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 煙と騒音を巻き上げながら、列車が止まった。
 竜というのもこんなものだろうかと、アデリーナは思った。駅に来ること自体もあまりないので、それなりの高揚感というものはある。私鉄の駅ということで、この駅はかなり小さいものらしい。大陸鉄道の駅は、宮殿のようなものも少なくないという。だがアデリーナは宮殿というものを見たことがないので、その喩えはよくわからなかった。子供の頃は旅暮らしだったが、あまり大きな街に行った記憶がないのだ。
 六両の列車。半分は、貨物を積み込んでいる。ほぼそれと同じ長さのホームと、切符売り場、待合室、少し離れた所に手洗い所の小屋、それに軽食や雑貨を売る屋台がひとつ。駅にあるのはこれだけである。列車から、ぱらぱらと人が降りてくる。
 探している人物は、すぐにそれとわかった。行商や旅人といった風体の中に混じって、具足姿の女の姿があった。外套も具足も、白を基調としている。春の風を思わせる颯爽とした出立ちは、今の季節とよく合っていた。軽く辺りを見回した後、待合室の方へ向かおうとしている。
「ひょっとして、セシリア殿ではありませんか」
「そうだけど、あなたは?」
「申し遅れました。ジェネローザで警備隊長を務めている、アデリーナと申します。お迎えに上がりました」
「ご苦労様。じゃ、町まで案内してもらえるかしら」
 言って、セシリアは遠くを見つめた。軽く、目の上に手でひさしを作っている。視線の先にあるのは緑の平野と、東の方にある、小さな山である。山の少し南にあるのがジェネローザの町で、ここから歩いても、一時間とかからない。
 セシリアの荷物を受け取って、馬の背にくくりつけた。セシリアはまだ、遠くの方を見つめていた。風が、長い、黄金の髪を波立たせている。
 アデリーナの背は175cmあり、女としてはかなり高い方である。それでも、セシリアとの目線は、あまり変わらない。
 これが、あのセシリアか。しかし見上げるような気持ちで、アデリーナは思った。この大陸の生ける伝説と言ってもいい、大陸五強の一人である。二十代の前半といったところだろう。美しいとは聞いていたが、女の自分でも、思わずはっとしてしまう面立ちをしていた。この容貌で、ずば抜けて強いのである。掌砲セシリアと呼ばれていた。通り名の由来は知らない。というより、話を聞いた誰も、知らなかったのである。
 単独で、竜を殺したという話を聞いたことがある。セシリア・ファミリーという凄腕の冒険者集団のリーダーである。そういった話を知ってはいるが、このくらいのことなら、町の人間ならみんな知っている。
 実際に目の前にしてみると、何か圧倒されるものはある。何故かは、よくわからない。一目見ただけで相当剣が遣える、そんな空気は感じないのだ。張りつめた何かを想像していたが、逆にどこか茫洋としたものも感じさせる。
「あの・・・セシリア殿、お一人でしょうか?」
「人は皆、一人だと思っているわ」
 言葉に詰まった。独り言のように呟いたセシリアの焦点が、不意にこちらに合った。
「あら、ごめんなさい。ついぼーっとしちゃって。何の話だったかしら。失礼なこと言っちゃったかしら?」
「あ、いえ、考え事の邪魔をして申し訳ありませんでした。お一人かと聞いただけなんですが・・・」
「ずばり一人よ。大勢の魔物を相手にするって感じでもないんでしょう? 不満だったかしら。少しでも報酬を抑えてあげようっていう、サービス精神のつもりなんだけど」
 町長の代理を務めている、クロリンダが、今回の依頼でセシリア・ファミリーに幾らくらいを提示しているのかはわからない。人数分出す話だったのか、一括だったのかもわからない。ただ、大した額ではなかったのだろう。だから一人で来たのかもしれない。しかし、来たのはセシリア本人である。
