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 三日が経った。
 毎晩セシリアがクロリンダの寝室に張り込んでいるが、まだ吸血鬼との接触はないようだ。セシリアに、警備兵にも何かできることはないかと尋ねると、今まで通りで良いと言われた。あまり警戒している様子を見せると、吸血鬼が標的を変えるかもしれないというのだ。それではクロリンダを餌にしているようなものではないか。アデリーナはそう思ったが、口には出さなかった。セシリアは、あくまで吸血鬼を狩り出すつもりらしい。そして、向こうはセシリアの存在に気づいたかもしれないとも言っていた。
 三日の間、セシリアは何度もマルコの剣の稽古にも付き合っていた。というより、マルコが懲りずに挑みかかるのである。張り倒されるのを見る度に、アデリーナの胸は痛んだ。さらにセシリアは、調練場以外でも顔を合わせると、いきなり張り倒してたりもしていた。
 客間のソファで横になっていたセシリアが、もぞもぞといった感じで起き出した。乱れた髪を手櫛で整えると、ぼんやりとした目つきでキセルに火をつけている。
「あら、そこにいたの」
「ええ、今入ってきたところですが。寝室も用意してあるのですから、そこでお休みになられればどうです?」
「そうね。ちょっとクロリンダと話したいことがあって、ここで待ってたのよ。まあ、色々と詰めてからでもいいわ」
 何の話だろう。あれからセシリアは、隣街にも足を運んでいるようだ。
「いけない。もうこんな時間だったわね。馬、また借りるわ。日が落ちる前に帰ってくるつもりだけど、夜になるかもしれない。まあ、クロリンダが床に着く前には戻ってくるわよ」
「また、隣街ですか」
「そこもあるけど、この町の周りもちょっとね」
 手早く鎧を身に着け、キセルをくわえたまま、セシリアは部屋を出て行った。
 アデリーナは、調練場へ向かった。
 巡回から戻って来た兵に混ざって、マルコが木剣を振っている。わずか数日で、いくらか精悍になったような気がする。子供、という印象が、薄くなってきているのだ。四日前には、明らかに子供だった。
「アデリーナ」
 マルコがこちらに気づき、笑みを投げかけた。その笑顔を見て、アデリーナの胸は締め付けられた。
「暇だったら、俺の相手もしてくれよ」
「はい。マルコ様も、ここ数日で随分腕を上げられましたね」
 マルコが、ばつの悪そうな顔で苦笑した。以前だったら、こういったことを言っても、ふてくされていただけだろう。
「あのおばさんに、散々しごかれてるからなあ」
「セシリア殿を、そんな。セシリア殿がおばさんなら、私はおばあさんですね」
 セシリアの年齢は、二十三歳だという。アデリーナは二十九歳で、今年の内に三十歳になる。
「アデリーナは、違うよ。何かこう、家族みたいに思ってる」
 聞いて、一瞬だが、涙が出そうになった。懸命にこらえ、調練用の棒を取った。
「どうした? 具合が悪いのか?」
「何でもありませんよ。さあ、かかってきて下さい」
 自分は、マルコに何をしてきたのだろう。いや、何を与えてきたのか。それを、セシリアに突きつけられたという気がする。
 マルコの剣が、予想外の速さで迫ってきた。アデリーナは軽くいなし、構え直す。
 アデリーナには、剣しかなかった。町の警備を任されるようになってから、人の営みを知り、多くを学んだ。それでも、自分には剣しかなかった。これだけが人より優れているとかそういうことではなく、多くの者より劣っていたとしても、やはりこれしかなかったという気がする。言葉にできないのなら、剣で、マルコに伝えようとしてきた。しかし、伝えられていなかったのだった。それは、アデリーナが最も伝えたかったことを、伝えることができなかったからだ。口にしてしまえば、それだけで傷つく人たちがいる。あの日、あの時に受けたあの人の好意を、無駄にしてしまう。
 商館の窓から、クロリンダがこちらを見つめていた。武とは、まるで縁のない人である。心配そうに、マルコの動きを目で追っていた。アデリーナとも、目が合った。
 この子は、必ず強い子にします。
 目で、クロリンダに伝えたつもりだった。

 逗留していた宿を、特定できた。
