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 日差しの強さに、テレーゼは目を細めた。
 旅の手配は、セシリアがそのほとんどを整えた。セシリアはどこで手に入れたのか、品があるが、それを主張しすぎない、しかし内装はまるで城の寝室であるかのような、面白い馬車を用意してきた。外装は薄い茶色、内装はやや暗めの配色で、中にいると落ち着けそうだった。所々、花や蝶のレリーフが施してあり、いい趣味と言える一品だった。
 おろしたての馬車に乗り込んだ時の、シルヴィーの感動に震える横顔は、テレーゼの胸の中にずっと残るだろう。これで、報酬の前金は受け取ったようなものだと、テレーゼは思った。今回の旅に、金銭的な報酬はない。
 そもそもテレーゼには、金銭的な欲求はあまりなかった。この世界に来て百年以上。もう充分に稼いだという部分もある。衣服や武器に金がかかるが、そのくらいなら当面心配ないし、このパーティで活動していくと、どうしたって収支は黒字になっていくのだ。
 夢や目標のようなものも、あまりなかった。いや、強烈に願い続けていることは、いくつもある。しかしそれらは、もうこの世にはいない人にもう一度会いたいというような、叶えようもない夢ばかりだった。何を、どうがんばっても、届かないもの。
 たったひとつ、叶うかどうかはわからないが、待ち望んでいるものはある。この世界に飛ばされる時に離ればなれとなってしまった、かつての仲間たち。彼らと再び出会える日を、ひたすら待ち続けている。血の繋がりはないが、家族といってもいい。彼らと、再会する。百年、この世界で待った。あと何百年でも、テレーゼは待ち続けるつもりだった。
 馬車の中に、シルヴィーたちの私物を運ぶ。箱一つに収まってしまう、倹しいものだった。
「あーすみません、テレーゼさん。重かったでしょう?」
 アンナが馬車の中から箱を受け取る。テレーゼは反応に困って、笑顔を作った。中身がすべて金塊でも、テレーゼには楽に持ち上げられる。
 食糧や、水の入った樽も、運び込んでいく。こちらはテレーゼひとりでやった。馬車の中が、荷物で埋まっていく。
「せっかく内装が綺麗なのに、荷物で塞いじゃって、もったいないですわね」
 テレーゼが言うと、シルヴィーが嬉しそうに微笑む。
「でもこれ、必要なものなんですよね。そういうもので室内が埋まっていくと、おかしいかもしれませんが、胸がときめきます。みんなで使う物がここにあるんだって、旅をするんだって、そういう気持ちで、楽しくなってくるんです」
「ふふ、長城近くの町、オルニエレに着いたらそれこそ荷物でいっぱいになりますわよ。デルニエールに入ったら、ほとんど町や集落はありませんからね。今は絶対に必要というわけではない物がほとんどですの。後で使う時にでも、見せて差し上げますわね」
「楽しみです。宝箱みたいです」
 そう話すシルヴィーの顔は、本当にうれしそうだ。思わず抱き締めたくなる。芯に強いものを持ちながら、屈託を抱え、それでも素直に、そして健気に前を向こうとする姿は、どこかフェルサリにも似ている気がした。
「さてと、準備は整いましたの?」
「こっちは、いいわよ」
 御者台のセシリアとネリーが手を振る。シルヴィーとアンナが馬車の中、テレーゼとフェルサリが徒歩でついていくことになる。セシリアが馬に鞭をくれ、車輪がゆっくりと回りだす。いい音だった。音で、走りの良さ、快適さがわかる。懸架装置もきちんと働き、中にいるシルヴィーたちが感じる振動は、最小限のもので済んでいるだろう。
 道行く人々が、テレーゼの姿を見てびっくりする。あの砲は本物か、と誰かの声が聞こえた。もう何百年も、見慣れた光景だった。咎められなければ、テレーゼにとってあらためて何か思うようなことでもない。