 全ての依頼を引き受けているわけではなく、むしろ大半は断りを入れているのだと聞いたことがある。それを考えれば、不満を述べるつもりは、アデリーナには全くなかった。依頼を受けてもらい、あろうことかセシリア本人が来ることになった。それはとんでもない僥倖なのではないか、という気もしてくる。
 二人で、町を目指して街道を歩いた。馬には乗るという話だが、のんびりと歩きたい気分なのだという。そういう陽気なので、アデリーナにも、気持ちはわかった。時折吹く風が、気持ちいい。
「本当に、来てくれるとは思っていませんでした」
 思ったことを口にしてみたが、セシリアは片眉を吊り上げ、不満そうな顔をする。ただ、目は笑っていた。手強そうだが闊達さも感じさせる、冒険者の顔だった。先程のセシリアとは、別人のように思える。
「よく言われるわ。信用ないのかしら。これでも私に限って言えば、約束を違えたことはないつもりなんだけど」
「い、いえ、そういう意味ではなく、あなたのような方が本当に来てくれたのだと、感動しているというかまだ実感がわかないというか、不思議な気分でいます」
「まあそんなに構えなくていいわ。どこにでもいる冒険者と、そう変わらないつもりでいるから」
「そうなんですか?」
「そうよ。それにしてもここ、見晴らしいいわねえ」
 遠くにジェネローザの町と山は見えているが、基本的には周囲のほとんどは起伏のない平野である。何もない、と言っていい。
「何もありませんからね。ただ、嫌いな景色ではありません」
「ずっと、あの町に?」
「十五歳までは、旅暮らしでした。用心棒をしていた父に付いて、各地を回っていたのです。ですがジェネローザに来てからは、ずっとあの町で暮らしています」
「お父様は、ご健在?」
「いえ。父が他界して、それで私があの町の者に剣を教えることになりました」
「あら、悪いこと聞いたわねえ」
 それから町までの行程は、他愛もないことを話して過ごした。セシリアの話は、何を聞いていても、広い世界を感じさせた。
 アデリーナはもう一度、その広い世界を旅したかった。ずっと胸に秘めていた、それでいてどこか淡い、夢のようなものだった。冒険譚である必要はない。子供の頃に見ていたような、新鮮な何かに触れたかった。羨ましい。セシリアのことを、そう思った。
 しかし自分には、あの町を離れられない理由があった。警備隊長としてだけではなく、あの町には、守るべきものがあるのだ。
 思いを胸の奥にしまい込み、アデリーナはセシリアの話に耳を傾けた。

 街道の馬車宿街が、そのまま大きくなったような町。
 ロベルトのメモには、そう書いてあった。なのでジェネローザの町の様子は、事前にセシリアが想像していたものとほとんど変わらなかった。市壁や城門のようなものはなく、大通りを抜けると、いきなり町の外なのである。こうして町の中央の広場に立つと、それがよく見える。大きな街の中心部を切り取って、そのまま何もない平野に放り出したような格好だ。
 一応伯爵領ということになっているが、ラテン都市同盟の爵位というのはほとんど名ばかりで、爵位の上下がまったく当てにならない。それでいて各家毎に貴族のしきたりのようなものがあり、軽率な行動はおかしな反撥を生む。しかしそこについて、セシリアはあまり慎重に構えないことにしていた。
 町をぐるりと見渡す。小さな町だった。これは、意図された小ささである。市壁がないということは、逆に際限なく町を広げることもできたのだ。警備兵以上の武力を持つことはなく、近隣の都市と事を構えることはなかった。徒党を組んだ怪物や賊徒に襲われるようなこともない。元はと言えば街道に建つ二、三軒の馬車宿から始まっているのだ。いざとなれば抱えられる財産だけを抱えて、安全な所まで逃げてやり過ごす。そんな柔軟な人間が集まって作った町なのだろう。
