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 シルヴィーの体調は、とても良さそうだった。
 心なしか、口数も増えた気がする。今にして思えば本当にただの思いつきのようなものだったのだが、セシリアたちに手紙を出してよかったと、アンナは思った。シルヴィーには、自分以外にも話し相手や友だちがいた方がいいのだ。おまけにセシリアたちは、態度こそ威圧的で偉そうなところがあるが、その実すこぶる親切でもある。
 オルニエレでも、長居はしなかった。旅に必要なものを揃え、一晩泊まっただけである。馬車の中は、食べ物と酒、水の樽でいっぱいだ。パリシを出た時に荷物はもっと多くなると言われていたが、その通りになった。外の荷台や屋根にも荷がくくりつけられているが、旅を続ければあっという間になくなっていく、とも言われた。
 今、その馬車は長城を抜け、南に向かっている。ここからは怪物巣食う恐怖の地と聞いているが、これまでのところ、特にそういった目に見える恐怖はない。なだらかな平原が、どこまでも広がっているだけだ。
 シルヴィーは半身を起こし、窓の外を見ている。馬車はパリシを出た時よりも、速度を上げているように思えた。アンナも寝台の脇の箱に座って、外の景色を眺めていた。
「フェルサリさーん」
 ふと思い立って、声を掛けた。ぱたぱたと足音が聞こえ、窓の下に半エルフが姿を現す。その額は汗ばんでいるようにも見え、やはり馬車は道を急いでいるのだと思った。話せるということなので、アッシェン語で話しかける。
「フェルサリさんって、デルニエールの出身なんですよね。てことは、怪物に囲まれて暮らしてたんです?」
 フェルサリは慌てた様子で首を振った。シルヴィーが興味深そうに、二人の話を聞いている。
「いえ、私のいた地域は、そんなことはありませんでした。ここからずっと南で、デルニエール全体では、中央からやや東南寄りの地域なんです。そこでは怪物と呼ばれるような生き物に出会ったことは、ありませんでした。ただ・・・」
 フェルサリのアッシェン語は、とても滑らかだ。しかし、南部の訛りが強い。
「結局は、オークたちに襲われて、村はなくなってしまいました。そんなことが怒るまで、危険な土地に暮らしているという自覚はありませんでしたし、私の生まれる前に何度かゴブリンの小集団が現れた時も、村人たちで追い払える程度だったらしいんです」
「生まれる前・・・そういえば、フェルサリさんって、いくつなんです?」
「年齢ですか? 今年で、四十六歳になります」
「え? ああ、やっぱりエルフの血が混じっているんですねえ! 私より年下かと思ってました」
「す、すみません。どのくらいエルフの血が混ざっているかにもよるのですが、人間で言うと、十代の後半くらいみたいです。ちょっと、わからないんですけど・・・」
「では、南の方は比較的安全なのですか?」
 シルヴィーが聞いた。
「そうみたいですね。私の村が襲われたのも稀な事例で、熊が、人里に下りてくるようなものだったらしいです。オークやゴブリン、それにトロール等は、北部に集中してるみたいです。全部、母さんから聞いた話なんですけど・・・」
 フェルサリはその長い耳を除けば、本人が言うように、十代の少女のように見える。シルヴィーと同い年だといっても、そうだと思えるくらいだ。
「でも、大きな群れを作らない怪物は、方々にいるみたいですね。特に、廃墟となった町には、そういった怪物が住みやすいそうです。でもデルニエールはアッシェンが放棄してから他の地域との交流がほとんどないので、わかっていないことも多いみたいです」
「フェルサリさんの村は、外との交流はあったのですか?」
 シルヴィーが、興味深そうに聞く。アンナよりも、フェルサリの話に強い関心を持ったようだ。
「行商の人が、月に一度くらい訪れていました。なので、割合外の世界と繋がっている方だったのではないかと思います。集落によっては、外部との繋がりがまったくない所もあるということなので」
「そういった場所は、デルニエールがアッシェンだった頃から、時間が止まったようになっているのかもしれませんね」
「本当に、そうだと思います」
 今のアッシェンとほぼ同程度の面積を持つデルニエールという地域が、かつてはアッシェンの南半分だったという話は、アンナも知っている。