「あ、あの・・・」
 フェルサリが、声をかけてくる。馬車は軽快に、石畳の上を走っていた。
「どうしましたの?」
 フェルサリの尖った耳の端が、赤味を帯びている。まだテレーゼと話すことに恥ずかしさや気後れのようなものを持っているようだが、列車の中では、結構な質問攻めにあった。しかしそれはテレーゼにとって不快なものではない。こと戦闘の経験に関してなら、パーティ内で誰よりも積んでいる。そうじゃないことでも、自分に教えられること、伝えられることがあれば、なんでも話そうと思っていた。
「その旅行鞄、持ちましょうか」
 フェルサリの持ち物は、馬車に積んだ弓と矢筒を除いては、背嚢の中に全て収まっている。手ぶらなのだ。砲を担いで大きな旅行鞄を持っているテレーゼに、また彼女特有の気後れを感じているのかもしれない。
「あら、ありがとう。では、お願いしますわね」
 少し、からかいたい気分になった。石畳の上に、そっと鞄を置く。持ち手を片手で掴み、フェルサリは小さく悲鳴を上げた。次いで両手を使ってなんとか持ち上げたが、数歩と保たず、足をふらつかせている。
「もっと、鍛えないといけませんわね」
「そ、そのようです・・・!」
「ふふふ、冗談ですわよ。正直、持ち上げて歩いてみせただけでも、ちょっと驚いてますの。これを片手で楽に持てれば、この大砲くらい担げるかもしれませんわね」
 中には銃器の部品、火薬の他、砲弾が二つ入っているのだ。鍛え抜いた戦士でも、軽々と扱えるものではない。
 フェルサリは、顔を真っ赤にしている。力んだせいもあるだろうが、いつまでも頬を赤くしている辺り、それだけではないだろう。
 一行は、パリシの街を出た。
 このまま街道を南に一日半ほど進み、アンブラという町で、私鉄の列車に乗る予定だ。シルヴィーの見たいと言っていた岬は、ずっと南の、デルニエール北西部にある。
 アッシェンはアングルランドと百年近い戦の真っ最中であるが、この辺りに戦火の気配はない。街道の両脇に広がる草原は青々として、初夏の風に揺れている。この時期のことを麦秋とも言うが、近隣の畑では、そろそろ刈り入れ時を迎えているようだ。緑の草原の向こうに、黄金の帯がいくつも見える。少し日差しが強いことを除けば、いい陽気だった。
 テレーゼは日の光を苦にしない吸血鬼だが、太陽の光を浴びていない時の方が、身体の負担は小さい。それでも夜の闇よりも日中の日差しを好むのは、人であった頃の感覚をまだ失っていないということでもあった。
 馬車の窓は開いていて、時折風に揺らめくカーテンの端が見え隠れする。シルヴィーとアンナも、この陽気を楽しんでいるだろうか。
「ええと、それでは、この世界は、テレーゼさんが以前いた世界と、そっくりなんですか?」
 今はフェルサリに、前いた世界のことについて聞かれている。
「ええ、とてもよく似ていますわね。これはわたくしとはまた別の世界から来た人に聞いた話なんですけど、世界というのはたくさんあって、薄い膜が積み重なるように作られているようですわ」
「えっ? それだと、すぐ隣りには簡単に移動できるんですか?」
「ふふ、そういうわけでもないそうですわよ。もっとも、わたくしにもその辺りのことはよく理解できてませんの。いずれまた別の異邦人と会ったら、聞いてみなさいな。その人のいた世界が進んだ文明を持っているなら、何かわかるかもしれませんわね」
 こことは別の世界からやってきた者を、この世界では異邦人と呼ぶ。そしてパンゲアでは、この異邦人たちは恐れられもするが、多くは敬われ、時に大切に扱ってもらえたりもする。
