前に、セシリアはテレーゼを手招いた。
「持続時間がどれくらいかわからないけど、あの強化薬を服用している時のジャクリーヌの力は、私たちを凌駕するかもしれない」
「あなたは昨日、薬なしのジャクリーヌに一本取られるところでしたものね。油断はしませんわ」
 セシリアは、軽く肩をすくめる。
「でもひょっとしたら、セシリアに似たタイプの戦士なのかもしれませんわね」
「あら、そう?」
「ええ。自分より強い者に挑んで、勝つ。あなたが竜を倒せたように、ジャクリーヌはわたくしたちに勝つかもしれませんわ」
「そうね、気をつけたいわ」
「食い止めますわよ」
 テレーゼが頷くと、セシリアは馬を連れ、北に向かって駆けて行った。
「ちょっと揺れるかもしれないけど、びっくりしてもおとなしくしててね」
 ネリーが中のアンナに声を掛け、橙色のお下げ髪から、緑色の水晶を取り出す。車体の角に叩き付けてそれを割ると、中から出てきたどろりとした緑色の液体を、車体の下部、四隅に塗っていった。もうひとつ、別の水晶を胸に当て、精神を集中させる。こちらのものには、魔力そのものが蓄積されていたようだ。
 魔法の詠唱が始まる。車体を浮かせて道の崩れた斜面を下りていくのだが、今のネリーに微妙な操作は難しいということで、フェルサリがその補助につく。地面から一メートルほども浮き上がった車体を、床に置いた箱を押して進むように、フェルサリが両手を添えて、馬車に体重をかけていた。テレーゼはそれを、黙って見ているだけだった。
 暇を持て余しているわけではない。むしろこれから、四人の中で最も忙しく立ち回ることになるだろう。
 テレーゼは、山の頂上に目をやった。
 仕掛けてくるなら、ここ。これは、好機のはずだった。心の準備はできている。覚悟している分だけ、不意打ちにはならない。いや、自分たちが待ち伏せているのだ。誘いに乗らないあの女ではないはずだ。
 ほとんど裸と言っていい山の斜面は思う様、駆けることができそうだった。おあつらえ向きの遮蔽物が、点々としている。来い。存分にやり合おう。
 山の上から、何かが飛び立った。それは長い間滞空し、盛大な土埃を上げて着地する。車輪を唸らせ、滑るように駆け下りてくる。
 ジャクリーヌ。目が、黄金に輝いていた。あの時より、さらに強化されている。
 テレーゼも、本当は戦うことが好きなのだ。この身に流れる血は、上位吸血鬼の中でも最も好戦的な血脈だった。押さえつけていた闘争心が、血潮となって全身を駆け巡る。
 来い。
 牙が鋭く伸びるのを唇で感じながら、テレーゼはもう一度呟いた。

 

