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プリンセスブライト・アウェイキング 第五話

「She Sees Blue Sea」シーシーズ・ブルーシー 後編

 

 

 曇天の先に、光が差していた。
 馬車の上で、フェルサリは短弓の弦を張った。指で弾くと、びん、という心地よい音が、荒涼とした大地に吸い込まれていく。矢筒を、手元に引き寄せる。これを使うことにならなければいいと、フェルサリは思った。
 前方ではセシリアとテレーゼが、谷の関所に向かっていた。白い外套とドレスが、風で揺らめいている。遠くからでも、この二人の姿はよく目立つだろう。
 低い岩壁の隙間を、城壁と城門らしきものが塞いでいた。元はこの辺りを領地としていた、アッシェン貴族のものだと推測できる。打ち捨てられていたはずのものが、今はゴブリンによって占拠されているようだ。五十かそれ以上のゴブリンが、住処としているのだろう。
 関の門の近くには、おそらくは料金所と兵の詰所だったのだろう、二階建ての建物と厩があり、そこから何匹かのゴブリンたちが顔をのぞかせている。門の方でも別のゴブリンたちが警戒の態勢を敷いているのが、フェルサリには見えた。
 一応、交渉の余地はあるかもしれないということで、まずはセシリアとテレーゼの二人が向かった。フェルサリたちは、五百メートルほど後方で、待機している。
 ゴブリンやオークたちの言語はほぼ同じで、二人ともその言語を理解できるのだそうだ。セシリアは話す方は片言程度、聞き取る方はまずまずといったところで、テレーゼは、一応一通りは話せるといった感じらしい。
 オークたちの言葉は、フェルサリも聞いたことがある。自分の生まれ育った村が焼き払われた時の、忌まわしい記憶だ。
 確かオークたちは、ゴウゴウという、唸るような話し方をしていた。ゴブリンはギイギイといった調子で話すそうだが、言語的には同じらしい。ちなみにテレーゼは、ミャアミャアと猫が鳴くようにして話す。先程、馬車を離れる際に聞かせてもらった。オークとゴブリンの発声の違いでも通じるくらいなので、テレーゼの話し方でも充分通じるそうだ。最低限の発音が合っていれば、会話はできるらしい。
 共通語が通じるくらい頭が良ければいいんだけど、とセシリアは言っていた。そういう個体のいる集団であれば、交渉の余地がある。相手が人にとって怪物と呼ばれる存在でも、無駄に命を奪うべきじゃないというのが、セシリアの基本的な考えだ。もっとも、ゴブリンからすれば、人間こそ怪物ということになるだろう。セシリアはそうも言っていた。ある意味でセシリアたちは、人間から見ても怪物と呼べる存在なのかもしれないと、フェルサリは思ってしまった。無論、喩えである。
 後ろを振り返る。原野の向こうに、ジャクリーヌたちの六頭立ての馬車が見えた。瓦付きの屋根を持ち、家を模したその馬車の名は、ファミーユ号というのだという。つかず離れず。ここ一週間ばかりはそんな感じで、こちらへの襲撃もない。テレーゼの返り討ちにあい、ジャクリーヌは負傷したと思われる。
 白い姿の二人はもう、門の近くまで行っている。城壁の上から、矢が一本放たれた。それはテレーゼの肩に突き立ったが、吸血鬼は何でもないといった様子で、それを引き抜いた。
 胸壁の間から、一際大きいゴブリンが姿を現した。体格も立派で、あれがホブゴブリンという種族なのだろう。ゴブリンの集団の中の一割くらいは、ああいったものが混ざっていることがあるそうだ。ゴブリン集団の支配階級であったり、戦士階級であったりする。ゴブリンの身長はフェルサリの腰辺りまでだが、あのホブゴブリンは、フェルサリよりもずっと上背がありそうだ。
