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 日付が変わろうとしているのに、パリシの街の灯は、まだ明るい。
「あー、セシリアさんの悪いとこが出ちゃいましたねえ。とかいって、あたしもセシリアの気持ち、今回ばかりはちょっとわかるわ。シルヴィーの笑顔こそがどんな財宝にも勝る報酬よ。なんつって」
 おどけた調子で、ネリーが笑う。
「まあ、やるだけやってみるわよ。それにしてもネリー、あなたらしくもないわねえ。ともあれ、私からも感謝するわ。今後は、あなたの手が空いてる時は、なるべくお金になるものを候補にしなくちゃね」
「ホント、そうしてくれると助かるよ。このあたしにも、夢がある!」
 ネリーは特別人が好いわけではないが、それでもその奥にある思いやりは、しっかりと持っている。フェルサリがまだ言葉を取り戻していなかった頃、何かと面倒を見てくれた。そのことをずっと、フェルサリは感謝し続けるだろう。鬱陶しいとすら思ってしまったこともあるが、フェルサリが今こうして言葉を取り戻せたことの一因は、間違いなくネリーの優しさにあった。
 出発前に、ネリーがこの面子を、お人好しーズと名付けたのも頷ける。この中で一番薄情なのは自分だろうと、フェルサリは思った。この三人に憧れてしまう以上、それは、恥ずべきことかもしれないと、フェルサリは思っていた。
 一行は既に宿を取り、近くの酒場で一杯やろうといったところだ。レムルサやゴルゴナと同じで、ここも眠らない街なのかもしれない。まだ通りを走る馬車の姿があるし、歩道にもちらほらと人影は見える。
 一行は酒場のひとつに入った。外の席でまだジョッキを傾けている人たちがいた。
 中に入ると、大きなテーブルがいくつもあり、半分ほどの席は埋まっている。入りの割には賑やかな雰囲気のある店で、楽士の引くリュートの音も心地いい。広く、明るく、ゆったりとくつろげそうだ。
 中央の丸テーブルに座り、セシリアが適当なつまみを注文する。綺麗なアッシェン語だ。先程アンナにアッシェン語はよくわからないと言っていたが、気を遣ったのだとわかる。
 若い女給が、飲み物を聞いて回る。セシリアとテレーゼはアッシェン語で話し、ネリーは共通語で返していた。フェルサリも二人同様、アッシェン語で注文する。
「あら、南の方の出身?」
 女給には、フェルサリのアッシェン語に南部訛りがあることを、すぐに見抜いたようだ。
「あ、はい。デルニエールの生まれなんです」
 頬が、熱くなる。こんなことなら共通語で返せばよかったかもしれないと思ったが、まだ慣れ切っていない共通語やラテン語で会話すると、こういう場では特に、どもってしまうのだ。
「うわ、あたしひょっとして、フェルサリのアッシェン語聞いたの初めてかも。ねえねえ、もっと話して?」
 ネリーが早速飛びついてくる。
「か、からかわないで下さい」
「やっぱり、私のアッシェン語より流暢よねえ。ネイティブは違うわ。今度フェルサリに、きちんとアッシェン語を教わろうかしら」
 セシリアが、アッシェン語で言う。
「母さんのアッシェン語、とてもきれいです。知っていなければ、地元の人だと思っていたはずです。私のは、どうしても南の訛りが強いみたいで」
 フェルサリもアッシェン語で返すと、ネリーがきょとんとした顔で二人を見る。
「ネリーはアッシェン語がわからないから、ここじゃ苦労するかもって話してたのよ。フェルサリ、今度からネリーに聞かれたくない話は、アッシェン語でしましょうか」
 セシリアは話の後半をアッシェン語で話し、それを聞いたテレーゼは、くすくすと忍び笑いをしている。
「なんだよもう、ひどいなあ!」
 膨れっ面のネリーを見て、思わずフェルサリも吹き出しそうになっていた。