 砲を片手で抱えながら、吸血鬼が斜面を駆け上がってきた。
 速い。
 目が、赤い光を放っている。吸血鬼の本性が、やっと表に出たという感じか。
 不意にその身が、爆煙に包まれた。中から白狼が飛び出し、弾丸そのもののようにこちらに向かってくる。さらなる加速に、ジャクリーヌの闘志は一気に沸点に達した。
 連裝機銃を構える。両者とも凄まじい速度で接近しているので、あっという間に射程に入った。
 機銃を、横に薙ぎ払いながらぶっ放す。放射線状に弾幕を張った。どう避けようが、避けきれない銃弾。
 しかしテレーゼは、あっさりとその斉射をかわしていた。跳んだのだ。ジャクリーヌの想定よりも、高く、高く。
 その身が、宙で再び爆煙に包まれる。人の姿に戻った吸血鬼が、こちらに向かって砲を構えている。
「チィッ!」
 かろうじて上空から放たれた砲弾をかわした。線ではなく点で捉えたとは思えないくらい、正確な砲撃だった。左肩から背中にかけて、鋭いしびれが走る。かすったかもしれない。直撃なら、今頃死んでいる。
 駆け下りてきた勢いを利用して、大きく迂回し、ジャクリーヌは斜面を駆け上がった。右足の車輪が、外れそうなくらい暴れている。にも関わらず、着地と同時に再び白狼に変身したテレーゼに、まったく追いつけていない。
 岩を蹴り、急角度でこちらに引き返してきた白狼が、またも爆煙に包まれた。煙越しに、テレーゼが砲を振り上げているのが見える。
 すれ違いざま、これもすんでのところでかわしたが、今度の衝撃は、右腕に来た。連裝機銃の一部が、唸りを上げて空に舞い上がる。
 振り返り、銃を撃ち続けた。人の身のまま、踊るように弾丸をかわし、吸血鬼が大木の陰に身を隠す。
 いや、いつの間にか一発撃ってきている。
 弾丸を見切れる今のジャクリーヌでも、かわすことはできなかった。左肩。当たりは浅い。血が噴き出したが、今はこんな軽傷に構っている場合ではなかった。もう吸血鬼は、次の弾丸を放ってきている。
 速い。
 そして、強い。
 想定の壁を、一度に何枚もぶち破っていくような強さだった。自分は、一体何を相手に戦っているのだ。
 弾丸。
 かわしながら、ジャクリーヌは連裝機銃を撃ち続けた。木で、岩で、あるいは身を翻すことで、テレーゼは銃弾の雨あられをやり過ごし、間断なく必殺の弾丸を撃ち返してくる。
 一瞬、目が合った。
 赤い瞳が、笑っているように見えた。
 化け物め。
「ま、化け物退治は、慣れちゃいるがね」
 車輪が、さらに唸りを上げる。車輪は怒りの咆哮を、内燃機関は悲鳴を上げていた。構わず走り続けた。止まった瞬間に、殺される。
 逃げているのか追っているのかわからない、疾走しながらの撃ち合いだった。ジャクリーヌの弾丸は、当たらない。テレーゼの十倍以上の弾丸を放っているのに、当たらない。適当に連射しているのではない。一発一発に殺しの情念を乗せているのに、吸血鬼の身体にはかすりもしなかった。
 いきなり、殺気がジャクリーヌの身体を打った。今までは、様子見だったのか。来る。奴の技が、来る。
 横に駆けながら、テレーゼは大きく腕を振り上げた。
 これは、例の弾道を曲げる技か?
 あの夜、ジャクリーヌの上等な葉巻を吹き飛ばした。
 見てみたい。今の目なら、それを目視できる。
 テレーゼの三連発銃。火門が火を吹く。銃口から弾丸が飛び出すまで、瞬きひとつもない。おかしいな、とジャクリーヌは思った。腕を振り上げたままなので、あのままだと背中越しに、おまけに地面に向かって弾丸を発射することにならないか。
 その腕が、鞭のようにしなった。
 ああ、あの大陸五強のセシリアよりも強いって噂に、納得がいった。
 人の限界をはるかに凌駕した感覚を持つ今のジャクリーヌには、テレーゼが何をしたのか、はっきりと理解できた。
 弾丸が銃身を駆け抜けていく間に、変化を与えているのだ。丸い石を投げる時に、握りと指先にわずかな加減を与えることで、軌道に大きな変化をもたらす、あの投げ方と、原理的には一緒だ。回転は空気を切り裂き、つまりは周囲の風の動きに関係なく、軌道を自分の思った通りに支配できる。
 それを、弾丸と銃身でやっている。
 たまげたよ。ジャクリーヌは思った。こいつに勝てる生き物が、この世に存在するのか?
 弾丸。テレーゼの肩口から上空へと飛び立つはずのそれが、急な弧を描き、最速かつ正確無比に、ジャクリーヌの心臓に迫ってくる。
「ッ・・・!」
 頭ではなく、心臓を狙ってくる方に賭けていた。先に連裝機銃を盾にしていたことで、なんとか致命の一撃は避けられた。二本の魔法銃が弾け飛び、一本は着弾点から折れ曲がった。全身を、戦鎚で殴られたような衝撃が走る。それでもジャクリーヌは、残った機銃を撃ち続けた。
「ちょうど、弾切れしてたヤツだよ。身軽にしてくれて、礼を言うぜ」
 今、この戦いにおいてなら、ジャクリーヌも人をやめている。
 少しだけ目を見開いたテレーゼは、牙を剥き出しにして笑った。桜色の唇の上を、赤い舌がそろりと這い回る。
 舌なめずりしてやがるな、とジャクリーヌは思った。

