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 日が暮れてから、野営の準備となった。
 本来なら日が落ちる前に適切な場所を見つけ、日暮れには夕食ができているというのが原則なのだが、今日は事態が事態だけに、いたしかたない。
 トロール沼を完全に抜けたのは、夕陽が大地を赤く染め上げている頃だった。霧が晴れ、車輪がしっかりとした大地を走り始めた時、助かった、とフェルサリは思った。トロールの群れの圧力は、あの合成獣たちと戦った時と、なんの遜色もなかった。一人では絶対に敵わない相手、それが群れとなって襲いかかってくる恐怖は、半端なものではない。
 沼を抜けてすぐの場所で野営をするのは危険なので、一行はそのまま馬車を走らせた。今は沼から大分離れ、見晴らしもよい場所で、野営の準備をしている。セシリアに聞くと、もう日付も変わる頃だそうだ。
 ただ、沼を抜けたといっても、デルニエールにいることには変わりはない。フェルサリは見張りに立っていた。この目が見通せる範囲内では、今の所なにかと遭遇する気配はない。丘がうねるように続いており、所々自分たちがいる場所のような、木立も見える。
 アンナはシルヴィーの面倒を見ているので、準備はセシリアたちがやっていた。これが驚くほど早く、フェルサリとアンナにも仕事を割り振っていた昨晩は、むしろ二人に仕事を教えることに専念していたのだとよくわかる。
 川の方から、アンナたちの話し声が聞こえた。川のすぐ傍にも焚き火を焚いており、そちらでは樽に溜めた湯で入浴ができるようになっていた。
 シルヴィーの体調は、依然よさそうだ。旅に出る前、セシリアは彼女が海まで辿り着ける確率はあまり高くないと言っていたが、今は何かを取り戻したかのように元気を回復しつつあるし、その後も、ゴルゴナで快癒の手だてが見つかるかもしれないと、フェルサリは思っていた。ただ、すぐにゴルゴナに向かわず、こうして長旅を選んだセシリアの判断は、彼女の運命を示唆しているような気もする。パリシから列車に乗っていれば、次の日にでもゴルゴナに着いている。やはり、助からないと思っているのか。
 だがこの旅は、セシリアにも予想できなかった活力を、シルヴィーに与えているのではないか。
「お疲れさま。すぐに次のお風呂が準備できるから、あなたも入りなさい。ここは、テレーゼが代わるわ」
「す、すみません。後はお願いします」
 セシリアに言われ、フェルサリは入浴の支度をし、川に向かった。
 樽と、かなり大きめの盥が用意されている。樽は湯につかるためのもので、桶はこの中で身体を洗うのだ。軽く湯で身体を洗い流した後、フェルサリは樽の湯船に浸かった。
 狩人をしている時は、長く家から離れるようなことがあった時に、身体を洗うようなことはなかった。より過酷な冒険の途上で、こうして入浴ができるのはありがたいことだった。セシリアが、まず不潔でいることを嫌う性向も大きいだろうが、身体を綺麗にしておくことの利点は少なくない。傷が膿みにくいというのも、大きいだろう。傷口を洗う際、切り傷の原因となった毒に加えて、皮膚についていた汚れの毒もまた、傷の治りを悪くする。
 盥の方に移り、身体を洗う。シルヴィーを焚き火の方に連れて行ったアンナが、次の番のようだ。服を脱ぎ、樽に入ったアンナが、顔をこちらに向けた。
「はあぁ〜・・・旅の間もこんなお風呂に入れるなんて、幸せですねえ。フェルサリさんも、いつもこんな感じで?」
「いえ、こういうのは、初めてです」
「へえぇ。あ、前に狩人さんしてらしたって話ですけど、野営っていうんですか、こういうの慣れてらっしゃる?」
「あ、それも、あまり。山は危険なので、基本的に野営はしないんです。狩り場の方々に猟師共有の小屋があって、家に帰れない時はそこを使うんです。私は、滅多に使いませんでしたけど・・・」
 石鹸の泡を洗い流し、新しい湯を溜めた樽に入る。
「湯加減どう? もう少し熱くする?」