「ところで・・・」
 酒と料理が運ばれてきたところで、金の巻き毛を弄びながら、テレーゼが口を開く。
「もしジャクリーヌっていうのがあのジャクリーヌなら、どうしますの? このまま鉢合わせることなく街を出られれば、心配することじゃないのでしょうけれど。ちょっと眠っていてもらう、と簡単に済ませられるような相手じゃありませんからね」
 テレーゼが、優雅な手つきで、グラスを口に運ぶ。列車の中で聞いた話では、人間だった時は、貴族の生まれだと聞いた。
 いや、それよりも、フェルサリが初めて出会う異世界からの住人、通称"異邦人"と言われる人なのだと聞いて、驚いた。五百年を生きる吸血鬼、別世界からの異邦人、セシリアをも凌駕する戦闘力の持ち主。様々な要素が複雑に混ざり合い、一言でこの人をこういう人だ、と言い切ることができない。これからの旅で、少しでもこの人を感じ取りたいと、フェルサリは思っている。
 こうしてテレーゼを見つめていると、その横顔は戦いとは無縁の少女のようにしか見えない。が、時折見せる挙措に、大人の女性が持つ艶っぽさも見え隠れする。ついつい、その所作に見入ってしまう。
「義手で、右足に車輪のついた義手。間違えようがないわねえ」
 物憂げに、セシリアがチーズを口に運ぶ。
「ど、どんな人なんですか?」
 流れを遮らないよう、フェルサリは聞いてみた。
「主にこの辺りで活動してる、賞金稼ぎよ。冒険者、ではないわねえ」
「わたくしとセシリアは、何度かゴルゴナで会ってますわ。ネリーも、挨拶くらいはしてるんじゃなくて?」
「あたし、あの人苦手だなあ。いっつも、周囲を威嚇してる感じでさあ」
「この辺りの仕事がない時は、ゴルゴナにも姿を現す。常に、仕事を探してる感じね。もう充分稼いだと思うけど」
「右腕の義手は、戦う時には長銃や魔法銃が束になった、"連裝機銃"に代えますの。とても恐ろしい武器ですわ。ついたあだ名は"美手"」
「"美手"ですか・・・」
「皮肉だけでついた名じゃないわ。実際恐ろしく狡猾で、緻密な"手"も打ってくるって話よ。できれば、かち合いたくない相手ではあるわねえ」
 セシリアがキセルに火をつける。テレーゼは細い紙巻き煙草で、ふう、と吐いた紫煙が、グラスの上で四散する。
「ともあれ明日、私は例の待ち人岬ってのがどこか、調べてくるわ。とりあえず常時、シルヴィーには誰かがついてることにしましょう」
 三人が頷く。不意に、テレーゼの表情が曇った。
「噂をすれば、ですわね。わたくしたちに、気づきますかしら」
「鼻がきくから、気づくでしょうねえ」
 ごろごろと、外から石畳の上を車輪の転がる音が聞こえてくる。馬車や台車の音とはまた違う、異質な音。それは段々と大きくなっていき、店の前で止まった。
「おや、珍しい連中がいるじゃねえか」
 女の声。ついで再び、車輪を転がす音が近づいてくる。木の床板を走るその音は先程よりも低く響き、遠雷のようだとフェルサリは思った。
「"掌砲"、"爆血竜"がそろい踏みか。"掴み"がいりゃあ、セシリア・ファミリーの三巨頭、パリシにあらわる、ってところだなあ。おまけに"引き寄せ"までいやがる」
 振り返ると、赤い髪の女がそこにいた。毒々しい衣装を身に纏い、腰には銃を差している。左足で床を蹴り、右足の車輪で滑るようにフェルサリたちの卓までやってきた。
「パリシに何の用だい? ここじゃ今んとこ、あまり金になるような話はねえぜ。傭兵にでもなるってんなら話は別だがな」
「いつも、金になることばかりやってるわけじゃないわよ」
 セシリアが、冷たい微笑で返す。
「言うじゃねえか。ま、つまんねえいざこざはなしだ。ここらはあたしの庭みたいなもんだからな、今は手が離せねえ案件抱えてるが、情報提供くらいなら、コレ次第でしてやってもいいぜ」