 世界には様々な地形、気候の土地があると聞いたことがあるが、今窓の外に広がっている地域は、どこにでもあるアッシェンの田舎の風景と変わらない。しかしアンナは物心ついてからパリシを出たことがないので、そう思い込むのも変な話かもしれなかった。ただ、北の地平線を遮る白い長城は、ここがデルニエールなんだとはっきり自覚させる。
 少し疲れたのか、午後のシルヴィーは、昼食を食べた後、すぐに眠ってしまった。その青白い顔を見ていると、ふとこのまま目を覚まさないのではないだろうかと、胸が潰されそうになる。この不安感だけは、いつまでたっても慣れることができなかった。特にここ数年は、いつ命をなくしてしまっても不思議ではないのだ。
 だが、シルヴィーはセシリアたちと出会って、急速に元気を取り戻した。なにも、百歳まで生きるとは思っていない。あと一日、あと一日だけ生きてほしい。そうアンナは思い続けてきた。しかしこの出会いは、シルヴィーの寿命を三年、いや十年は伸ばしてくれたのではないだろうか。
 そこでアンナは、セシリアたちが岬に着いた後のことを、まるで話していないことに気がついた。愕然とする。その後は、どうするというのだ。
 アンナは立ち上がり、御者台の方の小窓を開けた。御者台のセシリアとネリーが、こちらを振り返る。
「セシリアさん、海を見た後、私たちはどうするんですか?」
「そこから南に少し行くと、アキテーヌ公領に着くわ。デルニエールでも唯一安全といっていい場所よ。そこから私たちは船で帰るつもり。あなたたちを放っておくわけにもいかないから、一度私たちの家にいらっしゃいな。その後はあなたたちで決めればいいわ」
 どこか冷たさを感じる口調で、セシリアは言った。前方を見つめている。まさか怪物の集団が現れたのだろうか。
「うわ、セシリアさんの家、見てみたいです。私たち結局、帰る家を失っちゃったじゃないですか。できればしばらくの間、厄介になりたいんですけど・・・」
「構わないわよ。二人分の食費は、あなたの身体で賄ってもらおうかしら」
「ええ、夜のお相手でもなんでも、いたしますとも!」
「家に着いたらさ、あたしもゴルゴナで、知り合いの魔術師に、シルヴィーのこと当たってみるよ。何か直す手だてが見つかるかもしれない」
「うわー、ネリーさん優しいです! ぜひぜひよろしくお願いします!」
 ちゃんと先の日程まで考えているとわかって、アンナはほっとした。シルヴィーは今の話を聞いていたかと振り返ったが、まだ穏やかな寝息を立てて眠っているようだ。
 午後をいくらか過ぎたところで、野営の準備ということになった。日が落ち始めてからでは遅すぎるし、夜はやはり、危険を伴う地域なのであった。
 野営は初めてだが、今日はあまりやることがないのだとセシリアは言った。旅の初日は、町で買ってきた出来合いのものを、温め直すくらいでいいからだそうだ。明日からは手持ちの材料で、食事を一から作っていかなければならない。そうなると調理の時間ではなく、調理できる環境を整えるのに時間がかかるのだという。
 しかし指示に従って薪になりそうな小枝を集めたり小川に水を汲みにいっているうちに、あっという間に日暮れとなった。楽だという初日でこれでは、明日からは大変になりそうだ。
 木立の傍で、焚き火を囲む。夏はすぐそこだが、夜になるといくらか冷えてくる。アンナが毛布を取りに行っている間に、焚き火の前ではテレーゼの吸血鬼としての特性の話になっていた。呪いというか、戦いでは弱点になるようなものの話も含まれるらしい。シルヴィーがカップを両手で包み込み、テレーゼの話を興味深げに聞いている。シルヴィーは昔から、どんな話にでも関心を示す。
「わたくしは、もう既に知っていると思いますけど、日の光を苦にしませんの。銀のスプーンで食事もできますし、にんにくも食べられますわ」
「あ、じゃあ無敵の吸血鬼さんなんです?」
 アンナが輪に加わると、セシリアから具のたくさん入ったスープの器を渡される。軽く十字を切って食事に手を着けると、テレーゼが露骨に嫌そうな顔をした。やはり手を合わせ、きちんと食事の前の祈りを捧げるべきだっただろうか。
「無敵かどうかは、強さで決まることですわ。今から話すこととは少し違いますの。いいこと? これから話すことは、旅の仲間にしか話さない、他言無用の話ですの。フェルサリにすら、話すのは初めてですのよ」
 シルヴィーが、目を輝かせている。旅の仲間、と言われてうれしかったのだろう。
「一応、テレーゼの特性は熟知しておいた方がいいわね。その凄まじい身体能力と引き換えに、行動に制限がかかっているとも言えるわけだから。とんでもなく強い代わりに、突かれると弱い部分が、明確にある」