 セシリアとテレーゼが、身振りを交えて交渉に当たっていた。時折、こちらを指さす。馬車の中の食料を、一週間分くらいなら出してもよいとセシリアは言っていた。それを引くと、残りは三日分。ここを抜けて一日半で人の住む町があるはずだ。もしそこが怪物の手に落ちていても、この辺りは食料になるものが豊富なので、なんとかなるだろうとも言っていた。
 馬鹿な人間どもが、食料を積んだ馬車に乗って、のこのこと殺されにやってきた。そう考えるほどに頭が悪ければ交渉は決裂、城門を破って先に進む。セシリアの言った事態にならないことを、フェルサリは願っている。
 また一本、矢が放たれた。それはセシリアの鎧に当たって地に落ちる。もう一本、テレーゼにも放たれた。今度は右胸の辺りに突き刺さったが、これも先程と同じように、テレーゼは無造作に投げ捨てた。
 にわかに、城壁の上が騒がしくなる。ホブゴブリンが、拳を振り回している。二人に向かって、無数の矢が放たれた。二人は門の下に入り、矢の雨をやり過ごす。テレーゼが、こちらに向かって手招きをした。交渉は決裂だ。
 フェルサリは、御者台のネリーに声を掛けた。
「ネリーさん、出して下さい」
「あいよ。ま、こうなるとは思ってたけどさあ」
 ネリーが馬に鞭をくれ、ゆっくりと馬車が進み始める。右肩に胸にかけて巻かれた包帯が痛々しい。あの傷は自分のせいだ、とフェルサリはあらためて思ってしまう。
「お、派手にやってるねえ」
 ネリーにも、関の様子が見えてきたのだろう。のんびりとした口調で言っていた。セシリアとテレーゼが暴れ回る様子は、ネリーには見慣れたものなのだ。
 料金所の建物から飛び出してきたゴブリンたちを、テレーゼが砲を振り回して薙ぎ払う。砲耳から伸びた鎖を掴んで振り回す戦い方は、トロールたちとの戦いでも見たが、あらためて見てもかなりの迫力だ。ネリーのように見慣れた様子になるのには、時間がかかるかもしれない。吹き飛ばされたゴブリンたちが壁に叩き付けられ、おかしな格好で崩れ落ちる。あんなものが当たった時点で即死だろう。鳥肌が立つ。白いドレスが舞い、巻き毛が顔の周りで弧を描く度に、濁った血の花が際限なく咲き続ける。
 先に料金所の建物に入っていたセシリアが、血刀を手にしたまま、屋根裏の窓に姿を現す。そのまま屋根の上を走ると、城壁の方に向かって跳んだ。空中で一枚音壁を出し、それを踏み台に胸壁まで一気に跳躍する。着地と同時に、いくつもの血煙が上がった。
 フェルサリは一つ、大きく息を吐き出した。矢を、つがえる。この矢が、ゴブリンの命を奪う。それを考えると、トロールたちと戦った時と同じようなためらいと戸惑いが、フェルサリの胸中を渦巻き始めた。何故か。
 やはり、人と似ているのだ。言葉を話し、怒り、泣く。人と、怪物と呼ばれる生き物との違いはなんなのだろう。その違いは、半エルフの自分と人間の違いくらい、隣り合ったものではないのか。
 怪物だから、殺していい。そう割り切ってしまっていいものなのか。というよりそもそも、その理屈は正しいものなのか。
 殺すのはかわいそうかと聞かれれば、実はそれも少し違う気がする。狩人だった頃は、仕留める獲物をかわいそうだと思ったことがある。そう思い続けては食べていけないので、いつしか、あまりそういうことを考えなくなった。ただ、せっかく奪った命だからと、獲物から得られるものは、できるかぎり無駄にしないようにした。
 かわいそうだから殺してはいけないとすると、かわいそうでなければ殺していいことになる。こういった理屈が自分を迫害し続けてきたことを、フェルサリは身にしみてわかっている。肯定するわけにはいかなかった。
 ゴブリンを、人型の生物を、殺す。いずれは、人そのものを殺すようになるのだろうか。いや、セシリアについていくと決めた時、そのくらいの覚悟はしてきたつもりだった。頭の中では、充分に考え尽くした。が、やはり実戦の場に立つと、想像していたものとはまるで違う。
