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 昼前に、アンブラの町に着いた。
 何度か、アングルランドの軍が近づいているのだろう。町の城壁は、高い。この町が直接戦火にさらされるようなことがあれば、いずれは城塞都市になってしまいそうだった。町の北にある本城の造りは丸みを帯びたどこか牧歌的な香りのするもので、かつてはこの地が平和であったことをうかがわせる。
 こういう町ほど戦を嫌い、他の諸候の脅しに屈しやすい気もするので、ある意味では平和であり続けるのかもしれない。それはむしろいいことだという気もする。人同士の戦とは、所詮は上に立つ者同士の縄張り争いに過ぎないという面が、少なからずある。
 この町からアッシェン南端の辺境伯領までは私鉄だが、列車が走っている。本来は辺境伯領とパリシを結ぶ鉄道になるはずだったのだろう。それが頓挫しているのは、アングルランドの圧力か、単に資金不足か、あるいは国境付近の領主の政治的な駆け引きか。事情は詳しく知らないが、旅をする者にとって、できるかぎり鉄道は繋げてほしいものだと、セシリアは思った。
 宿の手配を三人に任せ、セシリアはアンブラ駅に向かった。列車で馬車を運ぶのに、貨車がいる。馬車本体と、四頭の馬。個人でふたつも借りることになるので、高くつくだろう。本来なら旅費にあまり金を出すのが好きではないセシリアだが、今回の旅に金銭的な報酬が得られないとわかった時点で、逆に金に糸目をつけないと決めている。シルヴィーたちとの旅が報酬であると、思い定めていた。テレーゼはともかく、旅慣れていないフェルサリと、野営を嫌うネリーにも、いい経験になるはずだ。そして皆にとって、良い思い出になればいい。
 ただ、フェルサリに関しては、そう簡単に片付けられないかもしれない。折りを見て、話をするつもりだった。昼食の後にでも話してみよう。
 アンブラ駅に入り、係員の指示に従って、担当の者に会った。交渉になんの障害もない。ただ、今日中の出発は、やはり難しい。明日の朝の便になりそうだ。
 手続きを済ませ、セシリアは少し構内を歩き回った。
 私鉄の駅はどれも小規模で、大抵はホーム以外に屋根がない。大陸鉄道の駅よりも開放感がある気がして、セシリアはそれが好きだった。もっとも、大陸鉄道の駅には建築技術の妙を感じ、それはそれで好みでもあった。
 結構な人数が、列車を乗り降りしている。これだけの人が下りていれば、パリシに向かう人々も多そうなものだが、昨晩泊まった街道の宿はさほど賑わっておらず、街道ですれ違う人の数も、それほどではなかった。馬車でわずか一日半の距離だが、地図で見る印象よりも、経済的に分断されているのかもしれない。
 それよりも、と考えを今ある問題に移す。構内でいきなり襲われそうな死角や、遠くから狙撃されるような場所がないか、調べて回る。
 パリシをすぐ離れた理由のひとつに、ジャクリーヌによるシルヴィーの暗殺があった。自らがお尋ね者になってしまうため、人の多いところでいきなり仕掛けるような賞金稼ぎではないと思っているが、今回のジャクリーヌには、何か背に腹替えられぬ事情があるような気もするのだ。
 駅を出ると、フェルサリが不安そうな顔で待っていた。
「明日の始発で取れたわ。朝は五時くらいに宿を出ましょう。そんな顔して、どうしたの?」
「ジャクリーヌさんたちが、この町に入ってきています」
「まあ、そうなるわね。今日は宿に籠ることになりそうねえ。私もここは初めてだから、もっと見て回りたかったけど」
 フェルサリに案内され、宿に向かう。
 一階の酒場で、四人が昼食を取っていた。セシリアも、適当なものを注文する。
 今日明日の予定の話から、もっと漠然とした、これからの話になった。シルヴィーとアンナが特に気にかけているのは、やはり追ってくるジャクリーヌたちのことだった。
