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列車が、パリシ市内に入った。 レムルサ、ゴルゴナなどと並んで、この街の灯も、夜の間消えることはない。流れ行くパリシの夜景は、どこも美しい。新聞から目を上げ、セシリアはしばしその情景を楽しんだ。 テレーゼを質問攻めにしていたフェルサリも、パリシの街の灯に見入っていた。セシリアは街育ちなので、こうした光景はいつも懐かしさと共に見るのだが、フェルサリの胸には、自分とは違った何かが去来しているのだろう。 ソファで横になっていたネリーを起こし、一行は支度を整えた。列車が蒸気を上げて、駅構内に入る。洒落た作りのこの駅を、セシリアは好きだった。アッシェンの造形はどれも繊細な装飾が際立つが、流行の先端と復古主義が絶妙に混じり合っているのが、何よりの特徴だった。常に革新的な文化を求めながらも、貴族による封建社会を捨てられない、矛盾した特色。 セシリアは構内を見回しながら、手紙の内容を反芻した。 大きな武器を持った女に、命を狙われている。もしも助けにきてくれるなら、パリシ駅三番ホームの端で、朝の九時と夜の十時、それぞれ一時間ずつ待っている。差出人は、メイドのアンナ。住所は、アッシェンのパリシとだけ。 構内の時計に目をやる。十時を、少し回ったところだ。 アンナと言う女は、自分たちが来なければ、毎日ずっと、自分たちを待ち続けるのだろうか。そもそもパリシにいるメイドのアンナというだけでは、断りの返事も出せない。アンナという名前のメイドなど、この街にはいくらでもいるだろう。 依頼というより、願いや祈りに似た思い。こうした話を、ひとつひとつ聞いてやることはできない。なので多くの大きな依頼を断り、牽制をかけてきたつもりなのだが、今でもこうした依頼は届いてしまうのであった。断るのに気が引ける、願い。 改札に向かおうとする人波をかき分け、一行はホームの端に向かった。車庫側に、大きな柱がある。 柱の陰に、フード付きの外套を被った人間が、床に座り込んでいた。汚い外套で、物乞いか旅の巡礼といった雰囲気だ。身体の輪郭から、女だと思える。 周囲に人がいなくなると、セシリアは声を掛けた。 「メイドのアンナっていう人を、知ってるかしら」 言い終わるよりも早く女はフードをはね上げ、セシリアを見上げた。茶色の瞳が、大きく見開かれている。 「えっ? あの、私がそうですけど」 外套の下に見え隠れするのは、よくあるメイドの格好だ。年齢は、二十歳前後か。 「あなたね。手紙は受け取ったわ」 「え、えっ? ちょ、本当ですか!?」 アンナは口をぱくぱくとさせた後、潤んだ瞳でセシリアと後ろに控える一行を見つめていた。貨車から大砲を受け取ったテレーゼが、遅れて合流する。それを見て、さらにびっくりしたようだ。ふたつの意味で、信じられないといった表情だ。これが演技なら、騙されてやってもいい。 「うわ、あの、本当にセシリアさんたちですか? ああ、神様、感謝致します!!」 「私たちにも、感謝してほしいところね」 「もも、もちろんですとも! あ、あの、ええと、お茶とかそういうのお出しできませんけど、あ、あの」 「落ち着きなさい。飲み物ならその辺で買ってくるわ。それより、詳しい話を聞かせてもらえるかしら」 「あ、はい、ここで立ち話のなんですので、着いてきて下さい」 言うと、アンナはホームの端にある階段から、下に降りていった。線路の上を歩き、車庫の、さらにその奥へ。途中でランタンを取り出し、火は、壁にかかっているランタンから拝借した。行き止まりの壁の近くに、下水溝の入り口があった。格子に鍵はかけられていないようで、それを開け、一行を中に導く。 「いやー、あたしはあそこで立ち話の方が良かったなあ」 ネリーがハンカチを口元に当てて呟いている。 下水溝は、街の規模に合わせて、大きいものだった。汚物の流れる水路の両脇には、人一人が充分歩ける道が、きちんとある。テレーゼが砲を、小脇に抱え直した。角を曲がる時は、少し苦労しそうだ。裾の広い白いスカートの先に汚物がかからないか、こちらの方が心配してしまう。 パリシの下水路は、レムルサのそれと比べて複雑だ。段階的に作られていったのだろう。まさに迷路で、迷うと厄介なことになりそうだった。ただ、思ったよりは風通しがよく、溜まっているガスが、ランタンに引火する心配もなさそうだ。