 何か、思い違いをしているのかもしれない。セシリアは、テレーゼは、今どんな思いでゴブリンたちを蹴散らしているのだろう。高く飛んだゴブリンの首が一瞬、フェルサリのことを睨みつけた気がした。その首はそのまま、城壁の向こうに飛んでいく。
 いや、そもそもこうした生き物を殺すのは初めてなのか。生まれた村が襲われた時、唯一親しくしていた肉屋の主人がオークに殺されるのを見た時、同じ目に遭わせてやると思った。視界が赤く染まり、その後の記憶はない。気がつくと、倒れていた。その間の記憶はないが、生き残ったということは、あの時、少なくとも目の前にいたオークは、殺していたのではないか。
 テレーゼが、砲で城門を壊していた。何度も砲を叩き付けてそれを半壊させると、両の扉を蹴飛ばし、馬車が通れる道を作る。その先に広がっているのはどこまでも続く、何もない原野だ。
 胸壁の上によじ上り、城壁で戦っているセシリアに矢をつがえているゴブリンがいた。射倒す。フェルサリはそう心に決めたが、指先が震えた。フェルサリが殺さなくても、セシリアだったら飛んできた矢を払い落とすのは造作ないことかもしれない。しかしそれだったら自分は何の為にここにいるのかわからなくなる。さらに言えば、自分の居場所欲しさに、この泣いたり笑ったりする生き物を殺してもいいのか。
 矢を、放った。
 それは標的のゴブリンの鼻先をかすめ、城壁の向こうへ消えていった。ゴブリンの濁った目が、こちらを振り向く。馬車の上のフェルサリに向けて、弓の弦を絞り上げる。
 あの粗末な弓では、馬車まで届かないだろう。こちらも同じ短弓とはいえ、レムルサの職人の作った強弓である。ほぼ直射で、あのゴブリンを仕留めることができる。何か、一方的な気がした。そしてそれは恥ずべき行いかもしれないとも思ってしまう。
 もう一度矢をつがえ、弦を引き絞る。ゴブリンと、はっきり目が合った。当たれ。
 いつ、矢を放ったのか、自分でもわからなかった。ただ、ゴブリンの眉間に、しっかりと矢が突き立っている。
 ゴブリンはゆっくりと後ろに倒れ、外した矢と同じように、城壁の向こうへと消えていった。
 次の一矢。同じように弓を構えていたゴブリンの、腹に当たった。腹の先から矢羽根が突き出しているのを見て、悲鳴を上げている。もう一矢。料金所から出てきたゴブリンの、首を貫いた。
 城門。近づいてくる。
 フェルサリは身を伏せ、門の残骸をかわした。振り返るとまた片膝をつき、城壁のゴブリンに向けて矢を放つ。
「抜けたよ。こっちは大丈夫。このまま走るよ」
 背中越しに、ネリーの声が聞こえる。遠ざかっていく関所から、セシリアとテレーゼが駆けてくる。二人が見ているのはこの馬車か、あるいはフェルサリの背後に広がる原野か。フェルサリは今通り抜けてきた破れた城門を、じっと見つめていた。
 最初に殺したゴブリンが、城壁の下で大の字になって倒れていた。矢の突き立った顔を、こちらに向けている。首が、おかしな方向に曲がっていた。
 光を失った赤い瞳が、じっとフェルサリのことを見つめていた。

 

 地図の示す通りに、町が見えてきた。
 ミュラセの町である。アッシェンから取り残され、今も怪物の脅威にさらされている人間の町としては、かなり大きい。
 中央の丘に建てられた砦を中心に、三重の城壁が町を環状に囲っている。守りは堅そうだった。常に襲撃に備えている、城塞都市の姿だ。裾野に広がる田園に、最近荒らされたような気配はなかった。
 気になって、セシリアは馬車の後ろを振り返った。
 フェルサリが、伏し目がちに馬車についてきていた。表情は暗い。セシリアが引き取った頃のフェルサリのようだった。昨夜からずっとこんな調子で、何か話しかけても上の空のことが多かった。