 隣街である。十四年前に、カミッロとクロリンダが滞在していた宿。町の長夫婦のということでつい高い宿かと思ってしまったが、違った。思えばジェネローザの商館は意外と質素な調度で彩られていたし、セシリアに対する報酬も、普段であれば、一蹴するような低いものだった。金は動くが、私腹は肥やさない。中々できることではない。クロリンダにもカミッロにも、セシリアは好意を持っていた。
 手紙を開いた時に、何かを感じたのだ。助け、救い、言葉にすればそういうものになる。クロリンダの依頼の手紙からは、そういうものを感じた。懇願の一文はない。それでも、誠実な人柄を感じさせる文章だった。
 この手紙の主の力になってやろう。そう思った。セシリア・ファミリーの依頼受諾基準はよくわからないと、言われることもある。しかし、実際は単純なものだ。そう思わせる何かがあれば、銅貨一枚で命を張れる。ただの底が抜けたようなお人好しではなく、やってやろうと思わせる、何かがあればいい。
 そういう思いでやっているが、すべて相手の願いを叶えてやろう、丸く収めてやろうという気など、セシリアの中にはなかった。そんな自分のやり方が、往々にして人の恨みを買うことも知っている。交わることのなかった人生が、束の間、どこかで交差する。大げさに言えば、宿運ということだろう。あえて自分を選んだというのなら、自分のやり方を貫く。そう思い定めるように、セシリアはしていた。
 安宿のきしむ扉を開け、主人を呼んだ。厨房の奥から、夜に出す料理の仕込みをしていたであろう主人が、エプロンで手を拭きながら現れた。薄くなった頭髪とでっぷりと突き出た腹は、いかにも、という感じだ。主人はうるさそうな顔をして出てきたが、セシリアを見ると、急に顔をほころばせた。セシリアの容姿は恵まれているといっていいだろう。厄介事の方が多いが、こういう時には役に立った。
「忙しいところ悪いわね。十四年前のことについて聞きたいことがあるんだけど」
 聞きたいことを話すと、主人は嬉々として、宿の個室に案内してくれた。多数の寝台の並んでいる大部屋が主な宿だが、いくつか個室はある。それでもあまりいい部屋だとは言えない。こんな部屋にクロリンダたちが泊まっていたのかと思ってしまうが、長逗留だったと聞いて、納得した。およそ半年もの間、この宿にいたそうである。こういった大きな街だと、安宿と言われるような宿でも、代金は馬鹿にならない。おまけに二つ、部屋を取っていたようである。
 半年。子供が生まれるそんな前から、ここで出産の準備をする必要があったのだろうか。クロリンダの妊娠に、何かあったとも考えられる。町長の仕事もあったカミッロは、こことジェネローザを、しばしば往復していたらしい。
「隣りの部屋にも、お付きの人がいたっけなあ」
 初耳である。
「名前は、わかる?」
 いくら大きな街の宿屋といっても、こういった安宿では、あまり昔の宿帳などは保管していない。税の申告だけすれば、さっさと捨ててしまっていることだろう。主人はしばし、視線を宙に漂わせた。この男の記憶力が頼りである。
「ああ・・・名前はちょっと。一人は従者のようなことをしていた人ですよ。男の人。もう一人は、ええっと、女の子だったかな。赤い髪をしてた。女の子のお腹は大きくてね。ここで子供を産んだんですよ。それはよく覚えてる」
 不意に、疑念だったことが確信になった。他にも細かい話を聞く。別れ際に、銀貨を一枚渡した。主人は名残惜しそうに、セシリアの顔を見つめていた。
 警備兵の詰所に行き、警備隊長に面会を求めた。先程主人と話していたことを、もう少し詰めておきたかったからだ。名乗ると、あっさりと面会を許された。ただ、名乗る際に掌砲セシリアと言わなくては伝わらなかったのは、いささか痛恨である。
 受け付けの横の席で待つ。大きな街らしく、様々な問題が詰所に持ち込まれているようだ。受け付けの方は、三、四人が列を作っている。
「ああ・・・十四年前ね。私はまだ子供でしたがね、よく覚えていますよ」
 三十代にはまだなっていないだろう、若い警備隊長は、奥から当時の事件簿を持ってきた。それを見ながら、当時のことを思い出している。機密らしいものはないのか、そういうことにはずぼらなのか、セシリアも、事件簿を見せてもらった。
