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 左の拳を、何度も木の幹に叩きつけていた。
 ジャクリーヌである。仕事の失敗は滅多にない彼女だ。相手が相手とはいえ、彼女がここまで悔しがる姿を、ユストゥスは見たことがなかった。賭け事で負けた時は終日悪態をついて回るが、ここまでの、肚の底からの怒気を感じることはない。波打つ赤い毛が、獅子のたてがみのように思えてくる。
「クソッ! クソォッ!」
 どすり、どすりという鈍い音が、森の中にこだまする。手の骨が折れてしまうのではないかと、さすがに心配になってくる。
「あと一歩、あと一歩だった。あの四人を、一気に仕留められるところだったのによぉ!」
 ユストゥスはあの後、ジャクリーヌの事前の指示通り即座にあの場を離れたので、彼女がどこまでセシリアたちを追いつめたのかを見ていない。
 セシリアに追いかけられた時のことを思い出すと、今でも肌が粟立つ。加えて三人を相手にどんな立ち回りをしたのか、想像もできない。沼でトロールたちを相手にした時とは、勝手が違うだろう。
 荒い息を吐き出した後、ジャクリーヌは倒木にどかりと腰を下ろした。葉巻をくわえ、もう一度大きく息を吐く。
「少し、休んだ方がいい。薬を使った後だ」
 ユストゥス自身が魔法を使って調合した強化薬は、身体能力を大幅に向上させるが、身体の負担も大きい。倍の速度で動けば、身体の負担は倍ではきかない。
「休むよ。ほんの少しだけな」
 まだ怒りの収まらない表情で、ジャクリーヌは言った。銀の義手で頬杖をつき、小指を苛立たしげに動かしている。
「今晩にでも、もう一度仕掛ける」
「無理だ。あれは一度使ったら、一週間は間隔を空けなくてはならない」
「誰が、また薬を使うって言ったよ」
 ぎょろりと、既に紫色に戻った瞳をむき、ユストゥスを睨む。
「薬なしか。しかし、それも危険だ」
「さっきみたいに突っ込んだらな。今度は、一人ずつ狙う。夜襲だよ。一人一人、狙撃で倒す」
 ジャクリーヌの銃の腕前は本物だ。それなら、やれるかもしれない。
「本気で全員倒すつもりだったが、そんなに甘くねえってことだな。驚いたよ。一流の連中を相手にするってのは、こういうことなんだってな。惜しかったが、振り返っても仕方ない。一度ぶつかってみて、わかったことも少なくなかったぜ」
 いくらかすっきりした表情で、ジャクリーヌは立ち上がった。馬車の扉に手をかける。
「寝るよ。移動は任せた。日が落ちるちょっと前に、起こしてくれ。あと二時間くらいかな」
 それだけ言い残して、ジャクリーヌは馬車の中へと消えていった。

 

