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 夜明けと共に、目を覚ました。
 熾が残っているとはいえ、朝は冷える。身体を起こし、原野から吹き付ける朝の清澄な風に頬を打たせていると、段々と頭もはっきりしてくる。川原の方から、ロサリオンとジネットが戻ってくるところだった。挨拶を交わす。何か、不思議な気分だった。
 フェルサリは川原へ向かい、顔を洗った。石を拾い、川面に向かって投げる。流れの上を二度三度と跳ね上がり、それは対岸まで飛んでいった。
「セシリア殿は、まだ起きられないんですか」
 野営地に戻ると、ロサリオンに聞かれた。
「朝は弱いんですよ。でも、もう起こしてみますね」
 毛布にくるまったままのセシリアの元へ行き、身体を揺らす。
「母さん・・・朝ですよ」
「うーん・・・起きるわよう・・・」
 セシリアはもぞもぞと上体を起こすと、そのまま木に寄りかかって座る。
「はいはい、起きましたよう・・・」
 言いながら、もう目をつむっている。
 その身体が、いきなり跳ね起きた。既に、抜剣している。
 遅れて、フェルサリの肌も粟立った。
「ちょ、ちょっと・・・朝からそういう冗談は、やめてほしいものね」
 セシリアが引きつった笑みで言う。火の前に座っていたロサリオンが、大きな口を開けて笑っていた。気を飛ばしてきたのだと、後からわかった。隣りのジネットが、困ったような顔をしている。
 目をこすりながら、セシリアは川原へ向かった。しばらくして戻って来たセシリアは、もういつもの冴えた様子に戻っていた。
「あら、おいしそうな匂いね」
 ジネットのつぼ料理のことだ。布で蓋をしてあるが、針で開けた小さな穴から、蒸気の筋が立ち上っている。
 ジネットが蓋を開け、中身を椀によそう。朝からでも食欲をそそる、いい香りだ。ロサリオンも、目を輝かせている。
 見た目は、汁気の少ないビーフシチューのような感じだ。一口、口に運んでみる。
「おいしい・・・」
 思わず、声に出した。甘い。砂糖ではなく、肉の甘みだ。それにバターの濃厚な味わい。豆や米もやわらかくなっているが、それでも噛むと弾力を感じる、不思議な歯ごたえ。美味しい。ただ、そう思った。気づくと、椀は空になっていた。隣りを見ると、朝はあまり食べないセシリアでも、はふはふと息を吐きながら、一気にかき込んでいた。こうした姿を見るのは珍しい。
「いっぱいありますからね。どんどんおかわりしてちょうだい」
 椀に、次の一杯がよそわれる。今度は、じっくりと味わってみた。一晩煮込んだだけとは思えない、深い味わい。たまらなく、おいしいと思った。うさぎの肉は自分で獲ってきたものなので、特にそちらに意識が行く。おいしいと思うことに、フェルサリの胸は震えた。飛礫を打つ前の、うさぎのつぶらな瞳を覚えている。命を奪い、食べるのだ。できればこれくらいおいしいと思われるものにしないと、いけないと思った。奪った命を、美味いと感じる。生きていくということは、本来浅ましいことなのだ。それでもこの料理を食べていると、それでいいのだと思える。殺しておいて何だとも思うが、それでも、このくらい美味しいものにしてやらないと、かわいそうだ。
 ジネットのつぼ料理には、生き物への敬意を感じる。
「ごちそうさまでした。とても、おいしかったです・・・!」
 三杯目を食べ終わり、フェルサリは言った。ジネットが優しく微笑む。
 ロサリオンも、満足そうな顔をしている。こんなものを頻繁に食べられるロサリオンを、羨ましいと思った。
 野営の片付けをして、馬に荷を積んだ。北東に、地面からせり上がるように盛り上がった岩壁と、それにへばりつくような城と町が見える。夕方より前に、あそこに着くだろう。ジネットが、見た目を裏切る身軽さで、ひらりと馬の背に跨がった。
 四人で、原野を歩いた。所々に木立はあるが、それ以外は草と土の大地しかない。時折、早馬が駆けていった。
 馬の背に乗ったジネットに、セシリアが話しかけている。どうやらつぼ料理の作り方を教わっているようだ。