臭気も、下水路の中と考えれば、耐え難いほどでもない。 いくつか角を曲がると、やがて人の気配がしてきた。所々、遠くにぼんやりと明かりが見える。下水を漁って文字通りの掘り出し物を探す者や、流れの滞った部分を掃除する為に雇われた者たちがいるのだろう。こうした大都市では、ごみを中庭で焼いて処理するのが面倒で、不用になったものをそのまま厠に捨てたりする。なので、思わぬ貴重品が下水の中から出てくることがある。一方、そういったものが下水の流れを滞らせたりもする。 特に灯りの多い方角。そちらに向かうにつれ、急速に臭気が収まってきた。不意に天井が高くなり、大きな地下空間に出る。下水が川に流れ込む出口の近くなのだろうか、明確に風を感じる。 大規模な工事途中で放り出された空間に、途中で別の者の手が加わったのか、大聖堂のように巨大な空間が、そこにはあった。 方々で、焚き火が燃やされている。粗末な身なりをした者たちがそこかしこに集まったり、雑魚寝をしたりしている。壁面には張り出しの廊下があり、扉や階段もある。ここを一階とするならば、四階分の高さか。 何人かが、こちらを振り返った。セシリアの白い具足姿はこうした場で目立つが、今はテレーゼの方が目立っているだろう。フェルサリが、半ば呆然とした顔で周囲を見回している。 「ここは昔、盗賊ギルドのアジトのひとつだったそうですよ。あ、こっちです」 アンナを追って、さらに奥を目指す。この空間からいくつか伸びていた通路のひとつだ。両側に扉が並んでおり、その内のひとつに、アンナは手をかける。 「シルヴィー様、来てくれました! 来てくれましたよ!」 部屋の中は、狭い。わずかな家具と寝台。その寝台の上に、銀髪の少女が身を起こしていた。こちらを見て、少し目を見開く。それから申し訳なさそうに、眉をひそめた。 「本当に、来て頂けたのですか・・・遠い所、申し訳ございません・・・」 か細い声で、少女が頭を下げる。 「まあ、これも人の縁みたいなものかしらね。私は、セシリア。彼女が・・・」 パーティの面子を紹介する。一人一人の目をじっと見つめて微笑むシルヴィーの瞳は、コップの中に水色のインクを溶かしたように、薄い。短い髪も、銀髪というより白に近かった。肌も透き通るように青白く、何か重い病にかかっているように見えた。 「で、ええと、とにかく追われているので、助けてほしいという内容だったかしらね。アッシェン語はあまり得意じゃないんで、ちゃんと依頼を把握してないのよ」 ネリーが、肘で脇腹を突いてくる。セシリアとしては、いくらか気を回したつもりだ。 「その件なのですが・・・」 消え入りそうな声で、シルヴィーが言う。 「そのような高名な方々の手を煩わせてはいけないと、アンナにも言っていたところだったんです」 「駄目です、シルヴィー様。あの者たちは一度やっつけておかないと、こちらの命が危ないんですよ!」 アンナが息巻く。セシリアは、壁に掛けられた一枚の絵を見ていた。どこかの岬の絵で、青い海と空が、やや粗い筆致で描かれている。一応、アンナの話も耳に入れてはいた。 「やっつける、なんて簡単に言うわね。ナイフで、手を切ったことはある? それの何倍も殺傷力のある得物を互いが振り回すことになるなら、何人死んだっておかしくはないわ。子供が棒を振り回して、気に入らない相手を泣かせるのとは、話が違う」 アンナが、驚いたように振り返る。シルヴィーも、目を閉じてうなだれた。 「ともあれ、二人の話をちゃんとうかがいましょうか。そもそも二人の望み、意見は、きちんと一致しているのかしら」 「あ、あのですね、ちゃんと順を追ってお話しますね。聞いて頂けますか」 「もちろん。時間なら、あるわ」 そしてアンナが、時にシルヴィーが補う形で、これまでのことを話し始めた。
シルヴィーは、大きな商家の一人娘だった。 ユイル商会と言えば、パリシでも有数の商家のひとつである。その長の娘として生まれたが、シルヴィーは生まれつき身体が弱かった。母は、シルヴィーを生んだ時に死んでいた。元は冒険者で身体も強かったそうだが、子を成すには、向いていなかったのだろう。 父は、母を愛すのと同じように、娘を愛した。一人で立って歩くことも困難だったが、幼い時から大勢の使用人たちと、腕利きの医者たちに囲まれていた。五歳まで生きることはないと話す医師もいたそうだが、無事に五歳となり、十歳となり、そして十五歳になった。 