「あ、質問です。テレーゼさんとセシリアさんって、どっちが強いんですか」
 一瞬テレーゼとセシリアの目が合い、二人は意味深な笑みを交わした。
「その質問には、後で答えますわ。アンナにもわかるよう、簡潔に話しますわよ」
 テレーゼの特殊能力としてまず、白狼に変身できるというものがあるらしい。魔法的な力で、身につけているものごと変身できるようだ。
 次に、やはり上位の不死者ということなのだろう、下位の不死者を支配できる力もあるそうだ。それがどんなものであるか、アンナにはよくわからなかった。
 もうひとつ、戦闘時の超感覚というのもあるそうだ。研ぎ澄まされている時には、飛んでくる弾丸ですら視認できるのだという。この話の方がさらに、アンナの想像を超えてしまっている気がする。
「力の強さは、みんなが見てきた通りね」
 セシリアが話を締める。確かに、アンナは、テレーゼの担いでいる砲が実は軽いのではないかと思って触れたことがあるが、地面に置かれたそれを、ほんのわずかでも持ち上げることはできなかった。これでもアンナは、女としては腕力の強い方だと思っている。
「うわー、よくわかりませんけど、やっぱ無敵ってことじゃないですかぁ?」
「だから、まだ呪いについては、触れていませんってば」
「シルヴィー様、こんな方がいてくれれば、山ほど怪物が現れても、旅は安全そうですねえ!」
 シルヴィーが、困り顔で小さく頷く。木皿のスープのじゃがいもを、スプーンで小さく割っては、口の中に運んでいた。食べきれなかったら、アンナは残りを食べるつもりでいた。しかしおいしそうに食べているので、ひょっとしたら全て食べることができるかもしれない。
「先程銀もにんにくも大丈夫と言いましたけど、十字架は駄目ですの。目の前で十字を切られるのを見ただけでも気分が悪くなりますし、それを模した装身具に触れるようなことがあれば、火傷してしまいますわ」
「だから、テレーゼのいる時は、食事の前のお祈りは心の中で、ね。主に感謝するのに、必ずしも見てわかる動作は必要ないわ」
 セシリアが続けると、ネリーがにやりと笑って付け足す。
「こんなこと言ってるけど、セシリアはお世辞にも信心深い方とは言えないけどねえ」
「あら、やめてよね」
 シルヴィーが笑いながら二人の話を聞いている。だがなるほど、先程アンナが十字を切った際に、テレーゼが嫌そうな顔をしたわけがわかった。思い返すと、これまで宿でとってきた食事の席では、遅れて来ることが多かった気がする。それに慌ただしさから省略しているのかと思ったが、シルヴィーはそういうことを察して、食事の前の祈りを捧げていなかったのかもしれない。いやセシリアの言う通り、心の中でだけ祈っていたのだろう。
「セイヴィア教の、剣の聖十字だけでなく、それぞれの神の聖印にも、拒否反応を起こすことが多いですわね。それだけわたくしの存在が、穢れているという証ですわね」
「それは、神様が与えた、試練なのだと思います」
 今まであまり口を開かなかったシルヴィーが、つぶやくように言った。
「だって、テレーゼさんって、誰よりも優しいんですもの。主が、そのような方を見捨てるわけがありません。それに聖人と言われる方々は、いずれも多大な苦難をその身に受けたり、あるいは呪われてるとさえ言われた方々が多いものです」
 口を開こうとしたテレーゼだったが、言葉に詰まったようだった。
「シルヴィーもテレーゼも、優しくて思いやりがあるわ。神は何故、と思わないでもないわねえ」
 ネリーの言葉通り、セシリアが早速信心深くない面をのぞかせていた。煙草の煙を吐き出しながら、軽く肩をすくめる。
「私には、神の御心はわかりません。セシリアさんも、とても優しい方です。みなさんは、私にとっては主の使いそのもののように思えます」
「そうね。本当に、そうだといいわ」
 セシリアのどこか冷笑的な部分を、シルヴィーが上手く丸め込んだように見えた。セシリアが少しはにかむ。年齢は二十三歳と聞いているが、普段はそれよりもずっと大人に見える。しかし今のはにかみは、セシリアを年相応か、それよりも幼く見せていた。
 軽く咳払いし、テレーゼが話を続けた。
「次に、対魔用に調合された薬品も苦手ですわね」
 十字が苦手という話にも、通じていることなのだろう。聞くと、本来対魔用の薬品というのは悪魔やそれに類する者にしか効果がない、つまり不死者にはまた別のものが必要になるとのことだが、テレーゼは悪魔用のものもまた、大の苦手らしい。