「ジネットさん、すごい人なんですね」
 並んで歩いていたロサリオンに、話しかけてみた。
「ええ。私にはもったいないくらいです」
 思わず、フェルサリは吹き出した。伝説の英雄とは思えない言葉だ。
「おかしいですか?」
「ええ。でも、不思議です。おかしいけれど、うれしい気もします」
「そう言って頂けると、妻も喜びます」
 何か、とてつもなく強くなるということは、そうはなれないとわかっていても、頭の中では想像できる。しかしこんな男に大切にされる、そのことはうまく想像できない。そうありたい、とはどこかで思わないではない。性欲は、ある。だがこの年齢になっても、男性と付き合うということが、よくわからないでいた。見た目同様、自分はまだまだ子供なのだなと、周りを見ていて思う。
 今更だが、ロサリオンとジネットと、普通に言葉を交わせることに、驚いていた。かなり、人見知りする方なのだ。三日前だったら、特にロサリオンのような男に、自分から話しかけるなんて、考えられなかった。旅の空が、そうさせるのだろうか。
「ロサリオンさんは、とてもお強いんですよね」
 ロサリオンは、肩をすくめた。
「まあ、剣と用兵に関しては、人並み以上だと思っていますが。それでも私より強い者はたくさんいましたし、セシリア殿と私を比べても、彼女は用兵をやるわけではありませんし、張り合って勝てるのは、剣くらいなものでしょう」
 剣なら、セシリアより上なのだ。そのこと自体が、既にフェルサリの想像の外だった。フェルサリは当然、セシリア以上の剣の使い手を知らない。というより、そんな者がいるとは考えたこともない。
「いや、本当に、剣だけですよ。セシリア殿は体術や、その他の武芸にも秀でているでしょう? あまり考えたくはありませんが、もし彼女とぶつかるようなことがあれば、剣だけで勝負してもらえるよう、色々と考えなくてはなりませんね」
 言ったロサリオンの顔は柔和だが、どこかで剣士の顔ものぞかせていた。
「ロサリオンさんは、二刀をお使いになるんですね」
 エルフの剣士の背中には、二本の剣が差してある。
「ええ。フェルサリさんも、二刀ですね」
 そんな言い方をされると、ひどく気恥ずかしい。
「はい・・・え、ええと、修行中です」
「セシリア殿の元でなら、強くなれるでしょう」
「そうですね。そうありたいです」
「フェルサリさんは、どうして冒険者に?」
 セシリアは、笑いながらジネットと話している。
「母さんの傍にいたかったからというのと、母さんみたいに・・・なりたかったからかもしれません」
 ロサリオンは微笑みながら、二人の背中を見ている。
「憧れなんですね。そう思える人がいるフェルサリさんが、羨ましいとも思います」
「ロサリオンさんには、そういう人が?」
「いませんでしたね。私が憧れるものは、ジネットの優しさだったり」
 軽く、空を指さす。綿のような雲が、ゆっくりと流れている。
「ああいうものに、憧れますね。決して手の届かないものですね」
 聞いて、何かとても大きな男なのだと思った。気取って同じようなことを言う者は、いくらでもいるだろう。大陸五強、その中でも伝説の英雄と言われるようになっても、まるでおごるところがない。仮に、この大陸に誰も敵う者がない強さを得たとして、自分に同じようなことが言えるだろうか。どこかで強さにおごり、それを誇りと思い違ったりしないだろうか。
「すごいんですね、ロサリオンさんは」
「ハハハ。ただの、普通の男ですよ。怒ったり、人を見下したりもする、普通の男です」
 普通でいられるところが、すごいのだ。普通という言葉が何なのかと思ってしまうくらい、底の抜けたものを持っている。
「ロサリオンさんが、怒ったり人を見下したりするんですか? 私みたいなハーフエルフで、半人前の人間とも、普通に話してくれています」
