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 回廊は、まずまず丈夫な作りをしていた。
 それに関しては、僥倖だったとセシリアは思った。窓からは土砂が流れ込んでおり、弱い作りだったらこの通路は押しつぶされていただろう。そうなると外の掘削部隊の手に委ねなくてはならず、すなわちセシリアたちの踏破範囲ではなくなってしまう。
「この先がどこに繋がってるか、知ってる?」
 後ろにいる、アネッサに聞いた。
「うーん、ちょっとわかんないかなあ・・・」
 声音に、嘘の色は微塵もない。本当に、知らないのだろう。
「危険が、というより、フォティア神に出くわす可能性が少しでもあったら、躊躇なく引き返すわよ」
「そりゃもちろん。まあ、一目だけでもそのお姿を拝見したいと思ってるし、行ける所まで行ってみたいってのが本音だけど、あなたたちに迷惑かけるわけにも行かないから」
 これには嘘が混じっているなと、セシリアは判断した。理由までは聞いていない。
 突き当たりの扉。セシリアは事前にこの付近の地図を見ているので、礼拝堂から続く四つの扉の先に、どれも同じ程度の大きさの別棟に繋がっていることは知っている。しかし神殿そのものの地図ではないので、大まかに配置がわかっている程度だ。それぞれが何の建物かまでは知らず、当然、中の間取りはわからない。
 中に入ると、礼拝堂ほどではないが、広さを感じた。家二軒分ほどの広さだが、仕切りの壁は少なく、向こう側の階段まで一気に見渡せる。無数に並んだ長椅子に、左手に受け付けらしきカウンター。
「施療院ってとこかしらね」
 大きな宗教関連の建築物には、この手の施設が隣接していることが多い。受け付けを覗いてみる。書きかけの書類と転がったインクの壺に、当時の惨状を察することは出来る。過去四度あったゴルゴナ山の大噴火は、いずれも唐突に起きていた。
「大噴火は、神の怒りとも言われているわね。フォティア神も、お怒りになられたのかしら?」
「んー・・・フォティア様には、率直に言って、そこまでのお力はないと思う。もっと、直接的なお方だし。火を司る他の神々か、もっと大きな存在の所業なんじゃないかな。それに、こんな大勢に、ひどいことをされるお方じゃないよ」
「怒りに、我を忘れていても?」
 アネッサは、黙り込んだ。意地の悪い質問だったかもしれない。
 実際にフォティアに会ったことがあるかのような口振りも気になるが、信仰心の厚い人間の言葉は、セシリアのような人間からすると、真実の相場感がいくらか異なる。
 セシリアは人並み以上に事実を見通す目を持っていると自負しているが、それと真実は、また別のものでもある。若干自分の考える真実に近づける能力があるというだけで、突き詰めてしまうと、真実はやはり人によりけりという側面があることは否めない。真実に触れるということは同時に自分の愚かさを認めるということでもあり、それに耐えられる人間が少ないというのもまた、真実ではあるのだが。
「どの神か知らないけど、歴史上最も栄え続ける街を、こう何度も壊滅させられちゃ敵わないわね。世界帝国との関連は知ってる?」
「神々の狼煙、と言われてる話?」
「そう。大噴火はいずれも、過去四度興った世界帝国の絶頂期に起きてる。ゴルゴナを支配下に置いた帝国はなかったから、大噴火が帝国の凋落を招いたという因果関係は薄い。にもかかわらず、大噴火後にことごとく、帝国は倒れていったわね」
「そういう帝国の存在を、神々はお認めにならない、その怒りがゴルゴナの大噴火だっていう人たちはいるけど、そういうことは、あるのかもしれないね」
 受け付けの隣りは、薬方所だった。薬の瓶が、床に散乱している。棚にある乾燥させた木の根や実は、今も使われているものだ。大半は知っている薬だったが、まだ無事な薬瓶の中には、聞いたことのないものも少なくない。魔法が関連しているものと思われる。いずれもそれなりに在庫しているところを見ると、当時は一般的なものだったのだろうか。
「この施療院は結構流行ってたみたいね。評判が良かったであろうことは、推測できる」