 ネリーが、火箸で焼けた石を取り出しながら聞く。焚き火の中で焼いた石を樽に入れることで、湯を沸かしたり、温度を調節したりする。
「だ、大丈夫です。ちょうどいいです。あの、その、すみません。出たらすぐ、代わります」
「ああ、どっちにしてもあたしが最後だから、気にしなくていいよ。ゆっくり、旅の疲れを癒してね。今日のフェルサリ、大変そうだったじゃない」
 確かにあの悪路を怪物に追われながら馬車を走らせるのは大変だったが、実際に戦っていた三人に比べれば、楽な仕事だったはずだ。
 入浴を済ませ、フェルサリは馬車の傍の焚き火に向かった。
 セシリアが、小海老の殻を剥いていた。オルニエレで仕入れた時点で一度湯通ししてあるものだ。いくらか日持ちはするが、早めに食べてしまおうと言っていたものだった。
 海老の頭と尻尾が、器に溜まっていく。命を、食べている。ふと、そんなことが頭をよぎった。食べ物は、全て命だ。この命と、先程襲いかかってきたトロールとの違いは、一体何なのだろう。同じ命と言えば違いはないが、何か見落としている気がする。トロールと、人の違いは何なのか。人と、今から食べる海老の違いは何なのか。
 混乱する。もう少し整理できたら、パーティの面々に聞いてみるべきかもしれない。今は、疑問が漠然とし過ぎている。一人で狩りをしていた時は、もう少しはっきりとしていた気もする。
 セシリアが、手際よく海老を調理していく。鍋にたっぷりのオリーブ油。細かく刻んだにんにくと唐辛子。山盛りの海老に火が通り始め、すぐに、おいしそうな匂いがしてきた。適宜、塩、胡椒、ローズマリーをふりかけていく。
 このアヒージョは、セシリアが家で時折、酒のつまみとして作っているのを見たことがある。ただ今回は六人分の食事にするということで、海老の分量は多い。だがそれにしても、オリーブ油の量は多すぎる気もした。旅先では食材は節約したいところだと思うのだが、どうするつもりなのか。
 セシリアは海老を別の器に移し、鍋に水を加えた。それが煮立つと一度火を弱め、中に米を流し込んだ。なるほど、これで米を炊くらしい。
「火を見てて。私は、お風呂に入ってくるわ」
 言って、セシリアは焚き火を離れた。入れ替わりにシルヴィーとアンナが焚き火の傍にやってくる。
 火の調節は、やはり家でやっているのとは違って、難しい。苦闘していると、セシリア含め、他の面々も集まってきた。セシリアは先程の海老を、向こうの焚き火でもう一度温めてきた。
 鍋の蓋を開けると、それだけでたまらない香りがした。それぞれの皿により分け、海老を乗せる。シルヴィーが目を輝かせて木皿を受け取る。一口食べたアンナが、素っ頓狂な声を上げた。
「はわー! 何ですかこれ。海老味のご飯ですよ、シルヴィー様! 旅先でこんなもの食べられると思いませんでした!」
「ここからずっと南の方じゃ、珍しい料理じゃないわ。これからどんどん粗食になっていくから、今の内にきちんと食べておきなさい」
 セシリアが言う。
「これならいくらでも食べられそうですよ!」
 フェルサリも、スプーンを口に運んだ。米に、しっかりと海老の旨味が染み込んでいる。ローズマリーの微かな香味が、オリーブ油で焚いた米の旨味を引き立たせていた。やり方は見ていたので、今度家でも作ってみようと、フェルサリは思った。単純な作り方だったが、どこまでも深みを感じさせる味だ。米が、何か別の食べ物のように思える。
 旅の疲れからシルヴィーに食欲があるのか心配だったが、見てみると、頬を上気させ、少しずつ、それでも間断なくスプーンを口に運んでいく。一皿食べ終われそうな様子だ。
 食べる命が、おいしい。食べる為のものであれば、仕方ないということでもなく、それでいいのだという気もする。狩人の頃は、そう考えていたはずだ。命を奪うということに関して、多少慣れているという自負が、フェルサリにはあった。血に怯えるということもない。しかし冒険の為に戦うというのは、それとはまったく別のものであるということも、少しずつわかり始めている。
 テレーゼが、食後にコーヒーを淹れた。道中で買ったものではなく、元から携帯しているものらしい。