「ハーフエルフかどうかは、関係がないでしょう。冒険者として半人前だとしても、最初から一人前の人などいませんし、数をこなせばすぐに一人前になります。そうですね、例えばジネットの優しさにつけ込んだり、それを当然だと思う者がいたら、私は見下したりもします。怒りもするでしょう。私はあえて言えば、自分のことしか考えられなかったり、それを許されてる人間を見ると、あまりいい気分はしません。根本的に、そういう者が嫌いなのでしょう」
 ロサリオンは、どこか遠くの方を見つめている。
「しかしそういう人間は、心に傷を負っていたり、どこか追いつめられていたりするものです。人は状況によって限りなく残酷になりますし、果てしなく優しくもなれます。そういうことを教えてくれたのが、彼女でした」
 ジネットの丸い背中を見つめるロサリオンの瞳は、どこまでも柔らかかった。
「私も、かつては私が嫌うような者の側にいたのですよ。誰よりも強く、それを鼻にかけ、多くの人間を足蹴にしてきました。それは、闇の中にいるようなものだったと、今にして思います。それでも、光を見つけました。憧れていたものに、僅かですが、手が届いたとも思っています」
 フェルサリも、馬に揺られているジネットの丸い背中を、束の間まぶしいものに感じた。
「心残りは、ひとつくらいですかね。ただ、千を手に入れられるとして、たったひとつです。総じて見れば、私は、運が良かったと思っています」
 聞いていいものかどうか、フェルサリは逡巡した。それでも、聞いておくべきだという気がした。
「その、ひとつとは、何だったのでしょうか」
「二人の間に、子を授かれなかったということですね。私も、頑張ったのですが」
 照れ隠しに、ロサリオンは頭を掻いている。人間の血が混ざっている自分がそうだと思ったことはないが、エルフは一般的に、ひどく性欲が薄いのだと聞いたことがある。ロサリオンも、そういう意味では無理をした時期があったのかもしれない。
「私に、子種がなかったのだと思いたいですね」
「ええと、それ以外に考えられることって、何なのでしょうか。私、そういうことに疎くて・・・」
「魔法を使う者は、あまり子を成さないのだとも、言われています。はっきりしたことはわかりませんが、言われてみればそうなのかとも思います。この魔法連合領でも、領主夫婦の片方は、大抵魔法を使わない者だそうですよ。魔法使い同士だと特に、子は生まれないそうです。何か、生殖機能に影響があるのかもしれません。無論、魔法使い同士でも子を成せるようですが、やはり稀な話です。それに、私たちの間には、種族の壁もありました。これも懐妊率は少ないと言われています。まあ、色々重なったのだとも思っています」
 そこで、ロサリオンはフェルサリに目をくれた。その瞳が、優しく細められる。
「あなたがハーフエルフとして生まれ育った境遇は、決して楽なものではなかったと思います。それでもあなたの両親は、深く愛し合っていた。そのことだけは、本当のことですよ。あなたは、幸運に恵まれた子です」
 フェルサリは、うつむいた。顔が赤くなっているだろうことは、わかる。耳まで赤くなっているかもしれない。
 確かに、半エルフとして、つらいことが多かった。
 母の顔は、よく知らない。フェルサリが生まれてすぐに、一族の元へ連れ戻されてしまったのだ。父は優しく面倒を見てくれたが、フェルサリが十歳の時に死んだ。村の者たちとは、上手く付き合えなかった。孤独だと思っていたが、つまはじきにされる一方、暖かく接してくれる人も、僅かながらいた。しかし、心はどこかささくれだっていた。父と貧困にあえいでいた時、誰も手を差し伸べてくれなかったと、今更同情なんかするなと、自分で壁を作っていた。
 父の仕事の手伝いとしてやっていた、猟師としての技を磨いた。一人でも生きていく。その時はそう思ったのだ。子供だった。山の中に幾つかある、猟師共用の小屋を使う時も、他の者のいる気配がすれば、近づかなかった。それで、一晩中森の中をさまよったこともある。自分一人で使った後も、使った物は後日すぐに補充した。
 最低限、村の雑貨屋と、肉屋とだけは付き合う必要があった。雑貨屋の主人は、金があれば誰にでも愛想を振りまくような男だったから、口もきかずに取り出した品と金を渡せば、それ以上の付き合いはせずに済んだ。