「そうだよきっと。さっきからフォティア様の良くない側面ばかり話してきたけど、本当は慈愛に満ちた神様なんだから」
「きっと、そうだったんでしょうね。かまどの女神だしね」
「そうそう。身体や心に傷を負った人も、暖炉や、大きな火で暖まれば、癒されていくものでしょう?」
「確かに。それはそうだと思う」
「そしてかまどの火は、あたたかいパンを焼き、鋼を鍛えるのよ」
「・・・火には、人を集める力があるのかもしれないわね」
 アネッサは、剣が使える。練度に関しては、セシリアが事前に予測していたものとほぼ同程度だったと、先程の戦闘で見せてもらった。
 ただ、天稟もあるにはあるが、この若さで、あそこまでの使い手になれる素質はなかったはずだ。長い鍛錬で身に付けてきたという確かさと、同時に固さも感じる。多少意外でもあり、見立てと食い違う部分もある。アネッサの見た目は、十代の後半から二十代の前半といったところか。
 アネッサは全体的に色素の抜けたような容姿を持っており、ひょっとしたら何か異種族の血が混ざっているのかもしれない。エルフのような、長命な種族か。そして思っているよりも年齢が上なのだとしたら、加えて幼い頃より厳しい鍛錬を欠かしていないのだとしたら、いくらか整合性は取れる。
 アネッサは、受け付けの卓に置かれた、書類を眺めていた。
「ランタンつける? ここの照明では、文字を読むのはつらいわ」
「ううん、大丈夫。セシリア、思っていたより優しいのね」
「どうかしら。気を効かせただけよ。厳しいと思われることの方が多いけど」
「ごめんね。こんな私を受け入れてくれて、申し訳ないと思ってる」
「・・・謝ることじゃないわね。それに、今言うことでもない」
 この娘の狙いが何なのか、セシリアにはもうひとつ読み切れていない。考えてみれば、わからないことだらけである。
 やはり、この神殿のどこかにフォティア神がいて、単身、怒れるフォティアの角を折りにでも行くつもりなのだろうか。巫女の血を引く者も戦士の血を引く者も、今は行方が知れないと言っていた。そんな話は真に受けず、仮に実際はどちらかの血を引く者だったとして、さらにフォティアの剣がここで見つかる、あるいはアネッサが隠し持っていたとしても、どうしてもひとつ、足りないピースは出てきてしまうのだ。
 いや、もうひとつの可能性についても、聞いておかなくてはなるまい。
「巫女の血筋と戦士の血筋、その二つの間にできた子は、その両方の資格を持ち得るの?」
 会話の流れからすれば、唐突だったのだろう。驚いた様子のアネッサは、それでも苦笑しつつ答えてくれた。
「その二つの血筋の者は、交わることを許されていなかったの。というより、過去に何度かその二つの血筋の子は生まれたらしいんだけど、その二つの血が持つ力に耐えられずに、みんな赤ん坊の内に命を落としちゃったんだって・・・ふふ、少しはフォティア様に興味もってくれたみたいで、うれしいわ」
 微笑むアネッサの顔は、ひどく寂しげだ。
「いずれ、あなたの語りも、ゆっくり聞いてみたい気がするわね」
 やはり、ひとつ、ピースは足りないわけだ。
 血については、半ばセシリアの予想通りである。力、権力は、分散を好まない。しかし統治機構ではあらゆる人間、多種族間の思惑が重なるため、自然権力は分散傾向にあるのが好ましいとされる。が、宗教的なものでは、ましてセイヴィア教のように大陸中に広まっているわけでもない宗教組織では、力の分散は足枷にしかならないはずだ。それでもあえて、重要な力を二つに分けた。つまりはそうせざるをえなかった理由があるということだ。儀式的な理由ではなく、真に必要な理由によってだ。分けたのではなく、分けられている。
 血が持つ力は、権力を象徴しているのではなく、実際に超自然的な力だったのだろう。
 事務所として使っていたであろう一角を捜索する。めぼしいもの、金目のものだが、そういったものはあまりない。金庫のようなものも、ここにはないようだった。アネッサは興味津々といった様子だが、それはそうだろうという気がする。彼女にとっては千年の空白が埋められていく、大切な時間なのだから。