 セイヴィア教の救世主イキシスが、異邦人だったことが大きい。それで、この世界に危機が訪れた時に、なにがしかの助けになると思っている人間が多いのだ。それは、セイヴィア教徒でなくとも、ほとんどの人間がそう感じている、いわばパンゲアの民の共通認識といったところか。この考えに、助けられた。
 パンゲアでは前の世界に比べて、上位吸血鬼に対する態度が寛容だが、所詮は不死者である。異邦人でもなければ、今も吸血鬼狩人相手に死闘を繰り広げる毎日だったかもしれない。異邦人にして不死者、セイヴィア教徒にとってテレーゼは、扱いづらい存在だろう。
 フェルサリは、無邪気に様々なことを聞いてくる。セシリアの家に拾われた時は、言葉を失っていた。話せるようになってからも一言二言挨拶をする程度で、まともに会話をした記憶がない。先日このパーティに入ったと聞いた時には資質云々以前に、ここでやっていくにはまず決定的に実力が足りないと思ったが、冒険者としてではない、フェルサリ個人にとっては良い方向に向かっているのかもしれないと思った。
 本当の母は生きているかどうかもわからず、父も物心つく前に亡くなったと聞いている。それからほとんど誰の手も借りずに数十年、黙々と狩人としてやってきたフェルサリには、少女と言える時期がなかったのだろう。それを今、生き直している。そのことをテレーゼは、まぶしく感じた。自分の目の届く所でこの娘を死なせたくはないと、テレーゼは思った。
 フェルサリの身体能力、勘の良さ、合わせて言えば武術の方に、天稟はない。他の面々も、そう思ったことだろう。しかし人間は、いつ化けるかわからない。まったくないように見える天稟も、単純にそれが見えてないだけかもしれないのだ。陰鬱な半エルフの娘が明るい少女に変わってしまうように、彼女自身の才能も、どこかで花開くかもしれない。自分自身を振り返れば、よくわかる。人であった頃、いや大切な人を求めて家を出る前の自分は、文字通り虫も殺せぬ少女だったのだ。それが今は、こんな人生を歩んでいる。
 道中で一度、休憩を取った。馬車を止め、脇の草地で昼食をとる。シルヴィーの体調は良さそうだ。青白かった頬に、ほのかに朱がさしている。
 昼食は、朝宿で作ってもらった、サンドイッチだ。
「ああ、吸血鬼さんでも、ご飯食べるんですねえ」
 アンナが、口いっぱいにパンを頬張りながら言う。シルヴィーが少したしなめるような、困った顔を向ける。
「食べますわよ。もっとも、身体に必要なものではないので、食べるなと言われれば、食べませんわ」
 シルヴィーに袖を引っ張られたが、アンナは首を軽く傾げただけだ。
「え、じゃあどうして食事を取るんです? あ、そのサンドイッチ寄越せと言ってるんじゃないですよ? 不思議に思ったんです」
「必要ないなら寄越せと言ってるんだよ、アンナは。あ、あたしのはあげないよ」
 ネリーが籠の中から、自分の取り分を確保する。
「そうですわね・・・昔、前の世界にいた別の吸血鬼が、そうされてましたの。人らしさを忘れないため、出来る限り人間と同じように行動するんだって。食べず、眠らずでは、心まで怪物になってしまいますからね」
「やっぱりテレーゼさん、人とは違うんですねえ。異邦人であることもそうですけど、吸血鬼だっていうのも。はあぁ・・・」
 一行の中に、どこか微妙な空気が流れる。セシリアはもう食べ終わり、風下でキセルを吹かしていた。
「残りは、あげますわよ」
 まだぽかんと口を開けたままのアンナの口に、テレーゼはサンドイッチを押し込んだ。

 

 街道沿いの馬車宿で、一泊することになった。
 今晩は、少し暑い。草むらや木々の間から聞こえてくる虫の鳴く声も、夏のそれに近くなっていると、セシリアは思った。
