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 思っていたより、客の入りは多かった。
「すまんな、セシリア。今晩は、いい席が空いてない」
 東西亭の主人が、申し訳なさそうに頭を下げる。ゴルゴナに来る時にはよく寄るので、馴染みと言っていい。
「いいのよ。そこの、中央の席でいいわ。今晩は冷え込むってわけでもないし」
 暖炉から遠く、出入り口に近い。冬場は嫌な席で、今晩くらいでも暖炉に近いか、熱の反射を期待できる壁際がいいに決まっているが、あえて店を変えようとまでは思わなかった。
 三人で席に着く。もう少し近代的な店もゴルゴナには多いのだが、田舎の酒場をそのまま大きくしたようなこの店の雰囲気が、セシリアの好みでもあった。そして何よりも、この店には他にない目玉がある。
「んじゃ、あたしは、ラーメンね。ええと、とんこつができるんだ。じゃあそれで」
 ネリーが女給に告げる。そう、この店の売りは、東西あらゆる料理がメニューにあるということである。しかし年中全てのメニューを出せるということではなく、セシリアはあれば頼もうと思っていたヒノモトのそば、通称日本そばが今日のメニューになかったので、軽く落胆しているところでもあった。
「ピッツァ・マルガリータとトマトとモッツァレラのサラダ。充分すっきりしたメニューだけど、さっぱり仕上げて頂戴。バジル多めで。あと赤ワインをグラスで、食後にエスプレッソ」
 結局、レムルサでいつでも食べられるようなものにしてしまった。
「かしこまりました」
「ええと、私は・・・」
 フェルサリは、メニューを見ながら、まだ決めかねているようだ。壁に掛けられた黒板の字を見ながら、口をぱくぱくさせている。
「じゃ、後でまた聞きに来ますねー」
 女給はあっさりと引き上げてしまった。今晩は忙しく、厨房の中も慌ただしいことだろう。
 ようやくフェルサリが女給の一人をつかまえ、フォカッチャとオニオンスープを頼んだ時には、ネリーのラーメンが運ばれていた。
「んで、手続きは滞りなく済んだの?」
 ずるずると麺をすすりながら、ネリーが聞く。箸の使い方は綺麗なものではない。
「問題なし。明朝九時、発掘現場に行ければと思ってる。まあ二十四時間の縛りは中に入ってからのものだから、少し遅れてもいいわね。事前にそのことも伝えてあるから」
「ところでえ、セシリア、お楽しみの方はどうだったの?」
 例のことを言っているのだろう。あまりフェルサリの前でしたくない話ではあるが、その手の話について、フェルサリがどう思っているのかはわからない。反応については、セシリアも気になる。
「あいにく、気に入ってた男に先客がいてね。二時間待ちだっていうから、またの機会にしたわ。他にめぼしい男もいなかったし」
 フェルサリは、きょとんとした顔をしている。
「・・・あらぁ、ネリー。そういう話を振ってくるくらいだから、フェルサリには話してあるものとばかり思ってたけど?」
「ええー、気まずいじゃん。純なフェルサリに、そんな話できないよう」
「・・・じゃあ、その話自体、彼女の前で振るのはやめなさい」
「あ、あの・・・私が聞いては、いけない話なのでしょうか・・・」
「え、ん、うーん・・・どうなのかしらね。他の面子は知ってることだし、フェルサリだけ蚊帳の外と言うのも、それはそれで、問題あるかもしれないわね・・・」
 やはり、母と娘として接してきただけに、いくらか気が引ける部分はある。そうはいっても、年齢はセシリアの倍近い。冒険者としてまだ半人前だとはいえ、人としては対等か、それ以上に接しなくてはいけないだろう。フェルサリの人生はこれまでも、これからも長い。
「遊郭に行ってたのよ。妓館と言ってもいい」
 フェルサリはしばらくの間、目をぱちくりとさせていた。やがて言葉の意味がわかったらしく、頬を朱に染めて、口を開いた。
「か、母さん・・・お、女の人と・・・」
「ぷっ! にゃはははは! 違う。違いますよおフェルサリさぁん!」
 麺を噴き出しかけたネリーは、フェルサリの肩をばしばしと叩いた。
「え、ええと、何が・・・」