 山の中腹に、灯が見えた。
 やや道から外れた所で野営しているらしい。まだオルニエレを出て二日目だ。食糧を心配する時期ではないが、狩りをして、新鮮な肉を手に入れておこうといったところかもしれない。兎ならちょうどいいし、子鹿の肉でも煙で燻せばかなり保つ。
 森に、入る。
 ジャクリーヌは左手に、三連発式の長銃を携えていた。背中に、もう一丁。左の腰に、これも三連発式の拳銃。これは護身用だ。拳銃を使わなくてはならない場面は相当にまずい状況といってよく、できれば考えたくないところだ。気休めみたいなもので、同じく護身用といっていいものか、対吸血鬼用の道具も腰にぶら下げていた。
 二丁の長銃。六発の弾丸。弾丸はいずれもミニエ弾で、命中精度は高いが、頭や心臓にでも当たらない限り、一発で人間を即死に追いやれるかは怪しい。一人の息の根を止めるのに二発、外した時の為に三発で、この三連発式の銃は使い勝手がいいと、ジャクリーヌは思っていた。
 ただ、背中の長銃を使う予定はなかった。あくまで、不測の事態に備える為のものだ。今晩は、一人だけでいい。
 できるだけ音を立てないよう、ジャクリーヌは焚き火に向かって進んだ。まだ、距離はある。
 あの半エルフはエルフと同じくらいの聴力を持っているのだろうか。しかし視力と違い、特別遠くまで聞こえるということもないだろう。エルフの耳は、遠くの物音を聞きつけるというより、人間よりも多くの音を聞き分けることができるものだと聞いたことがある。人間だと小さな物音くらいにしかわからなかった音が、エルフだと何の音だったのかがわかるのだという。右腕の義手にはしっかり油を注しているが、微かに聞こえるきりきりという音が、あの半エルフにはジャクリーヌの義手のものだとわかるかもしれない。
 そんなことを考えている内に、焚き火への距離が近づいてきた。
 ここからはさらに慎重に、歩を進めなければならない。闇に溶け込む自分を想起しながら、ジャクリーヌは身を屈めた。
 焚き火が、明滅を繰り返している。火の前を、誰かが歩いているのだろう。夕食の準備か、あるいはその片付けか。いずれにせよ、ジャクリーヌはセシリアたちが起きている間に狙撃をするつもりだった。寝る時間になると、見張りがついてしまうからだ。セシリアかテレーゼが見張りについてしまうと、やりづらい。気づかれずに狙撃するのに、百メートルは必要になる。できれば、五十メートル以内で狙いたい。その距離だったら、どの部位を狙っても外すことはない。見張りが立つ前だったら、その距離まで近づける。
 腹這いになり、銃に覆いかぶさるようにして、そのコックを引き上げた。きりきりというばね仕掛けの発する音は、どうにもならない。まだ、距離はある。
 虫の鳴く声が、方々で聞こえた。そろそろ暑くなってきたなと、ジャクリーヌは思った。狙える位置に達するまでは、音を立てないことだけに気をつけ、それ以外はできるだけ他のことを考えた。あまり早い内から集中してしまうと、いざ狙撃という時に、集中力を切らせている場合がある。今のような、匍匐前進を続けているような時は、特にだ。
 あの魔法使いの負傷は、どの程度だろうか。少なくともあの場での戦闘力は奪ったが、傷がどの程度だったかを確認している余裕はなかった。魔力の回復に影響があるほどの負傷であれば、今後ネリーは魔法銃の弾丸に残された魔力のみで戦うことになるだろう。ただ、お下げ髪に仕込まれていた、緑色の水晶のようなものは気にかかる。二、三回、魔法を使うことができるかもしれない。いずれにせよ、ジャクリーヌが強化薬を使った状態なら、充分勝てる相手と踏んだ。魔法銃の腕も、大したことはない。
 少し、思考が目の前の戦いに執着している気がする。もっと他のことを考えようと、ジャクリーヌは思った。
 あの魔法銃。列車を模した形状をしていたか。銃身は、一本。
 銃身が一本でも連射がきくのが、魔法銃の強みだ。魔法を用いない通常の黒色火薬の銃なら、連射したいだけの銃身が必要になる。六連発したいなら、銃身の数も六本だ。そういう銃もあるにはあるが、かなり重く、命中精度も悪い。
 が、魔法銃の弱みは、総じて威力が弱いことだ。板金の鎧はもちろん、硬く加工した革鎧を貫くことも難しい。装甲のない部分を狙って撃つ武器なのだ。魔力を火薬のように小爆発させ実弾を飛ばすもの、魔力そのものを弾丸のように発射するもの。大きく分けてこの二つだが、威力はどちらも同程度だ。