 ジェネローザ自体の人口は三百人程度だろうが、見た感じでは、千人以上が行き来しているようだ。東西と南に伸びる街道が、町の中央で交わっている。人の出入りは多い。結構な富が、この町に落ちているだろう。だが、町に飾り立てた様子はない。富をどこかに溜め込んでいるような、淀んだものもない。落ちた金は、ここを中心にまた流れていく。それがまた、周りを豊かにする。周りが豊かになることで、この町が豊かになる。
 町を見回して、セシリアは町の統治者に好感を持った。暮らしやすそうな町である。富については自制ができ、町の人々に定量以上の優しさを示しつつも、それを利用されない程度のしたたかさも持っている。事前の調べと実地の印象を重ね合わせると、そんなところだ。
 今回の依頼主のクロリンダ伯爵夫人の住まいは、そんな町の中心部にある。今、セシリアはその前に立っていた。大きな商館だった。小豆色に塗られた外観が、ある種の品格を感じさせる。
 住居となっている所から入ると、内部も同じような色調だった。装飾の類はあるが、落ち着きを感じさせる。端的に言えば、品がいいといったところか。
 客間で、クロリンダが待っていた。まだ四十をいくらか過ぎたくらいだったと思うが、既に初老の雰囲気を漂わせている。銀髪なのか白髪なのか判別しにくい髪を、後ろでまとめていた。落ち着いた色合いの服装に加え、首にスカーフを巻いていた。セシリアを見てにこりと微笑んだが、それをひどく痛々しいものに感じる。顔が、ひどく青ざめているのだ。そしてその原因こそが、今回の依頼なのである。
「ようこそお越し下さいました。この町の町長代理を任されている、クロリンダです」
「初めまして、セシリアです」
 メイドが菓子を並べ、紅茶を注ぐ。クロリンダの人格は、事前にセシリアが抱いた通りのようだ。挙措のひとつひとつに、それが滲み出ている。メイドと入れ替わりに、まだ具足姿のアデリーナが入ってきた。依頼の内容は、二人だけの話というわけではないらしい。あるいは、アデリーナが知っている以上のことは話さないつもりなのか。
 すぐに本題とはいかず、茶を飲みながら軽く世間話をした。こちらを測っているのかと思ったが、なんとなく、依頼の話をためらっているように見えた。しばらくしてからキセルに火をつけ、セシリアは依頼の話を切り出した。
「それで、吸血鬼の件ですが・・・」
 依頼内容は、クロリンダが吸血鬼に狙われているというものだ。既に何度も、深夜に血を吸われているということらしい。初見では殺されるかと思ったが、血を吸うと、おとなしく帰っていく。初めは恐ろしくて誰にも言えなかったそうだが、先日首に残る噛み痕に、アデリーナが気づいたらしい。ほぼ定期的といっていい、一週間から十日の感覚で、吸血鬼は血を吸いにやってくる。それで数日前にアデリーナがクロリンダの寝室に張り込むようになったが、階下で物音が聞こえ、様子を見に行っている間に、またも吸血鬼に血を吸われたということだ。
 アデリーナが、複雑な顔でそれを聞いていた。気持ちはわかる。突っ込みどころが、いくらでもある話なのだ。何故もっと早くそのことを周りに知らせなかったのか。周囲にもらしたくなかった話だとして、何故アデリーナが吸血鬼と再びまみえるまで待たなかったのか。
 しかしそれらについて、クロリンダが答えることはないだろう。こうして依頼の話をアデリーナの前でしていることでもわかる。彼女の前で話せないことがあるのなら、初めから人払いをして、セシリアと二人だけで話せば済む話だ。
 依頼そのものは、吸血鬼を殺すことである。経緯は話すが、事情については話せない。そんなところか。頼んでおいていささか無礼な話ではあるが、クロリンダの手紙には、切実に救いを求めている響きがあった。その矛盾が、セシリアの関心を誘ったといってもいい。
 クロリンダが話し終わり、冷めかかった紅茶に口をつけていると、アデリーナが吸血鬼について、セシリアに聞いてきた。
「その吸血鬼というものは、そもそもどういうものなんです?」