 ゴブリンを殺したことが、重くのしかかっているのかもしれない。狩人だったので生き物を殺すのに慣れていると思っていたが、そうでもなかったようだ。
 思い起こせば、初めての冒険で相手にしたのが合成獣で、目の届く範囲でとどめを刺していたのは、セシリアかロサリオンだった。二度目の冒険では、フォティアの使いを相手にした。最初の相手は獣と言ってよく、次の相手は生き物とはまるで違う存在だった。
 フェルサリが血に慣れていないということはない。初めての野営で獲った兎を、何の逡巡もなく捌いていた。何かを殺すことに動揺する人間はまず血が苦手で、目の前で獣が捌かれたりすると、それだけで青い顔をする。
 フェルサリが人間とは言い切れないところで、何かセシリアにはわからない葛藤があるのかもしれない。事実、半エルフということで人間扱いされてこなかった過去もある。
 吸血鬼のテレーゼか、あるいは今回の旅に参加していないが、獣人のヴェルナーであれば、相談に乗れるかもしれない。今いないヴェルナーは仕方ないとして、しかしテレーゼでは優しすぎるきらいもあり、慰めることはできても、根本的な解決には至らないだろう。そしてセシリア自身、フェルサリに対して甘さを捨てきれないことを自覚している。
 ジャクリーヌの襲撃にあった際にも思ったことだが、フェルサリについてはニコールに相談するしかないだろう。この先起こるかもしれない問題に関しても、同じだ。
 ミュラセから、馬が一頭駆けてきた。兵士だろうか。簡素な革鎧を着た男が乗っている。剣はかなり遣えそうだ。その壮年の兵士は軽く手を上げ、馬車に馬を寄せてくる。
「こちらの方角から人がやってくるとは珍しい。旅人よ、ミュラセにどんなご用ですかな」
「方角って、どういうこと?」
「東に、ゴブリンどもの住処があるのですよ。まさか、あそこを抜けてきたと?」
「そういうことになるわね。二、三十匹ほど倒してきたけれど」
「おお、では本当に、あそこを抜けてきたのですな。それもゴブリンどもを退治して。あなたを見ていると、何かわかるような気がします。そちらの方は?」
 砲を担いでいるテレーゼは、やはり警戒の対象となる。
「テレーゼ・フォン・ヴィルトヒルシュと申しますわ。見ての通り、今は人ではなく、吸血鬼ですの。わたくしのような者に町の門をくぐる資格がないというのなら、門の外で待機いたしますけれど?」
 テレーゼは、空いた手で巻き毛を弄びながら言った。
「なるほど、そのような方までいらっしゃるのなら、あそこを抜けてきたというのも納得です。いや、無礼な詮索、お許し下さい。ミュラセはあなた方を歓迎致します」
 道中話を聞くと、ミュラセにはかつて吸血鬼の傭兵がいたことがあり、町の防衛に一役買っていたらしい。あまりに他の地域から隔絶された町だったらテレーゼを外に残すことを考えたが、その心配はなさそうだ。過酷な環境に生きる者たちは、恐ろしく保守的になるか、開明的になるかのどちらかである。後者であって助かったと、セシリアは思った。
 ミュラセの城門から、町中へ入った。あまり旅人はいないのだろう、物珍しげな視線にさらされることになったが、住民の態度は概ね好意的だ。
 道や建物のたたずまいは、アッシェンのそれとほとんど変わらない。ただ、高い壁の中に町並みをぎゅっと押し込めたような圧迫感はある。道は狭く、そのせいで家々に高さを感じる。貧民街のような暗い路地が、しかしこの町の中央通りなのだった。狭い道を行き交う人々の顔には、活気がある。セシリアはこの雰囲気を気に入った。急ぎの旅でなければ、数日滞在しても良かったかもしれない。
 先程の兵士に頼んで、テレーゼとフェルサリを、城壁の上で待機させてもらった。追ってくるジャクリーヌたちの馬車を、見張ってもらうためである。