全てが変わったのは、今からおよそ半年前、シルヴィーがもうすぐ十六歳になろうかという時だった。 父が、死んだ。商談をまとめる為に街を離れ、その出先での事故だったらしい。 すぐに、商会の跡取りは誰かという話になった。順当に考えれば一人娘のシルヴィーということになるが、病弱な彼女にそれが務まるとは、誰も考えていなかった。 見えない所で、相当激しいやりとりがあったらしい。最終的に、叔父の一人が跡目を継ぐことになった。財産、権利のひとつひとつを手放すため、シルヴィーは寝台の上で、膨大な書類に署名した。屋敷の所有権も手放したが、すぐに追い出されることはなかった。シルヴィーが死ぬのを、待っていたのかもしれない。 屋敷にいた使用人は、一人また一人と姿を消した。給金が出せないので、当然のことだった。 アンナだけが、シルヴィーの元に残った。同じく給金は出なかったが、それどころか他所で仕事や手伝いをして、二人が生活する糧を稼いでいたらしい。 しかしそんな慎ましくも、苦労の絶えない生活は、長くは続かなかった。 ある日、義手の女と灰色の服を纏った男が訪ねてきた。 重要な話があるので身体を診せてほしいと言い、了承すると、男はシルヴィーの背中に触れ、何か呟いた。わずかに、その手は不自然な光を放っていたという。 「間違いない。この子だ」 そして二人は唐突に、シルヴィーの命が欲しいと言った。そう言って、襲いかかってきたわけではない。しかも金貨で五百枚出すとも言ってきたのだ。大金だ。 シルヴィーは、アンナに何か残したいと思い、話を飲もうとしたが、そのアンナが激しく反対した。 いつ死んでしまうかわからない身、シルヴィーとしては最後まで残ってくれたアンナにせめてもの恩返しのつもりだったが、アンナの猛反発により、一日だけ考える時間が欲しいと伝えた。二人はそれで帰っていった。 その夜、アンナは屋敷を出ようと言った。何故二人がシルヴィーの命を求めたのかはわからないが、きちんと金貨五百枚もらえるとは限らない。シルヴィーを殺した後に、自分も殺される。そう言い募るアンナに、行く当てがあるのかと聞くと、ひょっとしたら助けてくれる人たちがいるかもしれないとアンナは言った。シルヴィーの父が生前多額の寄付をしていた、救貧院の者たちだそうだ。 大半は物乞いをしている、救貧院の世話になっている人たちは、シルヴィーを歓迎した。それは父がシルヴィーに残した財産の中で、唯一奪われなかったものかもしれなかった。 救貧院に隠れて暮らすことも考えたが、下水路の中に、昔、魔法使いが隠れ住んでいた一室があるのだという。そこにある秘密の穴倉なら、どんな魔法使いも発見できないそうだと、物乞いたちは言った。灰色の男が魔法使いかもしれないと、アンナが口にしたので、そういう話が出たのだ。 下水路の一室に移り住み、しかし一週間と経たずに、あの二人は現れた。今度は、力ずくという感じだった。どういうわけかあの二人は、シルヴィーたちが街を出ていないことを知っていた。 アンナは、最近シルヴィーに教えてもらっていた文字で、手紙を書いた。高名な冒険者なら、あの二人を止められるだろうと考えた。このままではいつか見つかって、殺される。 シルヴィーが手紙のことを聞かされたのは、昨日のことだったという。日に二度、定時にここを離れるアンナに、聞いてみたのだという。 「申し訳ございません。事前に聞いていれば、止めていたのですが・・・」 シルヴィーが、セシリアに言う。 ネリーが、床板を動かして、秘密の隠れ家を物色していた。といっても土を掘っただけの穴倉で、ぱっと見では何もない、本当にただの穴だ。 「・・・なるほど。ともあれ、こうして私たちはここに来ることになったわけね」 「あの人たちを、止めて下さい!」 アンナが、叫ぶように懇願した。 「女の名前は、ジャクリーヌでいいのね。赤い髪、義手。二度目は大きな武器を持っていたそうね。おそらくは連裝機銃という武器よ。そうね、私が知っているジャクリーヌなら、殺しでもしない限り、止めるのは難しそうだけど」 テレーゼを振り返ると、彼女も小さく頷いた。ネリーは溜息をついている。フェルサリはジャクリーヌを知らない様子だったが、不安そうにこちらを見つめ返す。 「あ、あの・・・」 シルヴィーが、再び口を開いた。 「私はもう、それほど、長くは生きられないんです。そんな私の為に、あの人たちを傷つけるというのは・・・」 「シルヴィー様は、長生きしますよ! 