 ふぅ、と軽く息をつき、テレーゼは紙巻き煙草に火をつけた。
「三つ目、ですわよ。これはみなさんにもよく留意して頂けると助かる問題ですわ。わたくしは、招かれていない建物に入ることができませんの。厳密に言えば、その扉を開けることができませんの」
「テレーゼは異世界から来た吸血鬼だけど、"招かれざる者"は、こちらの世界の吸血鬼でも、実はかなりよく見かける特性だわ」
 このようにセシリアが時折言葉を継ぐが、アンナと違い、実によく話を繋いでいるという気がする。アンナも間の手を入れるのが好きだが、周りに咎められることが多いので、的を得ていないのだろうと思う。セシリアからは、学べることが多いかもしれない。
「店や宿といった、来客を歓迎している場所は、問題ないのよ。ただ家主に内心拒絶の意志があったりすると、駄目ね。今日は店が忙しいからこれ以上客が来なくていい、みたいのにぶつかると、そこには入れない。気づかれないよう、さりげなく振る舞うのは、テレーゼにとっても骨の折れることだと思う。もっとも普通の家屋でも、一度その主がテレーゼを招き入れれば、以後その主が招いていなくとも、自由に出入りできるわ。これは直接言葉や身振りでなくとも、そうね、手紙でも口伝えでも構わない」
「招かれていない、でもどうしても入る必要がある時には、あれを使いますのよ」
 テレーゼは馬車の脇に置いてある大砲に目をやった。ネリーが、笑いながら付け加える。
「大砲だから、砲弾ドカン!と思うでしょ? そうすることもあるけど、あれで直接扉を破るんだよ。破城槌ってわかる? 城攻めで、城門を破るヤツ。あんな感じでね」
 なるほど。冒険者としての生活には、必要になる場面もあるのだろう。アンナにも、どうしてああいった大砲をいつも手にしているかわかった。あれで扉を破るところを、見てみたい気がする。
「まだありますのよ。わたくしの弱点、その四。善良な者、あるいは命乞いをする者を、襲うことが出来ない。これも"招かれざる者"同様、心の縛りみたいなものですわね」
「善良な者の命を奪えないのは、いいのよ。この"慈悲深き者"の厄介なところは、相手が明確に嘘をついているとわかっていても、次の一撃を加えられないというところにある。例えば、追いつめられた賊が、後ろ手にナイフを隠しながら、テレーゼに命乞いや助けを求めたとする。テレーゼにはこの男が嘘をついているとわかっていても、見逃せばまた悪事を働くとわかっていても、とどめをさせない。逃げようとすれば、ただ見逃すしかない」
「ですからわたくしは、そのような依頼の際には誰かを伴っていることが多いですわね。セシリアの話にあったようなことは、実際よくあることですから」
 巻き毛をくるくると指で弄び、テレーゼは言う。話が、いきなり物騒な雰囲気になってきた。シルヴィーに気を遣ってか、余韻を打ち消すようにテレーゼは続けた。
「最後の一つ、これはおまけみたいなものですわよ。わたくしの姿は、鏡に映らないんですの。着ているもの、持っているものも含めてですわね。なるべく鏡やガラス越しに姿を見られないよう気をつけてきたつもりですけど、鏡越しにわたくしを見ようとして、びっくりなさらないで下さいね。さ、これでおしまいですわよ」
 ふふっと笑って、テレーゼは話の幕を下ろした。そういう顔をすると、セシリア同様、少し幼く見える。二人の共通点だ。
「あ、質問いいですか? さっきの話、テレーゼさんとセシリアさんって、どっちが強いんですか?」
 軽く手を上げ、アンナは聞いた。やはり気になってしまうのだ。
「ああ、そんなこと言ってたわね。テレーゼ、どうぞ」
 セシリアが悪戯っぽい視線をテレーゼに投げる。シルヴィーは二人を交互に見つめている。シルヴィーにとっても、気になる話なのだろう。
「簡単に聞きますけど、難しい質問ですのよ。そうですわね・・・時と、場合による、が正解ですわね。わたくしは今話した吸血鬼の呪い、弱点がありますので、それを利用されたら、勝ち目は低いですわね。たとえば街の中でセシリアと事を構えた場合、鍵のかかっていない扉すら、わたくしには固く閉ざされた城門と変わりませんからね」
「逆に言えば、こうした開けた土地や、闘技場で一対一で向かい合う、みたいなシチュエーションになったら、私は勝てる自信がないわ。実際、そういった状況でテレーゼに勝てる人間なんて、そうそういないでしょうね。そうね、多分あなたが聞きたかった、純粋に何の邪魔も入らない環境でなら、テレーゼの方が、強い」