「ふう。久しぶりね、この火薬くさいコーヒーは」
 セシリアが、ほっと息をついて言う。フェルサリにはよくわからないが、あの旅行鞄に入っていると、やはりそうなるのだろうか。少し疲れているのか、セシリアはカップを手にしたまま、軽く目を閉じている。
「文句があるなら、飲まなくて結構ですのよ?」
「あら、ごめんなさいね。でもおいしいわ。懐かしい」
 しばらくの間、二人でこなす依頼がなかったのかもしれない。フェルサリは自身が冒険者になる前、パーティの面々がどういう依頼を成し遂げてきたのかを、ほとんど知らない。それ以前に、まずセシリアがどういう生き方をしてきたのか、本当に外面的なことしか知らない。間違っても聞いてはいけないような雰囲気を、セシリアはいつも漂わせている。昔話の合間にわずかに垣間見えるセシリアの生い立ちは、知れば知るほど、逆に謎が多くなる気がするのだ。
 同じことを思ったのかただの偶然か、アンナが軽い調子でセシリアに聞いていた。
「セシリアさんって、なんか謎めいた雰囲気持ってますよねえ。どんな生い立ちなんです? 家族はどうしてるんです? たまに実家に帰ったりもするんです?」
 場の空気が、凍りついた。いきなり核心をついた問いでもある。テレーゼとネリーも、セシリアの過去についてはほとんど知らないという話だった。セシリアはじっと、カップの中で揺らめく黒い液体を覗き込みながら、口を開いた。
「・・・母は、私が一歳になる前に、父は十五の時に死んだわ。妹が、二人いる。一人は双子の妹で、もう一人とは血が繋がっていない。たまに、手紙のやり取りはしてるわ」
 テレーゼが、カップを落としかけた。ネリーも、心底びっくりした様子だ。フェルサリ自身も、驚いて何も言えない。なんとなく家族がいない印象があったが、妹が二人いるのか。
「は、はは初耳ですわよ!?」
「あら、そうだったかしら」
「聞いても、いつもはぐらかしてばかりでしたのよ」
「そうだったわね。というより私もつい、うっかりしてたわ・・・」
 セシリアが、苦々しく呟く。
「アンナ、お手柄だねえ!」
 ばしばしとアンナの肩を叩きながら、ネリーが笑う。アンナは何が起きたのか、よくわからないといった顔をしていた。
 あまりに何気なく聞かれたので、不意をつかれたのだろうか。アンナ自身が意識してないからか、彼女は人の心の隙間に入り込むのが上手い気がする。少しむっとするようなことを聞かれたり言われても、アンナだから仕方ないと思ってしまうことが多いのだ。一言で言えば、憎めない。
 さらに言えば、アンナは心情が表に出やすい傾向と裏腹に、やることが実にさりげなかったりする。嫌みも、小賢しいところもない。時折仕事に手を抜くようなところもあるが、何故かそれが、あまり狡いという気がしないのだ。本質的に、相手を思いやることができる女性だし、先程の質問も、セシリアが内に抱えている、話せないが同時に誰かに話したいと思っている重荷を、本能的に嗅ぎ付けたのかもしれない。
 最初の印象よりもずっと、学ぶところが多い女性なのかもしれない。
 アンナの屈託のない笑顔を見て、フェルサリはそう思った。

 

 仕掛けてくるとしたら、こういう場所だろう。
 セシリアは、周囲を見回した。
 道は、ゆるやかに蛇行しながら、西に向かって伸びている。北は森、南は所々急な斜面のある丘だ。草は生えていないが、所々に痩せた木や灌木がある。一見のどかな田舎道といった風情だが、実は非常に視界が悪い。広く、青く晴れ渡った空が、妙な開放感を錯覚させる。
 ジャクリーヌたちがトロール沼を抜けたことは、フェルサリから聞いた。そのまま別の木立に入り、朝こちらが出発する時点では、まだそこから出てこなかったようだ。
 どの辺りまで追ってきているのか、見当がつかなかった。振り返っても、道なりに緩やかな曲線を描く、森の端が見えるだけである。丘の高さがあるので、フェルサリやテレーゼが丘の上に登っても、今度は足場の高さが眼下の道を隠してしまう。追う側に取っては非常に有利な、厄介な地形だった。