私と約束したじゃないですか!」 目に涙をいっぱいに溜めて、アンナが叫んだ。 「・・・その病についても聞きたいわね。この街の医師では直せなかったという話だけど」 パリシは、アッシェンでは最大の都市である。この街の名医で直せないとなると、不治の病である可能性が極めて高い。 「身体を流れる魔力を、上手く身体の外に出せないみたいなんです。これは、医術の心得がある魔法使いの方に、聞いた話です」 「ちょっと、いいかな」 ネリーが寝台の横に立った。シルヴィーの肩に触れ、目を閉じる。その手が、熱いものに触れたように、弾かれた。 「あちち・・・そうだね。シルヴィーの言っていることに間違いはないと思う。かなりの使い手でも、ここまで魔力を溜め込んだら・・・」 言いかけて、ネリーは口をつぐんだ。つまりは、そういうことなのだろう。 魔力は、この世界を風のように流れるもので、人の身体にも入り、息を吐き出すように、また出て行くものだという話を、聞いたことがある。魔法使いは、その中の一定量を身体に留め、魔法という形で外に吐き出す。 もしもその魔力が身体から上手く出て行かず、そして吐き出す手段を持たないとしたら、身が保たない、ということになる。魔力そのものは、人の身体にとって有害なのだ。 聞くと、魔力を吐き出す為、魔術の手ほどきを受けたこともあったそうだが、その時既に、魔法を習得するだけの体力も残されていなかったという。 「・・・長くない。そう言われ続けてこの年まで生きてこられました。それこそ、神様の与えて下さった、奇跡なのだと思います」 十字を切る、シルヴィーの手は震えている。 「そうね・・・ただ、せっかくここまで来たんだし、何か、私たちにできることがあったら、言ってくれて構わないわ」 出会った時から何故か、セシリアはシルヴィーのことが好きになっていた。いきなりそう思えることは、セシリアにとって珍しい。好悪の判断は、相手の能力を見極めてからのことが多いのだ。だが、シルヴィーの言動から、その身に知性と品格が備わっていることは、すぐにわかった。その弱い身体がそうさせた謙虚さもあるのかもしれないが、元から備わっていたものなのかもしれない。 シルヴィーは、自分の状況を、とてもよくわかっていた。生い立ちの、財産を手放す下りでも、ただ叔父の言うことを聞いて署名したわけではなさそうだ。わかった上であえてそうしたシルヴィーを、もっと知りたいとも思う。 他の面子も、シルヴィーのことが好きになりかけているような気がする。境遇に対する同情ではない。この人の力になりたいと思わせる何か。人を惹き付ける力が、シルヴィーには自然と備わっていた。叔父が目の敵にするかのようにシルヴィーから全てを奪っていったのも、頷ける話なのだ。今も、脅威と思っているはずだ。武の天稟を持つ者のように、こうした魅力を持つ者はいる。 セシリアは、見返りを求めていなかった。こういう人間に会ったというだけで、セシリアにとっては代え難い何かとなっている。 セシリアの言葉を聞いたシルヴィーはしばし、丸い窓の外を見つめていた。パリシ中心を走るブークリエ川の川面が、街の灯を受けて揺らめいているのが見える。 「・・・アンナが、これから先も生きていく為の手助け。それをお願いできればと思います。ご迷惑でなければですが・・・」 「私は、大丈夫ですよ! 一人でも生きていけます!」 「あなたは黙ってなさい。それが、あなたの望み?」 「はい」 「アンナについては、わかったわ。色々ツテはあるから、彼女の望む場で働く口はきけると思う・・・でもね、もしもアンナがいない、あるいは心配する必要がないとして、あなたの、あなただけの望みは何かしら。私が聞きたかったのは、そういうことよ。この街一番の料理が食べたい? 一番のオペラ歌手に、目の前で歌ってほしい? そういうことなら、力になれるわ。せっかくここまで、あなたに会いに来たんですもの。そのまま帰るのは気が引ける。何でもいいから、言ってご覧なさいな」 この娘は、ずっと周りを気遣い、自分を押し殺してきたという気がする。自分勝手な人間が、最後の望みとして友を救ってほしいという話なら喜んで聞き入れたが、普段からそういうことを望んでいる人間に、自分だけの望みは何なのか、聞くべきだと思った。 「わ、私、シルヴィー様の夢、知ってます! いつか、きっと・・・」 セシリアが視線を送ると、アンナは黙り込んだ。 「いつか、きっと・・・?」 シルヴィーに先を促す。 