 コレ、と言うところで、女は人差し指と親指で輪を作った。金、ということだ。それよりもフェルサリは、輪を作った銀の義手が本物の手のように動いたことに、目を見はった。
「間に合ってるわよ。というより、情報収集なら、もっと安くつくところを探すわよ」
 言われた女は、くくく、と不気味な笑い声を上げた。身を屈め、フェルサリの椅子の背もたれに片肘をつく。
「ところで、こいつはなんだ? エルフにしては線が太いな」
 自分のことを言われてるのだとわかり、フェルサリは口を開いた。
「あ、フェルサリといいます。新しく、パーティに入れてもらいました。あの・・・エルフじゃありません。ハーフエルフなんです」
「へえぇ。あたしは、ジャクリーヌだ。半エルフ、あたしのことは聞いてるか?」
 今聞いていたところだと言いかけて、口をつぐんだ。それを言ってはまずい気がする。
「はい・・・少しだけ」
 セシリアが、口元だけで笑った。今の対応で、間違ってなかったのだろう。ジャクリーヌは、フェルサリの耳をしげしげと眺めているようだ。あまり、見られたくはない部位である。
「あなたこそ、パリシに何の用? 金になる話はないんでしょう?」
 測るような眼差しで、セシリアはジャクリーヌを見ている。
「まあな。ただよ、どうしても外せねえ案件がある。おっと、これ以上は機密事項だ」
「金貨一枚でどう?」
「へっ。情報料としちゃ悪くねえが、こいつは金貨千枚でも話せねえよ。もっとも、それだけあったらてめえを雇いたいくらいだがね」
「じゃ、仕方ないわねえ」
「・・・いや、待てよ。お前らにも、聞いておくべきかな」
 ジャクリーヌは何か思いついたようで、義手の指を、こめかみに添えた。遮るように、セシリアが口を開く。
「そういえば、ユストゥスも一緒にいるの?」
「ん? あ、ああ、今回は一緒だぜ」
「フェルサリ、彼女の連れのユストゥスは、魔法医師として、私たちの間では有名な人間よ。後遺症の残る怪我をした時に、助けになってくれるかもしれない」
「あ、そうなんですか」
「透視魔法を使うって話だよ」
 今まで黙っていたネリーが口を開く。普段は口数の多いネリーなので、自分でも不自然だと思ったのかもしれない。
「その通りだよ。透視魔法って、どんなんだかわかるか、半エルフ? 服が透けて見える、みてえなスケベな魔法かと思ったかい?」
「あ、いえ・・・でも、違うんですか?」
 ジャクリーヌがげらげらと笑う。下品な笑い方だが、どこか気さくなところもある人なのかもしれないと、フェルサリは思い始めていた。
「人の身体を輪切りにしたみたいに見えるそうだ。あるいは身体の中に潜り込んでいくような、な。だからここからあのセシリアのでけえ胸を見ていこうと思ったら、上から刃物でストンストンって切り落とした傷口みたいに見えるはずだ。ちょうどあいつが食ってるハムみたいな感じだな。あたしの言ってること、わかるか?」
「ちょっと、食事中に、やめてほしいわねえ」
 セシリアの声が、静かな怒気をはらむ。
「おー、怖え怖え」
 しかし少しも恐れた様子もなく、ジャクリーヌは受け流した。
「ま、そんな感じで、骨や腱のくっついてねえとことかが、ウチの魔術師にはわかるんだよ。早い段階で、重い病気の徴候も発見できる。お前も調子悪いとこあったら、見てもらえよ。あたしが口きいてやるからよ」
「あ、はい。その時は、ぜひよろしくお願いします」
 セシリアたちはジャクリーヌを警戒してるようだったが、フェルサリはどこか彼女のことが好きになりかけていた。
 義足の車輪が気になったのか、ジャクリーヌは身を屈めた。赤く波打つ髪が、すぐ近くにある。少しきつめの香水の香りが、フェルサリの鼻をつく。