「買うのは、女じゃなくて男よ」
 セシリアが言うと、先に他の勘違いをしていたフェルサリに、妙な安心感を与えてしまったようだった。
「あ・・・な、なるほど・・・」
 セシリアは、運ばれてきたピザの一片を取った。
「え、ええと・・・男の人とも、そういうことができるところなんですね。あ、いや、その、女の人がそういうことをしている場だと思っていたので・・・」
「ほとんどは、そうよ。ただこういう大きな街になると、男を買える場所も少なくない。それに男が男を、女が女を買うことだってできるのよ。私も、気が向いたら女同士でもいいと思ってる」
「な、なるほど・・・」
 フェルサリは、興味津々といった様子で頷く。人間と半エルフ、年齢差などを考えるとややこしくなるが、フェルサリは外見通り、そういうことに関してはちょうど年頃の娘と同じような感覚であるようだ。
 フェルサリの料理も運ばれてきた。フォカッチャを両手で持ち、小動物が餌をかじるように、ちょっとずつ口に入れている。やや俯き加減で、耳まで赤い。
「・・・あ、でも、知っておいてよかったです。母さんがそういう場所に行きたい時に、私に気を使わせてしまっては、申し訳ないですから」
「くぅー! フェルサリ、いい子だねえ!」
「・・・今回ばかりは、ネリーと同意見だわ。私の方こそ、変な気を使わせちゃいけなかったわね。ま、食事時だし、この話はまたの機会にしましょ」
 フェルサリの心は時に読みづらく、はっきりとしたことは言えないが、性欲に関しては強いものを持っていると見ている。持て余す夜も少なくないだろう。聞いた話ではまだ異性と関係を持ったことはないようなので、妓館を薦めようとは思わなかった。本人の意思を尊重するとはいえ、やはりどこか、汚れてほしくないとも思う。
 しかし自分に当てはめてみると、そういう場に行くことで、自分が汚れているとも思っていない。性欲は性欲と、割り切っているからだろう。むしろ性欲を満たす為に素人の男と関係を持つことの方に、罪悪感を感じる。この辺りの考えは人それぞれだが、フェルサリの初夜は、やはり惚れた男と過ごしてほしいと思う。
 セシリアは、初めから妓館だった。生い立ち上、仕方なかったとも言えるが、その部分に対する忸怩たる思いは、今も胸の奥でくすぶっている。
 不意に、肌を刺す感覚があった。
 店の扉を開け、入ってきた娘。しばし辺りを見回した後、逡巡せず、こちらの卓に向かってきた。
「あ、よかったら、ここ、いいかしら?」
 セシリアたちの卓は、三人で座るにはいくらか広い。
「いいわよ」
 セシリアが言うと、娘はにこりと笑って席に着いた。紫がかった深い色の上下、首元に赤いスカーフを巻いている。二刀を差しているが、戦士の風格はない。冒険者か、旅慣れた者だろうという雰囲気は醸し出している。
 しかし、おや、と思うくらいに、剣が使える。
 抑え込んではいるが、気はある程度隠せても、挙措にそういうものは出てしまうものだ。
「あなたたち、セシリア・ファミリーの面々で、あなたが、セシリアでしょう? あ、すみません、私はポトフと、とうもろこしのパン。白ワインをグラスで」
 女給を呼び止めつつ、娘は飄々とした様子で続ける。この店には来たことがあるようだ。
「私は、"かまどの語り部"アネッサ。どうぞよろしくね」
 三人もそれぞれ名乗る。アネッサは一人一人に微笑みかけた。快活そうな印象もあるが、笑顔にはどこか陰がつきまとう。剣のことを置いても、ただの語り部をしている若い娘、というわけでもなさそうだ。
「"かまどの語り部"・・・ああ、なるほどね」
「ふふ、さすが天下のセシリア、察しが早い」
「どういうこと?」
 ネリーが食後に注文したケーキにフォークを差しながら言う。
「どういうことかまでは、本人に聞きなさいな」
「あなたたち、フォティア神の遺跡の発掘許可を持っているんでしょう? よかったら、私もそこに同行させてもらえないかしら」
 ネリーとフェルサリは、セシリアに目をやる。アネッサは、その二人に目をやる。