 あの時、斬っておくべきだったとは思わない。危険は事前に排除しておくべきではあったが、それが人の命そのものである場合、話はいくらか変わってくる。シルヴィーがそれを望まなかったというのも大きいが、セシリアにとっても、ジャクリーヌはできれば斬りたくはない人間だった。
 が、向こうから襲ってくるというのなら、話は別である。
 本気で殺しにかかってくるのなら、当然死ぬ覚悟はできているだろう。その時は、斬り殺す。
 馬車の中から、シルヴィーとアンナの話し声が聞こえてくる。何を言っているのかはわからないが、楽しそうな様子は伝わってくる。
 自分の命があとわずかだとわかっていたら、その時自分は何を願うのだろう。セシリアは考えた。しばらく思いを巡らせてみたが、曖昧な、それでいて叶いそうもないものしか思い浮かばなかった。その時になってから考えればいいことだが、ひょっとしたら砂時計の砂はあと僅かなのかもしれないとも考える。次に誰かと剣を交える時に、あっさりと命を落とすかもしれないのだ。
 死地を、何度もくぐり抜けてきた。自分でも助からないだろうという負傷もしてきた。振り返れば今生きていることが不思議で、つまりこれまでは命に縁があったということなのだろう。しかし、いつかは死ぬのだ。それがはっきりとわかった時に、今のシルヴィーのように、そのことをしっかりと受け止められるのだろうか。
 前方の丘で何かが動く気配がし、思いは断ち切られた。ネリーも気づいたようで、馬を止め、御者台から飛び下りる。元々そういった勘所の悪いネリーだが、いい冒険者になってきた。口元がわずかに動いているのは、呪文の詠唱だろう。
 フェルサリが馬車の中の二人に話しかけ、窓の木戸が閉じられた。
 丘の灌木の影から、男が飛び出してきた。
 ユストゥス。両手に、銃を持っている。右が通常の拳銃で、左が魔法銃。
 向き直ったネリーに、ユストゥスは躊躇なく弾丸を撃ち放った。
「わわっ、いきなり!?」
 思わず手で頭を庇ったネリーだが、驚いたのはユストゥスも同じようだ。
 魔法銃で撃った魔法の弾丸はネリーの前で四散し、拳銃で撃った実弾は、彼女の肩の上でぴたりと止まり、次いでぽとりと地面に落ちた。ネリーも魔法銃を両手に構えると、ユストゥスは慌てた様子で丘を駆け上り、逃げ出す。
「私が追う」
 走りながら抜剣し、セシリアも丘を駆け上った。ユストゥスの動きに、ひどく作為的なものを感じる。どこで、自分たちを罠にはめようというのか。あるいは周到な作戦ではなく、単にここという機をはかっているのか。振り返る。ネリーは馬車近く、フェルサリはその後方、テレーゼは砲を担ぎ、北の森へ駆けて行った。南の丘は、セシリアが受け持つこととなる。
 ユストゥスは、こちらも見ずに坂を駆け上がる。ユストゥスは軽装で、セシリアからもまだ距離があるが、鎧を着た自分でも充分に追いつける。体力も、脚力も違う。
 ぶんぶんという、虫の羽音に似た何か。微かに聞こえてくる。前方、やや大きめの木。何かが潜んでいる。その向こうの灌木の茂みはやや大きく、人が一人潜んでいても、おかしくはない。
 セシリアは、馬車の方に目をやった。つい、フェルサリを気にしてしまう。あえてユストゥスに釣り出されてやったが、馬車の方の守り、そしてフェルサリは自らを守れるのだろうか。ただ、こんな考えをしていては、いつか大きな失敗をするような気がする。ここは心を鬼にして、最善の結果を求めるべきだった。
 いきなり、緑色の光線が、セシリアの側頭部を狙ってきた。どうということもなく、篭手で防いだ。魔力の矢か。すぐに、襲ってきたものを見極めた。木の陰から、それは姿を現す。
 人の頭ほどの大きさの、機械と魔法の絡繰り。半透明の羽をつけたそれの中央には、緑色の目のような機関がある。その目が、光った。二発目も、先程と同じように前腕で防ぐ。ミスリルの装甲を貫けるものなどそうそうないが、ただの板金でも充分防げる類の威力だ。断続的に魔法の矢を放ってくるが、特に脅威ではない。露出している部分に当たらなければ、負傷もないだろう。