「ところでよ」
 不意に、ジャクリーヌの声が低くなった。いきなり、獰猛な獣が顔を出したような感じだ。その雰囲気の急激な変化に、フェルサリは動揺した。波打つ赤い髪が、とても禍々しいものに見える。
「お前ら、シルヴィーって娘を知ってるか? そのメイドの、アンナって女でもいい」
 四人に話しかけているが、ジャクリーヌの紫色の瞳は、じっとフェルサリの目を覗き込んでいる。屈んだ体勢から、フェルサリを見上げる形だ。顔が、近い。
「っ・・・!」
 怖い、とフェルサリは思った。睨みつけているわけでも、怖い顔をしているわけでもない。表情のない目が、フェルサリの胸の内を直接見ているかのようだ。フェルサリは、深い井戸の底を覗き込むような、不安な気持ちになっていた。
「知りませんわよ。知っていたら、金貨何枚支払うつもりですの?」
「・・・何枚でも。本気だぜ。手持ちだけで、五百枚はある」
「まあ、大金ですわね」
 テレーゼが助け舟を出してくれているが、ジャクリーヌの視線は、フェルサリを捉えて離さない。
 気まずい沈黙が流れた。思わず、フェルサリはジャクリーヌから目を逸らした。どうしていいかわからず、皿の料理を見つめてしまう。
「へえ」
 ジャクリーヌが口を開き、葉巻をくわえる。オイルライターで歯先をあぶりながら、セシリアの方へ目をやる。
「・・・邪魔して悪かったな。まあ、今晩はパリシを楽しんでくれよ。いい街だぜ」
 言い残し、ジャクリーヌは何事もなかったかのように、店を出た。いきなり店内の喧騒が聞こえてきて、ここはこんなに賑やかな店だったのかと思い出される。嫌な汗が一筋、フェルサリの頬を流れる。
「今から追いかけても、捕まえるのは難しいかしらねえ」
「屈んだ時に、義足の内燃機関を動かしてましたわ。今頃は、三区画ほど先じゃありませんこと?」
「逃げ足は速いってとこかしらね。負け惜しみになっちゃうけど」
「あ、あの・・・」
 ネリーが肩をすくめるのを見て、フェルサリは大きな失敗をしてしまったのだと気がついた。
「ばれたわよ。ま、仕方ないわねえ。どんな繋がりがあるのかまではわかってないでしょうし、開き直って、楽に構えるしかないわねえ」
「リラックス、リラックスだよ、フェルサリ。あたしがついてるからさあ」
「す、すみません・・・本当に・・・」
「なに、たまたまあなたが狙われただけで、いずれは誰かが嗅ぎ付けられていたわよ。嘘をつくのが苦手な面子が揃ってたしねえ」
 慰められていくらか助かるが、情けない気持ちがそれを押しつぶす。三人とも冒険に関しては百戦錬磨で、フェルサリのように足を出してしまったとは思えない。
「ちょっと、明日の予定は変更よ。フェルサリは私についてきて。テレーゼとネリーは、シルヴィーとアンナの護衛」
 二人が頷く。
 いつの間に頼んでいたのか、ネリーがフェルサリの皿にケーキの切れ端を乗せていた。
「何事も経験だよ。ほら、甘いもの食べて、元気出して」
 言われるままにケーキを口に運んだが、どんな味がするのか、今のフェルサリにはよくわからなかった。

 

 

 夜が、明けようとしている。
 寝ていた場合には起こさないよう、セシリアは小さく、扉をノックした。どうぞ、というシルヴィーの声が聞こえる。鍵はかかっていないようだ。
 シルヴィーは寝台の上で身を起こし、丸い窓の外を見つめていた。アンナは、脇のソファで、寝息を立てている。
「絵を、借りるわね。今日、この岬がどこか調べてくるわ」
「本当に、すみません・・・こんな、私なんかの・・・」
「少し、話をしましょうか」
 アンナを起こさないよう、静かに寝台に腰を下ろす。
「聞きたいことがあるわ。叔父があなたから財産を奪おうとした時、あなたはそれを理解していたでしょう?」