「あ、ごめんなさい。私、フォティアにまつわる伝承の語り部をやってるのね。あなたたちが今回発掘、探索権を得たのは、フォティア神殿の総本山・・・ていうか、まともなのは、もうそこしか残ってないんだけど」
 頬を掻きつつ、アネッサは苦笑する。
「急に割り込んで、申し訳ないと思ってる。でもフォティアの伝承を語り継ぐ者としては、大噴火直後の中の様子を、なんとしても見ておかなくちゃいけないのよ。後から学者たちが入って、色々持ち出した後では真実は見えないわ。あなたたちの邪魔はしないし、手伝えることはなんでもする。だからお願い、私も連れてって!」
 一気に言うと、今度は何度も頭を下げた。ネリーはどうということもないように、フェルサリは初めは警戒していたものの、今は少し困った顔で、セシリアに目を向ける。
「で、あなたには何ができるの?」
「うーん・・・ちょっと、剣が使えるわ。フォティアの伝承には詳しいつもりだけど、それが中に入ってから、どの程度役に立つかはわからない。何か伝承に隠された秘密の暗号を知っていて、それで秘密の扉をぐわわーっと開いて、みたいな展開があればいいんだけどね。私から言うのもアレだけど、そういうのはどうかなあ・・・」
 剣は、まず上級と見ていいだろう。セシリアには及ばないものの、フェルサリくらいであれば、束になっても敵わないほどの使い手である。そして率直な物言いは、なかなか好感を持てる。
「明かり持ちくらいの役には立ちそうね。当然、そのくらいの報酬しか出せないけど」
「ああ、もうそれでオッケー! 連れて行ってくれるの? 助かるわあ」
 今までの笑顔は、ある程度作っていたのだろう。アネッサは初めて破顔し、安堵の溜息をついた。
「そういえばさ、なんであたしたちが探険に行くってわかったの?」
 いつのまにか次のケーキを注文していたネリーが、その二つ目を頬張りながら言う。
「ふふん、語り部の情報収集能力を舐めないことね・・・と言いたいところだけど、実を言うと、神殿の発掘権が買われたこと知って、ずっと待ってたのよ。で、探索が近づいたら教えてくれるよう、人に頼んでおいたの」
 アネッサの口振りには淀みがない。が、その流暢な話し口に、違和感も感じる。どこが、とは言えないが、今までの話には、真実を微妙に曲げている言い回しがあるように、セシリアは感じた。事実嘘は言っていないが、大切なことは話さない。そんな調子だ。
「それにしても、というか今更だけど、あなたが大陸五強のセシリアなのね・・・現代の英雄とこうして知り合えて、光栄だわ」
 もうすっかり輪に溶け込んだというように、アネッサは運ばれてきた料理に口をつけ始めた。ネリーが、新しいケーキを頬張る。
「このショコラケーキ、んんんまいっ! フェルサリにもあげるよ。はい、あーんして」
 ネリーがフォークに刺したケーキの一片を、フェルサリに差し出す。
「ほら。ほらあ」
「え? あ、こんなところで・・・」
 この二人は、仲がいい。セシリアの見ていないところでも、よくこうしてじゃれ合っているのだろう。というより、ネリーが一方的に、フェルサリとじゃれようとしているのか。
「ほら。ほらあ。あーん」
「え、え・・・あ、あーん・・・」
 しつこいネリーに根負けし、フェルサリが口を開けた。頬を朱に染めながら目を閉じ、眉をひそめながら、小さな舌を差し出している。
 しかしネリーは宙で手を止めたまま、その様子をしばらく楽しんでいた。フェルサリの長い耳が、ぴくぴくと動いている。
「・・・?」
「・・・うわぁ。フェルサリのその顔、なんかえっろぉい」
「っ・・・! も、もう! からかわないで下さい!」
 ネリーに続いて、アネッサも爆笑した。
「あはははは! フェルサリって、かわいいねえ! ねえネリー、私もフェルサリに、あーんさせていい?」
「いいよいいよ」
「わ、私はネリーさんのおもちゃじゃないんですから!」
 アネッサはやはり、この卓に馴染んでいた。長いこと、自分たちと行動を共にしてきたように、周りからは映るだろう。セシリアはキセルに火をつけ、煙とともに溜息を吐き出す。
 このアネッサという娘には、油断が出来ない。

 いつも見ていた空が、赤く染め上げられていた。