「こちらから、ジャクリーヌたちを殺しにいくようなことはしないわ。ただ、私たちに武器を向けてくるようなことがあれば、その限りではない。このことはいいわね、シルヴィー。私たちも、身を守らなくちゃいけないもの」
 シルヴィーが思い詰めた顔で、こくりと頷く。
「ごめんなさい。色々な人を巻き込んでしまって・・・」
「それが最善かどうかはともかく、こうした方が良い、こうしない方が良い、が積み重なってできた道標よ。私はアンナの手紙を見て、話だけでも聞いてみようと思った。あなたと会って、その夢を叶えてあげたいと思った。あなたに海が見たいという望みがあって、助かったわ。その場で叶うような望みなら、私たちはあなたを置いて帰っていいものか、迷っていたと思う」
 シルヴィーは、泣き笑うような表情で、セシリアを見つめた。
 それで、昼食は解散となった。セシリアはフェルサリをつかまえ、暖炉の横に呼んだ。その辺りの席には、人がいなかったからだ。壁に寄りかかり、セシリアは切り出した。
「あなたが私に判断の多くを委ねてしまうのは、仕方のないことだと思うから、きちんと伝えておくわ」
 頷いたフェルサリの顔は、何か察するものがあったのだろう、緊張で強ばっている。
「何でもないように振る舞ってるけど、テレーゼとネリーは、わかってる。この旅は、危険よ。ひとつ、まるで行ったことのない、おまけに怪物が徘徊する地域を、病人を馬車に乗せて運ばなくちゃいけない。これが、簡単ではないと、わかっているわね?」
 瞬きで、フェルサリはいらえを返す。
「もうひとつ、そんな私たちを、できれば敵に回したくないと思っていた凶暴な賞金稼ぎが追っている。それをいなしながら、二週間程度の旅を続けなくちゃいけない。その困難さもわかるわね? さらに言えば・・・」
 フェルサリが目を見開き、ごくりと唾を飲み込む。
「危険が迫ったら、三人の内誰かが、あなたのことを守らなくちゃいけないかもしれない。あのキメラたちや、フォティアの神殿でその使いたちと、戦ったこと。これらであなたには一人前の技量があるかもしれないと思えたわ。まだまだ駆け出しだけどね。でも今度の相手は狡猾で、こちらの弱いところを的確に突いてくる。私も、あまり余裕を持つことができそうにないの」
 困り顔で頷くフェルサリの髪に、セシリアは指を入れた。小麦色の髪を指で梳くと、日に当てたシーツのような香りがする。
「あなたは、帰りなさい」
「・・・い、いやです」
「どうして?」
「わ、私がどうしてもここを離れなくちゃいけない理由が、な、ないからです」
 桃色の唇が、震えている。セシリアに正面切って反対するのは、勇気がいるだろう。
「わ、わがままで言ってるんじゃ、ないです。私がいないところで母さんに危険が及ぶのは嫌だという気持ちも、もちろん、あ、あります。その気持ちが一番強いかもしれないです。でも・・・」
 フェルサリは一度、大きく息を吸った。
「も、もし今回の旅に報酬が出ていたら、きっとみなさん、私の分け前もくれていたと思います。あ、あの、今の言い方は、少し不自然かもしれません。私には、働きに応じた分け前を手にする、け、権利があると思います。だから、その分の責任が、私にもあると思うんです。それに・・・」
 胸の内にあるものを顔に出すまいと、セシリアは目を閉じてフェルサリの話を聞いていた。
「あの地下の隠れ家で、みなさんが帰ると言っていたら、私、みなさんを引き止めていたと思います。引き止めるのが無理だったら、私一人で残っていたかは、正直その時になってみないとわからないです。少し、怖かったので。でも、引き止めようと全力を尽くしていたと思います。できなかったら、ずっと後悔していたと思います。だから、母さんが、シルヴィーさんに海を見せてあげようって言ってくれて、す、すごくうれしかったです」
 目を開けると、大きな青い瞳と目が合った。
「私も、行きます」