 馬車の下に潜り、異常がないか点検していた。特に懸架装置周辺におかしなところがないか見ていたのだが、問題はなさそうだ。あのパリシの馬車職人は、一日の突貫工事とは思えないくらい、いい仕事をしてくれていた。急いでいたというのもあるが、引き取ったその場では、馬車の下に潜り込んであれこれ点検するのは失礼だと思ったのだ。新しい馬車が欲しくなったら、またあの職人に注文してみてもいいと、セシリアは思った。
「何か、お手伝いできることはありますか?」
 馬車の脇から、アンナの声が聞こえる。
「特にないわ。今、終わるところよ」
 台車から下り、セシリアは言った。シルヴィーが車椅子に乗らず、アンナの腕につかまって立っていた。そのシルヴィーと目が合う。
「すみません、お世話になってばかりで」
「いいのよ。それより、体調はどう?」
「はい、おかげさまで、すごくいいです。今、散歩から帰って来たところなんです」
 目を細めて、シルヴィーは言った。
 旅に出すことで体調が急激に悪化することをいくらか懸念していたが、問題ないようだった。気持ちが高揚しているのだろう。むしろ体調は持ち直している。
「馬車の旅は、意外と体力を使うわ。無理せず、今日はもう休みなさい」
「はい、そうします」
 少し足を震わせながら、アンナにしっかりつかまって、シルヴィーは宿の中に入っていった。元々、足が悪くて車椅子に乗っていたわけではない。
 シルヴィーの身体に溜まった魔力が、どれだけの苦痛を彼女にもたらしているのかは想像するしかないが、少し動いたことで、今晩はぐっすりと眠れればいい。
「さて、と・・・」
 入れ替わるように宿から出てきた、フェルサリとテレーゼに目をやる。
「あそこの丘だったら、よく見えそうですわよ」
 街道を挟み、少し離れた所に、大木が一本立っている丘がある。三人はそこに向かった。
 丘を登り、一行がやって来た街道を振り返る。セシリアには、地平線がぼんやりと夜空に溶け込んでいる様にしか見えない。遠くに一点、光が集まっているところがある。パリシの街並を照らす光なのだろう。
「道を急いでいる旅人が、二、三人。フェルサリ、他に何か見えます?」
 テレーゼが遠方を見つめながら言う。人より遥かに優れた視力と夜目を持つテレーゼが、これまでこうした役割を果たしてきた。遠くを見る力は、セシリアが双眼鏡を覗き込んだのと同じくらいだ。
「フェルサリ、あなたにはもっと見えているんではなくて?」
「旅人は・・・四人ですね。最後尾の行商の人は、途中の村へ入る道を選んだようです。こちらへ向かうのを諦めたのでしょうか。残り三人は、こちらに急いでいます。先頭の女の人は、小走りでこちらへ向かっています」
「なるほど、わたくしよりずっと詳細に見えているようですわね。心強いですわ」
 にっこり微笑んで、テレーゼは言った。フェルサリはよくそうするように、頬を少し赤くしながら、困ったような顔でセシリアを見上げる。
「あなたが一番いい目を持っているのは間違いないわ。木に上って、周囲の様子をもう少し見てもらえるかしら」
 フェルサリは頷き、するすると木を上り始めた。山暮らしが長かっただけに、こちらも手慣れたものだった。
「あっ・・・!」
 途中まで上ったところで、フェルサリが小さく声を上げる。
「何が見える?」
「ええと・・・森の中で、野営している人たちがいます。大きな、小屋みたいな形の馬車の横で、焚き火をしていて・・・灰色の服を着た男の人と、もう一人は、ジャクリーヌさんです・・・!」
 テレーゼが、ふぅとため息をついた。灰色の服の男というのはあの魔法医師、ユストゥスだろう。
 ジャクリーヌは滅多に人と組まないが、ユストゥスだけは別だ。ジャクリーヌの使う連裝機銃の、魔力の供給者だと聞いたこともある。二人が今回行動を共にしているのは、アンナの話とも、ジャクリーヌ自身の話とも一致する。