 ふと、見落としていた何かが、脳裏を横切っていったという気がする。しばし考え込んでみたが、もやもやとしたものが、頭の中で渦巻き、霧散するだけだった。
 それにしても、とセシリアは苦笑した。どうも自分は他人の領域に踏み込もうとする性分らしく、そのことは欠点として自覚していた。アネッサの領域に、どうしても足を踏み入れたくなる。
 もう二棟。踏破した先がここと同じような感じでも、この神殿自体の歴史的価値は高い。特に何も調べず、アネッサに干渉せず、そこで引き返しても、それなりに利益は出るだろう。その、ひとつ先。それを、セシリアたちは見る必要があるのだろうか。
「ここはもう見たね。セシリア、上の階も見るんでしょう?・・・どうしたの、さっきから。心ここにあらずって感じだわ」
「愚か者は真実に傷つく、って言うけど、真実を暴かれた側はどうなんでしょうね。およそそちらの側の話ばかり、私は見てきたという気がする。傷ついていいのは、私の方なんだけどね」
「・・・え? 急に、何の話?」
「ちょっと、考え事をしていただけよ。さ、行きましょう」
 口を開けて佇むアネッサを追い越し、セシリアは階に足をかけた。

 いわゆる、客殿というものだろう。
 扉を開けたフェルサリは、辺りを見回した。広いロビーに、受付。いくつかあるゆったりとしたソファーは、触れただけで大量の埃を巻き散らかした。隣りのネリーが、盛大に咳き込む。
「ごほごほ・・・あ、あんま、見るものなさそうだねえ」
「す、すみません・・・! 上も、見てみましょう」
「ざざっとでいいんだよ。踏破したとこまではあたしたちのもんなんだから。どうせ後で売る時に、目録作ったりするんだからさあ」
「え、ええと・・・その、何か、宝箱・・・お、お宝が、あるかもしれませんよ?」
「なっはっは! フェルサリ、冒険小説とか読みすぎー! そりゃまあ、この神殿のどっかに、お宝と言えるものがあるかもしれないよ? でも客殿にそういうの、置いとかないって」
 言われてみれば、その通りだ。
 奥に厨房を見つけたが、めぼしいものはなく、地下室も、ただの食料保管庫か、倉庫のようだ。干涸びたり朽ちたりしたものの数々。
 フェルサリは、二階への階段を上った。長い廊下と、いくつもの扉。大きな宿と、同じような構造かもしれない。ただ、扉のいくつかは、開け放たれたままだ。
 大噴火の際、ここにいた人たちが、慌てて逃げ出した様子が目に浮かぶ。
 手近な部屋に入る。寝台と、卓。衣装棚。果たしてそれは、寝台の向こう側に、堂々と鎮座していた。
「あ、ネリーさん、来て下さい」
「ん・・・お、おおー」
「宝箱・・・ありましたよ?」
 いかにも宝箱、といった雰囲気の箱が、そこにはあった。湾曲した蓋は金属の枠でしっかりと補強してあり、鋲がいくつも打ってある。
「なんつって。チェストじゃん。そりゃまあ、ある意味宝箱だよこれは。ここに泊まる人が、滞在中に大事なものを入れておくための箱。今でも昔からやってる宿屋さんとか、こういうの普通にあるよ。東西亭の三階から上の宿にも、こういうのある」
「あ、あ・・・そ、そうですか」
 振り返ってみると、フェルサリは宿もないような小さな村に生まれ、その後セシリアの家に引き取られ、こうした宿のようなところに泊まったことがない。前回の、初めての冒険も、列車の中で寝て、後は野営だった。スキーレ・ペッカートル城にも滞在したが、これよりもずっと小振りで、蓋の部分も湾曲しておらず、ただの衣装箱、長持、貴重品入れとしてしか見なかったのだ。昨晩泊まった宿は、逆に金品や貴重品の類は、受け付けに保管できるようになっていた。
「フェルサリの言いたかったお宝とか、宝箱って、こういうののことじゃないでしょ? もっとこう・・・誰も足を踏み入れたことのない森の奥深く、古の邪神を祀る神殿の祭壇に隠されたいわくありげな箱、あるいは世界の海を股にかけた大海賊の沈没船に今も残された秘宝の入った箱、そんなんじゃない?」
「うぅ・・・そ、そうかもしれません」
「でもこれ、フェルサリの言う意味でも、ある程度は宝箱だよ。ちょっとした宝飾類とか、どっかの土地の権利書、その他諸々のものが入っている可能性はあるかもよ。お金になる。やった!」