 セシリアは、大きく息を吐いた。
「・・・ちょっと、びっくりしちゃった」
 その頭を、抱き寄せる。
「ちゃんと、考えてるのね。ごめんなさいね。あなたはいつも真っすぐな瞳で私についてきてくれるから、かえって私の方が不安になってしまったかもしれないわね。もうとっくに、一人前の冒険者としての一歩を、踏み出していたのよね。もっとも・・・」
 フェルサリの身体を離すと、セシリアはそのかわいらしい鼻を、軽く指で弾いた。
「駆け引きや身の処し方は、まだまだ半人前ね。口下手な分、それ以下かも。私が傍にいる限り、あなたは私が守るわ。でもいつも傍にいれるとは限らない。これからは、同じ目的を達成する為に、別行動を取ることもあるはずだわ。私が傍にいない時でもなんとかできるよう、早く強くなりなさい」
「はい。この旅で、少しでも学べたらいいです」
「あなたはびっくりするくらい素直なのに、同時に誰よりも頑固で意固地なところがあるからねえ」
「す、すみません・・・!」
 いくらか、フェルサリを見くびっていたようである。そのことを、セシリアは反省した。
「まあいいわ。今は旅を楽しみましょう」
「はい」
 弾けるような笑顔で、フェルサリは頷いた。

 

 宿を取り、馬車を預けた。
 厩で馬の手入れをしていると、先に通りに出ていたジャクリーヌが帰ってきた。
「あの吸血鬼を見つけたんで、尾けてきた。城の方に行って、火薬を仕入れたみたいだな。銃と大砲に使うにゃ多過ぎた気がしたんで、そこの職人に聞いてみた。祭の時に花火に使うようなものが大半だったらしいぜ。やっこさん、花火でも打ち上げるつもりか?」
 ジャクリーヌの表情は、いつもと変わりがない。ユストゥスはというと、昨晩の恐怖がまだ抜け切っておらず、ひどい顔をしているだろう。
「泊まっている宿は特定できた。が、ここで仕掛けるってわけにもいかねえな。連中がお尋ねモンならできただろうが、いくらあたしでもカタギ相手に街中でドンパチってのはなあ・・・」
 ユストゥスの口元は、まだ強ばっているのかもしれない。頬を、左手でつねられた。
「まあいい。こっちはこっちで、色々準備しようぜ。ああ、言い忘れてたが、連中の出発は明日の朝イチ、列車で南に向かうそうだ。馬車は貨車で運ぶ。ウチらの分も、予約しといたぜ」
「すまない。いつも、手際がいいな」
「まあな。とりあえず、吸血鬼対策をしとくぜ。銀の弾丸は、手持ちにある。他のもんだな」
 二人で、通りに出た。ジャクリーヌはユストゥスの歩調に合わせているが、時折右足の車輪を走らせて、通りの店や露店に顔をのぞかせていた。左足で石畳を蹴り、踊るような軽快な動きで、道行く人をかわしていく。波打つ赤い髪が、風に揺られていた。
 露店で、にんにくをいくつか買う。吸血鬼対策として、最も一般的なもののひとつだ。
「上位の吸血鬼って奴は、何が弱点かわからねえ。下位の連中とは、ちょっと違うんだよ」
 人混みをかき分けながら、ジャクリーヌは話す。弱い魔物だったら、ジャクリーヌと共に狩ったことがあるユストゥスだが、吸血鬼、それも上位のものとなると、噂程度しか知らない。
「にんにくに弱いのかもしれないし、銀かもしれねえ。その両方かもしれないし、両方違う可能性もある。物理的なものもあれば、精神的なもの、行動様式だったりするな」
「流れる水の上を飛ぶことができないというのを、聞いたことがあるが」
 言って、ユストゥスはテレーゼが蝙蝠の翼で飛んでいる姿を想像した。貴族趣味で装飾過多なあの娘が空を飛ぶ姿はいくらか滑稽な感じがするが、実際に自分たちがそれを相手にするのかと思うと、おかしさよりも恐怖の方が先に立つ。
「奴は、飛べねえんじゃねえかな。戦い方に関しては、噂くらいは耳にする。あの弾道を曲げるっていう曲芸は、あたしも聞いたことがあった。もっとも、上位の吸血鬼は、特性も弱点も、敵には悟られねえようにする。掌砲や引き寄せは何度も一緒に旅をしてるから、自分たちの行動から周りに悟られねえよう気をつけてるかもな。あのケツのでかい半エルフはその辺まだまだだろう。とっつかまえて、吐かせてみてもいい」