「・・・はい」
「それで、いいと?」
「はい。私では、商会を切り盛りできないと、わかっていたので」
「少しの間でも、商会を仕切る立場にいられたかもしれない」
「物の流れを、止めることはできないと思っていました。実際に跡取りが決まるわずかな期間だけでも、そういうことは起きていましたし。混乱は起こせない。そう思いました」
「あなたには、そういうものが見えていたのね」
「物流は、血の流れのようなものだと思っていました。ユイル商会は規模が大きかったので、流れを止めてしまうのは、危険なことだと思っていました」
「何が、危険なの?」
「人々の、暮らしが」
 シルヴィーはどこか諦念の入り交じった眼差しで、窓の外を見つめた。もうすぐ夜が明ける。ぼんやりと、街の輪郭が浮かび始めている。
「私が思っていた通りの人間ね。あなたが商会の長になった姿を、見たかった気がする。できれば、依頼も受けておきたかった。もっとも・・・」
 セシリアはシルヴィーを抱き締めた。しばらくして、シルヴィーは肩を震わせ始める。必死に、すすり泣きをこらえていた。
「こうして今出会ったわけだから、どっちにしてもあなたの願いを叶えることになったわね」
 シルヴィーは、商会がどういうものか、よくわかっていた。元から大きな視点と、洞察力を持っている。ひょっとしたら自分が跡取りになることがあるかもしれないと、かなり勉強をしていたこともわかる。現場に立っていないシルヴィーが、そこまでしっかりとした考えを身につけていたことに、驚きを禁じ得ない。ずっと現場の最前線にあっても、自分のやっていることが何なのかわかっている商人は少ないのだ。万が一に備えて、ここまで努力していたことに頭が下がる。
 口にした通り、この娘が動かす物流というのを見てみたかった。儲けることで、周りどころか、会うこともない人間にも喜びを届けられる人間。加えて彼女の人を惹き付ける力があれば、成功は間違いのないことだった。その力を眠らせたまま、もうすぐシルヴィーは息を引き取ろうとしている。こういうこともあるのだと、セシリアは自分に言い聞かせた。
 シルヴィーが、顔を上げた。頬が、涙で濡れている。その涙を、セシリアは指で拭った。
「泣きたければ、もっと泣いていいのよ」
 言うと、シルヴィーはにこりと微笑む。年齢よりも、ずっと幼く見えた。
「セシリアさんは、お母さんみたいですね。母が生きていたら、きっとセシリアさんのような人だったと思います」
「母さん、と呼ばれることは多いわね。まだ、子供を産んだこともないんだけど。そういう話は、旅の間でもゆっくり聞かせてあげるわ。できれば、あなたの話も聞かせてほしいわね」
「はい」
「旅の間は、何も我慢しなくていい。思い切り笑って、思い切り泣きなさい。百年生きても、幸せだと思えないまま死んでいく人間もいる。私は、ほんの一瞬でも、本当に幸せだと思える時を探してここまで来た。あなたが旅の間に、幸せだと思える瞬間があればいいわね」
「もう・・・幸せです。本当に、こんな・・・」
 それ以上は、言葉にならなかった。シルヴィーはセシリアの胸に顔を埋めて、すすり泣いた。いくら天稟に恵まれていようと、まだ小さな少女でもあるのだ。
 セシリアは、窓の外を見た。
 朝日が差し、川面を眩しい光が踊っている。

 

 

 セシリアが、眠そうに目をこすっていた。
 酒場を出てすぐに、セシリアはあの下水路、シルヴィーの部屋の前で、ジャクリーヌたちの襲撃に備えていたのだ。護衛ということなら全員でとフェルサリは思ったが、九分九厘すぐに襲撃されることはないという話で、他の三人はできるだけしっかりと休養を取るように言われた。
 今後もこういうことはあるはずで、今はテレーゼとネリーが、護衛についている。セシリアも、用事が早く済めば、交代まで眠るつもりのようだ。