 はっきりと言い切る辺り、この話には決着がついているのだろうか。この二人は以前、戦ったことがあるのかもしれない。
「ああ、私、セシリア・ファミリーって言われるくらいだから、セシリアさんがパーティ最強かと思ってました。でもテレーゼさんの様子を見たり、お話聞く限り、この人より強いなんてことあるのかとも思ってしまいまして。じゃあ、テレーゼさんが一番、セシリアさんが二番なんですね」
「私は、ただの司令塔みたいなものよ。それにもう一人、頼りになるのがいるわ。"掴みの"ニコールって、聞いたことがない?」
「はあー、すみません。私、セシリアさんもあの有名な大陸五強の一人ってことくらいしか知らなくて。そういう業界には、詳しくないんです」
「それでまあ、よく直接手紙を出せたというか・・・知らない者の怖さね。ともあれ、ニコールは飛び抜けて強い。さっきあなたが聞いた意味でもよ」
「おまけにニコールはすこぶる頭が切れますからね。もう二度と、やり合いたくない相手ですわ」
 苦りきった顔で、テレーゼが言う。何か、強いとはなんなのか、質問したアンナ自身がわからなくなってきた。
 気づくと、シルヴィーの息が少し荒くなっていた。話に興奮しているわけではないだろう。笑顔に、陰が入っている。気分が悪くなってきているのだ。
「もうすっかり夜になっちゃったわね。アンナ、シルヴィーを中へ。後は、私たちがやっておくわ」
「すみません・・・もっともっと、みなさんのお話、聞いていたいのですが・・・」
 シルヴィーが、申し訳なさそうに言う。その顔を見て、シルヴィーはアンナよりも、今までの話を楽しんでいたのだとわかった。
「調子がいい時なら、いくらでも聞かせてあげるわ。旅は長いのよ」
 アンナはシルヴィーの身体を支え、馬車まで連れて行った。寝台に横たわらせる。額に触ると、僅かに熱もあるようだった。
「旅も、お話も、とっても楽しいですね、シルヴィー様」
「うん、本当・・・アンナ、あの人たちに手紙を書いてくれて、こんなに素敵な出会いをくれて、本当にありがとうね」
「・・・私のことはいいんですよ。アンナはここにいますから、いつでも声を掛けて下さいね」
 おやすみなさい、そう言おうとしたが、既にシルヴィーは眠りについていた。

 

 霧が、立ちこめていた。
 濃霧である。視界は、びっくりするくらい限られていた。
 昨晩野営をした所までは乾いた大地だったが、丘を一つ越えると、いきなり湿地帯だった。トロール沼だ。
 野営地の近くにあるのは跨いで渡れるような小川が一本だけだったので、その割には朝から妙に霧の量が多いと、フェルサリは不思議に思っていたところだったのだ。フェルサリの目が遠くまで見えるといっても、起伏のある土地では、高い所に立った時しか役に立たない。
 ジャクリーヌたちがこちらを追ってきているのは、昨晩の内に確認してあった。今は霧でわからないが、そう遠くない所にいるはずだ。
「この時期でこれだけの霧が出るなんてねえ。噂通りの、呪われた大地なのかも」
 なんでもないことのように、眼下のセシリアが言った。
 今は、フェルサリとネリーが御者役だった。トロールに出くわしてしまうようなことがあれば、セシリアとテレーゼが立ち回り、ネリーが馬車の上から援護するという形だ。フェルサリは主に御者を務め、トロールが馬車に近づき過ぎた時のみ、飛礫を投げて牽制する。基本的に戦闘から一歩離れることになるが、前線で戦うことと同様、難しい役割だと自覚している。これだけ視界の悪い中、湿地にわずかに伸びる馬車の走れる道を探りながら、馬を急がせねばならない。
 まだ、足元の地面はしっかりしている。時折水音がしたら、どの馬の足音だったか見極めて、方向を変える。事前に練習できるようなことではないので、ぶっつけ本番でも仕方ない。馬車の扱い自体は、レムルサで買い物等に使っているので、わかってはいる。しかし一頭立て、二頭立ての小型の馬車を扱ってきたが、このように大型のものは初めてだ。
 前列左の方から水音が聞こえ、フェルサリは馬を止めた。セシリアが前方に出て、道を確認する。指示に従って、少し右に向かって馬を歩かせる。南にまっすぐ進めば馬車でも充分通り抜けられるという話なのだが、あまりに霧が濃く、太陽の位置を把握できないのだ。方位磁石を見ながら、なんとか進路を保っている状態だ。