 さらに人通りが多くなってきたが、ジャクリーヌは鋭い眼光で周囲を威圧し、ぶつかりそうになる人間に道を空けさせている。それでいて向こうがこちらに気づいていないとなると、実にさりげなく身をかわす。
「持っていたら厄介な特質は、色々あるな。ビーストフォームって知ってるか? 獣化ともいう。獣の姿に変身するのさ。それも獣人連中が変身するような、物理的なもんとはちょっと違う。魔法的な特質で、着ている服から持ってる武器から、全部ひっくるめて変身するのさ。蝙蝠の姿でキィキィ飛び回るあいつが、次の瞬間にはこちらに銃を向けている。笑えないぜ。もっとも、変身できる獣は一つだけだそうだ。一度それがわかれば、対策のしようもあるだろ」
 不意に車輪が速度を上げ、ジャクリーヌは細い路地に入った。ここには何度か来たことがあると聞いているが、まるで自分の生まれ育った町のように、歩みに迷いがない。
「そうか・・・まったく、とてもじゃないが、なんとかできる相手じゃないという気がする」
 おまけに、大陸五強の一角、掌砲セシリアと、魔法使いなら誰でも一度はその名を耳にする重力魔法の開祖、引き寄せネリーがいるのだ。そんな連中に銃を向けることが何を意味するのか。頭の痛くなる話だ。
「ま、立場はこっちが圧倒的に有利だ。逆の立場だったら半日と保たずにとっ捕まってるよ。、いや、パリシを出ることもできず、今頃はブークリエ川に浮かんでたろうな」
 ぞっとするようなことを口にするが、ジャクリーヌの顔は、滅多に見られない、穏やかなものだった。腰を、軽くはたかれる。
「弱気になんなよ。あたしがいるだろ。任せときゃいいんだよ」
 暗い路地の湿った石畳に、ジャクリーヌの車輪の音が、小気味よく響く。裏通りには、二人の他に誰もいない。両の壁にぽつぽつと扉や窓が浮かんでいるが、どれも固く閉ざされており、この辺りに人が住んでいるのかも疑わしいところだ。視線の先には別の通りがあり、日の光の下、大勢の人間が行き交っている。ここだけが、別世界のようだった。
 唐突に、ジャクリーヌの車輪が止まった。扉ではなく、木戸で閉じられた窓を、コツコツとノックする。
 しばらくして、その窓が開かれた。中から青白い顔をした中年の男が顔を出す。
「デモンズベインが欲しい。対魔汎用のヤツでいいぜ。粉末、小袋で二つ。いつ用意できる?」
「すぐにでも」
 痩せた男はそれだけ言って、建物の中に姿を消した。デモンズベイン。悪魔や不死者等、不浄なる者たちにとっては猛毒となる薬物だ。ユストゥスも医者をやっているので薬学には詳しい方だが、これは専門外だ。が、人にとっても毒性の強いものだということは知っている。何を調合して作られているかまでは知らない。
 ほとんど待つこともなく、男が再び姿を現した。拳くらいの小袋を二つ、手に持っている。ジャクリーヌは金貨二枚でそれを買った。
「ここでは、どんな薬物も売っているのか?」
 ユストゥスが聞くと、男は一度ジャクリーヌの顔を見た後、こちらに視線をやった。
「毒と言われるものが専門だがね。大抵のものは揃えられる。エルフの秘薬から粗挽きの黒胡椒までな。もっとも、今の二つは手持ちがないんで、事前に言ってもらう必要があるがね」
「そうか。いずれここを使わせてもらうかもしれない」
「黒胡椒なら、あたしがそこの通りで買ってきてやるよ」
 ジャクリーヌが言って、先程の男の言葉に、微妙なユーモアがあったことに気がついた。ジャクリーヌが続ける。
「こいつが、ユストゥスさ。前に話したろ?」
「ああ、あんたが」
 男は弱々しく伸びた顎髭をしごきながら、ユストゥスを見つめた。
「入り用なものがあったら、言ってくれ」