 一度城壁の上に行ったテレーゼが、すぐに戻ってきた。東の木立の近くに、あの六頭立ての馬車、ファミーユ号がいるのだという。
「近くまで来ましたら、伝えますわ。あるいは何か変わった動きがありましたら」
「お願い。宿は一軒しかないそうだから、人に聞けばすぐに見つかるはずよ。落ち着いたら、私もこっちに来るわ」
 テレーゼが再び、城塔への階段を上っていく。セシリアは御者台に戻り、案内された宿へ向かった。馬車が二台、すれ違えるか心配になる道だった。
 宿は、あまり大きな建物ではなかった。このくらいの町の規模だと大きな宿が二、三軒あるのが普通だが、さすがに、そこはデルニエールにある町だということだろう。言われなければ、ここが宿だとは気づかなかったかもしれない。看板も隣りの小さな店のものと変わらない、ささやかなものだった。
 大きな部屋は南のアキテーヌ領から来た隊商の人間で埋まっているということだったので、残った個室を二つ取ることになった。まるで屋根裏部屋のような狭さだ。寝台は一つずつ。四人が椅子や床に眠ることになりそうだ。寝台はそれぞれ、シルヴィーと負傷中のネリーが使うことにする。
 馬車の中から、部屋に荷物を運んだ。
「調子は、どう?」
 シルヴィーに聞く。寝台に腰掛け、銀髪の少女はにこりと微笑んだ。
「とても、いいです。僻地だと思っていたデルニエールにも、こんな素敵な町があるんですね。とても、活気があります」
「みんな、たくましいわね。私も町があるとは聞いていたけど、こんなに大勢の人がいる町だとは思わなかったわ」
「本当に、毎日が新しい発見ばかりです。セシリアさん、本当にありがとうございます」
 シルヴィーは、常に感謝の気持ちを忘れない。外面がいいわけでもなく、時折たしなめたりするものの、アンナにもいつも感謝の言葉を伝えていた。生まれつきひどく病弱で、それでも人に世話をしてもらうことが当たり前だと思ってこなかったというのは、やはり希有なものを持っていたのだと再認識する。
「明日の朝にはここを出るけど、それまでゆっくりね。体調が良かったら、夕方くらいに町を見て回ってもいいわね」
 頷くシルヴィーは、パリシを出た時と比べると、身体の調子は良さそうだ。いや、日に日に快復に向かっているように見える。セシリアはしかし同時に、そのたたずまいは以前よりも死の影が濃くなっているようにも感じていた。
 アンナが慌ただしく荷を解いていた。そのアンナが口を開く。
「待ち人岬まで、あとどれくらいなんですかね?」
「ここを出たら、西に向かってあと三日くらいのはずよ。あくまで距離的にはってことだけど。道中の危険や天候のこともあるから、四、五日と見ておいて」
「そうですか。でも、もうすぐなんですねえ。シルヴィー様、楽しみですねえ!」
 そう言って、アンナは衣装箪笥の上に、例の岬の絵を立てかける。シルヴィーの母の形見。青い海と青い空。あと少しで彼女はそれを目にすることとなる。
「うん。母さんの海、早く見てみたい」
 惜しいな、とセシリアはあらためて思う。有り余る才能を活かすことなく散っていく命の、ささやかな願い。
 どうしても、魔法連合領の天才魔術師、オルガとの比較をしてしまう。魔法もそうだが、オルガは金融に天賦の才を持っていた。シルヴィーが健康な、いや商会の長に留まるに最低限の健康さえ持っていたら、二人で多くのことを成し遂げられたかもしれない。シルヴィーもまた、物流の天才となれる素質を持っていた。結局の所、物流と金融が、この世界の動きの大半を決めている。才気走り、小賢しくも臆病、それでいて胸の奥にどうしようもない程の優しさを持ったオルガと、シルヴィーは上手く付き合えたはずだ。怜悧な頭脳と人を思いやる心を兼ね備えた人間は、決して多くはない。いい組み合わせになった気がする。できれば、二人の仲を取り持ちたかったと、セシリアは思う。