 剣を左手に持ち替え、セシリアは再び加速した。被弾も構わず追いかけてくるセシリアを見て、ユストゥスは今度こそ本当に慌てたようだった。手で灰色の帽子を押さえ、何度か躓きかけながらも、必死の逃避行を続ける。丘の斜面。土埃。すぐそこの灌木の辺りで、追いつける。
 咄嗟に、セシリアは後ろに大きく飛び退いた。灌木の茂みに、絶対何かあると思ったからだ。案の定、右腕を連裝機銃にしたジャクリーヌが、獣のような勢いで飛び出す。
 大きく目の前を横切って跳躍した赤い髪の賞金稼ぎは、しかしセシリアを襲ってはこなかった。一瞬こちらを振り向いたジャクリーヌと、目が合う。
 その瞳は本来の紫色ではなく、黄金に輝いていた。何か、身体を強化する薬を使っているのか。
 着地したジャクリーヌは、回転する車輪から土埃を巻き上げながら、全速で丘を駆け下りていく。

 

 真っ先に仕留めるのは、あの魔法使いだ。
 斜面を駆け下りながら、ジャクリーヌは最初の標的をネリーに定めた。
 テレーゼの、あの弾道を曲げる技も脅威だが、魔法使いの得体の知れない能力こそ、この場面においての最大の不安要素だった。
 重力の魔法? 重力とは、この星の真ん中に物体を引きつける力だという話を聞いても、うまく理解できたわけではない。この大地が、夜空に輝く星と一緒で、暗い空間に浮かぶ球体なのだという話は、少しわからないでもない。この大地がどこまでも平坦に続いているとしたら、エルフの目で、世界の果てまで見渡せてもおかしくはないからだ。で、その球体の真ん中に、物体を引きつける力だと?
 ともあれ、別名の引力という言葉を聞いて、仕組みはぼんやりとわかった気もする。その引力とやらで、ユストゥスの放った弾丸が、ネリーの身体の直前でぴたりと止まったのは、先程見せてもらった。
 が、考えるだにややこしいと、ジャクリーヌは思った。ネリーの身体に引力とやらが働いているのなら、近くの馬車はヤツに"落ちて"いかなくちゃならないんじゃないか? それが起きていないということは、その引力とやらは、ごく薄い膜のようにネリーの周りにだけ働いているのか?
 ネリーが魔法銃を構え、ジャクリーヌに向けて放つ。続けざまに、三発。一発だけが直撃するところだったが、ジャクリーヌはそれを難なくかわした。魔法銃の弾は、実弾よりも遥かに遅い。ネリーに向かって直進し、その速度を倍近くに感じても、薬で強化された今の身体なら、楽に見極めることができる。
 さらに速度を上げながら、ジャクリーヌは連裝機銃を構えた。筋電式義手と同じ仕組みで作られたこの武器は、オルガンの鍵盤を叩くように、自在に好きな銃を発射することができる。
 照準。魔法の弾丸は同じく魔法の障壁で無効化されているのは見たので、実弾を放った。四発。二発はネリーに命中するが、結果はユストゥスの時と同じだ。あえて外した二発。両弾とも馬車の下部に命中したが、一発が、ネリーのすぐ近くの板に命中している。もう少し、外側に向かって撃ったはずだ。
 引力については、無学なジャクリーヌにはわからない。
 が、ネリーを守る力とその範囲は、見極めた。
 斜面を駆け終え、勢いそのままに、ジャクリーヌは右足の車輪を加速させた。ネリーは馬車の後方に目を走らせる。あの半エルフが、こちらに向かってきている。付け込む隙が、向こうからやってきた。
「てめえは後回しだ」
 急旋回し、ジャクリーヌは駆けつけてきたフェルサリに連裝機銃を向けた。
「危ない!」
 ネリーが、フェルサリに向けて手を伸ばす。見えない何かが、ぶんと音を立てて目の前を横切る。大方、魔法の障壁だけでもあの半エルフの方に移動させたのだろう。
「なあんてな。やっぱ"引き寄せ"、てめえからだよ」
 さらに身体を急旋回させ、ジャクリーヌはラッパ銃を持った手を、ネリーの方に突き出した。身体ごと、吸い寄せられる。なるほど、"落ちて"いる。何かの力場を抜けた感覚。左腕の肘の辺りに血が集まり、一部が勢いよく吹き出した。赤い膜が、ネリーの身体を円蓋状に包み込む。構わず、ジャクリーヌは左腕をさらに突き出す。銃口が、ネリーの鎖骨に到達した。