 肉屋の主人は、フェルサリに同情的だった。父が死んだ時に何もしてやれなかったと、それを悔やんでいるようでもあった。思い返すと、ほんの少し、獲物を高く買ってくれていたのかもしれない。一度だけ、綺麗な花を摘んで持っていったことがある。こちらが狼狽えるほどに喜んでくれたので、そういうことはそれ以来やらなかった。自分と付き合いがあるというだけでも、周囲にとやかく言われているかもしれないのだ。
 村の人間から、人として扱われなかった。いや、半分は人ではない。だから、当たり前と割り切った。村の人間が珍しい生き物でも見るように好奇の視線を送る時も、汚いものを扱うような視線を向ける時も、自分が違う物と思われてるように、自分も人間を違う生き物として見ているのだと、そう思い定めた。ただ、夜になると、粗末な、それでも自分一人には広いと感じる小屋で、父を思い出して泣いてしまう日も少なくはなかった。そんな日々が、三十年以上続いたのだ。
 ある日、いつもより大きな獲物が獲れた。肉屋の主人は、フェルサリが大きな収穫をあげると、まるで自分のことのように喜ぶ。その笑顔に思いを馳せ、フェルサリは獲物を担いで山から下りた。むずがゆいような、淡い期待を込めて、村に向かった。
 村が、燃えていた。
 見たことのない怪物たちが、村の中を荒し回っていた。豚と人を合わせたような生き物だった。緑色や、黄土色の肌を持つ怪物。それが、手にした板斧で村の人間を殺していた。数はわからないが、たくさんいる。話に聞いた、オークという生き物か。
 獲物を投げ捨て、肉屋に向かった。知り合った時は壮年だった主人も、もう老齢である。逃げ切れないかもしれない。でも、あの人だけは助けなくては。できれば、二人で逃げる。森の中に入れば、なんとかなるかもしれない。
 扉は、開いていた。中に踊り込むと、宿の主人と目が合った。いや、その目はどこも見ていない。頭を鷲掴みにされ、腹の傷から、はらわたを引きずり出されている。
 絶叫した。声を限りに叫び続けた。
 主人を放り捨て、オークが振り返る。同じ目に、遭わせてやる。フェルサリは短刀を抜き、オークの腹に、思い切り突き立てた。力任せに下に切り下げる。不意に、世界が暗転した。
 気がつくと、村の中央でへたり込んでいた。ごうごうと家が燃える音と、オークたちの叫び声を、どこか別の世界のことのように、呆然と聞いていた。
 手を見た。肘まで赤黒い血で汚れていた。右手には、短刀が握られたままだ。また、叫びそうになった。
 その手に、別の手が添えられた。白い指先が、血に汚れるのも構わずに、右手から短刀を引きはがしていった。
 顔を上げると、白い具足姿の女が、微笑んでいた。自分と同じような青い瞳に、一瞬、見たこともない母の顔が重なった。父が話していた母の容貌、フェルサリの想像の中でしか見たことがないその顔と、似ていると思ったのだ。
「大丈夫?」
 自分のことだろうか。答えようとしたが、言葉が出なかった。お母さんなの? そう聞こうとしたのだ。
 すぐ近くで、オークの叫び声が聞こえた。
「こいつで、とりあえず村の中にいるのは全部ね」
 眼鏡をかけて髪をまとめている女が、オークの頭を鷲掴みにしていた。
「やれやれ、間に合わなかったわねえ」
 女が言い終わると、掴まれていたオークの頭が、爆ぜた。握りつぶしたのだと、ぼんやりとわかった。
「間に合ったわよ」
 そう言って、母に似た女は、フェルサリを抱き締めた。あたたかい。その時は、ただそう思った。
 フェルサリは、顔を上げた。前方には、ジネットと談笑するセシリアの後ろ姿があった。
 あの時は、母なのかと思い違いをした。しかし今は、本当に母なのだ。
 目元に、そっと指が添えられた。いつの間にか流れていた涙を、ロサリオンが拭ってくれていた。
「・・・優しいですね、ロサリオンさんは」
「妻譲りでね」
 そう言って英雄と呼ばれる男は、軽く片目を閉じてみせた。

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