 この町でも、十四年前に吸血鬼絡みの事件があったようだ。レッサー、ロードという書き方はしていなかったが、おそらくは、ロードの方だろう。事件を起こすまでは、誰も吸血鬼だとは気づかなかったようだ。血に飢えすぎた。それで、我を失ったらしい。
 吸血鬼は、結果として殺されている。同時に、二人の人間が姿を消した。カミッロと、その従者である。街中を逃げ回る吸血鬼を追う二人の姿は、何人もの住民に目撃されている。住民たちも武器になるものを持ち、後を追った。街の外で発見されたのは、吸血鬼の死体だけだった。以降、カミッロと従者の姿を見かけた者は誰もいない。
 最後のピースが、ぴたりと収まった。
 セシリアは、今回の依頼と、十四年前のことを反芻する。
 思考を遮るように、隣りの受け付けで、初老の男が騒いでいた。
「グールだ! これはグールの仕業なんだ!」
 気になったので、セシリアはそちらの話に耳を傾けた。
 どうやら男は墓守で、昨晩墓が荒らされたという話のようだ。それも食屍鬼、グールの仕業らしい。死体が掘り起こされ、食われたような荒らされ方をしていたということだ。
「こちらでこんな話をしている時に、嫌ですねえ。偶然だとしても、気味が悪い」
 警備隊長はそう呟いたが、偶然ではないと、セシリアは思った。確実に、忍び寄ってくる影の、一端が見えたというだけだ。
 隊長に礼を言い、席を立った。財布から謝礼の銀貨を取り出そうとすると、駄目だというように、隊長は胸の前で手を振った。
「あら、金銭の授受は禁止されてるのかしら? ラテン都市同盟で、最も潔白な警備隊長と出会えたわ」
「ええ、まあ、一応規則でして」
 乾いた皮肉を投げてみたつもりだったが、隊長に悪びれる様子はなかった。墓守の男の話で、詰所の騒がしさは増している。周囲の喧噪に負けないよう、隊長は大きな声で言った。
「しかし"掌砲"セシリア殿のせっかくの申し出、断るのも逆に失礼にあたるかと。今お持ちでしたら、どんな武器なのか、あるいは技のようなものなのでしょうか、それを拝見させて頂ければ・・・ええと、裏に調練場がありますが、よろしければ、そこでひとつ、どうでしょう?」
 隊長の気持ちはわからないでもないが、声が大きい。
「あらあら、これは曲芸じゃないのよ?」
 詰所が、揺れた。
 受け付けは、静まり返っている。揺れよりも、音の方に驚いたのかもしれないと、セシリアは思った。
「ちゃんと見てた?」
 隊長があんぐりと口を開け、詰所の壁に穿たれた大きな穴と、セシリアの顔を、交互に見比べていた。

 セシリアは、もう戻って来ているらしい。
 夕方の巡回中に、住民から聞いた。後は部下に任せて、アデリーナはセシリアを探した。すぐにでも、伝えなくてはならないことがあるのだ。人混みをかき分け、しばし走り回ると、町の外れで猟師と話をしているセシリアの姿を見つけた。
「セシリア殿、外出中に、少し厄介なことが起きました」
「グールのこと? さっき見てきたわ」
 墓が、荒らされていた。掘り返され、遺体はまるで食い荒らされたような形跡だった。吸血鬼に関係のあることかもしれないと思い、セシリアに伝えようとしたのだが、もう知っていたらしい。
「隣りの街でも、同じような騒ぎが起きてる」
 猟師が地面に描いているものを見つめたまま、セシリアは言った。顎に手をやり真剣な表情で、猟師が枝で地面に描いていくものを見ていた。アデリーナの話よりも、そちらに関心があるようだった。アデリーナも、セシリアの横に立った。夕焼けを背景に、セシリアの髪が、黄金の光を放っている。
「こことここは、歩いてどのくらい? 目印になるようなものはないのかしら?」
 どうやら、山の地図を描いてもらっているようだ。さかんに聞いているのは、洞穴や、身を隠せそうな場所だった。
 ある程度大きな洞穴は、二、三。小さいものを含めると、十ほどになる。猟師とセシリアのやりとりを聞きながら、自分はこんなことも知らなかったのだと、アデリーナは思った。いつも見ている山である。何度か、足を踏み入れたこともある。しかし、あの山に魔物が住みつくかもしれないことを、頭では考えたことがあるが、それほど深く受け止めたことはなかったのではないか? セシリアは、まだこの町に来て間もなく、山に入ったこともないのに、既にアデリーナよりも多くのことを知ってしまっている。