 テレーゼたちと交代で宿に戻って来たセシリアは具足を身につけ、フェルサリと共に街に出た。
「できれば今日中、それも午後までに手はずを整えたいわねえ」
 あくびを噛み殺しながら、それでも颯爽と歩くセシリアの後を、フェルサリは絵の入った包みを抱えてついていく。シルヴィーが屋敷を出る際に持ち出した数少ない品のひとつであり、母の形見でもある。そう思うと、額縁に傷一つつけられない。
「下ばかり見てたらかえって危ないわ。もっと、街の景色を楽しんでもいいのよ」
 振り返りもせずにセシリアが言ったので、何でもお見通しなのかと驚いたが、顔を上げると店の展示窓に映るセシリアが笑いかけていた。思わず、フェルサリも笑みを返す。
 パリシの街並は、やはりレムルサともゴルゴナとも違っていた。道に沿って規則正しく並ぶ街路樹にしてもそうだが、街に緑が多い。重厚な石造りの建物が多くても、それがどこか、街の空気に軽やかさを与えている。大きな街らしく教会の数も多いが、それ以上に、ちょっと腰を落ち着けられるような、公園の数が多い。こういった用事で訪れたのでなければ、一日中でも散歩したい街である。
「最初の店までは、歩いて行くわ。その後は、馬車を使うかもしれない」
 通りでは、たくさんの馬車が行き来している。どこか小洒落た印象を受けるこの街だが、道行く人の服装も、同じように洒落ている気がした。
 レムルサの街も洒落ているが、あちらがどちらかというとちょっと斜に構えた個性的な服装だとすれば、パリシの人たちは労働者階級の人たちでさえ、品のある着こなしをしているといった感じだろうか。
 やがて二人は、本や画材を扱っている店が立ち並ぶ通りに入った。窓ガラスを大きく、あるいは壁面全体に使うこともあるのも、この街の特徴か。しかしセシリアはその中の一つ、外からはあまり様子のわからない店に入っていった。
 どうやら、地図を多く扱っている店のようだ。所狭しと、たくさんある棚にぎっしりと丸めた地図が並べられている。壁際だけでなく店の中央の箱にも紙や羊皮紙の束が突っ込んであり、まさしく地図の専門店といった感じだ。狭く奥行きのある作りは、フェルサリがゴルゴナで訪ねた、鉄道関係の店と似ている。
 セシリアは、店の主人を呼んでもらっていた。
「おお、セシリアじゃないか。久しぶりだなあ」
 白髪と白い髭を短く切りそろえ、丸い眼鏡をかけた男が、店の奥から現れた。
「よく覚えているわねえ。この店に来るのは、確か三度目だったと思うんだけど」
「一度目は、こりゃ将来ぺっぴんになると思って、鼻の下を伸ばしたもんだよ。二度目はずいぶん大人っぽくなって、おまけに東のエルフとドワーフの仲を取り持ったって話じゃないか。しばらくどこの酒場でもあんたの話で持ち切りだったよ。ウチの店に来たって、みんなに自慢したもんさ。三度目の今日は、竜を倒して大陸五強の一人となった、最強剣士セシリアとしてのお目見えだ。今日は、いい日になるぞ」
「いやねえ。五強の中じゃ、私が一番弱いってみんな思ってるわ。いい恥さらしよ」
 二人は軽く抱き合うと、懐かしそうに笑い合った。セシリアは、家にいる時のようにくつろいだ様子だ。
「早速だけど、いいかしら。あ、そうそう、彼女は私のパーティの、フェルサリ」
「おお、これはまた。将来べっぴんさんになりそうだ」
 主人が腕を広げてきたので、軽く抱き合う。こういうことはあまり慣れていないので、絵の包みを落としてしまいそうだった。
「それで、どんな場所をお探しかな」
「察しがいいわね」
「過去二度もそうだったじゃないか。ただ地図を買いにくるだけだったら、もっと安い店がパリシにはある」