「珍しいな。あんたが一発で人を認めるなんてよ。ユストゥス、この男は相手を信用できると思うまでは、プツを売らねえどころか、ロクに口もききやしねえ。お前を連れて何度か、ここに顔を出す必要があると思ってたんだが」
「なに、人を見る目は持っているつもりさ」
 男が、どんよりとした目でジャクリーヌに言った。
 再び、大通りに出た。日の光を眩しく感じ、ユストゥスは帽子の鍔に手をやる。
「次は、教会だ。聖水と聖十字を手に入れる」
 言われて不意に、ジャクリーヌが元は修道女だったことを思い出した。普段はほとんど、そのことを気にかけることはない。しかし、様々な知識に通じているのは、やはり彼女が修道院で暮らしていたからだろう。修道院は狭い壁の中でほぼ自給自足の生活を営んでいるので、自然とあらゆる知識が身に付く。
 ジャクリーヌが通りの向こうを指さす。青い屋根の教会が、その先には見えていた。
「ほら、急げよ。さっさと済ませて、一杯ひっかけてえんだからよ」
「ああ、そうだな」
 速度を上げて教会に向かうジャクリーヌを、ユストゥスは小走りで追いかけた。

 

 セシリアが窓を開け、キセルに火をつけた。
 フェルサリは窓の外、ホームに集まっている人々を眺めていた。始発だが人の数は多く、遠くを見ることのできる自分の視力も、ここでは何の役にも立たない。
 隣りの客室から、大きな笑い声が聞こえた。シルヴィー、アンナ、テレーゼ、ネリーの四人は、隣りの、ここよりも大きめの客室にいる。
「夕方には、オルニエレ駅に着くわ。そこまで行けば、あくまで距離的にはだけど、旅程の半分ね」
 やはり、列車を使った旅は、速い。が、そこからは馬車の移動なので、列車では半日や一日くらいの距離でも、長い時間をかけて踏破していくことになる。片道で十日から二週間くらいと見ているが、どうなるかはわからない。
「これじゃあ暇つぶしにもならないわねえ。ま、新聞らしきものがあっただけでも、というとこかしら」
 セシリアが、手に持った紙をひらつかせながら言った。セシリアは行く先々で、新聞かそれに類するものを買う。レムルサにいる時は折りたたみの何ページもある新聞を読んでいるが、この町では紙一枚、片面だけ印刷されたものしかなかったようだ。
「どんなことが、書かれてたんですか?」
「アングルランドとの戦のこと、先日行われた馬上槍試合のこと、この二つだけね。これで週イチの発行ですって。アッシェンは今も封建制を守ってるから、仕方ないわね。煽動ビラの方が、まだ読み応えがありそうだわ」
 セシリアは、大きくため息をつく。
「オルニエレには、新聞もないそうよ。これで読み納めだと思うと、寂しいわねえ。しばらくは活字のない生活に耐えなくちゃいけないわ」
「あの、どうしてこの町の新聞は、こんなに薄いんですか。あ、パリシのものも、これほどではなかったですが、薄かった気がします」
 率直な疑問を、フェルサリは口にした。文明、という表現でいいのだろうか。町の発展具合や人々の様子を見ても、レムルサやゴルゴナ辺りと、そう違うようには思えないのだ。
「報道記事が、なかなか書けないからね」
「報道?」
「ジャーナリズム、事実を正確に伝えて書くこと、そしてその意見を自由意志に沿って表明することかしらね。封建制の社会では、権力者に都合の悪い記事を書くと、その人かその取り巻きに目を付けられた時に、守ってくれるものがないからね。署名入りの記事を書くのはリスクが高い。で、記事はこういった、南だったら酒場ででも聞ける伝聞や、当たり障りのないスポーツに関するものに限られてくるのね。この地域の政治について知りたかったら、煽動ビラでも見た方が良さそうね。権力に対する刺激的な罵詈雑言ばかりに目を奪われないで、そうした文章の行間を読んだ方が、ここの政治状況について理解できるかもしれない」
「なるほど。アッシェンでは、どこもそんな感じなのでしょうか」