 自分が、情けなかった。警備隊長としてだけではない。もっと根源的なところで、セシリアには敵わないという気がする。
 猟師と別れを告げた後も、二人はしばらく、山の方角を見つめていた。
「手の内を、こちらに見せているのが気にかかるわね。予断を持たせようとしてる。思ったより知恵者なのかもしれないわね。グールが屍肉を、墓を掘り返してまで漁るってのは、連中の儀式みたいなもので、ある意味向こうはそれだけやる気だってことでもある。しかし、それを抑えることはできたわけだし・・・」
 セシリアが、呟いている。その視線が、こちらに向けられた。
「・・・吸血鬼はたとえレッサーでも、より下位の不死者、アンデッドを操れるのよ。人形の手足を動かすようなものではなく、命令を下すようなものらしいけど」
 日が、落ちかけていた。セシリアは、北の空を見上げている。
「グールは、厳密に言うと、不死者とも言い切れないみたい。ともあれ不死者同様、吸血鬼に操られ、手下のようになってしまうの。今は、そこが重要ね。グールが集まってきたのは、ここ数日でしょう。というより、ここ数日で、吸血鬼がグールを集めたって感じかしら。大勢が隠れられるとしたら、あそこを置いて他にないわね」
 初めて会った時、セシリアがこの山の方をじっと見つめていたことを思い出した。
「あまり、落ち込んだ顔しないで。今からそれだと、今晩のことに気が重くなるわ。クロリンダとあなた、二人に聞きたいことがあるの。食事の後、付き合って頂戴」
「は、はい、セシリア殿。この町の、いえ、何よりもクロリンダ様の為に、色々ありがとうございます」
「礼を言われるのは、全て片付いてからよ。それに、私がこの町を出る頃には、みんな私を呼んだことを後悔しているかもしれないわ」
 どういう意味か、聞けなかった。
 こちらを向いたセシリアの笑顔が、とても悲しげなものだったからかもしれない。

 共に食事を取るのは、この町に来て初めてだった。
 クロリンダ、マルコ、アデリーナと共に、夕食の席についた。クロリンダは代理という肩書きこそあれ、実質的な町長である。多忙だ。朝食以外は、マルコと共に食事を取る機会も少ないらしい。同じ館に住んでいるが、アデリーナも警備のことがあり、同じようなものらしい。それに、毎日決まった時間に寝起きするわけではなく、夜勤の仕事がある。意外にも、セシリアを除いた三人でも、こうして卓を共に囲むというのは、それなりに珍しいことでもあるようだ。
 マルコは食事の間中、よく喋っていた。クロリンダとアデリーナと共に取る食事に喜んでいるというのが大きいだろうが、相変わらずの小賢しさをむき出しにして、セシリアにつまらない自慢話を喧伝していた。このくらいの年齢の子供は、普通はこんなものだろうとも思った。セシリアの家の子供たちは、その辺りの行儀はいい。マルコは、剣の稽古ではいくらか殊勝さのようなものは出始めているが、まだまだ我が儘な子供だった。食べ方は、思った以上に上品だ。しかしそれを鼻にかけるところは、下品といっていい。クロリンダがいなければ、軽くはたいているところだった。
 そのクロリンダは疲労の色を隠しきれていないが、それでもマルコの話に笑顔で相づちを打っていた。アデリーナも、微笑みながら聞いている。
 クロリンダの消耗は、彼女を年齢よりも遥かに老けて見せている。クロリンダが祖母で、アデリーナが母。セシリアは姉でマルコが弟。知らないものなら、この面子が並んでいる所をそう見てしまうのではないか。
 皿が下げられると、大事な話がありますと言って、クロリンダがマルコを下がらせた。唇を尖らせてはいるが、一応母の言うことはちゃんと聞くらしい。セシリアが冷笑を投げると、何か言いかけたが、おとなしく部屋を出た。
 食後の紅茶が運ばれてきた。セシリアがキセルに火をつけると、クロリンダもパイプを取り出した。喫煙具があるのでクロリンダが煙草をやることは知っていたが、吸う所を見るのは初めてである。アデリーナは、暖炉の火に薪を足していた。しばらくの間、それぞれが、それぞれの火を見つめていた。
「クロリンダさん、聞きたいことはひとつです」
 セシリアが口を開くと、クロリンダが緊張した面持ちで頷いた。しかし、嫌な顔はしていない。話すべきかためらっていたことを、セシリアが突き止めた。そのことに勘づいているだろう。アデリーナが、静かに席に着いた。