 四頭の馬には、それぞれ遮眼革という目隠しをつけている。トロールが近づいてきた時に、恐慌を起こさないためにだ。視界は前方のみで、極めて狭い。御者が上手く操縦しないと、あっという間にぬかるみに落ちる。
「ま、そんなにナーバスにならなくていいよ。もしぬかるみにはまっても、テレーゼが持ち上げてくれるよ。万が一の時でも、あたしの魔法でなんとかしてあげるからさ」
 ネリーの魔法は重力なので、派手に沼に突っ込んでしまっても、馬車を一時的に軽くすることで、なんとかなりそうだ。しかし魔力は決して無限ではなく、トロールとの遭遇時にネリーの魔力が切れていたら大変だ。戦闘が激化したら、それこそ誰の助けも得られないかもしれない。
「怖い顔しないで。はい、あーんして。あーん・・・」
「す、すみません。あーん・・・」
 チョコレートの欠片が、口に放り込まれる。ネリーとじゃれ合っている余裕はなかったが、心遣いはありがたかった。舌の上に、甘さが広がる。
 馬車は、概ね南に向かっている。霧の先にぼんやりと光る太陽を睨みつつ、磁石で正確な方角を確認する。日が高くなってきた。午前中は、戦いにならずに済みそうだった。このまま、トロールとの遭遇がないことも、充分考えられる。先方もこちらが見えてない上、霧が馬車の進む音を吸い込んでくれている。
 地図によると、トロール沼は長城に沿うように、東西に長く伸びている。南北の幅が最も短い道を進んでいるが、それでも突っ切るのに一日はかかる。逆に言えば、もう半分は過ぎているということか。
 道が、かなり狭くなってきた。本当にこの馬車で進めるのか不安になってきたが、三人の表情に緊張の色はなかった。
 セシリアが、剣を鞘ごと、沼に突き刺していた。何度かそれを繰り返す。刺さる深さはまちまちだが、深い所で脛の辺り、浅い所はくるぶしの辺りまでのようだ。沼の水は澄んでおり、視界一杯に広がる大きな水たまりのようだ。霧がなければ、時折浮き島のように残る地面を除き、水たまりはどこまでも続いているように見えたかもしれない。
 不意に、霧の向こうに、何か見えた気がした。遠くの山の影かもしれないし、もっと近くにいる、別のものの可能性もある。ふと目を落とすと、少しぬかるんだ地面にはっきりと、巨大な人型生物の足跡を見つけてしまった。胃が、ぎゅっとせり上がる。
 フェルサリは昨晩聞いた、トロールの生態、特徴について頭で反芻した。
 トロールは身長三メートル前後の、獰猛な人間型生物だ。まずその膂力の凄まじさも脅威だが、何よりも強力な再生能力を持っているとのことだった。再生能力というもの自体は、先日遭遇した巨大合成獣、巨人喰らいのものが、フェルサリの記憶に強く刻み込まれている。本当に、見る間に傷が閉じていくのだった。トロールのそれは巨人喰らいのものほど強い再生能力ではないが、それでも斬り飛ばした手足が、本体の方に近づき、やがて元通りの身体になるほどには、強力らしい。
 性質は凶暴だが愚鈍な面もあり、身振り手振りの対話に持ち込めれば、交渉の可能な場合もあるという。だが、今回それは難しいということだった。自分たちの縄張りに新鮮な肉がやってきた、そう受け取られるのが確実だからだ。おまけにその愚鈍さが恐怖を鈍くしてしまうため、群れに遭遇した場合、数匹倒したくらいでは潰走させるのは難しいようだ。
 弱点は、一応ある。頭部及び首の後ろに大きな損傷を与えられれば、再生能力は鈍り、そのまま死に至らしめることも可能なようだ。火による負傷、火傷の傷も再生能力を封じる手だてになるそうだが、これはこちらにそういった攻撃手段がないので、今回の場合は利用することができない。
 やってはいけないのは、腹を斬りつけること。胃袋を傷つけ、何でも消化するという強烈な酸の胃液を浴びてしまうと、こちらが大火傷することになる。
 まだ、何か思い出すことはあったか。聞き忘れたことはなかったか。
 ネリーは振り返ると御者台の小窓を開け、中にいるシルヴィーとアンナに声を掛けた。
「これから一戦交えることになりそうだよ。でも怖がらなくて大丈夫。銃声でびっくりしちゃうかもしれないから、買っておいた綿を耳に詰めて、耳栓代わりにしといて」
 フェルサリも二人に何か声を掛けるべきだと思ったが、そんな余裕はありそうになかった。
 セシリアが小走りで、前方に駆け去って行く。霧の中に消えた白い具足姿は、フェルサリが心配になる前に戻ってきた。
「しばらく、このまま真っすぐ進んで大丈夫だと思う。一カ所、水に浸かってる所があるけど、構わず前進して。完全に車輪が動かなくなったら、テレーゼがなんとかする。一応用心しつつ、スピードを上げていいわ」