「地域によるんじゃない? ゲクラン領ではかなり自由な意見が許されてるみたいだから、レムルサやゴルゴルにあるようなものが、読めるかもしれないわね。領主の器が大きければ、他でもそういった地域はあるかもしれない。もっとも、封建制で、かつそこに住む人々にそういった締め付けをする必要がないのなら、そこに住む人も政に対する不満はあまりないかもしれないわね。つまりは、報道の必要性もあまりないのかも。皮肉なものねえ」
「アッシェンだけが、このような状況なのでしょうか」
「いえ、むしろアッシェンなんか進んでる方じゃないかしら。一応新聞と呼ばれるものがあるわけだし。むしろ南が例外で、共和制の地域以外では、新聞という言葉すら認識されてない場合も多いわね。世界の大半は概ね封建制だから、ほとんどはここかそれ以下の報道水準だってとこかしら」
 フェルサリはまだ政治というものがよくわからないが、知らないことを恥じてもいる。そういえば、セシリアがレムルサの参事の一人という話を聞いたこともある。
「そういえば、母さんは、レムルサの政治に関わってらっしゃるんですよね」
「特別参事としてね。選挙で選ばれたわけじゃないし、いつもレムルサにいられるわけじゃないから、時々会合で発言したり、意見を求められるくらいよ」
「でも、なにかすごいことのような気がします」
 フェルサリが言うと、肩をすくめてセシリアは笑う。
「今度、時間が会う時に、会合に連れて行ってあげるわ。秘書ってことなら、問題ないでしょう」
「秘書、ですか・・・!」
「怖がらなくていいわよ。それにそんなに大したことないってことが、よくわかるかもしれないわね」
 政治のことだけじゃなく、セシリアと自分では、視野の広さがまるで違う。深さもだ。
 フェルサリは、手にしていた切符に目を通した。飛竜の絵が描いてある。何故だろう。考えてみても、わからない。ものには、大抵の場合意味や、そこに至るまでの物語があるということだけは、フェルサリにもわかりはじめていた。早速、セシリアに聞いてみる。
「ん? ああ、オルニエレ辺境伯が、この鉄道の代表的な出資者なのかもしれないわね。今の戦争に使おうとしてるのかも。物資や兵を、こちら側に運ぶようにね。絶対中立の大陸鉄道だと、軍事利用は御法度だから」
「じゃあ、この鉄道はパリシまで繋がるのでしょうか」
「そこよ。そこら辺の事情が知りたくて新聞に手がかりを求めてみたってわけ。でもこんな紙切れ読む時間があったら、この町できちんと情報を集めるか、ゴルゴナ辺りでこの辺りの事情に詳しい人に話を聞いた方がよかったわねえ。ともあれ、今回の旅には関係のない話なんで、私もちょっとした興味と疑問以上のものは、抱かなかったわね」
 飛竜の図柄については、オルニエレ辺境伯が、代々飛竜殺しとして名を馳せており、家紋もまた、飛竜のものなのだという。また、飛竜はデルニエールのオークの王や部族長が乗ることが多く、飛竜の家紋は、そういった南からの怪物を食い止めるアッシェンの守護者という意味合いも持っているそうだ。
「領地の長城には、巨大なバリスタがいくつも据え付けられてるそうね。それでワイバーンを、ズドンズドンと撃ち落とす。機会があれば、見てみたいものねえ」
 セシリアは嬉しそうに語るが、フェルサリとしては、できればそんな状況に出くわしたくなかった。というよりそんな魔物が徘徊する地域を旅するのだと思うと、胃が痛くなってくる。シルヴィーを無事、あの岬に辿り着かせるという決意は変わらないが、そういった思いと恐怖とは、また別物のようだった。
 話に夢中になっていて気づかなかったが、列車はいつの間にか走り出していた。発車時刻を過ぎても、なかなか出ないと思っていたのだ。大陸鉄道だと発車時刻が遅れることはそうそうないが、私鉄ではよくあることなのだという。
「貨車が増えてるでしょう? 私たちの後の利用客が、貨物を入れるのに手間取ったんじゃないかしら。四頭立てでも、大変だったから」