「あ、あまり、うれしく・・・ないです・・・」
 気を取り直し、中を開けて見ようとしたが、鍵がかかっているようだった。
「時間があったら、後でセシリアに頼むといいよ。職人に頼むとお金かかるし」
「え、母さん、そんなこともできるんですか?」
「できるよ。ていうかむしろ、そっちが専門だから」
 言って、ネリーはにやりと笑った。
「専門・・・?」
「ああー、フェルサリって、セシリアのそういうとこ、あんま見る機会なかったもんねえ」
「・・・どういうことです?」
「わ、怖い顔しないでよ。あたしも、セシリアの過去については詳しく知らないんだから。特に隠し立てしてるって感じじゃないんだけど、聞かれるのも好きじゃないみたいなんだよ」
 確かに、自分がセシリアについて知っていることは、あまりにも少ない。今のセシリアについてもよく知らないのだから、過去については当然と思い定めてしまっていたのかもしれない。
 ただ、十五歳くらいから冒険者のようなことをしていて、十六歳くらいから急速に名が広まったという話は聞いている。加えて、出身がアングルランドというくらいか。
「あたしも、パーティの他の面子も、セシリアの過去についてはよく知らないから、たまにあれこれ話したりするのよ。色々推測するのは本人、全然構わないって感じだし、少しは質問に答えてくれたりもする。ウチの中じゃ、ニコールが一番付き合い長いけど、知り合った当時のセシリアは、格好こそ剣士って感じだったらしいけど、今みたいな綺麗な剣術身につけてたわけじゃなかったんだって。セシリアが正式な剣術やりだしのは、ナザールと知り合ってからだよ」
 いずれも、初めて聞く話ばかりだ。
「さっき、セシリアが錠開けもできるって話して、フェルサリ驚いてたけど、それってセシリアを基本、剣士として見ているからでしょう? あたしたちは、セシリアの出自は、剣士の家に育ったとか、剣術の教師がつくほど恵まれていたとか、そういう感じじゃないと思ってる。変に剣を極めちゃってるもんだから、一緒に冒険してない人が、セシリアを剣士として見るのはわかるよ。あの格好だしね」
 話している内に少しやる気が出たのか、あるいはこの話題を続けることに微妙な抵抗があるのか、ネリーは率先してそれぞれの部屋を見て回った。フェルサリも後に続く。
「あたしは知りたいけど、触れちゃいけない過去なのかなって思ってる。でもたまに好奇心に負けて、ちょろっと本人に聞いちゃったりするんだけどね。そういうのには、短い言葉で答えてくれる」
 扉が閉まっていた部屋の宝箱、長持には鍵がかかっておらず、中身はいずれも空だった。
「あたしたちにとっては、触れちゃいけないけど、触れたいと思っている過去。ひょっとしたら、セシリアにとっては、話したいけど話せない過去なのかもしれないね」
「・・・私、母さんのこと、もっと知るべきなのかもしれません。もちろん、母さんが不愉快な思いをしない範囲でですけど」
「うん。フェルサリなら、セシリアも話したいこと、全て話してくれるかもしれないね」
「あっ・・・!」
「え、どしたの?」
「それを言ったら、私、ネリーさんのこともよく知りません」
 そうなのだ。フェルサリは、ネリーのことも、よく知らない。
 セシリアの家に引き取られた時、フェルサリは精神的な痛手から、言葉を失っていた。そんなフェルサリに、あれこれ話しかけてくれた人。言葉を取り戻すのは一瞬だったが、そのきっかけをくれたのが、ネリーだったと思っている。自分にとって、大切な人。これも、それだけでいいと思い定めてしまった部分がある。
 自分はもっと、色々なこと関心を持たなければならない。
「あ、あたしのこと? ああ、今まではあたしもフェルサリのこと、セシリアの子供の一人だとか、単に友だちだと思ってたからね。冒険の話は、血なまぐさい話が多いから。パーティの面子か、同業者とかとしか話さないし」