「あなたと、マルコとの血の繋がりは?」
 はっきりと動揺を見せたのは、アデリーナの方だった。紅茶をかき混ぜていたスプーンを、取り落としそうになっている。クロリンダは穏やかな顔で、首を横に振っただけだった。
 これで、何故セシリアを呼んだのか、疑問がいくつも湧いてくる依頼を寄越したのかが、わかった。セシリアが頷くと、クロリンダが申し訳なさそうな笑顔を返してきた。こんな顔もするのだ、とセシリアは思った。若く、いや幼くすら見える。まだ少女だった頃のクロリンダは、こんな顔で誰に笑いかけていたのだろうか。
 アデリーナが、怒ったような、それでいて泣き出したいような顔で、セシリアのことを睨みつけていた。セシリアが頷くと、アデリーナも悟ったのだろう。動揺の色を見せつつも、はっきりとした口調で言った。
「マルコは、私の生んだ子供です」
 怒りを滲ませつつ、アデリーナが続ける。
「でも、そんなことを知ってどうするのです!? あなたには、関係のないことでしょう!?」
 およそ、沈着な警備隊長に似つかわしくない口調だった。
「関係があるのよ、アデリーナ。あなたには、吸血鬼は斬れない」
「斬れます! 姿を見かけたら一刀の元に切り伏せる、自信はあります」
 できるだろう、彼女の剣技なら。しかしこれは、そういった問題ではないのだ。
「クロリンダ様は、私が守ります」
「クロリンダも、あなたのことを守ろうとしているのよ?」
 アデリーナは何か言いかけて口を開いたが、何を言ったらよいかわからないようだった。それはそうだろう。このことについて、セシリアはアデリーナに話そうとは思っていなかった。
「どういうことですか、クロリンダ様」
 紅茶を一息に飲み干したアデリーナの矛先が、クロリンダに向かった。クロリンダが話そうとするのならセシリアが引き継いでもよいと思ったが、クロリンダはパイプから口を離し、黙って首を横に振っただけだった。
「こ、こんな、マルコが、私の生んだ子だということを暴いておいて、セシリア殿に何の得があるというのですか」
「得なんてないわ。あるとすれば、私が吸血鬼を斬って、得られる報酬だけが、そうよ」
「わけがわかりません。不愉快です」
「不愉快なのは、謝る。わけがわからないのは、そのままであるべきだわ」
「理由がわかりません。確かに、私はセシリア殿より色々な面で劣っているのでしょう。それでも、クロリンダ様、私にはあなたが守れないと、私の信用など、そこまでのものなのでしょうか!?」
 クロリンダは沈痛な面持ちで、それでも俯いたりはせず、アデリーナの燃える視線を受け止めていた。そして、口を開く。
「アデリーナ、あなたのことは妹のように思っている。この町の平和はあなたあってのもので、他のことでも、あなたのことは全面的に信用している。あなたに守られてばかりの私だけど、私も同じように、ずっと、あなたのことを守りたいと思っているのよ。あなたを、傷つけたくはない」
「もう充分に傷ついてます! そのことと、私が吸血鬼を斬れないということと、マルコの実の母親であることと、何が、どう繋がっているんですか!」
 アデリーナは、感情的になりすぎている。それだけ、マルコのことは外部の人間に知られたくない話だったのだろう。
 そして今、最も知られたくないはずの者に、そのことを知られることになった。
 セシリアは、ゆっくりと紫煙を吐き出した。
 扉の前には、マルコが立っている。

 ただ、愕然とした。
 マルコに、一番聞かれたくないことを、聞かれてしまったのだ。どこから聞いていたのか、考えるだけ愚問だろう。マルコの表情を見れば、少なくともアデリーナがマルコの実母だということは、わかっているはずだ。
「ど、どういうこと・・・?」
 絞り出すように、マルコが言った。
「聞いての通りよ」
 セシリアが、冷たい目で言っていた。この女を殴り倒したい。束の間、アデリーナはそう思った。
「だ・・・だましてたんだな!」
「母が、二人いる。そのことを、幸せに思いなさい」
 マルコが痛々しく喘ぎ、クロリンダを見つめ、次いでアデリーナを見つめた。顔をくしゃくしゃに歪ませた後、乱暴に扉を開け放ち、廊下へと駆け出していった。アデリーナは後を追おうとしたが、脚が、動かなかった。