 聞けば店の主人は、かつて世界中を旅した大探検家なのだという。セシリアが手放しで褒める人間は、概してフェルサリが想像できる以上に、その道の達人であることが多い。
 セシリアに促され、絵の包みを渡す。主人は眼鏡をかけ直し、絵を詳細に調べている。
「わかっていることは?」
「待ち人岬と言われているそうよ。ここから南にあるとだけ」
「ここより南で、待ち人岬か・・・ふうむ、三カ所ばかり心当たりがあるが、これはどれかな・・・この絵の左下、白い石が丸く並んでいるのは、灯台が崩れた跡かな。右下、崖の下の灰色の建物らしき影は、今は廃墟となっている港町だろう。この岬の形にも見覚えがある。場所は、トロール沼南端とアキテーヌの間。デルニエール沿岸部だな。地図で言うと、ここだ」
 主人は、壁に掛けられたユーロ地方の地図の一点を、指さした。
 なるほど。わずかな手がかりで、いきなり場所を特定した。やはり、セシリアが最初に訪れ、手放しで褒めた人間は、その道の達人なのだった。
「よかった。じゃあ早速詳細な地図を描いてくれる? 地域のものも、二、三枚。これは既存の物の写しでいいわ」
「ということは、陸路かい?」
「海路で行っても、北の港に出なくちゃいけないことを考えると、そんなに時間は変わらないかもしれないし、ブルターニュが今まさに戦地だと考えると、不確定要素を増やしたくないのよ。特に、海の上ではね」
「なに、海の上でも何とかなる時は、何とかなるぞ。まあ、そうは言っても、確実に進めるという意味では、陸路か。実際早さだけなら、どっちも同じようなものか」
 言いながら、主人はもう厚手の紙に線を引き始めていた。途中店員に指示を出し、地域のものの写しを用意させる。
「トロール沼を抜けることになるぞ」
「馬車で抜けられそうな所も、描いておいてね。そういえば、馬車をカスタマイズしてくれそうなとこは、この街にある? 腕が良くて、かなり無理のきく職人がいいんだけど」
「無理がきくかどうかはわからんが、腕のいい奴だったら知ってる」
 主人は、パリシ市内の地図の、一点を指さした。
「これは、サービスしとくよ」
「ふふ、ありがとう。今度パリシに来たら、一杯おごるわ」
 セシリアは金貨三枚をカウンターに置くと、店を出た。扉の窓ガラス越しに、主人が名残惜しそうに手を振っているのが見えた。フェルサリはもう一度頭を下げた。顔を上げると、セシリアはもう、辻馬車をつかまえている。
 馬車に乗り込む。セシリアは地図の束を膝の上に乗せ、窓枠に片肘をついていた。
「いつか、二人でこの街を散策してみたいわねえ。広いから、知らない店も多いわ」
「はい・・・! 私も、母さんと、色々な店を回ってみたいです」
「レムルサより、お洒落な店が多いでしょう?」
「綺麗なお店が、たくさんあります」
「服や小物、香水の店にも、行く時間があったらねえ。それは、今度のお楽しみにしましょう」
 フェルサリ自身、セシリアと会うまでそれしか話せなかったので意識してなかったが、アッシェン語の響きは、どこか気品を感じさせると言われていた。街の人々はレムルサよりも品があるというか、大人っぽい感じがする。時折聞こえてくる街の人々の言葉の響きに、それが感じられるのだ。
 そしてこれは街の人々の気質なのか、まだエルフやドワーフの姿を見かけていないにも関わらず、フェルサリを見ても、指をさされたり、じろじろと見られることは、ほとんどない。受け入れられているかどうかはわからないが、余所者に対して、不寛容ではないのかもしれない。フェルサリは生まれ育った村で、ごくわずかな人間を除けば、最後まで受け入れてもらうことはなかった。都市部と田舎の違いか、町や村ごとに違うのか、そういったことはまだ、わからないでいた。