 連射がきく、発砲時の反動が小さく狙いがつけやすい。魔法銃の強みはこの二つだろう。
 対して従来の黒色火薬の銃は、なんといってもその威力が最大の利点だった。当てるのが難しく、不発暴発を起こし、素人では携行時の安全すら覚束ない。ただその破壊力は、板金鎧ですら貫く。いや、板金鎧を着た人間には、特に効果が高いと言い換えてもいいかもしれない。勢いよく飛び出した鉛の弾丸は、着弾時に板金に押しつぶされて広がり、本来の弾丸のものより遥かに大きな穴を、その板金に穿つのだ。傷口も、大きく広がる。
 残念ながら、対銃弾用の分厚い板金鎧や、セシリアの着ていたようなミスリルの鎧を貫くことはできない。そうは言っても、打撃力は相当なものだろう。筋肉に損傷を与えるには充分だし、上手くいけば骨を砕くこともできる。
 さて、と・・・。
 声に出さずに、ジャクリーヌはつぶやく。ここ、という場所まで辿り着いた。
 腹這いになったまま肘を地面に依托し、狙撃の体勢に入る。
 この位置、この態勢からなら、次に焚き火の前を通りかかる人間を、一発で仕留められる。灌木の陰になっており、夜目がきくとしても、こちらの姿を見つけるのは困難だろう。
 引き金に、指を当てる。
 いきなり、全身の毛が逆立った。
 焚き火の前に、あの吸血鬼がいる。ぼろぼろのドレス姿で、目が、赤く光っていた。
 こちらを、見ている。
「あらあら、引っかかりましたの? 待った甲斐がありましたわ」
 テレーゼの声が、森に響く。
 ジャクリーヌに、気づいていた。すぐに引き金を引く。銃口が火を吹き、弾丸は胸を貫くはずだったが、あっさりと避けられた。
 すぐに立ち上がったジャクリーヌは、さらに愕然とした。焚き火の前にいるのは、テレーゼ一人である。よく見ると、馬車すらない。
 嵌められた。
 見通しの悪い森の中、さらに這って進んでいたので気づきづらいというのがあったのだが、それら全てテレーゼの想定通りということなのだろう。
 事態は、予想のどれをも上回るほど、最悪だった。ジャクリーヌの右腕は連裝機銃ではなく、強化薬も服用していない。生身で、この化け物の相手はできない。
 一目散に、逃げた。右足の内燃機関は、最大火力に悲鳴を上げている。逃げ切れるか。
 灌木や木の枝が、全身を鞭のように打つ。ただ、今は痛みに構っている場合ではなかった。
 背後で、爆音がした。銃や砲のものとは違う。獣化か。テレーゼのそれが何に変身する能力かわからないが、移動速度の速い獣だったら、まず逃げ切れない。
 正体は、すぐにわかった。ジャクリーヌの逃走路を大きく回り込むようにして、白狼が駆けているのだ。
 悠々とジャクリーヌの行く先に陣取った白狼は、爆煙を上げ、再び吸血鬼の姿に戻った。疾走を続けながら、ジャクリーヌは銃の引き金を引く。
 はっきりと見えているのか、テレーゼは小首を傾げて銃弾を避けた。このままだと、二人の身体が衝突する。寸前で、テレーゼが、右腕を突き出してきた。掌打。顔に向かってきたそれを、かろうじてかわす。
「捕まえましたわ。歯ぁ食いしばれ・・・」
 違う。奥襟を、しっかり掴まれていた。投げ。
「ですわよッ!!」
「がッ・・・! はっ!!」
 地面に、いや地面そのものを背中に叩き付けられたような衝撃。全身に電気が走る。息が、止まる。
「くっ・・・!? がはっ! ごほっ!」
 目の前が真っ白になりかけたが、頭は打っていない。苦しい、痛い、殺される。意味のない思考を全力で押しのけ、ジャクリーヌは今起きていることの把握に努めた。
 咳き込んでいるのは、自分じゃない。身をくの字に曲げ、苦しんでいるのはテレーゼの方だ。鼻をつく、甘さと苦さの入り交じった異臭。
 デモンズベイン。腰にぶら下げていた対魔薬の白い粉末が、宙を舞っていた。地面に叩き付けられた時、袋の口が開いて飛び散ったのだ。それを吸い込み、吸血鬼が苦しんでいる。
 事態のあまりの急変にぼんやりと指をくわえているほど、ジャクリーヌは悠長ではなかった。三連発の銃身が、次々と火を吹く。血煙。同時に、止まっていた右足の内燃機関に、再び火を入れる。
 振り返らずに、闇の中を走った。
 追ってくる気配は、ない。