 椅子に座り込み、ただ、呆然としていた。何をどうすべきか。なぜ、こんなことに。そんなことを考えている間に、二人は部屋を出たようだ。燭台の火が消えかけていたので、長い間そうしていたのだろう。軽く、肩に手を置かれたのを覚えている。二人の内、どちらの手だったかはわからなかった。
 アデリーナはまだ呆然としたまま、寝室に向かった。この商館の一階に、アデリーナの寝室がある。
 ずっと、マルコと同じ屋根の下で眠っていたのだ。マルコに会いたいと思ったが、どんな顔をして会ったらいいのか、わからなかった。何故、セシリアはあんなことを。これも、考えてもわからなかった。
 寝台に倒れ込み、カミッロのことを思い出していた。
 出会ったのはこの町に来てからで、アデリーナが十五歳の時だ。父と二人で用心棒のようなことをしていた。父は、腕が立った。町長であるカミッロに請われ、この町の警備兵に、剣を教えることになった。病に倒れたのは、ここに来て一ヶ月もしない内だ。何年も前から、胸を痛めていた。あまり話そうとしなかったが、心臓の病だと聞いたことがある。
 身寄りのない自分を引き取ったのが、カミッロだった。剣ではどの警備兵よりも強かったからか、警備隊長を任されることになった。前任の兵に色々と教わり、しばらくすると、一応はその仕事をこなせるようになった。確かに兵よりは強かったが、カミッロの剣技には敵わなかった。今でこそカミッロよりもずっと腕を上げていたが、当時は父以外に負けたことはなかったので、そのことでも、カミッロはアデリーナの密かな憧れだった。
「この町の平和と、私を守ってくれよ」
 そんなことを言われたことを、よく覚えている。私を、というのはカミッロの軽口のようなものだったが、当時のアデリーナは、それを本気で受け取った。本当に強くなって、カミッロのことを守りたいと思った。
 カミッロの妻のクロリンダは、この町に来てからずっと優しくしてもらっていた。物心ついてからはずっと流浪の生活が続いていたので、アデリーナには友のような存在がいなかった。仲良くなっても、すぐに離ればなれになる。それがわかっていたから、誰とも親しくしてこなかったのだ。しかし、クロリンダは違った。年は多少離れていても、初めての友だったし、妹のように接してくれもした。友であり、家族。得られなかったものと失ったもの、それらを同時に手に入れた気持ちだった。当時のクロリンダが今の自分と同じ歳だということを考えると、彼女の方がずっと大人だったのだとも思う。
 アデリーナは警備の勤務時間が終わっても、極力カミッロの護衛を務めていた。自分には世継ぎとなる子供がいない。ある晩、部屋で二人きりでいる時、カミッロがそんなことを呟いた。その顔は初めて見る、苦渋に満ちたものだった。それが、夫婦の悩みだということはそれとなく知っていた。クロリンダも、そのことをひどく気にかけているようだった。
 カミッロに、抱かれた。初めは、それがなんだか、わからなかった。それまで友らしい者もおらず、クロリンダもそういったことについては避けていたので、性交については無知だったのだ。ただ、娼館については知っていた。性交の現場をはっきりと見たことはないが、どんなことをしているのか、想像はできていた。彼女たちと、同じことをしている。ひどく恥ずかしく、汚らわしいことをしていると思ったが、カミッロの望むことだったら耐えられるとも思った。自分は、異性としてこの男のことが好きなのだ。それが、はっきりとわかった。
 子が出来たのを知ったのは、しばらく経ってからだった。何ヶ月も月経が来ないことをカミッロに告げると、すぐに隣りの街の医者の元に連れて行かれたのだ。
 大変なことをしてしまったと実感したのは、帰りの馬車の中だ。アデリーナは、クロリンダに泣いて謝った。彼女は、黙ってアデリーナを抱き締めてくれた。どんな気持ちで、そうしてくれていたのだろう。その時は自分の気持ちすら持て余していて、彼女の痛みを推し量る余裕はなかった。ひたすら、申し訳ないという気持ちに押しつぶされていた。
 腹の膨らみが隠しきれない頃になると、クロリンダが、生まれる子供は、クロリンダの子供ということにしたらどうかと言ってきた。アデリーナには、それがありがたかった。その頃になってもまだ、母になる心構えはできていなかったし、父が誰かを言うのをはばかられる、そんな子供を不憫にも思っていた。カミッロには色々と考えがあったようだが、最終的に、クロリンダの提案を飲む形になった。