「レッサー、下等種と呼ばれる類のものでしょうね。上位種、ロードと言われる連中なら、見た目も知性も人とそんなに変わらないし、血が欲しければ、相手と交渉する。事を荒立てたり、人を襲うようなことは、余程のことがないかぎりしないものよ。本当に血に飢えてたら話は別だけど、まあこの辺は私たちが飢えた時と、大体同じだと思っていい。そういう吸血鬼ならウチのパーティにもいるのよ。彼女を連れてきた方がよかったかしら?」
 クロリンダもアデリーナも、揃って驚いたような顔をした。当然かもしれないと思ったが、見ていておかしいものだった。
「今回の吸血鬼は、レッサーね。いわば吸血鬼のなりそこないみたいな感じだけど、怪物としか言いようがない外見をしていませんでしたか、クロリンダさん? 髪はなく、赤く大きな目をしていて、翼がある。そんな感じではありませんでしたか?」
 クロリンダは少し動揺の色を見せつつも、頷いた。外見の特徴は、大体あっているようだ。
「長く血を吸われていると、やがてはクロリンダさんも同じような吸血鬼になります。早くカタをつけた方がよさそうですね。まあ、血を吸われなくなれば、いずれ健康を取り戻しますよ。病気のようなものだと思って下さい」
 ロードに、一度に多くの血を吸われると、レッサーになるという話を聞いたことがある。そしてレッサーに血を吸われ続けると、それが少量ずつでも、やがてはレッサーになってしまうのだ。レッサーに血を吸われ続けても、ロードになることはない。ロードになるためには、ロードから特別な血を与えられなくてはならない。よく聞く、吸血鬼に血を吸われると吸血鬼になるというのは、このレッサーになることを言っているのだ。
 レッサーが自分と同じようなレッサーを生み出そうと思ったなら、一度の吸血では済まず、何回かに分けて血を吸う必要がある。今回は、このケースだ。
 クロリンダの顔色は、かなり悪い。蒼白といっていいだろう。あと二、三回も血を吸われれば仮死状態となり、目が覚める頃には吸血鬼となっている。しかし、まだぎりぎりだが、助かる範囲でもある。
「そのような外見ですから、吸血鬼が町に潜んでいるとは考えづらいですね。次に吸血鬼が来るのを待ちましょう。頻度から考えると、次に奴が来るのもそう遠くはない話でしょうし。レッサーはとりわけ日の光に弱い。日中の警戒は不要でしょう。夜の間は、私が警護いたします」
 クロリンダが、申し訳なさそうな顔で頷いた。話せないことが多い。それはわかった。アデリーナが、卓から身を乗り出すように言った。
「セシリア殿、私からもお願いします。この町の警備を任されている身としては、大変情けない話なのですが」
 その真剣な眼差しの中には、痛恨の念が滲み出している。
 あまり単純な話でもなさそうだ。セシリアはそう思った。

 商館の裏庭が、調練場である。
 そこに、セシリアと二人でいた。セシリアは調練用の木剣や、人型を見て回っている。セシリアが、依頼を片付ける冒険者として、どのくらいの腕前を持っているのか、それを判断する材料が、アデリーナにはない。自分とは、まるで違う仕事なのだ。
 しかし、剣を扱うという部分では、同じと言ってよかった。大陸五強。武術をやる者であれば、誰もがその名を聞いて胸が震える。そんな人間と、出会うことすらないと思っていた。
 今目の前にいるセシリアが、本当にそうなのか。時折何か圧倒されるような感覚を覚えるが、一目でそうと感じる強さのようなものはない。気を抑えている、というのも少し違う。アデリーナは相手が手練かどうか、瞬時に見分けることができる。だからこそ、長く警備隊長でいられたとも言える。この町は人の出入りが激しく、たまにだが、酒場で暴れそうな者に、とんでもない力量の持ち主がいたりするのだ。相手の力を見極め、その力より少し上の力で打ちのめす。それができなければ、このような職に長く留まることはできない。
 測りがたい。セシリアの後ろ姿を見て、そう思う。たまに髪を掻き上げる後ろ姿は凛とした気品に溢れているものの、いつでも打ち込めそうな気配もあるのだ。
 本当に、この娘が竜を。どうしても、そう思ってしまう。
「セシリア殿」