「何かしらの手段で、こちらが街を出たことを知ったみたいですわね。まあ、わたくしが目立ちますから、当然とも言えますけど」
「透視の魔術は、大きくは知覚の魔術に属すると聞いたわ。最初に二人がシルヴィーたちの元に現れたこと、次いで下水路の隠れ家にまで足を踏み入れたこと、今回にしても、何か魔法的な手段で大体だけど、シルヴィーの位置を捕捉できるのかもしれないわ」
 どういう仕掛けかわからないが、位置を完璧に把握するにはいたってないようだ。それができたら、セシリアたちが来る前に、シルヴィーたちは捕まっている。方位磁石のように、こちらの方向、くらいの精度なのかもしれない。
「ま、追ってくることがわかっただけでも収穫ね」
 セシリアがキセルに火をつけると、合わせるように、テレーゼも紙巻き煙草を口にくわえた。

 

 ジャクリーヌが、獣のような仕草で、干し肉を噛みちぎった。
 ユストゥスは、鍋の中の麦粥をかき回している。そろそろ、食べごろだろうか。目を上げると焚き火の揺らめきが、ジャクリーヌの赤い髪の上で踊っていた。
 立ち上がったジャクリーヌが、馬車の中に入った。しばらくすると、銃を何丁か抱えて戻ってくる。整備をしようというのだろう。
「もう、食えるんじゃねえか」
 ジャクリーヌが、顎で鍋を指し示す。ジャクリーヌの様子に目立った変化はないが、いつもより神経質になっている気がする。ここまで、口数は少ない。
「いや、もう少しかな」
 薪の調節をしくじったらしく、火の勢いが出過ぎて、鍋の中身によく火が通っていないようだった。焚き火は一度勢いをつけた後の、熾き火の時が一番熱く、熱も通りやすい。
「に、してもよお」
 ウィスキーの瓶に口を付け、ジャクリーヌが話し始めた。すぐに酔いが回って来たのか、その様子はいつものジャクリーヌに戻りつつある。
「厄介な相手であることは間違いねえぜ。"掌砲"と"爆血竜"は、間違いなく化け物さ。"引き寄せ"は底が知れねえ。重力の魔術だと。噂以上のことは、お前にもわからねえのかよ」
「・・・すまない」
 この話は、一昨日の晩からしている。同じようなことを何度も話すところが、ジャクリーヌにはある。
「新入りのケツのでかい半エルフは、大したことねえな。なんであんなのを入れたのか、さっぱりわからねえ。あのパーティに入ったことのある連中の中じゃ、間違いなく歴代ワースト1だろうぜ。連中忙しいみたいだからな。人手不足も極まったってとこかな」
 ユストゥスは、頷いた。ジャクリーヌは葉巻を取り出し、オイルライターで葉先をあぶり始めた。紫煙が、二人の間の沈黙を埋めていく。煙を吐き出すジャクリーヌの横顔を見て、ふと、ジャクリーヌが同じことを何度も話すのは、自分の口数が少ないからかもしれないと思った。
「鍋は、あたしが見る。お前はもう一度、あいつがどの辺りにいるか探ってくれ。病人だ。無理してこの時間まで馬車を走らせているとも思えねえが・・・」
 やってみよう。そう口を開こうとすると、ジャクリーヌの目が火を見つめたまま、すっと細められた。
「いや、後でいい」
 言って、ジャクリーヌは前方の闇に目をやった。
 木立の陰に、ぼんやりと白い影が浮かび上がった。ひとつ、ふたつ。見覚えのある姿。二人が焚き火の灯りが届くところまでやってきて、はっきりとわかる。セシリアと、テレーゼ。
 思わず傍の銃に手が伸びるが、ジャクリーヌがそれを言葉で制した。
「やめとけよ。殺るつもりで来たのなら、とっくに殺られてる」
 にやりと笑いながら、ジャクリーヌが言った。
「そろそろ食べごろと言った感じかしらねえ。たまにはシンプルなオートミールを食べたくなってきたわ」
「夕食の邪魔をして、ごめんあそばせ。おいしそうな匂いに、ついついつられてやって来ましたの」