「ゼロ距離なら、どうだい? ねえよな。そこまで引き寄せてたら、引力とやらで、てめえの皮膚が全部剥がれちまうからな」
 銃口が、火を吹いた。橙色の髪の魔法使いが、もんどりうって倒れる。
 振り向き様に、背後に迫っていたフェルサリの顎を蹴り抜いた。気を失い、崩れかけた半エルフの髪を掴み、抱き寄せながら馬車に背を預ける。
「半エルフ、てめえにゃもう一仕事残ってる」
 異質な破裂音と共に、頭上を何かの影がさした。テレーゼ。馬車を回り込んでくるかと思ったが、馬車を飛び越し、上空からジャクリーヌに砲を構えていた。
 心底驚いたが、フェルサリを盾にしているジャクリーヌを、砲弾で撃ち抜くことはできなかったようだ。
「びっくりだよ、てめえには」
 着地の瞬間を、連裝機銃の斉射で狙い撃ちにした。その人間離れした反応速度でテレーゼは砲を盾代わりにしたが、銃弾の多くは命中している。赤く染まったドレス姿がぐらりと揺れ、その大砲の下敷きとなって、吸血鬼は倒れた。
 何の獣かわからなかったが、吸血鬼の能力、獣化を使って馬車を飛び越えたのだろう。直前に聞こえた破裂音とも爆音とも取れる音は、その時のもので間違いない。
「クソ、とどめは後回しだな」
 セシリア。既に斜面を駆け下り、道なりにジャクリーヌに突進してきていた。まだ、距離はある。
 連裝機銃の斉射。セシリアが軽く左手を振ると、彼女の前に赤く輝く描線を持った、透明の盾が現れた。銃弾が弾き返されていく。
「魔法の盾か。ったく、どいつもこいつも一筋縄じゃいかねえな」
 セシリアは盾を出すとすぐに左手の森に隠れたが、ジャクリーヌは取り残された盾を撃ち続けた。実弾、魔法弾。思った通り、魔法弾の斉射で、盾にひびが入った。物理的な攻撃は一切受け付けないが、同じ魔法の力なら、というヤツだ。ついでに言えば、あれを構えてこちらに向かってこれなかったところを見ると、その場にしか出せないらしい。取り残された盾が、燐光を散らしながら消えていく。ここまで四秒。魔法弾を撃ち込んだので正確な時間はわからないが、無傷なら持続時間十秒前後か。
 いきなり、顔の前に小刀の切っ先が現れた。かろうじてかわしたが、頬を切られた。銃弾さえ視認できる今の身体でも、完全な不意打ちとなると、かわしきれない。
 鎧の板金の打ち合う音で、こちらに近づいてきているのはわかる。どこだ。微かに見え隠れする白い外套で位置に当たりをつけ、再び連裝機銃を斉射する。が、セシリアが盾にする木の幹を吹き飛ばすには、威力が足りない。
 背後から猛烈な殺気を感じ、ジャクリーヌは地に伏せた。銃弾。テレーゼが倒れたまま、こちらに銃を向けていた。手をやると、弾丸はジャクリーヌの帽子の上部を貫いている。
 振り返ると、セシリアの長い金髪の先端が、別の木に隠れるところだった。近い。
 勢いで得た勝機を、急速に失いつつある。片方は負傷しているとはいえ、セシリアとテレーゼ、この化け物を二体同時に相手にすることは、さすがにできない。
「ちくしょう。次は必ず仕留めるぜ」
 右足の内燃機関を噴かし、ジャクリーヌは全速力でその場を後にした。

 

 かろうじて、太い血管は傷ついていないようだった。
 セシリアは、鉗子を使って、ネリーの身体に埋まった銃弾を取り出していた。血まみれのテレーゼがネリーに跨がり、両肩口をしっかりと押さえている。テレーゼの血は、自身のものだ。
 銃創は、ネリーの肩口から鎖骨付近に広がっている。ジャクリーヌのラッパ銃に仕込まれていた銃弾は、傷口の数から見て、おそらく七発。弾丸は通常のものより遥かに小さく、取り出すのは簡単ではなかった。それぞれの傷口は縫う必要もないくらい小さいもので、火傷もひどくはない。が、鉗子で体内を探る時に、筋肉を傷つけてしまうのはどうしようもなかった。
 見た目はすぐに治ったように見えても、右腕を自由に動かせるようになるのには、時間がかかるかもしれない。
「ど、どうですか・・・?」