 セシリアが、振り返った。
「私と、立ち合ってもらえませんか」
「いいわよ。得物は任せるわ」
 セシリアが、調練用の武器が並んでいる一角に目をやった。
「いえ。できれば、真剣でお願いしたいのです」
 セシリアは、少し考え込むような素振りを見せてから、口を開いた。
「わかった。あなたなら、おかしな怪我はさせなくて済みそうだし」
 散歩に出かけることに合意するような、気軽な口調である。アデリーナの心拍数は、急激に高まった。確かに、力量のある者同士なら、最初の一振りで相手の力量は測れる。双方共に実力がなければ、醜い殺し合いになってしまうだろう。それにしても、遣うのは真剣である。ひとつ間違えれば、命を落とす。アデリーナも、その覚悟で言ったのだ。軽々しく口にしたつもりはない。
「あなたよりも剣に自信があるからと、そんなつもりで言ったわけではありません。しかし、私も子供の頃をのぞいては、剣で他者に遅れを取ったことはありません。そのことの矜持を持って、立ち合いを申し込んだつもりです」
 背中に差した両手剣を、ゆっくりと身体の前に持っていく。セシリアは、まだ腰に佩いた細剣を抜いていない。
「"掌砲"という通り名があるそうですね。それが武器なのか技なのかは知りませんが、使って頂いて結構です」
「あなたの覚悟はわかったわ。でもあれは使わない。殺す為の技だから。けれど、礼は尽くして相手をさせてもらうわ。すぐに始めるの?」
「もう、始めているつもりです」
 いつの間にか、セシリアの細剣は抜かれていた。微かに、鈴の音のような鞘走りを聞いた気がする。それでも、いつ抜いたのかはわからなかった。速さとは違う、手妻のような動きだった。
 セシリアは半身だが、まだ構えらしいものは見せていない。アデリーナは軽く切っ先を下げた。中心の鉄の門の構えである。何の構えを取るか、考える前に身体が動いた。しかし下段に構えた後、身体が動かなくなった。踏み込めない。
 セシリアが、ゆっくりと動いた。同じく切っ先を下げ、持ち手の部分だけ見ると細剣の第三の構えのように見えるが、ただ単に、半身で剣を持っているだけというようにも見える。型のようなものはないのかもしれない。ただ、圧力は半端なものではない。
 心気を統一する。アデリーナは、セシリアを斬るつもりだった。真剣で手合わせすれば、力量は測れる。セシリアのものも、対する自分が、どれほどのものなのかも。そんなことを考えていた自分が浅はかだった。ここに至っては、殺さなければ、殺される。はっきりと、それがわかった。
 気は、高まった。しかし、踏み出せない。剣を、とてつもなく重いものに感じた。いや、身体全体が、上から押さえ込まれているのか。歯を、食いしばった。意識が遠くなりかける。まだだ。まだ、気は高まり続けている。
 巨大な、いや、とんでもないものを相手にしているのだ。それがわかる。怪物。竜のようなものを相手にしているのかもしれない。束の間、思考が戻った。いや、目の前の戦士は、竜すらも倒しているではないか。すぐに、思考は閉じた。何かが、弾ける。
 気がつくと、腰を抜かしていた。無様に、尻餅をついている。悔しいとも思わなかった。何か戦いとはまるで別のことをしていた、としか思えないのだ。セシリアは、一歩も動いていない。
「強いわね」
 セシリアが、剣を納めながら言った。涼しい顔のまま、髪を掻き上げる。アデリーナは、全身が汗で濡れていることに気がついた。
「強い・・・私がですか」
「思っていたよりは、ずっと強かった。深かったと言った方がいいかもしれないわね。実戦らしいものを経験しないでそこまで剣を練り上げるなんて、なかなかできるものではないわ」
 確かにアデリーナには、殺したという経験はない。そこまで、見抜かれていた。
「技量だけを見れば、私とそんなに変わらないわよ。あそこの、調練用の剣や棒だったら、それなりに面白い勝負になってたかも」
「戦った、そんな気が、どうしてもしないのです」