 セシリアは剣を、テレーゼは銃を、それぞれ腰に下げている。殺すつもりはないとジャクリーヌは言っていたが、ユストゥスの心臓は、鷲掴みにされたようだった。二人の女の圧力は、二頭の巨大な怪物に匹敵する。
 ユストゥスは武に秀でているわけではないので、そういった者たちがよく口にする、人の気や殺気のようなものは、わからない。だが目の前にいる二人はそんな話を脇に置いていい、はっきりと視認できる恐怖だった。
「冒険者をやめて、物乞いかい? 酔狂な連中だとは思ってたが、いくらなんでもやり過ぎだぜ?」
「一応、聞いておこうと思ってね」
 セシリアが腰に片手をおくと、かちゃりという、鎧の板金が打ち合わされる音がした。こんなに近づかれるまで何故この音に気づかなかったのかと思うと、また嫌な汗をかく。おまけにセシリアの白の鎧と、テレーゼの同じく白いドレスは、闇の中でもよく目立つ。
「南に、何の用があるのかしら」
「おめえらこそ、何の用だい? たまたま行き先が被ってるんじゃねえか?」
 獰猛な笑みで、ジャクリーヌは返した。歯を剥き出し、葉巻を噛みちぎらんばかりだ。恐れてはいないだろう。ジャクリーヌは警戒心が強いとはいえ、彼女がその対象に恐れを抱く姿を見たことはない。
 テレーゼが、銃に手を伸ばした。通常のものより少し大きめ、三連発の拳銃だ。何かするべきかと思ったが、ユストゥスの身体は恐怖で動かない。
「やるのかい?」
「やりませんわ。ただ、これは・・・」
 テレーゼは銃を目の前に構えるのではなく、まるで銃そのものを投げるかのように、腕を大きく振りかぶった。
「警告ですわよ!」
 森の中に、銃声が響き渡った。
 馬がいななき、木立から一斉に鳥が飛び立つ。
 ユストゥスは腰を抜かしかけたが、ジャクリーヌは涼しい顔でテレーゼを見つめていた。と、その目が不意に大きく見開かれる。鼻先、いや、くわえていた葉巻の先を凝視する。
「・・・おい、なんだいこりゃあ。ユストゥス、見てみろよ」
 葉巻の先。吹き飛ばされている。それが何を意味するのか、ユストゥスはすぐにはわからなかった。
「"弾道を曲げる者"なんて言われてたりもしたなあ。これが、そうかい・・・参った。理屈がさっぱりわからねえ」
 くっくっと、ジャクリーヌはおかしくてたまらないといった調子で言う。
「いいもん見せてもらったよ。あたしたちを殺して、この粥でも食ってくかい?」
 ユストゥスにも、今起きたことが飲み込めてきた。ジャクリーヌとテレーゼは、正対していた。なのにジャクリーヌの葉巻の先は、横から切り取られたかのように吹き飛ばされている。二人の距離は、遠くない。角度をつけたとしても、葉巻を狙ったのなら、ジャクリーヌの顔は被弾していたはずだ。
 おそらく、魔法を使っていない。ユストゥスも魔法使いの端くれである。はっきりと隠匿の意志がある魔法以外は、それとなく魔力の残滓は感じ取れるはずだ。もちろん隠匿の魔法を使っている可能性はあるが、そもそもここで、そんなことをする意味がない。
 この吸血鬼は何か物理的な力のみで、魔法のようなことをやったのだ。
「ユストゥス」
 セシリアに声をかけられ、顔を上げた。その瞳の青を、闇よりも深く感じる。
「大きな傷を負った時、あなたに診てもらいたいたいと思っていたのよ。できれば、死んでほしくない人間の一人ね」
 その眼差しは、既にもの言わぬ死者を見つめるかのような、冷たいものだった。
 セシリアが背を向け、来た道を引き返す。白い外套も、長く揺れる金髪も、すぐに闇に溶けた。
 あの吸血鬼の姿は、気づかぬ内に、消えている。

 

 

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