 パーティの面子が、配慮から、自分たちのことをあまり話そうとしないのは知っている。いや、そこから得た教訓などはむしろよく話してくれるが、冒険の経緯や顛末についての具体的な話を避けることは多い。汚い仕事をすることもある、と以前誰かが言っていた気がする。単に、血なまぐさいだけの話なら、してくれることはあるのだ。特に年頃の男の子たちはそういう話に興味を持つし、女の子たちも、内心では興味津々だったりする。フェルサリも、その内の一人だった。
「・・・そうだね。もう仲間なんだから、何を聞いてくれてもいいよ」
 言って、ネリーはいつものように、にこりと笑った。

 鼻歌を歌いながら、ネリーは探索を続けていた。
 ネリーの過去。それを聞く機会を、フェルサリは得た。どう切り出すか、しかし言葉は自然と口に出た。
「ええと、ネリーさんは、グランツ帝国の出身なんですよね」
「そうそう。普通の農家に生まれたんだよ。普通ってのは、小作農ってことね。んで、子供の頃に旅をしている魔法使いのおじさんに会ってさ、素質があるからって、帝国の魔法大学に、タダで入れたの」
「そ、それって、すごいことなんじゃないですか?」
「うーん、そうね。でもそうやって魔法大学に入るのって年に一人二人はいるし、同期にも一人、同じ経緯で入った人がいるよ。今もスカウトの人が帝国中を旅してる。時に帝国の外でもね。あたしを見出してくれたおじさんも、そういう人の一人」
 なるほど。そのような体制は整っており、ネリーも眼鏡にかなった一人ということだ。
「ま、あたしの場合、入ったのが八歳だったってのが、珍しいと言えるのかな。普通は早くても十代半ばくらいだから。最初は文字の読み書きから始めたんだよ。うーん、思えば遠くへ来たもんだ」
 ネリーは腕を組み、うんうんと頷いている。
 客殿の三階に移動しつつ、ネリーの話を聞く。
「魔法の基礎的な過程を学んでいる時に、ふと、今までにない魔法を思いついたの。あたし、数学も得意だったんだけど、それは純粋な魔法使いを目指す者としては、珍しかったのね」
 純粋な魔法使いを目指す者は、魔法以外の学問として、歴史や文学、政治などを修めることが多いのだという。一方、数学、物理などを学ぶ者たちは魔法と科学の技術を合わせた、魔法科学を目指す者が多いそうだ。というのも、科学の技術には、数学的な思考が不可欠となるからだ。
 魔法使いが専門的な数学を学ぶというのは、つまり魔法と科学という、相反する技術の架け橋としての意味合いが強いというわけだ。
「純粋な魔法使いでも、最低限の数学をやる人は少なくないよ。面積や体積の求め方は、知っておく方が便利なわけだから。ま、ほとんどの魔法使いは、その辺経験や勘でやってたりするんだけどね。ただ、そういったものでしか得られないものも多いのが魔法の特質だから、何がいいってのは、はっきり言えないかなあ」
 ネリーはクッキーを二つに割り、フェルサリに渡した。ネリーは背嚢に、どれだけの菓子を詰め込んできたのだろう。口にすると、バターの濃厚な香りが口内に広がった。おいしい。フェルサリはこうした素朴な味わいのものが好きだ。
「ともあれ、あたしは数学を元に、あたし独自の魔法の発見と確立を目指したわけ。というより魔法の勉強をすることでも、数学がわかっていったっていうのかなあ。それで、新しい魔法を思いついたっていうのかなあ。で、あたしの魔法は経験や勘じゃなくて数式を元にしてたから、後は計算で、あっという間に新しい魔法体系を作っちゃったわけよ」
 要は、ひとつひとつ検証しながら丹念に魔法体系を編み上げていったのではなく、いくつかの重要な数式を組み合わせて、それを魔法に当てはめれば、時間はかからなかったのだという。言われてみると簡単に聞こえるが、そんなことはないのだろうと、フェルサリは思った。
「ま、あたしの魔法には、種も仕掛けもあるってこと。種と仕掛けを見つけたのが、発見だったと言えるんだけどさ。これがあたしが十五歳の時」
「す、すごい・・・ことなんですよね?」
 ネリーはにんまりと笑い、赤いチョークで三階の突き当たりの壁に印をつけた。これで一応、客殿に関しては踏破したということになる。