 線路が緩やかな曲線を描く度、後部に連結されている貨車が見えた。六両の貨車が繋がれているようだ。
 少し、嫌な予感がした。セシリアには、既にわかっていたことなのだろう。
 予感はすぐに、現実になった。ごろごろと、客室の廊下を何かが転がる音。それは二人の部屋の前で止まり、少し強めのノックで訪ねてきた。
「いいわよ」
 セシリアが応えると、扉を開けて入ってきたのは、義手と義足の賞金稼ぎ、ジャクリーヌだった。
「よう」
「あら、警告したはずだけど。追ってくるにしても、もっとこそこそと後を尾けてくると思ってたわ」
「ハハッ。たまたま行き先が一緒なんだろ」
 隣りの部屋から、話し声が聞こえる。警戒している様子はなく、こちらの様子には気づいていないようだ。
 ジャクリーヌは客室の薄い壁に耳を当てた。隣りにシルヴィーたちがいることに気がついたことだろう。目が、すっと細められる。
「嫌ねえ。あなたまさか、ここでやるつもり?」
「そりゃまさか、だな。あたしがお尋ねモンになっちまうよ。これでも一応、賞金稼ぎなんだぜ?」
 ジャクリーヌの、くぐもった笑い声。
「なに、ここでやらねえってのは本当だ。なんなら次の駅で下りて、やり合っても構わねえが?」
「死にたいならそうしてあげてもいいけど、忙しいのよねえ」
「そうなのか? あたしは暇だよ。列車の中は、やることがなくてなあ」
 くっくっと、ジャクリーヌは喉を鳴らして笑う。
「まあいいさ。退屈なんで話し相手にでもなってもらおうと思ってたが、嫌われたもんだ。部屋で、おとなしくしてるよ」
 本気か冗談かわからない言葉を残して、ジャクリーヌは扉を閉めた。そのまま隣りの部屋に行くのではないかと警戒したが、車輪の音は、引き返す方向に遠ざかっていった。
「ふふ。汗かいてるわよ」
 セシリアが、ハンカチを差し出す。
「あ、自分の持ってるので、大丈夫です」
 かなり、緊張してしまったようだ。フェルサリは額を拭った。セシリアが立ち上がり、外の様子をうかがう。
「もう行ったみたいね。何か食べる物がないか、聞いてくるわね」
 セシリアが部屋を出ると急に心細くなったが、戻ってくるまでに、何があったということもなかった。
 それ以降は、とりとめのない話をしている内に、時間が過ぎていった。もう少し冒険や戦いに関する話を、セシリアから聞いても良かったのかもしれない。だがフェルサリは、セシリアとのそんな会話の時間を喜んでいた。
 二人きりで長く話す時間というのは、あるようで、あまりなかった。セシリアと二人で、こうして流れ行く景色を眺めながら、他愛のない話をする。それはフェルサリが冒険者になろうと決意した時に、最も夢見たことでもあった。
 シルヴィーもそんな時間を、今、満喫できているだろうか。
「ああ、もう見えるわね。オルニエレよ。見てごらんなさい」
 フェルサリは窓枠に手をかけ、進行方向を振り返った。
 南の丘に、話に聞いた、オルニエレの長城が見える。セシリアには、丘の上に、東西にどこまでも長く伸びる壁のようなものが見えているのだろう。フェルサリの目には、夕陽に照らされたその城壁の上を行き来している兵たちの姿が見えた。兵同士は談笑しているように見え、壁の向こうに差し迫った危機はなさそうだ。
 元は、少しくすんだ白い城壁なのだろう。今は橙色に輝き、その荘厳さに、フェルサリはしばし心を奪われた。
「母さん、あの長城は、どこまで伸びているんでしょう」
「西はラティアン海、東は騎士団領までと聞いてるわ」
 今のアッシェンの南の境界は、全てこの長城によって守られているということだろう。
「きれいね」
 セシリアが、目を細めて言う。
 その、いつもとは違う素っ気ない言い方にも、何故かフェルサリの胸は震えていた。

 

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