 恐る恐る、アンナが治療を覗き込んでいる。車椅子に座るシルヴィーの顔は、いつにもまして青白い。
「力場を抜けて撃たれたとはいえ、やっぱりすぐ近くで重力の魔法が働いていたからでしょうね、傷は思ったよりは浅いわ。出血も、ひどくない」
 血の糸を引きながら五つ目の弾丸を掘り出し、セシリアは答えた。ネリーはいつもの無駄口を叩かず、歯を食いしばって耐えている。
 七つ目を取り出したが、気になって、鉗子の先に少し違和感を感じた箇所に、もう一度探りを入れた。あった。八つ目を取り出した時に多めに出血したが、溜まっていた血が外に溢れただけのようだ。
 これで全部だと思うが、経過はよく見ておかねばならない。一発でも残っていると、鉛の毒が全身に回って、死ぬ。
「ふうぅ・・・殺されるかと思ったよ。あ、セシリアの荒療治のことじゃないよ?」
「張り倒してもいいかしら」
「冗談だってば! 助かったよ!」
 元気よくネリーは言ったが、痛みは強いだろう。実際、こういった傷はつけられた時よりも、治療の方が苦痛の度合いははるかに高い。
 差し出された桶で、鉗子と血まみれになった手を洗う。桶を差し出したフェルサリの顔も、蒼白だ。蹴られた右の顎の部分だけが、赤く晴れ上がっている。何もできなかった上に、自分を盾代わりにされたと聞いて、強い自責の念に駆られているのだろう。ネリーの負傷も、テレーゼが好機を活かせなかったのも、フェルサリの責任である。今はどこか悲壮感さえ感じさせる顔つきで、ネリーの肩に包帯を巻いていた。
「ちょっと、見くびり過ぎていましたわねえ。それは、わたくしの失策でもありますわ」
 テレーゼは石に腰掛け、自分で銃弾を抜いている。大半は魔力の塊を撃ち出したものらしく、実弾の被害は少ないようだった。魔力の塊は、放っておいてもすぐに体内から消える。
 血まみれで、一行の中では最も重傷に見えるテレーゼだが、彼女はむしろ、新しい水の入った桶を持ってきたフェルサリを気遣っているようだ。
「落ち込むことはありませんわ。ジャクリーヌの力は、人のそれではありませんでしたもの。魔法の薬を使っていたんでしょうけど、あそこまで強力なものであれば、わたくしたちももう少し様子見した方がよかったかもしれませんわね。もっとも、こちらにも守るべきものがありましたので、悠長なことは言ってられませんでしたわね。つまりは、仕方なかったと言っているんですのよ」
 フェルサリは何度も頭を下げながら、テレーゼの話を聞いている。
 今はひどく落ち込んでいるが、芯の強い娘である。そういったことも糧にして、すぐに立ち直るだろう。
 ふと、それでいいのかという問いが、セシリアの胸に沸き上がった。あっさりと立ち直らせる前に、一度厳しく叱責して、地に叩き伏せる必要があるのではないか。
 フェルサリは、今のままでも強くなれるだろう。ゆっくりと、着実に。しかしその程度ではセシリアたちが今までこなしてきたような、厳しい依頼や冒険にはついて来れないだろうとも思う。今は、まだ何とかなっているという感じだが、いつパーティ全員に危険を及ぼすとも限らない。
 ジャクリーヌがあの時、フェルサリを利用するのではなく殺そうと考えていたら、命を落としたか、かなりの傷を負ったことだろう。弱過ぎたから、殺されずに済んだのだ。ジャクリーヌにとって脅威となる存在だったら、真っ先に殺されていただろう。
 セシリアにも、甘えがあった。フェルサリが狙われても、テレーゼかネリーのどちらかが、何とかしてくれると思っていたのだ。
 やはりまだ、フェルサリを自分の子供だと思っているのかもしれない。他の子供たちとそうしてきたように、フェルサリが自分の道を歩みだすと決めた直後、法的な意味での親子関係は切ってある。生きる道を決めた以上、既に対等な大人同士だと思っているからだ。
 実際の所、独立していった子供たちも、会う機会があれば、セシリアのことを母と呼ぶ。恩義を感じ、心の部分で母と思っていてくれるからだろう。セシリアもある部分では彼らを子供たちと思ってはいるが、子供扱いしようとは思っていないし、事実そうしてはこなかった。