「どうかなー。ま、十五歳でひとつの魔法体系作ったっていう人は、過去の魔法体系作った人たちの中にはいなかったかもしれないけどね。もっと若くして魔法体系の習得を極めちゃう人はいるけど、既にある魔法体系を学んで、オリジナルの魔法をひとつふたつ作る程度だから、そういう意味じゃ、あたしはちょっと、特殊だったのかなあ」
 オルガは、魔術の天才ということだった。しかしネリーの天稟がそれとはまったく違う種類のものだということは、フェルサリにもわかる。そこでフェルサリは、あらためて思った。あのセシリアと行動を共にしているのだ。ただの魔法使いではないということは、ある意味当然なのかもしれなかった。
「実を言うと、あたしも大学にいた頃は、そのことでちょっと鼻高々だったこともあるんだけどね。でもさ、セシリアたちと一緒にいたら、あたしにも得意なことがひとつくらいはある、程度の認識に変わっちゃったよ。みんな何かしら一芸持ってるし、あたしから見ても、その筋の天才なんじゃないかなあって思うもん。というより、もうあたしの理解超えてたりもするし。何なのこの人たちって、最初の頃はずっと思ってたんだよ」
 フェルサリは、セシリアに対しては、いつもそう思っている。今、ネリーに対してもそう思いつつある。他の面子に関しても、フェルサリが無知だから、まだそのすごさがわかっていないだけだ。
 自分は、何なのだ。自分を顧みて、フェルサリはそう思わずにはいられない。
「んでそこから三年間は、そのまま大学に残って、重力の魔法体系の、もう少し突っ込んだ研究や、それを学生たちに教えたりしてた。むふふ、教授だったんだよ」
 教授という響きには、素直に感心する。そのことがかえってフェルサリの不勉強振りと無力感を、より一層痛感させた。
「でも、ここ来る前にちょっと話したじゃない? あたしの魔法体系は、魔法に関して伝統的な考えを持っている人たちにとって、不都合だったんだよ。あたしはそんなつもりなかったんだけど、他の魔術の長老たちに言わせると、前衛的すぎるんだって。確かに、あたしの発想は科学寄りだったし、その哲学が魔法の哲学の否定に繋がることも、うっすらとわかってた。ま、仕方ないね。あの人たちは魔法の伝統を守ることで、ご飯食べてるんだし」
 一瞬、いつも明るいネリーの顔に、暗い影がさした。うつむくと、広い帽子のつばで、表情が読み取れない。
「あたしから教授の座を取り上げる、だけだったら良かったんだけどね・・・ま、色々あったのよ。ごめんね、話すって言ったけど、ここから先は、他の誰かに聞いて。あたしが話すと、ちょっと感情的になっちゃうかもしれない」
 ネリーは元々感情の起伏が激しいので、よく笑うし、よく怒る。だがそんなネリーのこのような、肚の底に溜まった暗い怒りを見るのは、初めてだった。
「こういう暮らしをするようになってから、魔法連合領から来た、生粋の魔術師と話す機会があったのよ。で、聞いたの。あたしの魔法、万物は一定の法則に従っていて、不確定要素はないとする発想を、どう思うかって。全てを不確定とするあなたたちの魔法を、否定することになるでしょって。そしたらその人言ったのよ」
 はっとするような笑顔で、ネリーは続けた。
「そういうものがあることこそ我々の想定外で、まさに不確定要素のひとつだって。笑っちゃうよね。魔法に関して超がつくほど保守的な人たちが、実は魔法の先端を行こうとする魔法大学の人たちよりも、ずっと進んだ考え方を持っていたんだよ。懐が深いとでも言うのかねえ。あたし、魔法連合領の魔法使いの家に生まれてたら、今とは違う人生を送ってたんだろうなあ」
 いつも明るいネリーにも、その生い立ちに悔恨の念があった。フェルサリは、何と言葉をかけていいか、わからなかった。
「・・・あたしには、夢があるんだ。いっぱいお金稼いで、魔法連合領に土地を買うの。空いてる土地いっぱいあるから。でもあそこにいると外界との接触は少なくなるから、領地の人たちが自給自足できるくらいの、広い土地が必要になるなあ。けどオルガの話聞いて、ちょっと希望が持てた。ああいう方法で、領地の自立もできるんだって。その意味で、オルガは天才だなあって、つくづく思ったよ。あたしもいつか、会ってみたいなあ」