 

 苦悶の呻きが、森の闇にこだましていた。
 ジャクリーヌが焚き火の前で、痛みに苦しんでいた。ぼろぼろになって帰ってきたジャクリーヌが、馬車の前で倒れたのは、つい先程である。
 すぐに、ユストゥスは治療にかかった。顔や腕に小さな切り傷が多数あるが、どれも浅く、後で傷口を消毒しておくだけで大丈夫だろう。
「クソッ・・・しくじっちまった」
 見ればわかる。いつもならそんな軽口のひとつも叩いておいたほうが彼女の機嫌もよくなるのだが、今はそんな状況ではない。横になったままのジャクリーヌの呼吸は浅く、それでいて荒かった。
「どこが痛む?」
「ここと、腰だ・・・」
 ジャクリーヌが、上に着ていたシャツをまくり上げた。左の脇腹。肋の上の長い傷口から、血が溢れ出している。
「ぶん投げられた時に、灌木の幹でやっちまったみてえだ・・・傷は、深いか?」
「すぐに、縫う」
「麻酔薬は、使わなくていいぜ。あれは、あたしには使わなくていい」
 痛みを消す貴重な麻酔薬と、さらに貴重なドワーフ製の注射器の蓄えは、しかしある程度のものを確保してある。あれらは確かにジャクリーヌに使う為に手に入れたものではないが、今は事態が事態である。
「痛むぞ」
「わかってる。早くしてくれ」
 こうと決めたら絶対に意志を曲げないジャクリーヌだ。麻酔を使うという選択肢はもうない。すぐに傷口を消毒し、縫合を始めた。
 ジャクリーヌは手袋を噛み締め、痛みに耐えている。あらわになった乳房が、焚き火の灯りを照り返していた。桃色の乳首が、針を入れる度に小刻みに震える。
 こんな状況でなければ、欲情していただろうか。ジャクリーヌの肢体は、その粗野な言動とは裏腹に、下品なところが微塵もない身体だった。この傷痕がができるだけ残らないよう、祈りながら施術を続けた。
 傷を縫い終え、当て布をする。傷薬がしみるのだろう、ジャクリーヌは呻きを必死にこらえている。悲鳴ひとつ上げないのはさすがだが、感嘆よりも、ユストゥスの中では心配が先立つ。
「腰は、どの辺りが痛む?」
「くっ・・・ぜ、全体だ。ケツ全体と、背中かな・・・ちくしょう、あたしにも、よくわからねえ」
「すぐに、魔法で診てみよう。楽な姿勢で、じっとしていてくれ」
 目を閉じ、ユストゥスは魔法の詠唱を始めた。透視の魔術。そう名付けられているが、実際には目で見る感覚とは大分違う。今回は、手で見ることになる。
 両の掌がわずかな光を放ち、魔法が発動したのを確認して、ユストゥスはジャクリーヌの身体に触れた。
 腰。身体の中に、感覚を潜らせる。それを頭の中で、視覚に近い情報に変換した。
 骨盤に、ひびが入っている。周辺の筋肉に強い炎症。背中も、かなり痛んでいた。幸いこちらの方に深刻な負傷はないようだが、肺から少し出血しているようだ。これは、時間の経過で治っていくものであると判断した。
 もう一度、腰の辺りに感覚を伸ばす。腸からも肺と同様、軽い出血と炎症。念のため、他の箇所も見て回ることにした。
 今回のような負傷がない時でも定期的に、ユストゥスはジャクリーヌの身体の状態を見ていた。病を、早期に発見できることがあるからだ。
 下腹部。ここを見る時はいつも胸が詰まる。
 ジャクリーヌは、処女だった。
 命を救い出したあの日からずっと、自分たちに尽くしてくれている。尽くすなどというとジャクリーヌは怒りだすだろうが、結果としては、そうだった。
 恋に焦がれるようなこともあっただろう。それでも一心不乱に金を稼ぎ、必要なものを集めてきた。こうして今でも男を知らないジャクリーヌの身体を見てしまうと、感謝よりも申し訳なさが先立つ。おまけにその肉体の内側は、既にぼろぼろでもある。
「・・・骨盤が、割れている」
「マ、マジかよ。バッカリいっちまってるか?」
「いや、ひびが入っている状態だ」
「すぐに、固定してくれ。動けないってわけにもいかねえ。ちくしょう、クソ。面倒なことになったな」
 二、三ヶ月は固定して、その間も極力動かすべきではない。しかし言っても仕方のないことだった。ジャクリーヌはこの旅を、決してやめはしないだろう。
 患部を固定し、ジャクリーヌを仰向けに寝かせた。呻き声。ユストゥスは、彼女の瞳が濡れているのに気がついた。
「痛むか。今、痛み止めを・・・」
「ちげえよ、バカ。悔しいんだよ」
 一瞬わななきそうになる唇を、ジャクリーヌは歯を食いしばることで耐えた。
「・・・時間がねえのによう。こんな所で横になってる間に、どんどん逃げちまいやがる」
「時間は、まだある。頼むからあと一日だけでも、患部を動かさないで耐えてくれ」
 一日で、どうなる負傷ではない。が、今回の負傷だけでなく、まず強化薬の影響で、ジャクリーヌの身体は傷んでいた。負傷ではない苦痛も、かなり感じているはずだろう。
 ユストゥスはじっと、ジャクリーヌの紫色の瞳を見つめた。観念したのか、ジャクリーヌは大きく息をついて、目を閉じた。その身体に、極力患部に触れないように毛布をかけると、医療器具の片付けと、今後必要になるものを用意する。後は眠るだけだが、自分だけ馬車の中で寝るのも気が引け、ユストゥスは彼女の横に腰を下ろした。
 夜空を、見上げた。雲間からわずかに覗く星が、瞬いている。こちらの様子を見て、物陰からそっと心配してくれているようにも感じた。見ている間にその星たちも、黒い雲が覆い隠していく。
 不意に、手が握られた。ほっそりとしたジャクリーヌの指が、ユストゥスの手を握っている。
「あたたかいんだな・・・」
「・・・何がだ?」
「手だよ。お前の手。さっき身体の中を見てもらってる時に、そう思った」
 魔力が行き渡っている状態では、ユストゥスの手は魔力の発光と共に、微かな熱を放つ。そのことを言っているのだろう。
「もう寝ろ。少しでも、身体を休めてくれ」
「わかってるよ」
 離れた手が、静かに上下する胸の上に置かれる。
 ほんの僅かな間目を閉じていたジャクリーヌだが、しかしすぐに目を見開き、曇天に濁る夜空を睨みつけた。
 月のない夜だったが、その瞳は暗い情念に燃えている。
「殺す・・・あいつらは、絶対に殺す。皆殺しだ」
 ジャクリーヌの呪詛が、森の闇に吸い込まれていった。

 

 

続く

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