「それが、本当の戦いというものかもしれないわね。でも、あなたの剣も、心気も、とても澄んでいた。こちら側に来て、あまり濁ってほしくないとも思ったわね」
 もうこの話には興味がないとでもいうように、セシリアは調練場を見回っていた。花の咲く灌木の前で立ち止まり、蝶の動きを目で追っている。
「さすがは大陸五強の一人、掌砲セシリア殿です。格の違いというにはあまりに大きいものに、触れさせて頂きました」
「あんまりその通り名、気に入ってないのよ。誰が言い出したのかしら。私自身は"レムルサの白き乙女、優雅な剣の使い手セシリア"って呼んでほしいとこなんだけど」
 あれは、なんだったのだ。あらためて、そう思う。目の前で軽口を叩いている女が、あそこまで圧倒的なものを持っているのか。
「踏み込むことすら、出来ませんでした」
「踏み込んで無様に斬られる。そんなことをやらかしてしまうほど、あなたの腕は鈍くないってことよ」
 言っていることは、わかる気がする。
「技量的に大差ないというのが本当なら、私とセシリア殿の差は、一体なんなのでしょう」
 セシリアは頬に指を当て、どこか遠くの方を見上げていた。
「ん、そうね・・・人を、殺してきた数・・・」
「おい、そこのお前! アデリーナに何をした!」
 いきなり、叫ぶような声がした。セシリアも振り向いた。マルコが、調練用の棒を手に、こちらを睨みつけていた。
「あの子は?」
「クロリンダ様のご子息で、マルコ様といいます。成人されたら、伯爵位と町長の座を継ぐことになっています」
 名前以上のことを言ったのは、セシリアの目に、何か物騒なものを感じたからだ。クロリンダの世継ぎと事を構えて、厄介なことになってほしくはない。
「へええ。マルコ、何の用?」
「アデリーナは、お前を立てる為に、わざと負けてやったんだぞ。お前が、母さんが雇ったっていうゴロツキだな。俺と勝負しろ」
 十三歳になるマルコは、同年代の子供と比べても、二回りくらい背は小さい。セシリアと向かい合うと、横の幅もあるのかもしれないが、半分ほどしかないように見える。
「アデリーナが負けると、なんであんたが出てくるの?」
「俺の剣の師匠だ。師の仇は、一番弟子の俺が討つ。俺はな、アデリーナ以外に不覚を取ったことはない。まあ、試合では何本か取ったことはあるがな。そこら辺の木偶と一緒にしていると、痛い目を見るぞ」
「少し、あの子に関しては甘やかしすぎたわね」
 セシリアが、にこりと笑って言った。目は、笑っていない。
 マルコが、気合いとともに木剣を構える。セシリアは何の気なしにすたすたと歩み寄ると、いきなり、マルコを張り倒した。
 倒れたマルコは頬を押さえ、呆然としている。やがてその目に涙が溜まり、火がついたように泣き始めた。
「強くなりなさい」
 言い捨てて、セシリアは調練場を出て行った。

 

 昨晩は、何も起きなかった。
 吸血鬼の襲撃はなかったという意味でのことだ。クロリンダの寝室で張っていたが、気配のようなものすら感じなかった。単に、昨日は先方の予定になかったということだろう。
 一晩中、暖炉の上に掛けられた、口髭の男の肖像画を眺めていた。クロリンダに聞くと、クロリンダの夫で現町長の、カミッロ伯爵という男のものだそうだ。今は行方がわからなくなっている。それで、クロリンダが町長代理と言っていることに納得はいく。だが、行方が知れなくなって、十四年が経っている。クロリンダはまだカミッロのことを諦めていないということだ。しかしあと二年もすればマルコが町長と伯爵位を継ぐことになっていて、死んだか、もう戻ってこないと思い定めるのは、それからということにしたいらしい。
 クロリンダの話し振りはとつとつとしていて、伝えたくても、伝えられない何かを感じる。それが事情によるものか、心理的なものかは、月明かりに照らされた横顔だけではわからない。深い部分は、自分で知っていくしかないと、セシリアは思った。知ってほしいが、話せない。そんなところではないだろうか。何も聞かず、現れた吸血鬼を斬る。それだけでもいいが、クロリンダの悲しい笑みを見ていると、知れることなら知っておきたいとも思う。こういう部分が、自分の悪いところなのだろう、そんなことも考える。