 月並みに言えば、天才は天才を知るということなのだろうか。フェルサリはオルガと話す機会が多かったにも関わらず、その凄みの一端も理解できていなかったのだと思い返す。経済、魔術。フェルサリのまったく知らないことをよく知っていてすごい、その程度の、浅い理解だった。
 ネリーとオルガ。この二人が自分のことを友だちだと言ってくれることに、今更ながら、打ちのめされそうになる。自分には、誇れるものが、何もない。
「あ、なんか暗い話になっちゃったかな? ごめんね。じゃ景気づけに、あたしの魔法を見せてあげるよ。セシリアいると、魔力の無駄遣いすんなって、うるさいからさあ。今ならいないし、これはチャンスだね」
 先程ネリーの見せた魔力付与などは、基礎的な魔法で、ほとんど誰でも扱えるものらしい。そういえば、オルガもジネットも、そういう魔法を使っていた。
「い、いいんですか?」
「いいのよう」
 客殿の、玄関ホールに戻って来た。髪の房から小さな魔力の珠を取り出し、小さな声で、魔法の言葉を紡ぐ。
「じゃ、あのソファーに注目」
 ぴたりと、ネリーがソファーのひとつを指さす。指をくいくいと動かすと、滑るように、ソファーは二人の元に引き寄せられた。
「あ・・・!」
「もうひとつ、こんなのはどうかな?」
 ぽんと、ネリーはフェルサリの肩を叩いた。途端に、腰の辺りに何とも言えないむず痒さが走る。力の抜ける感覚に抗おうと足に力を入れようとしたが、入らない。いや、足が宙を掻いている。いつの間にか、上を向いていた。抱きかかえられるように、フェルサリの身体は宙に浮いているのだった。
「わ、わ・・・!」
 ばたつかせていた足が地に着き、フェルサリはそのまま尻餅をついた。
「なはは、ごめんごめん」
「で、でも、何か、面白かったです・・・!」
 ネリーは笑うと、座ったままのフェルサリに手を差し伸べる。
「戦闘では、使いどころが難しいんだけどね。遠距離で、動き回る対象には、そう簡単にかからないから。ま、そのために回路を繋ぐ技があるんだけど」
 ネリーは例の、銃身が機関車の形をした魔法銃を取り出してみせた。持ち手にある小さな突起を、かちりと動かす。
「こうすると、殺傷力はないけど対象をマーキングできる弾が出せるの。回路が繋がれば、もう少し力を強めることはできるかな。対象の力が体重と比べて強い場合は、抵抗されちゃうけどね」
 対象の重さがあればあるほど、魔法の効果は高いのだという。ただし、空を飛べるほどの力があれば、たとえば竜や、先日の巨人殺しのような、体重があるにも関わらず同時に空を飛べるほどの相手だと、大した効果は望めないということだ。
「せいぜい、空を飛べなくするくらいかなあ」
 対して、先刻のゴーレムのような類は、力はかなりあるといっても、本来あれが生き物だったらもっと力があってもいいということで、効果は高いのだそうだ。おそらくあのゴーレムの体重は二トン弱で、二トン弱の生き物であれば、力はあんなものではない、ということらしい。
「ま、あたしは相手を攻撃するよりも、邪魔したり、味方の援護をするのがメインかな。戦力としては、まあ期待しないでちょうだい」
 そう言って、ネリーは苦笑する。だが、セシリアはネリーの能力を信頼しているように思う。こうしてフェルサリと組ませたことでもそれはわかるし、本人が言っているよりも、戦闘力は高いのだと思う。
「あとは・・・これはおまけで、ちょっと応用編。あんま神殿傷つけると、価値が下がっちゃうしね。軽めにやるけど」
 ネリーは軽く、右脚を上げた。そしてその小さな足で、地面を無造作に踏みつける。
「っ・・・!」
 地を揺るがす強烈な破壊音。あの、ゴーレムが暴れていた時のような衝撃だ。
 ネリーがもう一度足を上げると、へこんだ石畳に、大きなひびが入っていた。やはり、ネリーにはとてつもない技がありそうだ。
「あっちゃあ。軽く踏んだつもりなのに。後でセシリアに見つかったら怒られるから、このへこみは、最初からあったことにしよう」
 ネリーはそう言って頭を掻いたが、石畳にその足跡は、しっかりと残っていた。

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