 地図職人が言っていた、馬車職人の工房に着いた。狭い路地にたくさんの工房が集まっており、道具や資材を手にした徒弟たちが、忙しく走り回っている。大変だろうが、人々の表情は明るい。活気がある所だった。
 馬車を降りたセシリアは、早速親方を呼び出して、交渉に当たっていた。親方は壮年で、袖無しの上着、頭にバンダナを巻き、まるで賊のような雰囲気を漂わせていた。話し方も野性的だ。周りにいる職人や徒弟も同じような格好で、賊のアジトに来てしまったかと錯覚する。
「ベッドを乗せるだと? 誰の紹介か知らないが、お宅は訪ねる相手を間違えてないかい」
「病人を運ぶのよ。ここならいいものを作ってもらえそうだと思って来たんだけど」
「そんな生ぬるい馬車なんて作らねえ。見てみろよ、ここで今まさに暴れようとしているワルどもをよ」
 促され、二人は工房の中を見て回る。大小様々な馬車があるが、髑髏の装飾や豹柄の内装、親方言うところの"ワル"な馬車が出庫を待ち、あるいは作られている。どれも恐ろしく個性的で、教会に怒られないか心配になってくる代物だった。そういえばここに来るまでに二、三回、こういった馬車を見た気がする。
「どれもいいものね。やだ、外装のレリーフだけじゃなく、御者台まで狼をモチーフにしてるのね。内装は、鹿の毛皮かしらね。第四世界帝国をモチーフに?」
「ああそうだ。俺らユーロ人を殺しまくった、ブルガン人の王をリスペクトしてる」
「こっちは、"黒の魔女"ね。使いの悪鬼たちが実にダイナミックに配置されてる。これを見たら教皇も、裸足で逃げ出しそうだわ」
「ああ。わかるだろう。ウチは病人を乗せるようなヤワな馬車は作らねえ主義なんだ」
 親方の言う通り、さすがにこの工房は駄目だと言う気がする。腕の良し悪しは、フェルサリにはわからない。それに職人はこうと決めたらこうという、頑固な者が多い。交渉は難航しそうだ。自分だったら、工房に入る前に引き上げていただろう。
「まだ、手を着けてない馬車もあるのね。あれは中古? 大きめのコーチで、四頭立てね。これなら中にベッドを入れても、残りのスペースを確保できそう」
 今にも追い返さんばかりの親方に、しかしセシリアはまったく動じる様子はない。目を付けた馬車を、細部まで調べているようだ。
「おい、だから言っているだろう。このベイビーはな、五百人轢き殺してきたチャリオットみてえに仕上げるつもりなんだよ」
「できれば、というより確実に、明日の朝までに仕上げてほしいのよ」
「ウチでは、こういったもんしか作らねえんだよ。それも、明日の朝までにだと?」
「予算は、金貨で五十枚ほど出せるわ」
「そうか。ベッドもこちらで用意するのか?」
「お願い。しっかり固定してね。あと、サスペンションはちょっと痛んでるわね。新しいのに替えて頂戴。中にいる人間が、ゆっくり休めるようにね。内装はシンプルに、あまり主張しない程度に、メルヘンチックにしてくれてもいいわ」
「メルヘンか。一度やってみたかったんだ。この四頭立ては素材としちゃ最高だ。深窓の令嬢が寝室でゆったりくつろいでいるようなイメージでいいんだな」
「さすが。話が早いわ」
「とびきりワルに仕上げてやるよ」
「頼むわ。生まれ変わったベイビーを、明日の朝八時に、馬を連れて取りにくるわね」
 あっさりと話をまとめ、二人は工房を出た。
 戦いはもちろん、人と人とが関わるやりとりについて、セシリアの手並みは実に鮮やかで、魔法的でもある。フェルサリがいきなり金貨五十枚出すと言うと、馬鹿にするなと、工房からつまみ出されたような気がする。
「ふふ、今夜は徹夜になりそうね」
 工房を振り返って、セシリアが悪戯っぽく笑った。

 

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