 肺が、焼けてしまいそうだ。あまりの熱気に、目もくらむ。
 父に手を引かれ、階段を上る。上り続ける。
「も、もう・・・」
 体力に自信がある自分ですら、こんなにも息が上がっているのだ。自分よりもずっと体力のない父にとっては、どれだけの苦行なのだろう。父はもう、老齢である。短く刈り込んだ髪の、全てが白い。
 鳥たちが、木々が、自分に別れを告げているように思える。壁に描かれたそれらは、いつもはそんなことを感じないのに、束の間、この世界の時間が止まっているかのような錯覚をもたらす。
 走る。駆け上がる。
 炎が、すぐ足元まで迫っていた。スカートの裾が、火の舌で舐め上げられ、灰となって宙を舞う。中央の吹き抜けを、火の蛇が駆け昇る。この長い螺旋階段を上り切るまで、あと少し。空の終わりが、すぐそこまで見えている。
「もう、お前は、私がいなくても大丈夫だ。残りの民と、これからのことを話し合いなさい。お前が、導くのだ」
 息を切らしながら、父が話している。
 扉を、開いた。自分が一度も足を踏み入れたことのない所。ずっと、ここに来てはいけないと言われていた場所。背中を強く押され、感慨を抱く間もなく、最初の数歩を踏み出した。
 振り返る。扉が、閉まろうとしている。
「父さんも、早く!」
「私には、まだやることがある。遠く、果てない道だ。だが、これからお前が生きる人生を思えば、なんと短い道程だろうか。上手くは行かないかもしれない。お前だけでも助けられて、よかった」
 不意に、世界が暗転しかけた。父が何を言っているのか、理解したくはない。
 父の背後は、燃えていた。このままでは、父は焼き殺されてしまう。
「かんぬきを下ろせ。下と比べて弱いが、それで、ここの封印はなされる」
「父さん!」
「少しでも可能性があるならば、それに賭けねばならんのだ。だが・・・」
 父は、優しく微笑んだ。目尻に、深い皺が刻まれる。
「私の賭けは、お前と出会えたことで、半ば成し遂げられていたのかもしれないな。最後に、礼を言わせておくれ」
 何を、いや、どんな言葉を返したらいいか、わからない。
「さあ、扉を閉めて、かんぬきを下ろせ。早くしろ!」
 父の肩が燃えている。炎の舌が、革の上着を舐め始めている。
 巨大な扉に手をかけた。全身の力で押していく。共に来てはくれない父を、逆に引っ張っていくように。
 顔を上げる。扉の隙間から、父の優しい目が見える。
「達者でな。お前と会えて、本当にうれしかったよ」
 扉を、閉めた。渾身の力で鉄の棒を持ち上げ、かんぬきをかける。
「・・・うあぁ・・・うあああぁぁぁぁ・・・!」
 闇の中で、自分の嗚咽だけが、虚しく響き渡っていた。

 目を開けると、くすんだ色の天井だった。
 昨晩は、あまり眠れなかった。短い夢を見ては目を覚ます。そんなことを繰り返している内に、朝になった。
 疲れこそ残っているが、目覚め特有のだるさはない。アネッサは寝台から飛び起き、上着を羽織った。
 扉を開けると、階下からいいにおいが漂ってくる。もう、朝飯の支度が始まっているのだろう。
 裏庭に下り、井戸の水をくみ上げる。複動式のものではなく、滑車で桶を沈める、昔ながらのものだ。軽く口をすすいで、冷たい水で顔を洗った。
「あら、早いわねえ」
 宿のおかみが、食材のかごを持って歩いてくる。
「あ、おかみさん。おはようございます。いい朝ですね」
「そうねえ。もっとゆっくりしてていいのよ。朝ご飯の時には声をかけるから」
「もう顔も洗っちゃったし、大丈夫です。朝ご飯まで、その辺を散歩してきますね」
 アネッサはそのまま外に出て、付近をあてどなく歩いた。この辺りには高い建造物はなく、農村のような景色が広がっている。遠くの丘に、一本の大きな木。そのさらに遠方に、ゴルゴナ中心部の、いびつな輪郭が見える。
 強い風が吹き、鳥が、一斉に木々から飛び立った。青い空と流れる雲を背景に、鳥たちが大きな輪を描く。視界を、木の葉が数枚、横切っていく。
 動いているな。
 そう、アネッサはつぶやいた。

 

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