「他愛のない、夢物語として、アンナとはよくその話をしました」 しばし目を閉じていたシルヴィーだが、何か壊れやすいものに触れるように、そっと、瞼を開ける。 「海が、見てみたいです」 セシリアは、壁にかかっている岬の絵に目を向けた。 「見てみたいのは、この海ね」 言うと、シルヴィーはその細い肩を、少しだけ震わせた。頬に僅かな朱がさす。シルヴィーくらいの年頃だと、恋した男に愛の告白をしていてもおかしくはない。シルヴィーにとってそれと同じかそれ以上に、大切な夢なのだろう。 「・・・待ち人岬という所だそうです。母が若い頃に旅先で見た海で、あの絵は、母がその時のことを思い出しながら、描いた絵なんだそうです」 なるほど。粗い筆致は、細部までは思い出せないから、そうなったのだろう。シルヴィーの母にとって、心動かされる光景だったのかもしれない。 「待ち人岬、ね。どこにでもありそうな名前でもあるわ。場所の見当はつくかしら」 「それが・・・父の話だと、ここからずっと南だという話しか、聞いていないようです。ごめんなさい、詳しい場所までは・・・」 シルヴィーを生んだことによって命を落とした母と、当然ながらシルヴィーは話をしたことがない。それで、シルヴィーがこの海を見たいと言った理由が、セシリアにはわかった気がした。難しいことではないが、セシリアが思っていたより、胸の痛む、切ない夢だった。 セシリアは一瞬、シルヴィーをまぶしく感じた。 「・・・そう。じゃあ、あの場所がどこか、調べてみるわ。後で、この絵を貸して頂戴」 こくりと頷くシルヴィーは、それだけで満足そうだった。話す勇気はない、それでも誰かに話したい夢だったのかもしれない。気を許したアンナには、わかってほしかったのだろう。しかし病弱なシルヴィーにとってはまた、難しい夢でもあった。 ここまで来て出会った人間が、たとえどんなにつまらないことを言っても、話だけは聞いてみるつもりで来た。思わぬ所に、思わぬ人間がいる。そしてセシリアだったらすぐにでも叶えてしまう望みを、大切な夢として胸に秘めている人間もいる。 何か見失いかけていたものをもう一度見せてもらったような気持ちに、セシリアはなっていた。シルヴィーとは、縁があったということでもある。 「あの海が見たい。それについては、きっと叶えて上げられるわ。他に何か、あるかしら。あなただけの、大切な夢は?」 シルヴィーは、目の端をそっと拭いながら、切ない笑顔で言った。 「・・・もう一度、花火を、見てみたいです。ここからはよく見えないので、先日の祭のものを、見逃してしまいました。これは本当に、どこの花火でも構いません。できれば、みなさんと一緒に、旅先で。こうして、素敵な方々と出会えて、一緒に私の好きなものを見てみたいと、そう思いました」 こういうことを、言えてしまう。 増々、商会がシルヴィーの手に渡ることを恐れた人間の気持ちがわかる。跡目争いには、他の商会も絡んでいたのだろう。こういった人間が頂点に立ってしまうと、競争相手としては、歯が立たない。シルヴィーが少しでも跡目争いに積極的になっていたら、この病弱な身でも、命を捧げた人間は多かったはずだ。まして健康な身体であったら、人も金も、吸い寄せられるようにシルヴィーの元に集まっていただろう。傑物になる器を、初めから持っている人間。 「わかった。ここにいるテレーゼが火薬の調合ができるから、私たちだけの花火も打ち上げられるわ」 「ええ、任せて下さいな。わたくしの砲は、花火を打ち上げることもできますわ」 セシリアと同じような感情を抱いたのだろう。それでいてその心の内を隠すのが苦手なテレーゼの声は、既に上ずってしまっている。 「私の望み、その話を聞いて頂いただけでも、感謝でいっぱいです。最後にこうした人たちに出会えたことだけでも、胸がいっぱいなんです。でも、今日初めて出会ったばかりなのに、どうして私の望みを?」 「あなたが逆の立場だったら、どうしたかしら」 言われて、シルヴィーは再び目を閉じた。少し潤んだ瞳で、セシリアたちを見上げる。 「あなたが、そういう人だとわかったからよ、シルヴィー。私も逆の立場だったら、あなたに何かお願いをしたかもしれないわね」 セシリアが言うと、シルヴィーは唇を震わせて、なんとか微笑みを返そうとした。
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