 

 テレーゼは、この赤い髪の賞金稼ぎのことが好きになった。
 こちらの世界も悪くない。いや、強い者の数だけでいっても、こちらの方が粒が揃っているのではないか。
 ここまでの好敵手に出会ったのは、しかし久しいわけではない。掌砲という掛け値なしの必殺技を持ち、それをここぞという時に繰り出せる判断力を持つセシリア。桁外れの握力とどこまでの怜悧な頭脳の持ち主、ニコール。が、今はこの二人と組んでいるので、しばらくは強敵と本気でやり合う機会はないものと思っていた。
 こんなにも早く、こんなにも歯ごたえのある相手と戦う機会があるなんて。
 こちらが上回っているとはいえ、速度でテレーゼといい勝負ができる相手は、そうそういない。
 油断なく、本気で戦っているのに、まだジャクリーヌを殺せていない。いくらか手札を切らせたが、不利を悟ってもなお、この赤い髪の賞金稼ぎの闘志は衰える様子がない。なんという胆力だろう。立場が逆だったら、テレーゼはそんなにも強い相手に立ち向かっていけるのか。
 いや、立ち向かったこともあった。だからこそテレーゼは、ジャクリーヌに強い好意を抱いたのだった。
 機銃の斉射。絶対にかわしきれない連弾だったので、岩に身を伏せてやり過ごした。一、二発の弾丸だったら、それが見えてさえいれば、どうとでもできる。テレーゼの敏捷性と動体視力でも、絶対にかわしきれない数と位置を突いてくるジャクリーヌの戦闘力は、間違いなく本物だった。
 とても武術とは言えない兵器を使って戦うから? 短時間とはいえ、人の身体能力を大きく越える薬品を使っているから?
 テレーゼは、これまでジャクリーヌが戦士としてあまり評価されてこなかったことを不満に思った。使いたいものは、何でも使っていい。何を使おうと、こうして身体を張って戦える者はみんな戦士だ。どんな強力な武器だろうと、それを扱いきれない者にとってはただの玩具にも劣る。ジャクリーヌは自分の手に入れられる全てを、完璧に使いこなしている。
 駆け回っていたジャクリーヌが、逃げるように背を向けた。斜面を横切るように、大きく弧を描いて走る。
 さて、何を仕掛けてくるか。
 ジャクリーヌが、何かを放り投げた。発煙筒。二本、三本。いい判断だった。等間隔に、正三角を描くように投げ、広い範囲の視界を奪おうとしている。
 この手には、乗るべきではないだろう。テレーゼは白狼に変身し、発煙筒を踏み消しにかかる。
「ッ・・・!?」
 いや、この臭気。近づくのは危険だ。
 発煙筒に、デモンズベインの粉末を混ぜてある。
 これがテレーゼの弱点のひとつであることは、あの夜襲を迎撃した際に、既にばれてしまっている。それを突いてきた。ここからが、ジャクリーヌの本領発揮といったところか。テレーゼは、人の形に戻った。
 煙幕の中から、散発的に魔法銃の弾丸が飛んでくる。一発が、頬をかすめた。あれほど連裝機銃を乱発してきたのだ。そろそろ弾数が心許なくなっているだろう。ここ、という時以外、もう斉射はしてこないはずだ。
 デモンズベインは人の身にとっても有毒だが、ジャクリーヌはじっと、煙の中で耐えていた。右足の内燃機関の唸る音で、中にいることはわかる。テレーゼは慎重に風上に移動する。南からの風。岩壁の台地の上から、吹き下ろすような風。崖を背にするのは好きではないが、致死の風を吸うわけにも、この場から撤退するわけにもいかなかった。
 音のする方に、銃弾を放ってみるべきだろうか。いや、あの車輪の義足だけを置いて、別の場所に移動しているかもしれない。そうなれば向こうからも見えていないはずのテレーゼの位置を、漠然とだが教えてしまうことになる。ジャクリーヌにとっては、こちらの位置の捕捉は、大体でいいのだ。連裝機銃の斉射は、着弾範囲が広い。