 だがフェルサリに関してはまだ、自分の子供だと思ってしまっているのではないだろうか。今もこうして一緒にいるからだろうか。あるいは今の自分にはよく見えていない、何か別の理由からか。
 溜息とともに、セシリアは紫煙を吐き出した。一度、ニコールに話してみるべきかもしれない。ニコールは子を生んだので、しばらくパーティとは行動を共にしていない。が、そろそろ復帰したいとも話していた。帰ったら、ニコールの店で一杯やりながら、相談してみるのもいいだろう。甘い所のない彼女なら、答えは的確だろう。そして今いる面子では最も付き合いが長く、セシリアのことを一番知っている人間とも言える。
 立ち上がり、傍に立っていたフェルサリを片腕で抱き寄せる。この旅の間は、自分の子供でいいだろう。この問題とどう向き合うかについては、家に帰ってからでいい。
「ひとつ、わかったことがあったわね」
 セシリアは、まだ鉗子で弾丸を抜いているテレーゼに言った。しかめ面のまま、テレーゼは頷く。
「馬車を、直接狙ってはきませんでしたわね」
「つまり、ジャクリーヌたちの最終的な目的がシルヴィーの命であるにせよ、それはどこかに連れ去って、という前提があるということね。で、さらにその前提として、まず私たちを排除しなくてはならない」
「それが、最初からわかってればなあ。ま、言っても仕方ないか」
 座って馬車の車輪に背を預けていた、ネリーが言う。
 ジャクリーヌが気づいたかわからないが、ネリーは馬車の中、シルヴィーとアンナのいる空間にも、重力の磁場を仕掛けていた。事前に狙いがわかっていれば、ネリーは自身とフェルサリにそれを仕掛けていただろう。もっとも、二つ同時に磁場を操るのは魔力の消費が激しすぎる。賭けのような形で二つの磁場を仕掛けていたが、ものの見事にはずれた格好だ。
 賭けに負けた代償は、さらに今後も払い続けなければならなかった。ネリーはこれ以後、自分の身を守ることに残った魔力を振り向けさせることになる。同じ手は二度と使えない上に、今回のような負傷をしてしまった後では、魔力の回復は極端に悪くなる。魔力の回復には精神の集中が必要で、ただでも注意力の散漫なネリーには、苦手な作業なのだ。
「シルヴィー、ジャクリーヌたちが単純にあなたを殺そうとしているわけではないとわかったけれど、あなたを狙う理由について、あらためて心当たりはないかしら?」
 車椅子に座っているシルヴィーが、少しだけ目を閉じる。
「・・・わかりません。でも二人が私の家に来た時、ユストゥスさんが私の身体に触れて、間違いない、と言いました。おそらくはこの、私の体質に関係することだと思います」
 シルヴィーの、魔力を外に出せない身体。いわば魔力蓄積体質は、その世界ではいくらでも使えるという気がする。魔法は専門外のセシリアでも、それがいかに特別な存在なのかはわかる。
「むむむ、シルヴィー様の身体を使って、何か黒魔術的な、よからぬことを画策しているのでしょうか。ゆ、許せませんっ!」
 アンナが、鼻の穴を膨らませて息巻く。
 このメイドが言うような、単純な話なのだろうか。何か違和感があると、セシリアは思った。ジャクリーヌ、ユストゥス共にゴルゴナで軽く話したことのある程度の仲でしかなかったが、私利私欲でたやすく人の命を狙うという人間には、思えなかった気がする。
「真の狙いはわからないし、どうでもいいわ。当面の目的がシルヴィーの拉致、それがわかっただけでも収穫ね」
 六頭立ての馬車。ファミーユ号。ジャクリーヌとユストゥスが共に行動している。
 ほんの少しだけ、セシリアにはジャクリーヌたちの背後にある物語が、垣間見えた気がする。それを知りたい、関わりたいと思ってしまうのは、セシリアの悪い癖だと自覚している。今は、考えるべきではないと言い聞かせる。シルヴィーの側につくと、決めたのだ。
 これも巡り合わせだろうと、セシリアは思った。

 

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