 フェルサリは頷いた。急に、喉が渇いてくる。
 いつの間にか、テレーゼも御者台の近くに来ていた。
「もう、何匹かがこちらに気づいているようですわ」
 砲を片手に担ぐテレーゼの姿が、今はとても心強い。
「すぐに、戦闘ね。ひとつ思いついたんだけど、とどめを刺さずに振り切るというのは、どう?」
 セシリアが、冷たい笑みを浮かべながら言った。フェルサリも、すぐにセシリアが何を言わんとしているのか理解した。怖い発想だ。テレーゼが、片眉を上げて頷く。
「人が悪いですのねえ。いいですわよ。とどめはジャクリーヌたちに任せるとしますわ」
 あえてとどめを刺さず、追ってくるジャクリーヌたちへの足止めに使うつもりだ。ジャクリーヌたちが死んでしまうのではないかと、少しだけ気が咎める。
 ネリーが御者台から、馬車の屋根によじ上った。荷物の箱に腰掛け、魔法銃を取り出す。
「あたしは、いつでもオッケー」
「じゃ、迎え撃つわよ。フェルサリ、近づいて来るのがいたら、ガツンと喰らわせてやりなさいな」
 セシリアが笑いながら、飛礫を投げる仕草をする。フェルサリはここでも、頷くのが精一杯だった。
 霧の中に、浮かぶ影。何かが沼を移動している水音。影はもう、明確に不格好な人の形を取っている。囲まれているが、前方にはまだその影はない。包囲を突破するにせよ、気持ち的に逃げ出すにせよ、前進あるのみだ。手綱を持つてが汗ばんでくる。
 遠くで、獣のような吼え声がした。さほど遠くないところで別の咆哮がいらえを返し、フェルサリの息は激しく乱れた。何かが沼地を駆けてくる、足音。
 セシリアが、左の沼の方に駆けて行った。霧の幕の中で、セシリアの小さな影と、その倍はあろうかという大きな影が、向かい合う。
 唐突に、大きな影が崩れ落ちた。怪物の咆哮が、沼地の水にさざ波を立てた。セシリアの影が消える。別のトロールに向かったのだろう。
 振り返ると、テレーゼが追ってくるトロールを待ち受けていた。砲耳についた鎖を操り、砲身を勢いよく振り回す。トロールの巨体が、くの字になってなぎ倒される。続けざま、駆けてきた別の一体の膝を、銃で撃ち抜く。銃声は霧に吸い込まれるのかその反響音は、どこか非現実的な感じさえした。さらに襲いかかってきた別の一体を、身体ごとぶつかって吹き飛ばした。
 テレーゼの戦うところを初めて見たが、セシリアとは違った意味で、想像を上回る強さだった。
 フェルサリは、前方に集中した。ネリーの魔法銃が、頭上で火を吹く。そちらを見上げたい衝動を抑えつつ、もう恐怖に駆られつつある四頭の馬を、必死に操作する。
 不意に、左前方にトロールの姿が浮かび上がった。瞬間、フェルサリは渾身の飛礫を放つ。トロールが顔を押さえて、嫌な叫びを上げた。その顔の高さは、御者台にいるフェルサリとほぼ同じ高さだ。
 オークやゴブリンと比べると、その姿は人間に近い。紫と茶色が斑になった肌で、醜く太った人の形。次の飛礫を構える。なにか、人を殺そうとしているのと、心理的に重なる。
 その顔が、どんどんと近づいてくる。鼻が、ひしゃげている。二投目。鼻の下を狙ったが、太い指で弾かれてしまった。近い。肌が粟立つ。すぐ近くで、銃声。
 トロールの胸に、緑色の液体が広がった。ネリーの魔力の弾丸。液体は、魔力の作動点。トロールが何かに突き飛ばされるように、地に伏した。沼に顔を突っ込み、暴れている。
「そういえば、トロールって、おぼれ死んだりするのかなあ」
 ネリーが、物騒なことをつぶやく。
「ま、その前に魔法が切れそうだね。フェルサリ、右前方」
 指示されるままに、向かってくるトロールに飛礫を投げた。目に当たり、再び悲鳴が上がる。いつの間にか馬車の右側にいたセシリアが、その身体を袈裟に斬り下ろした。吹き出す酸の胃液を、なんでもないことのように避ける。
 気がつけば方々で、トロールの咆哮と悲鳴が上がっていた。恐怖とはまた違う何かで、フェルサリの胃はせり上がりそうだった。口元を押さえ、手綱を握る。喧騒は、徐々に遠ざかっていく。
「大分減ってきた。後ろはテレーゼに任せておいて大丈夫。馬の気持ちが折れる前に、速度を上げるわよ。先導するから、ついてきなさい」
 セシリアが馬の前を走っていく。嫌な気持ちは、まだフェルサリの胸中で激しく逆巻いている。遠くで、銃声が聞こえる。
 再びせり上がってきたものを飲み下し、見え隠れする白い具足の影を追いながら、フェルサリは手綱を操ることに集中した。

 