 テレーゼはそっと、砲を地面に置いた。白狼に変身し、反応速度を上げてもいいが、不意の一撃をかわしそこねたら、あの身体の方が負傷は大きい。圧倒的な速度こそ得られるが、耐久力は大きめの狼とそう変わりはないのだ。前脚を吹き飛ばされたりしたら、人の身に戻った時には腕を失っている。それならこの身体で備えるべきだった。吸血鬼の頑健さなら、何が来ようと初弾で倒されることもないだろう。
 発煙筒の立てるしゅうしゅうという音が、徐々に大きくなってきた。蛇が舌を鳴らす音のようだ。義足内燃機関の音は相変わらず聞こえているが、それ以外の音はかき消されている。
 一秒を十秒にも感じる、音に囲まれた沈黙。重い膠着を破ったのは、ジャクリーヌの方だった。
 車輪の回る音が近づき、白い煙の中にぼんやりとジャクリーヌの影が浮かび上がる。あちらにもテレーゼの影は見えているはずだ。にもかかわらず、ジャクリーヌは速度を上げ、こちらとは違う方向に向かっている。
 嫌な予感がした。
 すぐに、この場を・・・。
 いきなり、大量の煙に巻き込まれた。爆音。デモンズベインの粉末で、全身を焼かれる。
「くああぁぁっ!!」
 何が起きたのか、すぐにはわからなかった。身体の自由がきかない。続けて、無数の衝撃。機銃の斉射を、まともに食らってしまった。視界が、自らの血で赤く染まる。
 その時になって、何故いきなり煙が襲いかかってきたのかがわかった。爆弾。あの中で仕掛け、爆風でそれを広範囲にまき散らしたのだ。さらに言えば、風上に避難していることも、はっきりと読まれていた。弱点を前に半ば身体が自然に動いたこととはいえ、あまりにも軽率過ぎた。
「今ので、弾切れだよ。本当に、不死身だなあオイ。痛くねえのか」
「けほっ・・・けほっ! き、気にして下さるの? 痛覚は、人のそれと変わりませんわ」
「そうかい。そいつは悪いことしたな」
 再びの、しかし今度はとてつもなく重い一撃。連裝機銃で、力一杯殴られた。身体が、激しく揺れる感覚。いつまで経っても収まらない。まずい状況だった。今しばらくは、この吸血鬼の身体の頑健さに頼るしかない。
「殺す手段が、切れちまってよ。今からお前をこいつで殴り続けても、殺す前に毒から立ち直ったら厄介だな」
 目を開けると、崖の端まで追いつめられていた。
 ジャクリーヌ。食いしばった歯の間から煙を吐き出し、血走った目はテレーゼを眼光で殺してしまいそうだった。赤い髪がたてがみのように揺れている。怪物だ、とテレーゼは思った。
 突然、首に焼け付くような痛みが走った。
「十字架も弱点かい。銀と、にんにくは平気だったみたいだな」
 手に、十字架のついた鎖を巻き付けているようだ。苦痛に気を失いそうになるが、毒からは、徐々に回復しつつあった。あと数秒で、この女を投げ飛ばせるくらいには、身体を動かせる。
 すさまじい力で、後ろに向かって押されていた。激しく車輪の回る音が、テレーゼの耳に響く。
 身体が、ふわりと浮き上がった感じがした。
 いや、二人とも崖から落ちている。
「ほ、本気ですの!?」
「本気だよ。なに、下は川だ。あたしはてめえの不死身っぷりをクッションにさせてもらうよ。よろしく頼むぜ」
 流れの速い川。ぐんぐんと近づいてくる。
「さてと、第二ラウンドといくか」
 全身を打ちつける、衝撃。
 首をしっかりと掴まれたまま、テレーゼの背中は激しく川底に叩き付けられた。

 

 

 

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