 クロリンダは、自分が子供を産めない身体だということを悟っていた。それでもカミッロは、そんなクロリンダのことを心から愛していた。子を産んだら、その子は二人に任せ、旅に出よう。その時のアデリーナは、そんなことをぼんやりと考えていた。
 カミッロとクロリンダ、そしてカミッロの信頼のおける従者を一人連れ、四人で隣街に移った。クロリンダの懐妊がわかったというのと、アデリーナの病を見てもらう為、しばらく隣街に移るという名目だった。
 もうすぐ子供が産まれるというある晩、街に吸血鬼が現れた。その夜は方々で盛大な篝火が焚かれ、警備兵や武器を持った住人が通りを走り回った。カミッロと従者も、その中に加わった。すぐに戻ってくる。気をつけて。最後のやり取りは、そんな感じだったと思う。
 二人とも、帰ってこなかった。
 それから数日間、二人は身を寄せ合うようにして、カミッロの帰りを待って過ごした。
 子が、産まれた。どこか、カミッロに似た所のある赤ん坊だった。しかし、瞳の色は、アデリーナと同じ、青だった。
 カミッロのあの夜の行動は、たびたび思い出しては、考えた。なぜ、わざわざ危険な目に。しかし人が困っている、危険な目にあっていると知ると、飛び出していってしまうような男だったのだ。それはあの晩に限らず、ずっとそうだった。そしてそういう所に惹かれたのだと、痛いほどわかっていた。人の不幸を、放ってはおけなかったのだ。だからアデリーナも、彼のことを放ってはおけなかった。
 そして打ちひしがれたクロリンダを見て、放り出せないと思った。子が産まれたら出て行くつもりだったが、それはカミッロがいたらの話だ。そして何よりも、産まれてきた子を見て、決してこの子の傍を離れられないと思った。血を分けた、子供なのだ。
 紙の手続きの上では他人だったが、あらためて、クロリンダを姉と思い定めた。マルコの、母。そのことがより、二人の絆を深めたという気がする。何よりもクロリンダには感謝していたし、負い目もあった。彼女の為に命を投げ出す。それができて初めて、彼女の友になれる。
 先程は激情に駆られてしまったが、クロリンダに怒りをぶつけるつもりはなかった。確かに、不満はあった。吸血鬼と聞いて、絶対に斬らねばならないと思っていたのだ。何故、自分に任せてくれない。わからなかったが、思えばクロリンダはいつも、自分の理解をどこかで超えていたのだ。もっと自分は多くの、あるいは深い所を理解しなくてはいけなかった。剣に、逃げていた気もする。
 少し、眠っていた。そのつもりはなかったが、目が覚める感覚が何度かあったので、そういうことだろう。マルコに、会わなければ。会って、何を口にしたらいいのかはわからない。それがたまらなく、怖いとも思った。
 激情は、去っていた。セシリアへの怒りも、もうない。
 マルコの部屋に行った。しかし、そこにはいなかった。
 調練場へ行くと、朝の光に包まれて、マルコとセシリアが対峙していた。
 声を掛けるのをためらうほど、気の籠った立ち合いだった。両者とも、一歩たりとも動かない。長い間そうだったのではないかと思わせるものもある。マルコの顎の先からは、汗が滴っていた。
 セシリアが棒を下げ、マルコに歩み寄った。張り倒す。倒れたマルコは動かない。思わず、アデリーナはマルコに駆け寄っていた。
「気を失っているだけよ」
 セシリアが、二人分の棒を片付けながら言う。
「夕べは、全然寝てなかったみたいだから」
 軽く髪を掻き上げると、光の粒がこぼれ落ちたようにも見えた。
「今晩辺り、来るわね」
 セシリアは空を見上げていた。西の空に、黒々とした、厚い雲がある。
「雨ね」
「雨、だけでしょうか」
「他にもたくさん。今晩は、全警備兵を配置につかせて」
「はい」
 マルコを抱き上げた。その身体の思わぬ軽さに、こみ上げてくるものがある。
「雨は、色々なものを洗い流してくれるわ」
 目を細めながら、セシリアがぽつりと呟いた。

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