 轍の跡は、消えることなく続いている。
 水に浸されていない地面は、馬車が通れる程度には乾いているが、ジャクリーヌの右足の車輪が存分に駆け回るには湿り過ぎていると、ユストゥスは思った。
 視界一面霧に包まれた、トロール沼だった。
 セシリアたちがどこに向かっているのかはわからないが、まさかトロール沼を縦断していくとは考えていなかった。この先シルヴィーを連れて、どこに行こうというのか。
 馬車の中から、ジャクリーヌの声が聞こえる。御者台の小窓は締められているので、何を言っているのかはわからない。
 微風に乗って、異臭が漂ってきた。ジャクリーヌに声をかけようかと思うと、彼女は既に御者台に足を掛けているところだった。
 右腕は、魔法銃や火炎放射器が束になっている武器、連裝機銃だった。ジャクリーヌがこれを装備しているということは、トロールとの戦闘は避けられないということなのだろう。さらに左手に、長銃の束を抱えている。
「全て装填済みだ。気をつけろよ。言ったら、一丁ずつこっちに寄越してくれ」
 一丁だけを脇に挟み、ジャクリーヌは御者台の上をよじ上っていく。
 この六頭立て馬車、ファミーユ号の車体は、家の形を模している。小屋を馬車で曳いているようにも見えるだろう。ジャクリーヌはその屋根の部分に跨がり、霧に霞む、はるか前方に目をやっていた。
「セシリアたちが、ある程度倒しておいてくれればいいんだが」
 足元の地面に目をやりながら、ユストゥスは言った。巨大な人型の足跡が、南に向かって続いている。一体や二体ではない。沼地の水が、所々濁っている。
「取りこぼし、だけならちょろいんだがなあ。まあ、そんなに気のいい連中じゃあねえだろうぜ。場合によっちゃ、あいつらが相手にした数より多くぶっ殺す羽目になるんじゃねえか。二十匹以上いる方に、金貨一枚賭けるぜ」
 どこかに散歩にでも出るような口調で、ジャクリーヌは言う。二十匹以上いるとしたら、大変なことだ。手綱を握る手に、おかしな力が入る。
「・・・クソが。もっといるかもしれねえぞ。金貨一枚貸しだな」
 憂鬱そうにジャクリーヌは言い、くわえていた葉巻を火縄銃の火鋏に据え付けた。火縄の代わりにするつもりなのだろう。御者台には歯輪式、火打式と、様々な銃が残されている。
 ジャクリーヌが腰を引き、屋根の上にうつぶせになった。連裝機銃の右腕を自身とを直角に、その上に長銃を依托し、前方の標的に備える。
 ぼんやりと、人影のようなものが霧の向こうに浮かび上がった。いや、人にしては大きすぎる。
 頭上で、銃声が響いた。
 思わず、身がすくむ。ぼんやりとした人影は、ばしゃりとここまで聞こえる水音を響かせ、倒れた。
「次」
 ジャクリーヌから撃ち終わった長銃を受け取り、別の銃を渡す。前方に浮かび上がった人影が、そうとわかる瞬間には、撃ち倒されていく。倒れた一体の近くを通り過ぎると、首の後ろを撃ち抜かれたトロールの死体があった。ジャクリーヌの射撃は、正確である。そこかしこで、トロールの遠吠えが聞こえる。すぐ、近くにいる個体もある。
「キリがねえなあ。三十はいたか。ちくしょうめ」
 装填済み、最後の一丁を手渡す。どこか投げやりな態度で、ジャクリーヌは最後の一発を放った。結果は、今まで通りだ。
「ここで走り回ったらよう、沼の跳ね返りで、スカートの中がぐちゃぐちゃになる。そう思わねえか」
 ジャクリーヌが馬車から飛び降りた。その目は気怠げな口調とは裏腹に、既に燃えている。右足の内燃機関も燃え、いつでも走り出せる格好だ。
 トロールたちが、こちらに殺到して来ていた。ぬかるんだ大地を揺らし、その異形はもはやユストゥスの目にもはっきりと映っていた。
「できるか」
「聞くなよ。できなかったことが、あるか?」
 否応なく沸き上がってくる恐怖を押し殺し、ユストゥスはジャクリーヌを見つめた。赤い髪の賞金稼ぎは歯を剥き出して、獰猛な笑みを返した。左手の拳で、右腕の相棒をこつこつと叩く。
「しばらく使ってなかったからな。試し撃ちにはちょうどいい」
 ユストゥスが頷くと、ジャクリーヌは腰を落とし、右足の車輪を回転させた。一気に走り出す。泥が派手に飛沫を上げ、連裝機銃が次々と火を吹く。
 ユストゥスは手綱を握り直し、轍を追うことに集中した。
 霧の向こうからトロールの悲鳴と、銃声と、ジャクリーヌの高笑いが聞こえる。

 

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