 だが考えても仕方のないことで、アンナがセシリアに手紙を書かなければ、シルヴィーは人知れずあの下水路で息を引き取っていたことだろう。
 今まで多くの人間と関わってきたが、こんな人間もいる、それを知れただけでも、セシリアにとってこの旅の意義は小さくない。
 シルヴィーが無事に海に辿り着けた時、奇跡は起きてくれないだろうか。保たないかもしれないと思っていた命の蝋燭に、希望が新たな火を灯したことは事実なのだ。
 後はアンナが世話をするだろう、セシリアはネリーの部屋にも顔を出した。こちらは病んでいるのではなく怪我人である。顔の血色は良いが、時折痛みに顔をしかめる様子は、旅の間何度も見てきた。
「あなたも、すぐに医者に見てもらった方が良さそうね。戦いの中にある町よ。ここなら、傷を治すのに良い医者がいるという気もする」
「そうだねえ。じゃ、日が落ちる前に医者でも探してこようかな」
「待って。私は今からもう一度城壁の方に行ってくるから、フェルサリかテレーゼがここに来てからで。シルヴィーたちだけ残して行くことはできないわ」
「了解」
 町の雰囲気は悪くないが、それと治安の良し悪しはまた別である。宿の窓はガラス窓であり、ある程度安全な町だとも思うが、用心に越したことはない。誰か一人は、シルヴィーたちの元に残しておくべきである。
 再び、セシリアは城壁に向かった。
 フェルサリとテレーゼが、胸壁の間から遠方を眺めている。聞けば、ファミーユ号は、まだ東の木立の辺りにいるのだという。特に急いでいる様子は感じられない。
「フェルサリ、あなたは一度宿に戻って。ネリーが医者を探しに出るから、交代でシルヴィーたちの警護をお願い」
 フェルサリはしっかりと頷き、階段を駆け下りていった。町にいるごろつきの一人二人なら、フェルサリでも軽く追い払えるだろう。
 セシリアは双眼鏡を取り出し、テレーゼの指差す方向を見た。
 遠くの木立の近くを、あの六頭立ての馬車が走っている。ユストゥスが御者をしていた。日が落ちる前に、この町に着くだろう。
 その馬車が、歩みを止めた。近くに小川があるのは、ここに来る時に見た。今晩は町に入らず、あそこで野営だろうか。時間的にも、野営の準備をするのにちょうどいい。おかしな様子はなかった。
 が、実に自然すぎる行動が、逆にセシリアの肌に触れてくるものがある。
 馬車はこちらに車体半分を見せるように、木立の中に入り込んでいた。ユストゥスが時折姿を見せ、馬車の中から荷物を取り出している。
 城壁を、先程の兵士が歩いていた。この町の警備の責任者の一人でもあるそうだ。セシリアはその男を呼び止めた。
「この町にはあまり旅人が来ないそうね。宿も、ひとつしかない」
「基本的に、アキテーヌ領から来る隊商くらいですな。どの隊も、もうすっかり馴染みになってしまいました。あとは滅多にありませんが、冒険心のある行商がやってくるくらいですか」
「最近私たち以外で、見かけない顔がこの町に入らなかった?」
「いいえ。行商が最後に来たのも、半年以上前になります。まだ、この町にいますよ。あ、いや・・・」
 兵士の顔が曇った。既に、セシリアの肌は粟立っている。
「そういえば、二日前に来た隊商に、一人だけ見慣れない顔がありましたな。女性です。傭兵で、隊商の護衛ということでした」
 何故、ジャクリーヌがあの馬車にいると思い込んでしまったのか。テレーゼが骨を砕くほどの負傷をさせて撃退したからか? はたしてあの執念深い賞金稼ぎが、骨を折ったくらいで一週間も馬車の中でおとなしくしているのか?
「赤い髪で、片腕が義手でした。それと・・・」
 話を最後まで聞かず、セシリアは階段を駆け下りた。

 

 

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