 肖像画の下には、立派な剣が掛けられていた。意匠を凝らした鞘の中は、中々の業物が眠っていそうである。カミッロは、良い剣の使い手でもあったのだろう。
 今は、マルコと調練場で、棒を構えて向かい合っていた。というより、マルコが一方的に決闘を申し込んできたのだ。決闘、などと言うところが小賢しい。だが、まだ挑んでくるというだけでも見上げたものである。年齢以上に幼く見えるが、面影はどこか、カミッロに似ている。しかし構えも目つきも、剣を教えているというアデリーナにそっくりであった。あの赤毛の剣士と同じ青い目を見ていると、彼女と昨日の立ち合いの続きをしているかのようだ。
 マルコの武には、意外な天稟があった。周りが遠慮していたので自分がアデリーナの次に強いと勘違いをしていたが、下手をすれば、弱い兵なら実力で一本取れそうなものは持っている。アデリーナと同じような型を、それなりに身につけてもいた。町長の座を継いだりはせず、警備兵として数年過ごせば、次の警備隊長がふさわしいのかもしれない。ただ、アデリーナも同じような天稟を持っている。彼女を凌いでから警備隊長に、などと思っていると、当面はなれないだろう。育て方を間違えなければ、二人で剣技を磨くこともできる気がする。眠った天稟と、持て余した天稟。二人が才能を解き放つ日が来るのだろうか。しかしそれを解き放つことは、血が流れるということでもある。このままでいいのだ、という気もする。二人はそれとは別の場所を得ているのだ。
 打ち据えた。腿や尻といった、痛みはあるが大きな怪我をしない部位である。初めは悲鳴を上げていたが、急所を狙われることはないとどこかで悟った様子なので、張り倒した。とにかく、小賢しいのだ。
 今日は、警備兵の何人かが、調練場で武器の稽古をしていた。皆、遠巻きにこちらを見ている。一方的にやられていることに恥を感じたらしいマルコが、引きつった、余裕の笑みを浮かべた。大丈夫だ、こいつの実力を試してやってるんだ。そんなことを、兵たちに向かって話している。なので、足を払い、起きたところをまた張り倒した。
 起き上がれないままのマルコを置いて、町の方に出た。行き交う人間は多い。
 店に入っては、カミッロのことを、それとなく聞いて回る。あの、少しいかめしい肖像画の印象とは違い、明るく茶目っ気のある人物でもあったようだ。
 十四年前。失踪したのは隣街でのことで、クロリンダも一緒にいたそうだ。
「何故、二人はその時、隣街にいたのかしら?」
 何故失踪当時クロリンダが一緒にいたのか、などとは聞かない。そういう聞き方が、町の人間の不信感を煽る。同じことを聞きたくても、聞き方ひとつで、聞ける話は変わってくる。
「奥さんが、身ごもってたからなあ。ほら、この町には常駐してるお医者さんがいないだろ?」
 酒場の一軒で、聞いた話だ。さすがに伯爵の子供となると、そこらの産婆に任せるという感じでもないのだろうか。ここに、違和感は残る。
 隣街までは、馬を使えば三、四時間で着くそうだ。行ってみる必要がありそうである。商館には、警備兵の使っている馬があった。
 広場のベンチに腰掛けて、屋台で買った軽食をつまんだ。北に、山が見える。遥か遠方にも山脈の影は見えるが、まずはあそこだろうとも思う。この辺りの地形は、頭に入っている。吸血鬼が潜んでいるとしたら、あの山と見て間違いないだろう。歩けばそれなりの時間がかかるだろうが、翼なら一息だ。そこだけぽつんとある、小さな山である。しかし本格的に野捜ししようとすれば、二十人で一ヶ月はかかりそうだ。相手は、隠れているのだ。
 吸血鬼に関しては、当面待つ他ない。

 

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